第一話「ウグイスの鳴く藪」(前編) ケース1:届かぬ想いと境界線
緑ヶ丘地方裁判所の三階、刑事部執務室に足を踏み入れた瞬間、築地 遥は思わず立ち止まった。
時刻は午前七時五十分。
開庁は八時半だ。
なのにデスクの前にはすでに人がいた。
書類の山。
判例集が壁一面に並ぶ本棚。
差し込む朝の光の中で、その男は背筋をぴんと伸ばし、A4の用紙を凝視していた。
頬杖もつかず、ペンも動かさず、ただ静かに、読んでいた。
(……人、いた)
遥は内心で呟いた。
辞令を受け取ったのは一週間前。
「刑事部、特設更生分室担当書記官を命ずる」
――初配属が通常の刑事部ではなく、所内でも「あの変な法廷」と陰で囁かれる特設分室だと知ったとき、遥は人事課の窓口で三秒間固まった。
そして今日がその初日だった。
「あの、失礼します。本日より書記官として配属になりました、築地 遥と申します」
男は視線を用紙から上げなかった。
「……一文字、多い気がする」
「え?」
「刑事訴訟法第三百四十四条の引用です。こちらの話です」
男はようやく書類から顔を上げた。
鋭い、という言葉がそのままかたちになったような目をしていた。
三十代後半だろうか。
髪が少し乱れている。
「烏丸 護判事です。よろしく」
それだけ言って、また書類に視線を落とした。
遥はゆっくりと室内を見渡した。
デスクの隅にはペットボトルの水が一本。
キャップは開いたままで、中身はほとんど残っている。
空のコーヒーカップが二つ。
灰皿はないから煙草は吸わない。
でも、食事をした形跡が何もない。
「烏丸先生、朝ごはんは召し上がりましたか?」
「食べます」
「……いつ?」
「気が向いたら」
遥は唇を一文字に引き結んだ。
この人、放っておいたら死ぬかも……。
そういう直感が、書記官生活三年間で培ったセンサーにひっかかった。
「午前の開廷は何時からですか?」
「十時。今日は判決言い渡しが一件だけです」
「それまでに、何か食べてください」
「……書記官の職務にそういった項目はないと思いますが」
「ないです。でも私の気が済まないので」
烏丸は顔を上げ、遥を見た。
何か言いかけて、また書類に戻った。
「ありがとう、と言うべき場面ですか?」
「そうです」
「……ありがとう」
小さな声だったが、言い方が妙に真剣だった。
遥は苦笑しながら自分のデスクの荷物を解き始めた。
午前十時ちょうど。
第三法廷の扉が開く音は、いつも遥に修学旅行の初日を思い出させた。
緊張と、これから何かが始まるという感覚が、音の重さに込められている。
「起立」
廷吏の号令に、法廷内の全員が立った。
烏丸 護が入廷した瞬間、空気が変わった、と遥は感じた。
執務室での、どこかぼんやりした(そして明らかに低血糖気味の)男とは別人のようだった。
法服の黒は光を吸い込み、歩き方に無駄がない。
向かい合う弁護人も、検察官も、彼が席につく瞬間だけ、わずかに背筋を正した。
「着席」
法廷には被告人の水島 拓也が座っていた。
二十三歳。大学四年生。
痩せた青年で、俯いたまま膝の上に置いた両手を握り合わせていた。
烏丸は書類を一度確認し、正面を向いた。
「これより、令和六年第四七三号、住居侵入被告事件の判決を言い渡す」
静かだが、よく通る声だった。
「主文。被告人を懲役六月に処する。この裁判確定の日から二年間、その刑の執行を猶予する」
水島の肩がわずかに下がった。
安堵とも、落胆とも取れる動きだった。
烏丸は続けた。
「理由を告げる。本件公訴事実の要旨は、被告人が令和六年三月十四日深夜零時三十分頃、正当な理由なく、東京都緑ヶ丘区南町二丁目のマンション三階、林真由居室のベランダに、外部非常階段を通じて侵入したというものである」
遥は素早く記録を取りながら、水島の横顔を観察した。
青年は口を固く結び、ただ前を向いていた。
