表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/4

第一話「ウグイスの鳴く藪」(前編) ケース1:届かぬ想いと境界線

 緑ヶ丘地方裁判所の三階、刑事部執務室に足を踏み入れた瞬間、築地 遥は思わず立ち止まった。


 時刻は午前七時五十分。

 開庁は八時半だ。

 なのにデスクの前にはすでに人がいた。

 書類の山。

 判例集が壁一面に並ぶ本棚。

 差し込む朝の光の中で、その男は背筋をぴんと伸ばし、A4の用紙を凝視していた。

 頬杖もつかず、ペンも動かさず、ただ静かに、読んでいた。


(……人、いた)

 遥は内心で呟いた。

 辞令を受け取ったのは一週間前。

「刑事部、特設更生分室担当書記官を命ずる」

 ――初配属が通常の刑事部ではなく、所内でも「あの変な法廷」と陰で囁かれる特設分室だと知ったとき、遥は人事課の窓口で三秒間固まった。

 そして今日がその初日だった。


「あの、失礼します。本日より書記官として配属になりました、築地 遥と申します」

 男は視線を用紙から上げなかった。

「……一文字、多い気がする」

「え?」

「刑事訴訟法第三百四十四条の引用です。こちらの話です」

 男はようやく書類から顔を上げた。

 鋭い、という言葉がそのままかたちになったような目をしていた。

 三十代後半だろうか。

 髪が少し乱れている。

「烏丸 護判事です。よろしく」

 それだけ言って、また書類に視線を落とした。


 遥はゆっくりと室内を見渡した。

 デスクの隅にはペットボトルの水が一本。

 キャップは開いたままで、中身はほとんど残っている。

 空のコーヒーカップが二つ。

 灰皿はないから煙草は吸わない。

 でも、食事をした形跡が何もない。

「烏丸先生、朝ごはんは召し上がりましたか?」

「食べます」

「……いつ?」

「気が向いたら」


 遥は唇を一文字に引き結んだ。

 この人、放っておいたら死ぬかも……。

 そういう直感が、書記官生活三年間で培ったセンサーにひっかかった。

「午前の開廷は何時からですか?」

「十時。今日は判決言い渡しが一件だけです」

「それまでに、何か食べてください」

「……書記官の職務にそういった項目はないと思いますが」

「ないです。でも私の気が済まないので」


 烏丸は顔を上げ、遥を見た。

 何か言いかけて、また書類に戻った。

「ありがとう、と言うべき場面ですか?」

「そうです」

「……ありがとう」

 小さな声だったが、言い方が妙に真剣だった。

 遥は苦笑しながら自分のデスクの荷物を解き始めた。


 午前十時ちょうど。

 第三法廷の扉が開く音は、いつも遥に修学旅行の初日を思い出させた。

 緊張と、これから何かが始まるという感覚が、音の重さに込められている。

「起立」

 廷吏の号令に、法廷内の全員が立った。

 烏丸 護が入廷した瞬間、空気が変わった、と遥は感じた。

 執務室での、どこかぼんやりした(そして明らかに低血糖気味の)男とは別人のようだった。

 法服の黒は光を吸い込み、歩き方に無駄がない。

 向かい合う弁護人も、検察官も、彼が席につく瞬間だけ、わずかに背筋を正した。

「着席」

 法廷には被告人の水島 拓也が座っていた。

 二十三歳。大学四年生。

 痩せた青年で、俯いたまま膝の上に置いた両手を握り合わせていた。


 烏丸は書類を一度確認し、正面を向いた。

「これより、令和六年第四七三号、住居侵入被告事件の判決を言い渡す」

 静かだが、よく通る声だった。

「主文。被告人を懲役六月に処する。この裁判確定の日から二年間、その刑の執行を猶予する」

 水島の肩がわずかに下がった。

 安堵とも、落胆とも取れる動きだった。


 烏丸は続けた。

「理由を告げる。本件公訴事実の要旨は、被告人が令和六年三月十四日深夜零時三十分頃、正当な理由なく、東京都緑ヶ丘区南町二丁目のマンション三階、林真由居室のベランダに、外部非常階段を通じて侵入したというものである」


