第6話 第0レーンを知ってる?
レリ・マハーシーヴァ オープニングテーマ「まなざしのマントラ」
https://youtu.be/6FmwM8nEabA
「走っただけで、絶対に自己ベストが出るんだって」
火曜の昼休み、葵がお弁当箱のふたを閉めると、机を寄せていたわたしも、お弁当を包む手を止める。
走る話なら、窓際に詳しい人がいるんだけど。
舞人くんはノートを見せる友達と話している。
「絶対って、最初からすごい約束だね」
「そう。だから絶対に怪しいとも思う」
葵は机の上に消しゴムを1つ置くと、その横へ指で丸を描き、走るコースを作る。
「使われなくなったグラウンドに、夜だけ入れる場所があるんだって」
「それ、入っていい場所なの……?」
「よくないと思うけど、噂だから」
葵の指が消しゴムの周りをぐるりと回る。
ことりが小さなメモ帳を出して机の端へ置く横で、わたしは、箸箱のふたを押さえたまま聞く。
「普通のレーンより内側に、もう1本出てくるの」
「内側って、地面のところ?」
「うん、そこが第0レーン」
0のところで葵の指が止まると、わたしの頭には、白い線が1本増える。
増えた線を走れば、急に速くなるのかな?
それなら体育の時間に、1本ほしいけど。
「そこを走れば、必ず自己ベストが出るんだって」
「……ただ走るだけなの?」
「1つだけ、守らないといけないことがある」
葵が声を落としてわたしたちへ身を寄せる。
隣の机で笑い声が上がり、わたしの肩が跳ねる。
まだ何も言われてないのに、損した気分だよ。
「自分の足音が後ろからしても、振り返っちゃダメ」
「後ろって、別の人が走ってるんじゃなくて?」
「1人で走ってても、するんだって」
ことりのペンが紙の上で止まる。
朝の階段の足音を思い出しても、あんなに人が多いと、誰の音かなんてわからない。
でも、1人しかいない場所なら……。
「振り返ると、どうなるの?」
わたしがきくと葵は両手を開き、知らない、という顔でわたしたちを見る。
「そこは、聞いた人によって違うんだよね」
「わたしが聞いたのは、靴だけになるって話」
ことりが静かに言うので、余計に怖くなる。
……靴だけ?
どうして、そんな落ち着いた声で言えるの!?
お弁当のあとに聞く話じゃない気がする。
「ことりも、知ってたんだ」
「うん。でも葵の話と、場所が違うの」
メモ帳には、駅と橋の絵が並んでいる。
「橋を渡った先の空き地って話と、電車に乗った先の運動場って話。どっちも古いんだけど、時間も、夜中だったり夕方だったり」
「じゃあ、どっちも適当なんじゃない?」
「うん、場所だけ変わって広まったのかも」
ことりはメモを閉じてお弁当の包みを結ぶ。
葵も肩をすくめて机を元の位置へ戻そうとすると、舞人くんが、その脚を軽く押さえる。
「内側を走ったら、距離は短くなるぞ」
「だったら、そのぶん速く着くってこと?」
葵がきくと、舞人くんは消しゴムを指さす。
「同じ場所から走ればな。だからスタートをずらすんだ」
「体育で、外側の人が前から走るのも?」
「うん、走る距離を同じにするため」
わたしはお弁当の包みを結びながらきく。
「じゃあ、内側に増えた線だと……」
「短い距離で時計を止めたら、いい記録に見えるかも」
「うわ、夢のない第0レーンになった」
葵が消しゴムをつまみ、机の丸を消すふりをする。
「本当にあるかは知らないけど、おれは行かない」
「わたしも、靴だけになりたくないし……」
チャイムの前触れに舞人くんが自分の席へ戻ると、怖い話は、それで終わりになったみたいだ。
わたしだけが、まだ箸箱を押さえている。
なくしたものが戻るっていう話も、あのお店の前に立つまでは、ただの噂だったよね。
舞人くんの視線が一瞬こちらへ向く。
さっきの噂が、まだ気になってるのかな?