弁護人の渡辺弁護士が隣で静かに書類に目を通している。
「有罪と認定する根拠として、被告人の自白の信用性、および防犯カメラ映像、現場の足跡鑑定結果等の客観的証拠に照らし、公訴事実は優に認定できる」
烏丸はここで一拍置いた。
「量刑の理由を述べる。本件犯行は計画的なものではなく、被告人の衝動的な感情に基づく一時的な行為であること。被告人は犯行後速やかに自首し、捜査に全面的に協力したこと。前科前歴が存在しないこと。被害者の精神的被害は無視し難いものがあるものの、物的被害は生じていないこと。被告人が深く反省し、今後の接触を断つ旨を誓約したこと。以上の諸情状を総合考慮し、刑法第二十五条第一項の規定により、主文のとおり刑の執行を猶予することが相当と判断した」
水島がうつむいた。
その肩が、かすかに震えているのが見えた。
烏丸は書類を閉じ、立ち上がりかけた水島を静かに制した。
「水島さん。少し待ちなさい」
遥は、思わず顔を上げた。
判決言い渡しは以上で終わりのはずだった。
廷吏も検察官も、一瞬動きを止めた。
水島だけが、きょとんとした顔で烏丸を見た。
「あなたに、聞いてほしい話がある」
烏丸は手を膝の上に置き、被告人席の水島と正面から向き合った。
法服姿のまま。
でもその目は、先ほどの判決を読み上げるときとは、少しだけ違っていた。
「ウグイスという鳥を知っていますか」
水島が目を瞬かせた。
検察官が小さく眉を上げた。
遥は、ペンを持ったまま、動きを止めた。
(……ウグイス?)
「春先に、あの声を聞いたことは?ホーホケキョ、という、あれです」
「……知って、います」
「姿を見たことは?」
水島は考えてから、首を振った。
「ないと思います」
「そうでしょう」烏丸は静かに続けた。
「ウグイスは声だけが有名ですが、その姿は非常に見にくい。褐色の地味な鳥で、ほとんどの時間を藪の中で過ごす。あの美しい声は、藪の外には出てこない。だからこそ聞こえるのです」
遥はペンを持ったまま、気づけばそちらを向いていた。
記録を取るのを、一瞬忘れた。
「ウグイスが藪から出てこないのは、臆病だからではない。適切な距離を保つことで、あの声が成立するからです。もし誰かが藪に無理やり踏み込んで捕まえようとすれば、鳥は恐怖で飛び去る。そうしたら声は永遠に聞けない」
水島の手が、膝の上で、ゆっくりと開かれた。
「あなたが林真由さんのベランダに踏み込んだ夜のことを、考えてみてください。あなたはおそらく、彼女のことが心配だったか、あるいは会いたかったか、そういう感情から動いた。それ自体を、私は頭から否定しない」
水島がぐっと唇を噛んだ。
「しかし。あなたが深夜に、ベランダに踏み込んだ瞬間。彼女にとって、あなたの存在は何に変わったか。想いを持つ人間ではなく、恐怖です。その瞬間から、あなたが彼女に届けられるものは何もなくなった。藪に踏み込んで、鳥を逃がしたのと同じように」
法廷の中が、静かだった。
廷吏も、検察官も、何も言わなかった。
「距離は、消滅させるためにあるんじゃない。その距離があるから、声が美しく届くことがある。あなたがすべきだったのは、林さんのテリトリーを踏みにじることではなく、あの鳥のように、藪の向こうから声を届ける方法を考えることだったかもしれない」
水島は俯いた。
しばらくして、細い声で言った。
「……わかり、ました」
「執行猶予の二年間、よく考えなさい。あなたはまだ二十三歳だ。鳥は飛び去っても、また春になれば、別の藪から声が聞こえてくる」
烏丸は立ち上がった。
「以上です。退廷」
廊下に出た遥は、少し呆然としていた。
烏丸が隣を歩いている。
法廷を出た途端、またどこか別のことを考えているような目になっていた。
「あの……」
「何ですか」
「ウグイスの話、いつ考えるんですか?」
