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レリ・マハーシーヴァ  作者: JING
青いクジラと第0レーン
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7/19

第7話 自己ベストのその先

レリ・マハーシーヴァ オープニングテーマ「まなざしのマントラ」

https://youtu.be/6FmwM8nEabA

「もう1本、測ってもらっていいですか」


 水曜の放課後、グラウンドから聞こえる声に、わたしは茶道部へ向かう渡り廊下で足を止める。


 フェンスの向こうで松本くんが膝に手をついている。


 そばの先生がストップウォッチを下ろす。


「今日は、ここまでにしよう」


「でも、今の、途中で力が抜けちゃって」


 松本くんは膝から手を離し、走路の端へ目をやる。


 並んで走っていた子が息を整えて戻ってくると、舞人くんも、遅れて2人のそばに寄る。


 先生は松本くんの背中へ、タオルを差し出す。


「疲れたところで重ねても、今日はもう戻らないよ」


 松本くんの唇が動くけど、見えるのは返事の形だけだ。


 何秒だったのかまでは聞こえなくても、ほしい数字じゃなかったことはわかる。


 舞人くんが何か話しかけて肩を軽くたたくと、松本くんは、その手を避けずに小さく笑う。


 笑っているのに、足元を見たままなんだね。


 手すりからそっと手を離しても、昨日の岸くんの顔が、また頭に浮かんでくる。


 松本くんも同じなら……?


 そう考えるだけで怖いけど、まだ起きていないことまで決められない。


 わたしは部室へ行く前に、舞人くんへ連絡する。


『帰りに、松本くんと話せる?』


 その短い文を送ってから戸棚の鍵を受け取る。


 お茶の準備をしていても何度か時計を見てしまい、茶碗を置く手に、必要のない力が入っている。


 先輩に呼ばれて、わたしはあわてて姿勢を直す。


「りんちゃん、今日は何か気になることがある?」


「あ……ごめんなさい、ちょっと、友達のことで」


 先輩は茶碗を置いてわたしの手元を待ってくれる。


 急いで説明するより、今はお盆を持ち直す。


 湯をこぼしたら、友達の心配どころじゃないよね。


「あわてなくていいから、まず、ここまで終えよう」


「はい……ありがとうございます」


 畳の目にお盆の角をそろえ、決まった順番をたどっていると、呼吸が落ち着いてくる。


 今することが見えるのは、ありがたいんだよね。


 部活が終わるころに届いた返事には、松本くんにも声をかけて、一緒に待っているとある。


 わたしはバッグを抱え、急いで昇降口へ向かう。


 外階段の下で2人はシューズを袋にしまっている。


 松本くんがこちらを見て、片手を上げる。


「間宮さんも、昨日あの子に会ったんだって?」


「うん……岸くん、すごく具合が悪くて」


 わたしは足音のところだけを飛ばして話す。


「走るのをやめようとしなくて、座ったら力が抜けちゃったの。でも、救急の人が来るころには、話せるようになったよ」


 松本くんは、シューズ袋のひもを握ったまま聞いている。


「矢崎さんの練習会に、行ってたって」


「知ってる、岸って1年だろ」


 舞人くんが松本くんの正面へ回り、わたしも、通り道をふさがないよう壁へ寄る。


 下校する子の話し声が3人の横を通っていく。


「おまえの行ってるところと、同じなんだな」


「たぶん。でも曜日が違うから、毎回は会わない」


 松本くんは袋をしまってファスナーを引くけど、途中で引っかかり、もう一度やり直している。


 わたしは手を出しかけ、バッグを抱え直す。


 誰の持ち物にも、すぐ手が出るわけじゃないんだね。


「もう、行かないほうがいいと思う」


 舞人くんが言うと、松本くんの指が止まる。


 わたしは息を詰め、次の返事を待つ。


 反発されたら、どう話せば伝わるのかな?


 でも松本くんは、少しして頭を縦に動かす。


「わかってる。おれも変だと思ってる」


「何か、あったの?」


 わたしの質問に、松本くんが顔を向ける。


 別のクラスの男子とこんなに話すのは珍しくて、視線を合わせ続けるのは、まだ少し苦手だ。


 だからバッグの端と顔を交互に見てしまう。


「あっちだと、学校より3秒くらい速いんだ」


「3秒って……400メートルで?」


「いや、200で。でも、ここで走るとぜんぜん出ない」


 舞人くんが腕を組み、グラウンドの走路を見る。


 そんなに違うの?


