第3話 返したいのは偽物だけ
レリ・マハーシーヴァ オープニングテーマ「まなざしのマントラ」
https://youtu.be/6FmwM8nEabA
お返し処の看板は、同じ場所に出ている。
帰りが遅くなると家へ連絡した舞人くんが、通りの端でスマホをしまう。
わたしも家に送り、ことりには店の場所を送る。
「さっき言ってた裏って、こっちか?」
「うん、台車が出てきたほうに、道があると思う」
看板の横を過ぎ、建物に沿って角を曲がる。
足元には細い車輪がつけた泥の線が続いていて、赤っぽい土が、ところどころ乾いて固まっている。
建物の横には表の入口より広い鉄のドアが開いていて、そばには、箱を置く台もある。
その奥から男の人が怒る声が聞こえる。
「だから、これはおれのじゃないって言ってるだろ」
わたしは足を止めて舞人くんの袖を引き、箱の陰にしゃがんで、奥のカウンターをのぞく。
眼鏡の男の人が腕時計を握って立っている。
店の人は台帳に何か書き込んでいるところだ。
「お客様がお探しの品だと、おっしゃいましたので」
「似てるだけだ。裏に名前も入ってない」
腕時計の裏を向け、男の人がカウンターへ近づく。
店の人が口元を動かさずに細長い札を引くと、台帳の金具に留まった紙が浮き上がる。
「いたっ……何だ、何してる!」
男の人が体を曲げ、おなかのあたりを押さえる。
わたしは立ち上がりかけ、舞人くんに止められる。
店の人が札を戻すと男の人の肩も下がるけど、時計を握る手だけは、白いまま固まっている。
「まず、それをお離しください」
「返すって言ってるだろ。いらないよ、こんな物」
男の人が腕時計をカウンターへ投げ出すと、金属のベルトが折れ曲がって台をたたく。
男の人はおなかから手を離し、息をつく。
店の人が札を引き抜いて、今度は2つに破る。
紙を破る動きに合わせて足元の影が濃くなり、ぼんやりしていた靴の形まで、はっきり現れる。
わたしは舞人くんの袖を強くつまむ。
今の、舞人くんにも見えていたよね?
舞人くんもその影を見てから、わたしとうなずき合う。
「取り消しです。ほかに御用がなければ」
「ないよ。気味悪いな、この店」
男の人が去ると、店の人も表へついていく。
遠くで小さな鈴が鳴り、足音が離れる。
カウンターに残った赤い字の伝票は、店の人が記入していた、取り消しの控えみたいだ。
「間宮、行くなよ」
「……写真だけ、あの紙に書いてあるのを」
わたしは箱を離れ、スマホを低く構える。
カウンターの端までなら5歩くらいしかない。
表のほうで、次のお客さんへの声が聞こえる。
わたしは画面を合わせ、撮影ボタンを押す。
赤い『取消』と腕時計の文字が画面に入り、その横には、札の番号と時刻が書かれている。
もう戻ろうとしたところで、上から影が差す。
「お客様、こちらは出入りする場所ではありません」
見上げた先にこげ茶の前掛けがある。
どうして、こんなに早く戻ってこられるの?
わたしは後ずさり、カウンターの角に肘をぶつける。
舞人くんが箱の陰から出て、わたしの前へ立つ。
「悪い、入口を間違えた。もう出るから」
店の人の腕が横の鉄のドアを押し、大きな音と一緒に、外の道が隠れる。
入口の向こうで、まだ別のお客さんが話している。
ここから大声を出したら、聞こえるかな?
「すみません、ちょっと……!」
わたしが声を出すと、床に置いてあるはずの棚が、傾くこともなく間へ滑ってくる。
通路がふさがり、店の奥と切り離される。
棚の裏に打ちつけられた分厚い板の向こうで、声が急にこもって小さくなる。
「お返しする物は、ありますか」
店の人の口が耳の近くまで裂けて、歯の間から、赤い舌が細く垂れてくる。
わたしは声を出せず、後ろへよろける。
白い手袋が破れ、黒い爪が床を引っかく。
人じゃないものって、こういう意味だったの?
