第三話「ウグイスの鳴く藪」(番外:土曜日の生物学) ケース1:届かぬ想いと境界線
配属されて最初の土曜日、遥はスーパーの野菜売り場で烏丸 護に遭遇した。
正確には、スーパーに行く前に遭遇した。
駅から徒歩七分、住宅街の外れにある小さな公園の前を通りかかったとき、フェンス越しに見慣れた後ろ姿があった。
よれたジャケット。
泥のついた運動靴。
カーキ色のズボン。
双眼鏡を目に当てて、梢をじっと見上げている。
(……あ)
遥は足を止めた。完全に止めた。
平日の法廷で見る烏丸は、立っているだけで空気が変わるような、なんとも言えない威圧感があった。
判決を読む声は、静かでも壁に吸い込まれるように届いた。
しかし今目の前にいるのは、膝に泥をつけたまま双眼鏡を向け、「ふむ、ふむ」と小声で呟いている、ただの中年男性だった。
(……先生?)
「ホオジロですね。この時期にここで縄張りを持っているとは」
振り向かずに話しかけられた。
遥は思わず「え」と声を出した。
「気配がしたので。おはようございます、築地さん」
「おはようございます……先生、なんで」
「野鳥の観察です。ここは毎週来ています」
遥は公園のフェンスに歩み寄った。
梢の方を見上げたが、ただの枝にしか見えなかった。
「どこですか、ホオジロ」
「今は二時の方向の、三股に分かれた枝の中段です」
遥は必死に探したが、やはり見えなかった。
「ちょっと貸してもらえますか」
烏丸が双眼鏡を渡した。
遥がのぞくと、小さな茶色い鳥が枝に止まっていた。
「いた」
「体の側面にオレンジがかった色が入っているのが、ホオジロの特徴です。あの鳥は縄張りを主張するため、毎朝同じ場所から鳴きます。声でテリトリーを示す、という点ではウグイスとよく似た習性です」
遥は双眼鏡を返しながら、ふと思った。
「先生、ウグイスの話を法廷でされましたよね。あれは……この場所で思いついたんですか?」
「いいえ。被告人の話を聞いていて、ウグイスが浮かんだんです。順番は逆です。先に人を見て、それから生き物が来る」
遥はその言葉を、少し考えた。
「人を見て、生き物が来る」
「はい。逆に、生き物を見ていると、そこに人間が重なってくることもある」
そう言って烏丸は再び双眼鏡を目に当てた。
「ところで、今日はどちらへ?」
「買い物です。スーパーが近くで」
「そうですか」
会話はそこで一度止まった。
烏丸がホオジロを追って双眼鏡を少し動かした。
遥はそのまま立っていた。
立ち去れなかった、というより、なんとなく、もう少し見ていたかった。
「……ウグイスは、今日はいますか」
「いますよ。もう少し奥の藪の中で、さっきから鳴いています」
言われてみれば、かすかに聞こえた気がした。
ホーホケキョ、という声が、遠く、木立の奥から。
スーパーの帰り道、遥は烏丸とは別れたはずなのに、なぜかまだ公園の前で双眼鏡を構えている烏丸とすれ違った。
「まだいらっしゃったんですか」
「コゲラを発見したので」
「コゲラというのは」
「日本最小のキツツキです。幹をコツコツ叩いて虫を探している。あれです」
遥は言われた方を見た。
小さな鳥が、木の幹をリズミカルに突いていた。
「かわいい」
思わず声が出た。
烏丸が双眼鏡を下ろして、少し驚いたような顔で遥を見た。
「かわいい、と言う人はあまりいないです。珍しいと言う人は多いんですが」
「かわいいじゃないですか。一生懸命叩いてる」
「……そうですね」
烏丸が、また少し和らいだ顔をした。
遥はこの顔を、法廷では一度も見たことがないな、と思った。
月曜日の朝、執務室に入ると、デスクの上に資料の束が一つ置かれていた。
烏丸がいつもより早くから来ていた。
今日は判例集ではなく、新しいファイルを読んでいた。
表紙に「令和六年第五〇九号」という番号が見えた。
「新しい事件ですか?」
「次の案件の資料です。今週末から公判が始まります」
遥はコートを脱ぎながら、ちらりとファイルの中身を見た。
起訴状の写しの一番上に、事件の概要が書かれていた。
業務上横領。
被告人、女性。
「……どんな事件ですか」
「読んでみてください。書記官として、事前に把握しておく必要があります」
遥はファイルを受け取って、最初のページを開いた。
起訴状には、こう書かれていた。
被告人は、株式会社〇〇において経理を担当していたが、令和五年四月頃から同年十二月頃にかけて、合計十三回にわたり、会社の資金合計三百八十万円を、正当な権限なく自己の口座に振り込み、もって業務上横領をしたものである。
遥は読み進めながら、少し手が止まった。
「……被告人は、なぜこんなことを」
「調書によれば、会社での長時間労働と、同僚から孤立した状況が続いていた。その後、いわゆる夜の店での支出が増えていった、ということのようです」
遥は起訴状から目を上げた。
「つまり、追い詰められて」
「追い詰められた人が、取り返せないことをした、という事案です。よくある、と言いたくないですが、よくある構造の事件です」
烏丸は静かにそう言った。
「でも、よくある構造だからといって、向き合い方がおろそかになっていいわけではない」
遥はもう一度、起訴状の一行目を読んだ。
被告人。
名前。
生年月日。
住所。
紙の上の文字だったが、そこに一人の人間の時間がある、と感じた。
昼になった。
遥はお弁当箱をデスクに置いた。
今日はブロッコリーと鮭のそぼろ、卵焼き、小松菜の胡麻和え。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
烏丸がファイルを閉じ、箸を取った。
弁当箱を開けて、一瞬止まった。
「ブロッコリーが」
「入っています」
「はい。ブロッコリーといえば、あの幾何学的な形はロマネスコに近くて、フィボナッチ数列という自然界の規則性が」
「先生」
「はい」
「今日は、まず一口食べてから話してください」
烏丸は「あ」と言って、黙って一口食べた。
しばらくして「美味しいですよ」と言った。
「ありがとうございます」
「フィボナッチ数列の話は」
「後で聞きます」
「……はい」
廊下から羽田が首を出した。
「あ、今日もお弁当! 先生、ちゃんと『美味しい』って言えてましたか」
「言いました」
「何秒かかりましたか」
「…………羽田くん、合議の資料は読みましたか」
「かわし方うまくなりましたね、先生」
羽田が廊下に消えた。
遥はお茶を飲みながら、窓の外を見た。
庭の桜は先週より膨らんでいた。
(もうすぐ咲くんだな)
次の案件のことを、遥はもう少し考えた。
追い詰められた、と資料に書かれていた女性のことを。
烏丸は何を思って、その人に話しかけるだろう。
今度は、どんな生き物の話をするんだろう。
窓の外で、また鳥の声がした。
今度は何の鳥かわからなかった。
でも、声はした。