 3秒の重さはまだよくわからないけど、松本くんが笑って話せる数字じゃないんだね。


「場所が違うと、走りやすさも違う?」


「多少はある。でもそれだけじゃなさそうなんだ」


 松本くんがポケットから取り出した折った紙には、細い文字で、数字が何列か並んでいる。


 練習ノートへ書く前のメモらしい。


「歩数が少ない気がして、一度、数えたんだ」


「速くなったぶん、歩幅が広がったとか?」


 松本くんは考えながらメモの数字を指でたどり、紙を伸ばして、端の数字を見つめる。


「それにしても少ないから、数え間違えたのかと思って」


「その紙、あとで見せてくれる?」


「ノートに書いてきたらな。こっちは字がつぶれてるし」


 舞人くんに答えると松本くんは紙をしまう。


 わたしも曲がった数字までは読み取れない。


 アンクで読もうとは、今は思わない。


 本人があとで教えてくれるものだもん。


「矢崎さんは、なんて言ってるんだ?」


「学校だと緊張して、動きが固くなるんだって」


「おまえ、さっきの走りで緊張してた?」


 松本くんが舞人くんを見て口を曲げるけど、笑うのか怒るのか、わたしにはわからない。


 やがてバッグの底を膝で軽く押し上げる。


「してたかもな。記録が出ないって思いながら走ったし」


 それを聞いて、わたしは消しゴムの話を思い出す。


 内側の線を走れば距離は短くなるけど、あの場所を見ていないわたしが、言っていいのかな?


 松本くんの紙には、本人が数えた数字がある。


 まず、どうやって数えたのかをききたい。


「岸くんのお母さん、矢崎さんにも連絡したって」


 昨夜もらったメッセージを開くと、病院で休んで、返事はしっかりしているとある。


 その下に、指導者との話が短く書かれている。


「練習中は普通だったから、知らないって言われたみたい」


「……おれも、きいてみる」


「1人で会いに行くなよ。先生にも言うから」


 舞人くんの声が強くなる。


 松本くんは目を上げてから、わざと肩をすくめる。


「行かないって、さっき言ったろ」


「約束しろよ」


「わかった、行かない」


 今度ははっきり言ってくれて、わたしもやっと、松本くんの顔をまっすぐ見られる。


 舞人くんが先生へ話すために職員室へ向かい、わたしたちも途中まで戻って、入口で待つ。


 話せることは全部、大人にも伝えておきたい。


 先生は無理な練習をしないように言い、私設の練習会については、保護者にも確認するという。


 松本くんは頭を下げてわたしたちと校門へ向かう。


 門の外で止まり、グラウンドを一度振り返る。


「おれさ、次はちゃんと、自分で出したいんだよな」


 夕方の走路には片づけ忘れたコーンが残っていて、見つけた松本くんが、門の中へ戻っていく。


 わたしたちも、あわててそのあとを追いかける。


 行かないという約束まで、置いていかないでね。


     *


「……肉抜きで、玉ねぎは大盛りにできますか」


 木曜の帰り、らんぷ亭の注文で声が細くなる。


 隣では葵がにやにやしながら待っている。


 店員さんがきき返す前に、舞人くんの目が丸くなる。


「肉、抜くの?」


「ここの玉ねぎ、おいしいから……」


「わかるけど、牛丼の牛はどうなるんだ」


 松本くんがメニューとわたしを交互に見る。


 牛だって、いるよ!


 だしになって頑張ってくれてるんだから。


 それを説明する前に、葵が笑って口を挟む。


「りんの定番なの。本人は大真面目だから」


「笑って言わなくても、いいじゃん……」


 ことりが人数ぶんの水を運んできてくれると、5人で座るテーブルの上が、急に狭くなる。


 学校とは違う組み合わせで、少し落ち着かない。


 男子2人は向かい側にバッグを置いて座る。


「今日は、葵のお礼の会だっけ」


「うん。でも全員ぶんは払えないから、そこはよろしく」


 葵が財布を押さえ、舞人くんの前にだけ券を置く。


 わたしたちは、注文を受け取った順に丼を並べる。


 松本くんを誘って連れてきたのは舞人くんだけど、昨日の帰りの暗い顔は、わたしも気になっている。


 自分から誘えたらよかったけど、お誘いの言葉って、どうしてあんなに重くなるのかな?