わたしは箸箱をしまい、首を小さく縦に振る。
話すことがある、って伝わったかな。
*
放課後の連絡は、たった2行で決まる。
部活が終わったら、帰る途中の駅で会う。
舞人くんから、その返事が届いている。
わたしは茶道部の戸棚を閉めて鍵を返す。
ポスターの文字を直していたら少し遅くなり、先に帰った2人へ、今から出ると知らせる。
校門の外には今日も自転車が何台かあるけど、銀色の髪は、どこにも見当たらない。
そもそも、来るって約束はしてないけどね。
それでも来ないかなと思っちゃう自分に、腹が立つ。
駅前で時計を見ていた舞人くんは、わたしに気づくと、バッグを持って歩いてくる。
「お待たせ……部活、もう大丈夫?」
「ちゃんと最後までやってきた。腕も平気」
舞人くんが右の手首を軽く回して見せると、指の動きは、昨日よりなめらかに見える。
わたしたちは人の流れを避け、広場の端へ寄る。
ここなら、わたしたちの声も、隣の会話に紛れる。
「昼の噂、どう思う?」
「0レーンだろ。部でも話してるやつがいる」
「舞人くんも、行こうと思ったことある?」
わたしの声が途中で小さくなる。
疑っているみたいに聞こえたら、嫌だな。
でも舞人くんの返事は、あっさりしている。
「それで速くなるなら、スタート前に線を足す」
「わたしも、ちょっとそれは考えた……」
舞人くんが笑い、わたしも口元を緩める。
車道を挟んだ向こうでバスが止まると、降りてくる人の足が、横断歩道へ集まっていく。
その流れと反対に、小さな肩が動いている。
広場の縁にいる練習着の男の子は、走っているというより、足を刻んでる感じだ。
肩にかけたバッグが何度も肘へ落ちて、男の子は、持ち直すたび横へふらつく。
「……あの子、具合が悪そうじゃない?」
わたしが指を動かす前に気づいた舞人くんは、男の子の正面へ出ず、横から声をかける。
「大丈夫か。どこか痛い?」
「止まっちゃ、ダメ……」
返事は途切れて、ほとんど息だけになる。
男の子は噴水の低い囲いへ近づいていて、このままだと、すねをぶつけてしまう。
舞人くんが腕を伸ばし、進む向きを変える。
「段がある。こっちを歩こう」
「歩くのも……ダメ、走らないと」
男の子の足が石の継ぎ目で引っかかる。
わたしは反射的に、バッグを支えようとする。
布の角が指に触れたのに、重さが変だ。
手がうまく当たってないだけ?
男の子の輪郭が夕方の光で揺れて見えて、葵のときの影が、頭に浮かんで離れない。
「間宮、先に人が少ないほうへ」
舞人くんが指す先は、店の壁沿いのベンチだ。
わたしは前へ回って置いてある自転車を避ける。
男の子を間に挟み、3人でゆっくり進む。
足のもつれる音に重なって、カッ、という小さな音が背中側から来る。
わたしは振り向きかけて、男の子を見る。
さっき聞いた噂が、耳の奥で繰り返される。
「後ろ、見ないで……」
男の子の顔がひどく青白く見える。
舞人くんが、わたしとだけ目を合わせる。
わたしは舞人くんを見返し、スマホを持つ手を上げる。
何が起きているのか、まず見なくちゃ。
スマホの時計は、17時40分に変わっている。
わたしは男の子から、半歩だけ横へ離れる。
車道を通るバスの大きな音に紛れるように、わたしは唇をそっと動かす。
「……アンク」
靴底のこすれる音がすぐ近くまで浮かび、バッグの留め金が、布に触れる音も聞こえる。
わたしは息を整えて足首の動きに目を絞る。
男の子の右足が地面からゆっくり離れ、靴底は、もう石の継ぎ目に触れていない。
それから、右側で小さな足音が鳴る。
次は左足も、同じように遅れている。
どうして、ずれるの?
どこかの音が跳ね返ってきてるのかな?