「こっち!」
舞人くんがわたしを引き、棚の横へ走る。
すぐ後ろで空の箱が割れる音がする。
逃げ込んだ先は壁に挟まれた細い場所で、正面にも棚があり、出口が見つからない。
舞人くんは手を上げてから、板の向こうを見る。
人のいる側へはまだ向けられないんだ。
息を整えようとして背をつけた壁は、冷たいはずなのに、少しだけ柔らかい。
でも、暗くて、どこが違うのか見えない。
「……アンク、使う」
舞人くんが振り向き、腕時計をこちらへかざす。
その表示は17時10分になっている。
わたしは聞こえるぎりぎりの声で唱える。
「アンク」
足元の砂が1粒ずつ目に飛び込んでくる。
遠くの鈴と目の前の息が重なって聞こえる。
口の中にかんでしまった頬の味が広がる。
汗で湿った制服の糸が、肌に何本も触れている。
全部がいっぺんに来て、頭がくらくらする。
見たいのは、砂じゃないよ!
わたしは壁へ顔を向け、息をゆっくり吐く。
灰色の絵の具の下に細い糸が並んでいて、壁の色に塗った、厚い布だとわかる。
下から来る甘く焦げたしょうゆの匂いは、角の屋台で焼いていた団子の匂いだ。
外は、ここから近い!
「舞人くん、壁、これ布になってる!」
「どこまでだ、棚の向こうもか?」
指でなぞって硬い柱までたどると、左は柱、右は棚で、その間が布になっている。
外の話し声も、ここから細く入り込んでくる。
舞人くんが足元の棚の車輪を見つける。
「間宮、そこ、しゃがんで」
わたしは体を小さくして、カバンを頭にかぶる。
舞人くんが棚へ手を向け、低い声を落とす。
「アヴァターラナ・ダンダー」
脚を押された棚が布へ向かって大きく滑り、留めていた金具が外れて、灰色の布が裂ける。
差し込んだ外の明かりに、わたしは目を細める。
舞人くんに肩を押され、外へ転がるように出る。
後ろから長い爪が布の端をつかむ。
わたしは起き上がり、建物の角へ走る。
足の速さはさっきまでとぜんぜん変わらないのに、見える物だけ増えすぎてるみたいだ。
「あと10秒! 角まで行けるか!」
「い、行く、行くから!」
舞人くんが歩幅を緩め、わたしの横を走る。
大きな道へ出ると、人が振り向いてくる。
1人の買い物袋を避け、わたしは止まる。
細かな音が急に遠くへ引っ込んでいき、目の前のアスファルトも、普通のざらざらに戻る。
両膝に手をついて、わたしは何度も息を吸う。
舞人くんも壁に手をつき、肩を上下させる。
「今ので、1分……もう切れたよな」
「うん、切れた……と思う」
痛い膝と苦しい息だけはそのままだ。
よくわかるようになっても、楽にはならないんだね……。
角の向こうから、あの店の人は追ってこない。
屋台のおじさんがわたしたちへ声をかける。
「大丈夫か、そんなに走って」
「すみません、もう、大丈夫です」
舞人くんが答え、わたしも頭を下げる。
おじさんの横で串に刺した団子が焼けている。
わたしはその匂いを吸い、ようやく立ち直る。
*
歩道のベンチで、スマホの写真を開く。
震える手で撮ったわりには、字が読める。
舞人くんが隣に座り、周りに人がいないか見る。
「札を破ったら、あの人の影が戻ったよな」
「その前に、時計を離してた」
わたしは写真を大きくして、赤い文字を追う。
返された品の欄には『腕時計』とあり、受領を取り消す欄にも、小さな丸がついている。
番号は42ではないから、葵の控えとは違う人の記録なんだね。
「先に札を引っ張ったとき、痛そうだった」
「じゃあ、破くだけじゃダメかもな」
舞人くんの言葉で、わたしの指も画面の上で止まる。
シーヴァくんがいれば、きけるのに。
わたしたちはさっきの空き場所にも戻ってみる。
木箱の上にも通路の角にも姿はなくて、落ちた枝だけが、壁のそばへ寄せてある。
「連絡先、きいてないのか?」
「……神さまの話、断ってたから」
あのとき、スマホを持っているかさえ見なかった。
舞人くんが自分のスマホをわたしへ出す。
「おれとは交換しとこう。明日も、1人で行くなよ」
わたしはスマホを持ち直し、差し出された画面へ近づける。
初めて登録する名前なのに、なんだか心強い。
ことりから来た知らせでは、葵は受診を終えて家で休むけれど、手の冷たさは残っているらしい。
わたしは明日見舞いに行きたいと返す。
舞人くんには撮った伝票の写真を送り、そのあとで、2人のトークへ短く書き足す。
『クジラを、もう一度ちゃんと見てくる』
神さまになる返事より、先にすることがある。