「スキイエより、こっちのほうが落ち着くよな」


「おれ、あっちも行くけど、ここの汁が好き」


 松本くんが箸を割り、舞人くんも丼を引く。


 業界2位より1位を選ぶ理由が、汁の味だ。


 わたしにとっては、玉ねぎのしみ具合だけどね。


 ひと口食べると甘い味がじわっと広がって、おいしいと感じることが、うれしくなる。


「そういえば、区大会の代表って、いつ決まるの?」


 葵の質問で止まった松本くんの箸は、すぐに動き出すけど、わたしには見えてしまう。


 舞人くんが水を飲んで先に答える。


「来週の記録会で決まるんだ。もうあんまり日がない」


「松本くん、400メートルだったよね」


「うん、長いのか短いのか、説明しにくいやつ」


 松本くんが笑い、わたしもつられて口元を緩める。


 体育で走ると少なくとも短くは感じないし、最後のほうなんて、脚を持ち運んでるみたいになる。


「最初から、全部速く走るんじゃないんだ?」


 わたしがきくと、松本くんの顔が明るくなる。


 バッグの横から細い油性ペンを取り出し、ついさっきのレシートを裏返して、数字を書き始める。


「最後に上げようとしても、もう上がらないんだよ」


「じゃあ、最後まで、なるべく落とさない?」


「そう。でも最初に抑えすぎると、間に合わない」


 松本くんは線を引き、曲がり角を描き足す。


 ことりが身を寄せ、葵は水を端へよける。


 小さな紙がテーブルの真ん中に置かれる。


「ここで力を使い切ると、あとの直線で足が動かなくなる」


「思ってたより、いろいろ考えて走るんだね」


「考えないと、だいたい痛い目を見るからな」


 舞人くんが横から言い、松本くんが肘でつつく。


 話を聞くうちに走る人を描きたくなり、わたしは、借りたペンをレシートの隅へ置く。


 頭と体と足があれば、何とかなるはず……だよね?


 小さく描いてから全員の前へ戻してみる。


「間宮さん、それ、逆立ちしてる?」


「走ってるの、こっちが前で……」


「いや、足が4本あるように見えるんだけど」


 舞人くんが言いかけ、葵と目を合わせてやめる。


 2人とも、遠慮するなら最後までしてよ!


 松本くんはペンを取ると、わたしの絵を消さずに、隣へ矢印だけ足してくれる。


「こっちへ走ってるって書けば、わかるだろ」


「優しいようで、絵は諦めてるんだね……」


「おれも、人のこと言えるほど描けないし」


 松本くんの描いた人は棒が5本だけなのに、なぜか、走っているのが伝わってしまう。


 ……負けた。


 この差は、いったいどこから来るのかな?


