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レリ・マハーシーヴァ  作者: JING
青いクジラと第0レーン
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15/19

第15話 約束を破ったのは誰

レリ・マハーシーヴァ オープニングテーマ「まなざしのマントラ」

https://youtu.be/6FmwM8nEabA

「そこ、どけ!」


 給水台の反対側から矢崎さんが駆けてきて、タオルを巻いた手を怪物の腕へ伸ばす。


 届く前に怪物が肘を上げて払いのけ、タオルだけが床へ落ちる。


「おい、夜叉! 話が違うだろう!」


 矢崎さんは声を張って顔を近づける。


 夜叉、と呼ばれた怪物は首を曲げ、その声を聞こうと大きな耳を動かす。


「その話なら、昨日から聞き飽きたぞ」


「待てって言っただろ! もう、捜されてるんだよ!」


 矢崎さんがスマホの画面を向けるけど、ここからでは内容まで見えない。


 夜叉は画面を見ずに松本くんの走るほうを見て、唇を動かすたび、黄色い歯の間がのぞく。


「だから、昨日は待った」


 その言葉に、わたしの手が固まる。


 昨日から待つように頼んでいたのは、矢崎さんなんだ。


 2人がここにいることを、知らなかったんじゃない。


 松本くんのお母さんへの返事も、森田くんの家への説明も、嘘だったんだ。


「何を……待たせたんですか」


 わたしは森田くんを支えたまま、矢崎さんを見る。


 声が震えるのを、うまく止められない。


 矢崎さんは返事をせずに夜叉へ向き直る。


「今、騒ぎにしたら、ここへ人が来るだろうが!」


「もう来ている」


 夜叉が長い指でわたしたちを指す。


 舞人くんが1歩ずれて指の前に立つ間に、わたしは森田くんの足を台の下へ寄せる。


 指を伸ばされた、それだけでも触らせたくない。


「この子たちを、帰してください」


 わたしの声で矢崎さんがこっちを見るけど、目が合っても次の言葉は出てこない。


 怖くても顔をそらしたくない。


「帰すんだよ。最初から、そうするつもりだった」


「それなら……どうして、閉じ込めたんですか」


 わたしがバッグの上にある袋へ触れても、紙コップは、柔らかい音を立てるだけだ。


 松本くんの字を、ここでもう一度思い出す。


 嘘つき。


 帰れる人は、助けてって書かないよ。


「そいつらが、勝手に騒ぐからだ」


「紙コップを外へ出さないと、呼べなかったんですよね」


 途中で口を止めた矢崎さんが、袋の中を見ようとして顔を伸ばす。


 取り上げられたら困るから、わたしはコップを、体の後ろへ下げる。


「写真は、もう先生たちへ送ってます」


 舞人くんがわたしの代わりに言ってくれる。


 矢崎さんは落ちたタオルも拾わず立っていて、耳の下に、細い汗の筋が見える。


 走ってきたからだけじゃない気がする。


「おまえら、余計なことを……」


「余計じゃない。松本が帰ってないんです」


 舞人くんの言葉の後ろを、松本くんが走ってくる。


 1人になった腕は体の横で大きく揺れ、目だけをこっちへ向けて、足は動かしたままだ。


「森田……森田は?」


「ここにいる! 息もしてる!」


 わたしが答えると松本くんの肩が下がるけど、夜叉を見てまた走っていく。


 汗で前髪が額に張り付いた顔を見られたのは、ほんの一瞬だけだ。


 帰ってきて。


 舞人くんの手がその背中へ伸びかけたところへ、夜叉の指が、横から振られる。


 舞人くんが台の手前へ下がる間に、わたしは森田くんを抱えて壁へ寄る。


「借りた足で、追えばいいだろう」


 夜叉はもう片方の手で自分の指を撫でながら、矢崎さんへ顔を向ける。


 わたしは聞き違えないようにその口を見る。


 借りた足って、どういうこと?