烏丸は少し間を置いた。
「昨日、郊外で観察していたので」
「え、趣味ですか?」
「専門です。生物動態学、というより、生態の観察全般が。土日はたいてい野外にいます」
遥はその返答の速さと、判決文を読む声との落差を測りかねた。
「……専門、なんですね」
「判事の専門は法律ですが、法律の外側から人を見る目は、生き物から学びました」
言い切ったあと、烏丸はふと遥を見た。
そして、はた、と何かに気づいたような顔をした。
「あ」
「?」
「……今日、初日でしたね。あなたの。えっと」
「築地 遥です。今朝、挨拶しました」
「そうです。築地さん。すみません、判決文の構成を考えていたら」
「はい、わかっています」
「怒っていますか」
遥は一秒だけ考えた。
怒ってはいない。
ただ、色々と、想定と違った。
「怒っていません。ただ、一つお願いがあります」
「何ですか」
「明日から、朝ご飯を食べてから出勤してください。開廷前に低血糖で倒れてもらっては困るので」
烏丸は、きょとんとした。
「……低血糖というのは、どうして」
「ペットボトルの水が朝から手つかずで、コーヒーを二杯飲んで、食事の形跡がなかったので」
「…………よく、見ていますね」
「書記官の仕事です」
烏丸は何とも言いがたい顔で、廊下の窓の外を見た。
庭木の枝に小さな鳥が一羽とまって、すぐに飛び去っていった。
「……スズメでした」
「え?」
「今、窓の外に。ウグイスではないです」
遥は思わず窓を見たが、鳥はもういなかった。
振り向くと、烏丸がまっすぐ前を向いて歩いていた。
背筋はぴんと伸びていて、法服の裾が廊下に小さくこすれる音がした。
(この人は、いったいなんだろう)
法廷では怖いくらい鋭かった。
ウグイスの話は、どこか詩のようだった。
でも今は、スズメの話を唐突に始めた。
遥は一歩追いかけて、隣に並んだ。
「先生」
「何ですか」
「今日の判決言い渡し、よかったと思います」
また間が開いた。
今度は少し長かった。
「ありがとう」
さっきより、少しだけ大きな声だった。
執務室に戻ると、烏丸はすぐに次の書類を広げた。
遥は湯呑を二つ出して、緑茶を淹れた。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
「先生はブラックコーヒーより緑茶の方が合うと思います。胃が荒れます」
「なぜわかるんですか」
「コーヒーカップが二つとも飲みきっていなかったので」
烏丸はしばらく無言で、湯呑を両手で持った。
一口飲んで、また書類に視線を落とした。
遥は自分のデスクに座り、今日の記録の整理を始めた。
しばらくして、廊下から根岸さえ子書記官が覗き込んできた。
「築地ちゃん、どうだった?初日」
遥は一瞬答えに詰まってから、正直に言った。
「……想像より、複雑な人でした」
「でしょ」根岸さえ子は声を潜めて続けた。
「あのね、烏丸先生ね、法廷ではああいう感じなんだけど、日常生活が壊滅的なの。お弁当持っていってあげると喜ぶわよ。ま、照れて変なこと言うけど」
「……お弁当」
「そう。明日から、試しに作ってきてみたら?」
遥はちらりと、書類に沈み込んでいる烏丸を見た。
「考えておきます」
根岸さえ子がにやにやしながら廊下に消えていった。
遥は机の引き出しを開け、手帳を取り出した。
そこに小さく、今日の日付と、一言だけ書いた。
――ウグイスは、藪から出ない。
法廷で聞いた言葉が、なぜかまだ耳に残っていた。
遥の兄が、あの日、裁判所の廊下で俯いていた姿も一緒に。
(法律では、あなたの苦しみに名前をつけることしかできない)
烏丸はそんなことを言っていなかった。
でも遥には、なぜかそう聞こえた気がした。
窓の外から、遠く、鳥の声が聞こえた気がした。
緑ヶ丘地方裁判所の春は、まだ少し、肌寒かった。




