第5話 秘密といつもの放課後
レリ・マハーシーヴァ オープニングテーマ「まなざしのマントラ」
https://youtu.be/6FmwM8nEabA
「りん、あたしの上履きに何かついてる?」
月曜の朝、晴海第三中学校のいつもの昇降口で、葵が片足を持ち上げる。
自分の靴を持ったまま、わたしは葵の足元を見て固まる。
「えっと……ひも、ほどけてないかなって」
「上履きに、ひもはついてないけど」
葵は足を下ろし、わたしの顔をのぞく。
隣でことりが笑いをこらえて肩を揺らす。
……しまった。
言い訳にも、もう少し選び方があるよね。
足元にはちゃんと3人ぶんの影がある。
「大丈夫だよ、もう寒くないから」
葵がわたしの手に自分の手を重ねてくれると、指先から熱が伝わってきて、ようやく力が抜ける。
「ごめん……つい、気になっちゃって」
「あたしも、自分で見ちゃうんだけどね」
葵はクジラのついたバッグを抱え直しながら、わたしたちへ顔を寄せて声を落とす。
青い尾の欠けが指の間からのぞく。
もう本物だとわかっていても、触るんだね。
「お母さんなんて、お風呂に3回も呼びに来たし」
「それ、心配してたからだよ」
「うん、わかるけど……洗ってる途中だよ?」
ことりが持っていた傘を靴箱へ寄せ、わたしたちは、通りかかった1年生に道を空ける。
朝の廊下にあふれるいつもの声を聞いていると、土曜日のことが、別の町の出来事に思える。
でも、葵の手はまだわたしの手に乗ってるんだよね。
「もう、ああいう店には入らない。でも、らんぷ亭まで禁止は困る」
葵はそう言って、重ねていた手をそっと離す。
「そこは、わたしも困る……」
3人で目を合わせると笑いがこぼれる。
牛丼のお店に、助けられる朝もあるんだね。
教室で窓を開けている舞人くんが、わたしと目が合うと、片手を上げる。
返そうとした手が途中で迷子になり、会釈に変えたら、首だけ変に深く下がる。
「おはよう、間宮」
「お、おはよう……」
葵がわたしの背中を指先で軽く押す。
にやにやしているのは、見なくてもわかる。
「週末から、急に仲よくない?」
「クジラを探すの、手伝ってもらったから」
「そうだよね。そこはお礼を言わないとね」
舞人くんの机へまっすぐに進む葵についていき、わたしは2人の少し後ろで、机の角を見つめる。
助けた方法だけはどうしても言えない。
「弥勒、土曜日ありがとう」
「いや、見つかってよかったな」
「うん、ほんとに……今度、何かおごるよ」
舞人くんがわたしを見て、すぐ目を戻す。
その短い間に何を考えたのかな?
わたしと同じなら安心するけど。
「じゃ、購買でパンが最後の1個になったら、それ譲って」
「それ、種類によっては戦争になるよ?」
葵の返事に、近くの男子まで笑い出す。
舞人くんも笑いながら、椅子を引いて座る。
わたしも自分の席で理科と数学の教科書を出してから、書きかけのノートを置く。
ここに並べるものは先週と変わらない。
「みんな、席についてね」
逸見先生が机に出席簿を置くと、教室の前へ集まっていた子たちが、それぞれの席へ散っていく。
先生は窓側を見てから、今日の連絡を始める。
「週末に体調を崩した人は、無理をしないこと」
わたしが目だけを動かして見た先で、葵は背筋を伸ばし、黒板を見つめている。
「元気になったと思っても、しんどくなったら言ってね」
先生の声に葵がうなずき、名指しされなかったことに、わたしまでほっとする。
次は提出物と、配られるプリントの話だ。
後ろから回ってきた紙を1枚抜き取ると、その端はまっすぐで、番号札じゃない。
それでも指先が止まる。
「間宮、1枚足りない?」
後ろの子の指が、止まったプリントの端をつまむ。
「ううん……ごめん、今、回すね」
右手から左手へ紙を持ち替える。
ただのプリントなのに、困ったものだよね。
机の隅で舞人くんが鉛筆を転がしている。
窓から来た風でプリントの角が浮くと、舞人くんは、何でもない顔でそれを指で押さえる。
すごい力があっても、プリントは手で押さえるんだね。
ちょっとだけ、肩の力が抜けてくる。
*
「これは……お茶じゃなくて、噴火だね」
放課後は茶道部の部屋に3人で膝を寄せ、ことりがポスターの端を指さしている。
描きかけの絵を広げると、葵が紙を90度回す。
「噴火にしては、下から足が出てる」
「だから、足じゃなくて、湯気……」
「お茶碗に、走って逃げる気配があるよ」
わたしは消しゴムを両手で包み込む。
自分の絵に、勝手な意思を持たせないで!