「そのために、おまえは連れてきたんだ」


「……最初は、少し疲れるだけだって言っただろ」


 矢崎さんは絞るような声で言う。


 舞人くんの目がゆっくりと矢崎さんへ向き、走りを教えていた人の足を見る。


「松本たちを連れてくる代わりに、走れるように?」


 舞人くんがきいても矢崎さんは答えず、握ったスマホを、胸の前へ引き寄せる。


 夜叉だけが面白そうに口を広げる。


「よく走ったぞ、その男は」


「黙れ!」


 矢崎さんの怒鳴り声が天井へ響き、わたしの肩の下で、森田くんの指が動く。


 握り返したのか、ただ動いただけなのか、今はまだはっきりしない。


「店で、昔の記事を見ました。脚を傷めたって、店長さんから聞きました……松本は、矢崎さんの紹介記事も読んでたんです」


 舞人くんは矢崎さんから目をそらさず言う。


「だから、何だ」


「あいつ、自分の記録も伸ばしてもらえるって、信じてたんです」


 舞人くんの声が最後でかすれる。


 わたしも、走った時間を何度も書き直してある松本くんのノートを思い出す。


 あの数字の隣に、こんな取引があったんだ。


 矢崎さんのつま先が白線をなぞるようにずれて、かかとが浮く。


「おまえには、わからない」


「わかんないですよ。ほかのやつを、走れなくするなんて」


 舞人くんの言葉に、矢崎さんの頬が引きつる。


 その向こうで夜叉が腕を大きく回すと、指先が、給水台の端に触れる。


 軽い紙コップがまとめて床へ転がる。


「もう話は、終わりでいいな」


 夜叉が台をわたしたちへ押し近づけると、脚が床をこすって嫌な音を立てる。


 森田くんを膝へ引き寄せるけど、壁との隙間が狭くなって肩が苦しい。


「やめろ!」


 舞人くんが横からテーブルの角を引くと、夜叉の押す向きからずれて、台が斜めになる。


 片方の脚が持ち上がり、コップがまた落ちる。


 わたしたちの正面に、通れる幅が戻ってくる。


「間宮、少しだけ右へ!」


 わたしは森田くんの脇を支えたまま、床の上を右へずれる。


 足を引き込むと、すぐ隣へ台の脚が来る。


 もう少し遅かったら、挟まれていたかも。


 わたしは呼吸を整えるより先に、森田くんを見る。


 目はうっすら開いている。


「どこか、痛い?」


 森田くんの唇が動いてかすれた声が漏れるけど、聞き取れなくて、わたしは耳を近づける。


「……あし」


 聞こえた。


「足だね。無理に動かさなくていいよ」


 両方の膝と靴の位置を見直すけど、何が悪いかまではわからない。


 無理に立たせることだけは、やめておく。


 台の向こうでは舞人くんが靴音を立て、夜叉の腕を避けて、右へ左へ動いている。


 伸びる指は台の脚や壁に当たる。


 近すぎる。


 わたしたちを狙うたび、舞人くんが間へ入る。


 上着の袖をつかまれかけて、舞人くんが体をひねる。


 給水台の角へぶつかる寸前で、足を踏み直す。


 舞人くんの足元を松本くんがまた通り、夜叉と向き合う姿を、横目で見ている。


 舞人くんは拳を握りかけて、すぐに開く。


 ここで撃ったら、松本くんにも見えてしまう。


 それに松本くんは夜叉の腕のすぐ向こうを通るから、勢いで押し返すだけじゃ、巻き込んでしまう。


「もう、おれは知らんぞ」


 矢崎さんが給水台から離れていく。


 舞人くんが呼び止めるより先に足が動き、広告の端まで、一気に距離が開く。


 速い。


 わたしが目で追うより、角へ届くほうが早い。


 緑の広告の横に細い暗がりが見え、矢崎さんはそこへ体を滑り込ませる。


 その先でする金属の音は、赤い取っ手の、横へ引く扉が動く音だ。


 見えなくなった通路を、知っているんだね。


「そっち、どこから入るんですか!」


 わたしが叫んでも返事はなく、足音だけが壁の向こう側へ移っていく。


 見通せない設備の壁が、間にあるはずだ。


