第二話「ウグイスの鳴く藪」(後編) ケース1:届かぬ想いと境界線
緑ヶ丘地方裁判所の執務室に、初めてお弁当の匂いが漂ったのは、遥が配属されてから四日目の昼のことだった。
きっかけは、前日の夜に根岸さえ子書記官から届いた一通のメッセージだった。
「築地ちゃん、あの先生、今日も昼ごはん抜きで夕方まで粘ってたわよ。さすがに心配」
遥は既読をつけてから、冷蔵庫の中身を確認した。
卵が三つ。
ほうれん草。
ミニトマト。
鮭の切り身。
とりあえず、弁当箱を出した。
そして翌日の朝、遥はいつもより三十分早く起きた。
午前八時。
執務室に入ると、烏丸はいつもの場所にいた。
判例集を開き、ノートに何かを書き込んでいる。
昨日と全く同じ格好で、昨日と全く同じ姿勢で。
(やっぱり来てた)
遥はバッグからタッパーを取り出し、デスクの隅に置いた。
「おはようございます。昨日、煮物を作りすぎてしまって。よかったら召し上がってください」
烏丸がゆっくりと顔を上げた。
タッパーと遥を交互に見た。
「……煮物」
「鮭と根菜です。お嫌いでしたら」
「いや、嫌いではないです。ただ」
「ただ?」
烏丸は少し間を置いた。
「なぜ書記官が判事に弁当を?」
「昨日も一昨日も、昼食を抜いていらっしゃったので。倒れられても困るので」
「倒れません」
「倒れそうです」
烏丸はまた間を置いた。
「……ありがとうございます」
前回より少し迷いが長かった。
遥は内心でひそかに、それを観察した。
烏丸はタッパーを受け取り、デスクの隅に置き、また判例集に視線を戻した。
遥が席に着いてから五分後、ふと烏丸が顔を上げた。
「ほうれん草が入っていますね」
「はい、鉄分が多いので」
「ほうれん草は面白い植物で、雌雄異株なんです。つまり雌の株と雄の株が別々に存在する。あまり知られていませんが、雄の株の方が葉が細くて早く育ちます。この菜っ葉の向こうに、そういう話が」
「先生」
「はい」
「いただいてから言ってください」
烏丸は「あ」と小さく言って、箸を出した。
その日の午後、執務室の扉をノックもせず開けたのは、細身の若い男だった。
「先生、先ほどの合議の件で確認したいことが」
言いかけて、男は遥を見た。
遥も男を見た。
「あ、新しい書記官さんですか?」
「築地 遥といいます」
「羽田 瞬です。左陪席判事。先生の後輩です。よろしくお願いします」
愛想のいい笑顔だった。
スーツをパリッと着こなしていて、全体的に清潔感がある。
先輩とはずいぶん違う、と遥は思った。
「羽田くん、合議の件とは」
「今日の三時から予定していた件です。検察側の補充書面が届いたんですが、一点、法律構成について先生の見解を聞きたくて」
「内容は?」
「被告人の共謀共同正犯の認定についてです。刑法第六十条の適用範囲に関して、最高裁の昭和三十三年の判例と整合するかどうか」
烏丸はすぐに立ち上がり、本棚から一冊を引き抜いた。
「昭和三十三年五月二十八日、第一小法廷の判決ですね。ページは三百十七」
羽田が小さく目を丸くした。
「…………先生、今暗記で言いました?」
「大事な判例はそうしています。で、共謀の認定に疑義があるとすれば、被告人の関与の程度の問題ですか、それとも共謀の成立時点ですか」
「関与の程度の方です。被告人は現場にいなかったと主張していて」
「共謀共同正犯は物理的な現場共同を要件としません。意思の連絡と、それに基づく実行行為があれば足ります。ただ、現場不在の事案では心理的因果性の立証が争点になる。検察の補充書面はどう構成していますか」
「電話での指示を証拠として、心理的な支配を主張しています」
「電話の録音はありますか」
「一部だけ」
「では反証可能性がある。弁護側は否認していますか」
「全面否認です」
「なら、その判例だけでは足りない。平成十五年五月一日の決定もあわせて読んでください。共謀の認定において間接事実の積み重ねがどう扱われるかの整理が丁寧にされています。本棚の右から四番目、刑事法判例精選の二〇〇四年版です」
羽田は素直にそれを取り出した。