土曜日には紙の端をあんなに細かく描けたのに、今の線は、いつものわたしの線だ。
60秒のために3時間も使えなくなるあの力を、ポスターに使うつもりはない。
それ以前に、2人にどう説明すればいいのかな?
「りんは、こっちの文字を書いてくれる?」
ことりが新しい紙を横へ置いてくれる。
丁寧に書く文字ならまだ何とかなるから、丸を描くより、漢字のほうが安心だよね。
「じゃあ、湯気はわたしが直すから」
「足を取るだけで、救われると思う」
葵が消しゴムをつまんで余分な線を消していくと、絵の真ん中に、白い消し跡が残っていく。
3人で使う机に消しゴムのかすが散らばる。
わたしは隅に寄せてあったお盆を引き寄せ、休憩にしようと、お茶の用意を始める。
葵の分は、熱すぎないように少し待つ。
「りん、そんなに見なくても飲めるって」
「見てないよ……あ、両手のほうが」
「見てるじゃん」
わたしの手元で茶筅が止まる。
葵は笑いかけて、それから口を閉じる。
わたしも湯気の向こうで動けなくなって、笑っていい話なのか、まだ迷ってしまう。
「心配してくれるのは、うれしいよ。でも、あたしが笑ったら、普通に笑ってよね」
葵が、わたしのほうを向いている。
「……うん」
「怖かったのも、ほんとなんだけどさ」
返事を待つ間に、ことりは花を描いていたペンに、1本ずつカチッとふたをしていく。
「怖かったことは、なくならないもんね」
「そう。次に店の人に声かけられたら、たぶん逃げる」
差し出された手へお茶碗を渡すと、葵は両手で受け取ってから、口をつける。
わたしは見るのをやめて、自分の分を点てる。
「熱い」
「あっ、やっぱり見てたほうがよかった?」
「違う! あたしのせいだから!」
ことりにつられて笑うと、固まっていた肩のあたりが軽くなる。
葵がお菓子の袋を寄せて、3つに分ける。
ずっと気を張っていたら、お茶も冷めちゃうよね。
片づけまで終えるころには廊下も静かになり、わたしたちはポスターを棚にしまって帰る。
わたしの文字はほとんど完成して、お茶碗だけが足を伸ばしている。
結局、消しきれなかったんだよね……。
階段の下から舞人くんたちの声が聞こえてきて、陸上部の道具を倉庫へ運んでいるらしい。
松本くんがコーンを重ねて腕に抱える。
「おまえ、今日も先に上がるんだろ」
「うん、あとこれだけ片づける」
舞人くんが持つ箱には記録用の道具がぎっしり入っていて、松本くんが、そこへ手を伸ばす。
「それ置いとけよ。おれが持ってく」
「いや、箱くらい……」
「さっきから、右手ばっか振ってるじゃん」
舞人くんの指が箱の縁で止まる。
土曜日に何度も力を使った手を見て、わたしまで指を握る。
筋肉痛だとは言えるけど、その先が難しいよね。
「ちょっと、使いすぎた」
「部活で?」
「……そのあとも、少し」
松本くんが重なったコーンを床に置き、箱と一緒に持とうとして、足で位置を直す。
「間宮さん、悪いけど、こっち押さえてもらえる?」
「あ、うん……こっち?」
わたしは傾いたコーンの先に手を添える。
舞人くんが箱を持って松本くんと並び、結局2人で、倉庫の中へ入っていく。
わたしたちは外で、閉まる扉を押さえて待つ。
「無理すると、次の練習ができないぞ」
奥から聞こえる松本くんの声は明るくて、少し遅れて、舞人くんの返事が来る。
「わかってる。ありがとな」
校門まで来ると、葵が急に足を止める。
ことりがその肩越しに外を見る。
わたしは2人の間から、門の脇で揺れる銀色の髪を見つける。
「りん、宗教の子、また来てるよ」
門の外で片手を上げたシーヴァくんは、先週と同じ姿で、花壇の向こうに立っている。
長い髪が肩から落ち、服の帯を隠している。
今朝見たどの生徒とも、違う服装だよね。
「こんにちは」
ことりが会釈すると、先に挨拶が返ってくる。
葵はその場で腰に手を当てる。
「りんは入らないって言ってるじゃん」
「そうだね。まだ返事を待ってるところだよ」
「断られたのも、返事に入れてあげてよ」
葵はわたしの腕を引き寄せる。
わ、待って!