*
「りん、その顔だと、あたしより寝てないでしょ」
土曜の昼過ぎ、葵が布団の中から言ってくる。
朝は休んでもらって、やっと部屋に入れたところだ。
枕元には水のコップと診察の紙があり、ことりは椅子に座って、わたしは床に正座する。
葵のお母さんが、開けたドアから顔を出す。
「つらくなったら、すぐに呼んでね」
葵は手を上げ、そのまま布団の上へ落とす。
「熱はないのに、指だけこんなに冷たいんだよ」
わたしは枕のすぐ横に置いてある青いクジラを見てから、葵に目を戻す。
「クジラ、ちょっと見せてもらっていい?」
「うん、もう落とすところもないしね」
葵の冗談に笑えないまま手を伸ばすと、触れた指に、氷みたいな冷たさが伝わる。
尾びれの端は、やっぱり丸くつながっている。
「去年、ここ、ちょっとだけ割れちゃったよね」
「水族館の、帰りのベンチで?」
ことりがきいて、葵は布団から体を起こす。
クジラを裏返して平らな腹を見ると、文字を書いたはずのところが、つるんとしている。
「……書いた文字も、ない」
葵の声が、さっきより小さくなる。
あの日の帰り、3人でお土産を見せ合ったときに、葵のクジラへわたしが細いペンで書いたんだ。
また3人で、と、場所いっぱいに小さく。
「裏側の写真は、印刷していないのにね」
「店の人が、きれいにしたのかな」
葵はクジラを受け取り、親指で腹をこする。
ことりは昨日の写真を出して元の画像へ戻し、クジラの表と画面を隣に並べる。
「この黒いの、前にはついてなかったよね」
腹の端にある小さな三日月の模様は、印刷したときについた、あの汚れと同じ形だ。
葵がスマホを寄せ、画面を大きくして見る。
元の写真のクジラには黒い模様がない。
「これって、印刷した写真の……」
「うん、あの紙だけに出た汚れと、同じみたい」
ことりが掲示板の写真に切り替え、3人でのぞく。
形も場所も、ぴったり重なりそうなくらい似ている。
「尾びれも、裏の文字も……写真にないところが違ってる」
わたしたちの知らない模様だけ、増えているんだ。
「拾ってくれたんじゃ、ないんだね」
わたしが言うと、葵の指が止まる。
「じゃあ、あの貼り紙を見て作ったってこと?」
だから写真にないところは作れなかったんだ。
わたしはクジラを置くための封筒を開く。
「葵、これ、いったん離してみない?」
「でも……2人からもらったの、なくしたんだよ」
葵がクジラの体を両手で包み直す。
自分で悪い物をつかんでるってわかっていても、その手をほどくのは、簡単じゃないんだね。
ことりがスマホを置き、葵と同じ高さに座る。
「なくしたからって、怒ったりしないよ」
「わたしも、怒ってない……金具、曲がってたし」
自分のカバンの金具を触ると、ここが開いたら、わたしだって知らない間になくすと思う。
葵だけが特別に気をつけなかったわけじゃない。
「本物は、また探せるから、3人で」
葵はわたしを見て、それからことりを見て、しばらくすると指が1本ずつクジラから離れる。
「……これは、あたしのクジラじゃない」
差し出した封筒へ、青い体が落ちてくる。
葵は手を引っ込め、自分の指をこすり合わせる。
わたしが封を折って葵の手に触れてみると、冷たさがさっきより少しだけ弱い。
「あれ……ここ、動かしやすくなった」
葵が指を曲げ、何度も手のひらを開く。
でも、手首から先はまだ冷たいままだ。
昨日のお客さんも途中まではこうだったけど、最後に札を破くまでは、全部戻らなかったんだ。
「わたし、それを店に返したい」
葵は封筒を見てゆっくりうなずき、スマホのケースを外して、小さな紙片も出してくれる。
手でちぎった端が丸まっている。
「受け取りのやつ、いるよね」
「うん、預かるね……必ず、返してくる」
わたしは控えを別の袋に入れ、封筒としまう。
「これ、葵のキーホルダーとは違う物みたいなんです。今は、指もさっきより動くようになってます」
ドアから来たお母さんに、わたしはスマホの写真を見せながら説明する。
お母さんは写真を見て、顔をしかめる。
「変なお店ね。何か言われたら、すぐ連絡してね」
「同じクラスの弥勒くんと行きます。1人では行かないから」
怖かったことはまだ全部言えていない。
シーヴァくんが言っていた日暮れまで、あと数時間しかない。
レリ・マハーシーヴァ エンディングテーマ「ここにある」
https://youtu.be/RXc36LRIwuI