「……先生、すごいですね」
「判例は道具です。道具の場所は覚えなければ使えない」
「はあ」
羽田はページを確認しながら、ちらりと遥を見た。
デスクの隅のタッパーに気づいた。
「あ、先生、お弁当?」
「ええ」
「誰が」
「築地さんが」
羽田が遥を見た。
遥が軽く会釈した。
羽田はにっこりと笑った。
「すごい。先生がお弁当もらうの、初めて見ました」
「珍しいことですか」
「というか、先生、今まで昼ごはん食べてるの見たことなかったです」
烏丸が、「そうでしたか」と言った。
本人は深刻に受け取っていないらしかった。
「では今日から、改善します」
「今日から、じゃなくて今日もうもらってますよね」
「そうですね」
羽田は苦笑しながら判例集を持って出て行った。
扉が閉まると、遥はまた記録の仕事に戻った。
烏丸が、ぽつりと言った。
「羽田くんは優秀です。ただ、まだ被告人の顔を見る前に法律を見てしまう癖がある。若いうちはみんなそうですが」
「先生は違ったんですか」
しばらく間があった。
「……私も最初はそうでした。法律の向こうに人間がいることを、教えてくれたのは、生き物の方でした」
「生き物が?」
「ええ。生態を観察していると、規則より先に個体を見る習慣がつきます。同じ種でも、全く違う行動を取る個体がいる。それはなぜかと考えることが、判決文の前に被告人を見ることと、どこかつながっている気がするんです」
遥はその言葉を、手帳には書かなかった。
でも、しっかりと受け取った。
夕方、一通の書面が烏丸のデスクに届いた。
保護観察所からの定例報告ではなく、担当保護観察官からの内部連絡だった。
遥が受け取って烏丸に渡すと、烏丸はそれを読んで、表情を少し変えた。
怒ったのでも、喜んだのでもない。
ただ、何かが少し和らいだような顔だった。
「水島さんの件です」と遥が尋ねた前に、烏丸が口を開いた。
「先日の被告人、水島君が、担当弁護人を通じて被害者に謝罪文を送ることを申し出たそうです。弁護人から被害者側の弁護士へ、書面のやりとりを正式な手続きを通じてする形で」
「それは……よかったですね」
「ええ」
烏丸は書面をファイルに収め、また作業に戻ろうとした。
遥はそのとき、ふと思って聞いた。
「先生は、あの説諭が伝わるか、いつも不安じゃないですか」
烏丸の手が止まった。
「不安です」
「え?」
「毎回、不安ですよ。言い終えるたびに、届いたかどうかわからない。でも言わなければ、それは確実に届かない。だから言います」
遥はまた、手帳を出したいような気持ちになった。
「先生……」
「築地さん」
「はい」
「今日の弁当、鮭が美味しかったです」
それだけ言って、烏丸は判例集に戻った。
遥はしばらくそのまま、デスクの前で立っていた。
顔が、少し熱かった。
帰り際、廊下で羽田に声をかけられた。
「築地さん、お弁当、明日も作ってくる気ですか?」
「……どうでしょう」
「作ってあげてください」羽田は少し笑って、小声で言った。
「先生、ああいう人なんで、自分からは言えないと思うので」
「ああいう人、というのは」
「言葉は正確だけど、順番がずれてる人です。大事なことは最後に言うし、感謝は照れながら言うし、相手の気持ちに気づくのが一番最後になる。でも気づいたらちゃんと受け取る人なんで」
遥は少し考えてから言った。
「ブロッコリーの話を聞かされました」
「ああ」羽田が深くうなずいた。
「それはもう立派な被害ですね」
遥は思わず笑った。
羽田も笑った。
廊下の窓から、低い西日が差し込んでいた。
裁判所の庭に植えられた桜の木が、もうすぐ咲きそうな膨らんだ蕾をいくつもつけていた。
遥はコートのボタンを留めながら、庭を眺めた。
あの蕾が開くころには、ウグイスの声も聞こえてくるだろうか。
あの声は、藪から出ない。
でも春になれば、必ず聞こえてくる。
その夜、遥は冷蔵庫を開けて、ブロッコリーを一房取り出した。
翌日の弁当に、入れるかどうか、五秒だけ迷った。
結局、入れた。
どんな話が聞けるか、少しだけ気になったから。