でも、通り過ぎる人の足音はずれていない。
男の子にだけ、もう1組の音がついてくる。
体のすぐ後ろに引っかかって見える薄い色は、シャツと同じ形で、一拍遅れて膨らんでいる。
それ以上は、何を見ているのかわからない。
わからないものが、こんなに近くにいる。
……怖い。
「あと3歩で、ベンチだ」
舞人くんが声をかけ、男の子の背中を支える。
わたしは座る場所の前にバッグを下ろす。
普通なら、誰かにぶつかるよりここで休んだほうがいいって、そう思うはずなのに。
「ダメ、止まったら……死ぬって」
男の子が最後の言葉を、息と一緒に絞る。
わたしの膝まで、急に冷たくなってくる。
舞人くんの手が肩のところで止まる。
男の子が前へ進もうとして体を折り、わたしたちは、両側からその腕を受け止める。
「そのままは無理だ。座ろう」
舞人くんが言って、ベンチへ体を寄せる。
男の子の膝が曲がり、腰がゆっくり下りる。
わたしの指から急に腕の重さが伝わる。
顔が下を向き、すぐには持ち上がらない。
止めちゃった、という言葉が頭を埋める。
でも、肩は上下してる。
「聞こえる? わたしの声、聞こえる?」
膝をついて、下から顔をのぞき込む。
男の子の目が、少しだけこちらを向く。
舞人くんがスマホを出して救急へ電話をかけると、その声に気づいた人が、足を止めてくれる。
「駅前の広場です。男の子が、歩けなくて」
舞人くんはきかれる順に、場所を伝えていく。
わたしは男の子に話しかけながら、今の呼吸を見失わないように、その顔を見続ける。
腕を置く場所を直すと、唇が小さく動く。
「……き、し」
「岸くん? 名前、岸くんっていうの?」
男の子がわずかに頭を縦へ動かす。
返事ができることに、肩の力が抜けそうになる。
その瞬間、周りの音が一段遠くなり、バスのエンジンも普通の大きさへ戻っていく。
60秒が終わっても、岸くんは目の前にいる。
息も、さっきより少し深くなっている。
「岸くん、おうちの人に連絡できる?」
わたしがきくと、岸くんはバッグを見る。
口が動くまで待ってから、持ち手を寄せる。
中を勝手に探すより、言ってもらいたい。
「前の、チャック……スマホ」
「開けるね。ここで合ってる?」
岸くんが今度ははっきりうなずいてくれる。
ベンチの横へ来た女性が、日陰を指さす。
舞人くんは電話の相手に、今の様子を伝える。
わたしが岸くんの前に画面を持っていくと、ゆっくり伸びた指が、連絡先を押している。
まだ、自分で動けるんだよね。
それを1つずつ見て、ようやく息がつける。
*
岸くんのお母さんは電話の途中で声が変わり、最初の呼びかけよりも、次の質問が早くなる。
わたしは名前を伝え、スマホを両手で持つ。
そばにいた女性が、言葉に詰まるわたしを助ける。
「今、救急を呼んでます。駅前の広場です」
わたしは横で同じ場所を指さしてしまうけど、電話の向こうに、その指は見えないんだよね。
舞人くんが手で大丈夫だと合図をくれる。
わたしは口を閉じ、岸くんの顔へ目を戻す。
さっきは下へ落ちていたあごが、上がっている。
「……ぼく、止まった?」
「うん、今、ベンチに座ってるよ」
岸くんは自分の膝へゆっくり手を下ろすと、指でジャージを握り、何度か息を吸う。
「大丈夫なの……もう、走らなくても」
「救急の人が来るから、一緒に待ってよう」
大丈夫って全部まとめて言えたら、どんなにいいかな。
でもわたしには、まだわからないことがある。
だから、今できることだけを口にする。
舞人くんも電話を終え、ベンチの横へ戻る。
「お母さんも、こっちへ来るってさ」
「……怒られるかな」
「まず、心配してると思う」
舞人くんはしゃがんで、岸くんと目を合わせる。
岸くんの指が、ジャージの布から離れる。
わたしはバッグを起こして足元へそっと置く。
後ろから追う足音はもう聞こえないけど、普通の耳に戻ったから、聞こえないだけかな?