うれしいけど、今は心臓に悪いんだよね!
シーヴァくんが葵の顔をしばらく見ている間、わたしは息を止め、次の言葉を待つ。
「元気そうだね」
「うん、元気になったところ」
葵の返事にも、シーヴァくんは笑うだけだ。
知ってるのか、知らないふりなのかもわからないのに、ここで口を挟んでいいのかな?
「シーヴァくん、今日は……何か?」
「キミたちを見かけたから、声をかけたんだ」
わたしたちの後ろから来た舞人くんは、シーヴァくんを見ると、歩く速さが変わる。
でも葵たちの前では何もきかず、ただ、わたしの隣に足を止める。
「りん、帰りはこっちでいい?」
ことりが駅へ向かう道を指さす。
舞人くんと短く目を合わせると、昨日決めた待ち合わせが頭に浮かぶ。
「ごめん、今日は少し、寄るところが……」
「弥勒と?」
葵の声が一段高くなるのを聞いて、わたしは顔まで熱くなる。
寄るところがあれば、男子とでも寄るよ!
……声には、ぜんぜん出せないけど。
「頼まれてた用事、残ってるから」
舞人くんがバッグを肩にかけ直す。
葵は目を細め、ことりの腕をつつく。
「じゃあ、お邪魔しないで帰ろっか」
「違うから……そんな用事じゃなくて」
「うんうん。帰ったら連絡してね」
ことりは笑うだけで、助けてはくれない。
2人の背中が交差点の向こうへ遠ざかる。
信号が変わって振り向くと、シーヴァくんが顔を近づける。
「キミ、ずいぶん困っていたね」
「誰のせいだと思ってるの……」
思ったよりはっきり言えてしまう。
シーヴァくんは、楽しそうに目を細める。
*
3人で歩くと、会話が前へ進まない。
質問するたびに、違う道へ曲がるみたいだ。
舞人くんもさっきから眉を寄せている。
人通りの減った横道で、わたしは足を止める。
「シーヴァくん、普段はどこにいるの?」
「それは、いつの話?」
「今日とか、昨日とか……連絡できる場所」
歩道の端でシーヴァくんが振り返ると、風で持ち上がった銀色の髪が、服の上をゆっくり滑っていく。
「毎日、同じ場所にいるわけじゃないよ」
「じゃあ、電話は?」
舞人くんがスマホを出しかけ、手を止める。
シーヴァくんの服にはポケットが見当たらない。
でも、それだけで決めつけるのも違うよね。
「困ったときに、呼べるようにしたいんだけど」
「呼んだら来る相手がほしいの?」
そう言われると勝手なお願いに聞こえて、答えかけたわたしは、唇を閉じてしまう。
でも、最初に話しかけてきたのはそっちだよね?
「わからないことが、いっぱいあるから」
「うん。それは困るね」
シーヴァくんは今度も理由をきかず、もう舞人くんのバッグへ視線を移している。
バッグからはみ出した紙袋には、練習用の紙コップが入っている。
「大きな声が必要だとは、教えていないよ」
「まだ、何もしてないだろ」
「するつもりの顔をしていたからね」
舞人くんが口を開き、反論を飲み込む。
昨日の連絡に技名の飾り方まで書いていたから、わたしには、心当たりがある。
そこを練習する必要は、たぶんないよね。
「強くする練習より、まず、狙いを変えたほうがいい?」
舞人くんがきくと、シーヴァくんは首をかしげる。
「何に当てたいかによるんじゃないかな」
答えながら、歩道の端をひょいとまたぐ。
向こうの角から自転車のベルが聞こえてきて、わたしたちは壁へ寄って道を空ける。
自転車が通り過ぎると、銀色がもう遠ざかっている。
「待って……どこへ行くの?」
「またね、りん」
シーヴァくんは片手を振り、角を曲がる。
今なら追いつくかもしれないけど、引き止めたところで、何をきけばいいのかな?