 ことりがレシートを少し離して写真を撮る。


「保存しないで……記録に残るから」


「記録に残すために、撮ってるんだよ」


 ことりの正論で、わたしのお願いが終わる。


 松本くんは、水を取りに行くたび誰のか迷うらしく、笑いながら紙コップにも何か書く。


 底のほうに『松』と、細い数字が1つ残る。


「それ、何にでも書けるんだね」


「汗で普通のペンが出なくて、これになった」


「ノートを出す前に、書いちゃうんだ?」


「忘れるんだよ、数字って、すぐ」


 松本くんはペンにふたをしてバッグの脇へ差す。


 舞人くんがレシートを見て、指で1か所を押さえる。


 2人が話す数字はわからないけど、松本くんの顔は、だんだん昨日より普通になっていく。


 わたしはその間に残った玉ねぎを集める。


 丼の端に逃げると、なかなか箸でつかめない。


「置いていかれるのが、嫌なんだよな」


 松本くんの声でわたしの箸が止まり、向かいの舞人くんも、水のコップを下ろす。


「おまえが?」


「うん、みんな記録が伸びてるのに、おれだけ同じで」


 松本くんはレシートを折り、また開く。


 紙の真ん中で、わたしの変な走者が曲がる。


 葵もすぐには励ましの言葉を出さない。


「弥勒は、最近、先に帰ることあるだろ」


「……用事が、あって」


「知ってる。それはいいんだよ」


 松本くんの指が紙の折り目を伸ばす。


 用事の半分はわたしのせいでもあって、何か言いたいのに、言葉が出ない。


「ただ、何してるのかわからないと、余計に気になる」


 舞人くんは答えずに箸袋を小さく折る。


 力の練習だなんてここでは言えなくて、わたしも、目の前のお皿を見るしかない。


「ごめん、言い方、悪かったな」


「いや……今度、一緒に片づける」


「片づけのために残れって話じゃないけど」


 松本くんが笑うと、舞人くんは折っていた箸袋を置く。


 わたしは冷めた水をひと口飲み込む。


 このまま何も言わずに、帰るのは嫌だな。


「……わたしも、聞きたい」


 出た声が小さくて4人の目がこちらを向き、顔が熱くなるけど、わたしはレシートを指で示す。


「走る話、今度また……教えてもらえたら」


「おう、絵の描き方以外なら」


 松本くんが即答するのでみんながまた笑い、わたしも今度は、一緒に笑うことができる。


 帰り際、レシートをもらってバッグへしまう。


 変な走者も、矢印も、今日は消さずにおこう。


     *


「宗教の子、今日は牛丼?」


 店を出た葵が入口の横で手を上げ、わたしは、銀色の髪を見つけて足を止める。


 シーヴァくんがメニューの写真を眺めている。


「こんにちは」


「うん、こんにちは……肉、食べられるの?」


 葵が服とメニューを交互に見比べている。


 わたしにも気になるけど、今は別の質問がある。


 松本くんは先に帰り、舞人くんは店内で水を飲んでる。


 ことりが葵を呼んで入口から少し離れるのは、家へ持ち帰る注文を、買い忘れたかららしい。


「りん、ここで待ってて。すぐ戻るから」


 葵たちが店へ戻るとシーヴァくんがこちらを見る。


 わたしは人が通り過ぎるまで、声を飲み込む。


 いつもなら苦手な待ち時間が、今日は助けになる。


「……この前、走るのをやめられない子に会ったの」


 シーヴァくんはメニューからゆっくり目を離す。


 わたしは足音のずれをなるべく短く説明し、ほかの人に聞こえないよう、顔を少し近づける。


「座ったあと、返事が戻ってきたんだけど……」


「止まるのを、怖がっていたんだね」


 返ってきたのはただ話を聞いた人の声で、わたしは、瞬きを繰り返す。


 ……それだけ?


「うん……止まったら死ぬって、言われたみたい」


「キミは、その子がどうなったかを見たんだよね」


「見たけど、理由がわからないの」


 シーヴァくんに顔をしばらく見つめられて、今度は教えてくれるのかと、わたしは待つ。


 代わりに店の扉が開く音が聞こえる。


 舞人くんが出てくると、シーヴァくんが手を振る。


「待てよ、ききたいことが……」


 舞人くんが近づく前に歩き出した細い背中は、店から出る家族連れへ、ゆっくり道を譲っている。


 人の流れを避けて追うと、もう横断歩道の向こうだ。


 青い信号が点滅し、わたしたちは足を止める。


「なんで、いつも、質問の途中なんだよ」


 舞人くんが赤い信号を見上げる横で、わたしは、さっきの声を頭で繰り返す。


 怖がっていた、というところだけが耳に残る。


 何かを教えたのか、ただ聞いていただけなのか。


 相変わらず、そこがぜんぜんわからないんだよね。


     *


 金曜日は、何も起きずに終わっていく。


 少なくともわたしが見えるところでは、普通の日だ。


 朝の教室で葵がクジラの輪をつけ直す横で、ことりが昨日の写真を見せて、また笑う。


 わたしは変な走者のことをもう一度からかわれる。


 舞人くんは部活へ行き、松本くんも走っている。


 帰りに会った松本くんがこちらへ片手を上げる。


「昨日の絵、捨ててないだろうな」


「……捨ててないよ、ちゃんと持ってる」


「じゃあ、次はもう少し速そうに描いて」


 困るわたしを見て楽しそうに笑う松本くんの、バッグの脇には、あの細いペンが差してある。


 わたしは手を振って、葵たちと駅へ向かう。


 夕飯のあとにはたまった宿題を片づけ、寝る前にスマホを見ても、新しい連絡はない。


 何も起きない日があると、安心して眠れる。


 そのまま朝まで、そう思っていたかった。


 土曜の朝、スマホの振動で目が覚める。


 画面にあるのは舞人くんからの短い文だ。


『松本が、帰ってない』


レリ・マハーシーヴァ エンディングテーマ「ここにある」

https://youtu.be/RXc36LRIwuI

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