そう思っても試し直すことはできなくて、アンクが使えるのは、あと3時間も先だ。
「学校の、練習の帰りだった?」
舞人くんの質問に、岸くんは首を横に振る。
練習着にはわたしたちと違う学校名がある。
岸くんは1年生だと、息をつぎながら話す。
わたしたちより1つ下なのに、手が細く見える。
「個人の……練習会、教えてくれる人がいて」
「どこで、やってるんだ?」
「車で行くから、名前は知らない」
岸くんは足元のバッグからスマホを出すと、画面を何度か触り、集合案内を見せてくれる。
駅近くの道と目印になる店の名前はあっても、練習する施設の名前は、そこに書いていない。
「矢崎さんが、迎えに来てくれるんです」
舞人くんがわたしへ目を向ける。
何か知っているように、眉が動いている。
きき返しかけたけど、岸くんの息を見ると、話を続けさせるより、今は休んでほしいと思う。
近づいてくるサイレンに、岸くんが顔を上げる。
でも、あと1つだけ、きいておきたい。
「止まっちゃダメって、誰に言われたの?」
わたしがきくと、岸くんの口元が固くなる。
さっきほど青白くないのに、目が泳ぎ出す。
「……あそこに、いた人」
それ以上は言いたくないみたいで、わたしはうなずき、もう質問しない。
救急の人が近づき、場所を空けてほしいと言う。
わたしたちは立ち上がり、1歩ずつ後ろへ下がる。
自分の名前をもう一度答える岸くんの声は、さっきより、途切れなくなっている。
来てくれたお母さんが、肩にそっと手を置く。
岸くんの顔が、そこでやっと崩れてしまう。
わたしはバッグの持ち手をきつく握る。
止めてしまった怖さが、少しずつほどけていく。
怒られる心配ができるところまで、戻ってきたんだね。
よかった、本当に。
お母さんがわたしたちへ何度も頭を下げるので、わたしも頭を下げて、またうまく話せなくなる。
連絡先をきかれてスマホをあわてて出す。
舞人くんが話す横で、わたしは文字を打つ。
さっきまで張っていた指がまだ震えて、自分の名前を打つだけなのに、2回も間違える。
救急車の扉が閉まるまで、そこに立っている。
シーヴァくんは最後まで現れない。
広場に戻るのは、さっきと同じ帰宅の足音だ。
わたしは、ベンチの端へそっと腰を下ろす。
「……止まったけど、返事、戻ってきたね」
「うん、最初より、しっかりしてた」
舞人くんは立ったまま、車の去った道を見る。
岸くんの後ろで1歩遅れていた何かの、あの薄い色が、わたしの目にも残っている。
隣のベンチから人が離れるのを、2人で待つ。
「舞人くん、足音がね……ずれて聞こえたの」
わたしは話しながら、靴底を一度、地面から浮かせてみる。
「靴底が離れてから、もう一度音がしたんだよね。ほかの人には、そんなずれはなかったの」
見えた薄い色は、うまく説明できない。
「葵のときとは、同じじゃないと思うけど……」
「アートマに、何かされたってことかな」
舞人くんの声は、すぐ隣でやっと聞こえる。
わたしは答えられないまま指を組む。
見えたことと、理由はまだつながらない。
それでも、岸くんが戻ってきたことは見ている。
「走り続けなくても、少しずつ話せてたよね」
「そうだな。少なくとも、止まったらすぐ死ぬなんてことはなかった」
広場の時計を見たわたしは、人を助けていて遅くなったと、家へ短く送る。
すぐ電話が来て、何があったのかときかれる。
わたしは足音の話だけ抜かして順番に答える。
帰ったらもう一度話すと約束して、電話を切る。
葵とことりにも、同じことを知らせておく。
噂の練習会で体調を崩した子がいて、救急の人と保護者へ引き継いだ、と。
文字にすると、出来事はそれだけになる。
指先の震えまで、送れたらいいのにな。
「矢崎って人、知ってるの?」
歩き出す前に、わたしは舞人くんへきく。
舞人くんは答えるまで間を置いて、さっきから触っていた、バッグのひもを離す。
「駅の近くのスポーツ店で、働いてる人だよ」
「陸上を、教えてるんだね」
「うん……松本も、教わってる」
わたしは足を出そうとしたところで止まる。
昨日、コーンを運んでいた松本くんの、重い箱を持って普通に笑っていた顔が浮かぶ。
あの人まで、同じところを走っているの?
舞人くんはすぐに松本くんへ連絡を入れる。
返信を待つ間、わたしも画面を見つめている。
「もう家だって。明日、話せる」
その文字を見るまで、わたしたちは広場を離れられない。
レリ・マハーシーヴァ エンディングテーマ「ここにある」
https://youtu.be/RXc36LRIwuI