同じ質問を3回した気がするんだけど……。
舞人くんがスマホをバッグへ戻す。
「電話番号、1桁も教えてくれなかったな」
「何もわかってないのに、話した感じはあるね」
答えをもらえた気になりそうで、そこが一番、困るところなんだよね。
わたしたちが向かった先週の空き地は道から奥まっていて、周りに人影はない。
反対側の柵も見てから、バッグを下ろす。
飛んだものが外へ出ないように、背の高い塀へ向けて、紙コップを置く。
「じゃあ、いくぞ……アヴァターラナ・ダンダー!」
「声、声が大きい……!」
紙コップはわたしの声より先に飛んで塀へ当たり、角をへこませて落ちてくる。
舞人くんは周囲を見て、口元を押さえる。
塀の外の足音に耳を澄ませてみると、このくらいは、普通の耳でも聞こえる。
「悪い。力が入った」
「詠唱にも、気合いを入れなくて大丈夫だよ」
「そうなんだけど、言いたくなるんだよな」
倒れた紙コップを拾った舞人くんが、今度は体を低くして、片手をそっと伸ばす。
ささやく声と一緒に横へ倒れたコップは、飛ばずに、地面を少しだけ転がっていく。
「今の、ちゃんと狙った?」
「足元だけに、当てたつもり」
わたしは紙コップを元の場所へ戻し、根元に小さな石を置いて、ずれた幅を見る。
舞人くんが手の角度をほんの少し変えてみると、次の1個は手前へ倒れてしまう。
思うようにはいかないんだね。
「力を弱くすれば、狙いもずれなくなるかな」
「それも、まだわかんない」
舞人くんが右手を振り、肩を回す。
わたしはコップを拾い、袋へ戻しかける。
そのとき道の向こうで犬が吠える。
舞人くんは手を下げて、1歩後ろへ離れる。
わたしが人の気配に気づいて、声をかけるよりもずっと早い。
「人が来る。今日はここまでにしよう」
「……もう少し、やりたかったんじゃない?」
「やりたいけど、犬には見せたくない」
「犬も、化け物って思うかな」
「いや、追いかけてきたら困る」
紙コップを追う犬と、その後ろを追いかける舞人くんが頭に浮かぶ。
想像するとかなり大変そうだよね。
ゴミが残らないように、2人で拾って歩く。
使ったコップは5個だけで、わたしのアンクは一度も使っていない。
これでも練習なんだね。
見て、拾って、置き直すだけでも、最初と最後の違いは見える。
帰り道、舞人くんが手のひらを開いたり閉じたりする。
「松本には、またきかれるかな」
「さっきの、部活のあとのこと?」
「うん、あいつ、変なとこで気づくから」
舞人くんは空き地のほうへ一度振り返る。
わたしはバッグの持ち手を両手で握る。
葵にきかれたら、わたしも言葉に詰まるよ……。
小さいときから、困ったら正直に話してと教わってきたのにね。
「明日は、ちゃんと部活に出る」
「うん……わたしも、お茶碗を完成させる」
「お茶碗?」
あ、そこまで伝わる話じゃなかったね。
舞人くんにつられて、わたしも笑う。
交差点で別れたあと、葵へ連絡を入れる。
『用事、終わったよ。今から帰るね』
すぐに送られてきたクジラの写真には、青いおなかに、葵の指がちょこんと写ってる。
『あたしも帰宅。明日はお茶碗に勝とうね』
わたしは『戦うの?』と打ち、消してから笑う。
戦う相手が、急にかわいくなったんだけど!
レリ・マハーシーヴァ エンディングテーマ「ここにある」
https://youtu.be/RXc36LRIwuI