 遥は素早く記録を取りながら、水島の横顔を観察した。

 青年は口を固く結び、ただ前を向いていた。

 弁護人の渡辺弁護士が隣で静かに書類に目を通している。

「有罪と認定する根拠として、被告人の自白の信用性、および防犯カメラ映像、現場の足跡鑑定結果等の客観的証拠に照らし、公訴事実は優に認定できる」


 烏丸はここで一拍置いた。

「量刑の理由を述べる。本件犯行は計画的なものではなく、被告人の衝動的な感情に基づく一時的な行為であること。被告人は犯行後速やかに自首し、捜査に全面的に協力したこと。前科前歴が存在しないこと。被害者の精神的被害は無視し難いものがあるものの、物的被害は生じていないこと。被告人が深く反省し、今後の接触を断つ旨を誓約したこと。以上の諸情状を総合考慮し、刑法第二十五条第一項の規定により、主文のとおり刑の執行を猶予することが相当と判断した」

 水島がうつむいた。

 その肩が、かすかに震えているのが見えた。

 烏丸は書類を閉じ、立ち上がりかけた水島を静かに制した。

「水島さん。少し待ちなさい」


 遥は、思わず顔を上げた。

 判決言い渡しは以上で終わりのはずだった。

 廷吏も検察官も、一瞬動きを止めた。

 水島だけが、きょとんとした顔で烏丸を見た。

「あなたに、聞いてほしい話がある」

 烏丸は手を膝の上に置き、被告人席の水島と正面から向き合った。

 法服姿のまま。

 でもその目は、先ほどの判決を読み上げるときとは、少しだけ違っていた。

「ウグイスという鳥を知っていますか」

 水島が目を瞬かせた。

 検察官が小さく眉を上げた。

 遥は、ペンを持ったまま、動きを止めた。


(……ウグイス?)

「春先に、あの声を聞いたことは?ホーホケキョ、という、あれです」

「……知って、います」

「姿を見たことは?」

 水島は考えてから、首を振った。

「ないと思います」

「そうでしょう」烏丸は静かに続けた。

「ウグイスは声だけが有名ですが、その姿は非常に見にくい。褐色の地味な鳥で、ほとんどの時間を藪の中で過ごす。あの美しい声は、藪の外には出てこない。だからこそ聞こえるのです」

 遥はペンを持ったまま、気づけばそちらを向いていた。

 記録を取るのを、一瞬忘れた。


「ウグイスが藪から出てこないのは、臆病だからではない。適切な距離を保つことで、あの声が成立するからです。もし誰かが藪に無理やり踏み込んで捕まえようとすれば、鳥は恐怖で飛び去る。そうしたら声は永遠に聞けない」

 水島の手が、膝の上で、ゆっくりと開かれた。

「あなたが林真由さんのベランダに踏み込んだ夜のことを、考えてみてください。あなたはおそらく、彼女のことが心配だったか、あるいは会いたかったか、そういう感情から動いた。それ自体を、私は頭から否定しない」

 水島がぐっと唇を噛んだ。

「しかし。あなたが深夜に、ベランダに踏み込んだ瞬間。彼女にとって、あなたの存在は何に変わったか。想いを持つ人間ではなく、恐怖です。その瞬間から、あなたが彼女に届けられるものは何もなくなった。藪に踏み込んで、鳥を逃がしたのと同じように」

 法廷の中が、静かだった。

 廷吏も、検察官も、何も言わなかった。

「距離は、消滅させるためにあるんじゃない。その距離があるから、声が美しく届くことがある。あなたがすべきだったのは、林さんのテリトリーを踏みにじることではなく、あの鳥のように、藪の向こうから声を届ける方法を考えることだったかもしれない」


 水島は俯いた。

 しばらくして、細い声で言った。

「……わかり、ました」

「執行猶予の二年間、よく考えなさい。あなたはまだ二十三歳だ。鳥は飛び去っても、また春になれば、別の藪から声が聞こえてくる」

 烏丸は立ち上がった。

「以上です。退廷」


 廊下に出た遥は、少し呆然としていた。

 烏丸が隣を歩いている。

 法廷を出た途端、またどこか別のことを考えているような目になっていた。

「あの……」

「何ですか」

「ウグイスの話、いつ考えるんですか?」

 烏丸は少し間を置いた。

「昨日、郊外で観察していたので」

「え、趣味ですか?」

「専門です。生物動態学、というより、生態の観察全般が。土日はたいてい野外にいます」


 遥はその返答の速さと、判決文を読む声との落差を測りかねた。

「……専門、なんですね」

「判事の専門は法律ですが、法律の外側から人を見る目は、生き物から学びました」

 言い切ったあと、烏丸はふと遥を見た。

 そして、はた、と何かに気づいたような顔をした。

「あ」

「?」

「……今日、初日でしたね。あなたの。えっと」

「築地 遥です。今朝、挨拶しました」

「そうです。築地さん。すみません、判決文の構成を考えていたら」

「はい、わかっています」

「怒っていますか」


 遥は一秒だけ考えた。

 怒ってはいない。

 ただ、色々と、想定と違った。

「怒っていません。ただ、一つお願いがあります」

「何ですか」

「明日から、朝ご飯を食べてから出勤してください。開廷前に低血糖で倒れてもらっては困るので」

 烏丸は、きょとんとした。

「……低血糖というのは、どうして」

「ペットボトルの水が朝から手つかずで、コーヒーを二杯飲んで、食事の形跡がなかったので」

「…………よく、見ていますね」

「書記官の仕事です」


 烏丸は何とも言いがたい顔で、廊下の窓の外を見た。

 庭木の枝に小さな鳥が一羽とまって、すぐに飛び去っていった。

「……スズメでした」

「え?」

「今、窓の外に。ウグイスではないです」

 遥は思わず窓を見たが、鳥はもういなかった。

 振り向くと、烏丸がまっすぐ前を向いて歩いていた。

 背筋はぴんと伸びていて、法服の裾が廊下に小さくこすれる音がした。


(この人は、いったいなんだろう)

 法廷では怖いくらい鋭かった。

 ウグイスの話は、どこか詩のようだった。

 でも今は、スズメの話を唐突に始めた。

 遥は一歩追いかけて、隣に並んだ。

「先生」

「何ですか」

「今日の判決言い渡し、よかったと思います」

 また間が開いた。

 今度は少し長かった。

「ありがとう」

 さっきより、少しだけ大きな声だった。


 執務室に戻ると、烏丸はすぐに次の書類を広げた。

 遥は湯呑を二つ出して、緑茶を淹れた。

「どうぞ」

「……ありがとうございます」

「先生はブラックコーヒーより緑茶の方が合うと思います。胃が荒れます」

「なぜわかるんですか」

「コーヒーカップが二つとも飲みきっていなかったので」

 烏丸はしばらく無言で、湯呑を両手で持った。

 一口飲んで、また書類に視線を落とした。


 遥は自分のデスクに座り、今日の記録の整理を始めた。

 しばらくして、廊下から根岸さえ子書記官が覗き込んできた。

「築地ちゃん、どうだった?初日」

 遥は一瞬答えに詰まってから、正直に言った。

「……想像より、複雑な人でした」

「でしょ」根岸さえ子は声を潜めて続けた。

「あのね、烏丸先生ね、法廷ではああいう感じなんだけど、日常生活が壊滅的なの。お弁当持っていってあげると喜ぶわよ。ま、照れて変なこと言うけど」

「……お弁当」

「そう。明日から、試しに作ってきてみたら?」

 遥はちらりと、書類に沈み込んでいる烏丸を見た。

「考えておきます」

 根岸さえ子がにやにやしながら廊下に消えていった。


 遥は机の引き出しを開け、手帳を取り出した。

 そこに小さく、今日の日付と、一言だけ書いた。

 ――ウグイスは、藪から出ない。

 法廷で聞いた言葉が、なぜかまだ耳に残っていた。

 遥の兄が、あの日、裁判所の廊下で俯いていた姿も一緒に。

(法律では、あなたの苦しみに名前をつけることしかできない)

 烏丸はそんなことを言っていなかった。

 でも遥には、なぜかそう聞こえた気がした。

 窓の外から、遠く、鳥の声が聞こえた気がした。

 緑ヶ丘地方裁判所の春は、まだ少し、肌寒かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