 矢崎さんの姿はもうどこにも見えない。


「そいつの逃げ道を、教えてやるつもりはない」


 夜叉が矢崎さんの消えたほうへ顔を向けるけど、長い指はまだ、台の端にかかっている。


 わたしはその指と広告の間を見比べる。


 入ってきた道はどこかに残っていて、なくなったんじゃなくて、見つけられないだけだ。


 壁の向こうで大きな物が倒れる重い音がして、床まで少し揺れる。


 わたしは森田くんの頭を肩に寄せる。


 何が倒れたのかは、ここから見えない。


 舞人くんも、通路のほうへ顔を向ける。


 その隙に、夜叉の指が台の上を滑る。


「舞人くん、手が!」


 わたしの声で、舞人くんが体を低くする。


 指が髪の上をかすめ、空をつかむ。


 逃げ道を少しずつ削られている。


 ポケットでスマホが短く震え、画面にことりからの着信が表示される。


 森田くんの肩を左腕で支え、右手で取る。


「ことり、松本くんと、森田くんがいた!」


『りん、今どこ? 外に着いたよ!』


 いつもより大きい声の後ろで、ガタガタと何かを動かそうとする金属音が響く。


「走路の、給水台の後ろ……壁のすぐ前」


『脇のドア、内側に棚が倒れてるの。少し隙間はあるけど、押しても動かない』


 わたしはさっきの重い音を思い出す。


 開けたままにしてきた脇戸が使えなくなって、戻る道まで、ふさがれちゃったんだ。


「大きい扉のほうは?」


『そっちを開けてもらうから、近くまで来られる?』


 わたしは見えない入口のほうへ目を向ける。


 すぐそこにあるはずの道が、広告に隠れてる。


 夜叉の腕も、まだわたしたちを探している。


「今、動けない子がいるの……もう少し待って」


『わかった、先生に言う。2人とも、ケガは?』


「息はしてるけど、森田くん、立てないの」


 わたしは言ってから、細い息を何度も漏らす森田くんの顔を見る。


 さっきの小さな返事が、もう一度ほしい。


「ことり……さっきの換気口、行ける?」


『うん、先生から見えるところにある』


「そこにいて。たたいてほしくなったら、連絡するね」


 短くお礼を言って通話を終えると、画面の時計は18時5分になっている。


 入り込んでから、まだ5分しかたってないの?


 すごく長くいたような気がするけど、その5分を、松本くんはずっと走ってる。


 わたしたちが来る前の時間も、わからない。


「外へ、連絡ついた! 大きい扉を開けてもらってるけど、脇戸の前には棚が倒れてるって」


 わたしは舞人くんへ、必要なことだけ伝える。


 舞人くんは聞きながら床の紙コップを蹴りよける。


 滑ったら、次の腕を避けられなくなるからだ。


「じゃあ、そっちへ戻す道を作ろう」


「うん……ここから出られれば、外に人がいる」


 わたしは森田くんにも同じことを伝える。


 聞こえているかまだはっきりしないけど、道の先に大人がいるって、知っていてほしい。


「先生も、来てくれてるよ」


 森田くんの目が少しこっちへ動くので、うれしくなってもう一度名前を呼ぶ。


 返ってくる言葉はなくても、目は閉じない。


 そうしている間に夜叉の姿が横へ動き、台の短い端を回って、わたしを見下ろしている。


 舞人くんも同じ側へ回ろうとするけど、その前を松本くんの体がよろけて通る。


 ぶつからないように避けて、1歩遅れる。


「間宮、下がれ!」


 下がる場所はもう壁しかない。


 わたしは森田くんの前へ、体を斜めに入れる。


 長い指が、頬のすぐ近くで止まる。


 冷たいにおい。


 息が、詰まる。


 夜叉の口が開いたまま止まり、わたしの顔をのぞく目が細くなる。


「そのアートマ……」


 さっきよりずっと小さくなった声が、わたしの耳にだけ、入り込んでくるみたいだ。


 台を押していた指から力が抜けると、代わりに、わたしの肩へ指先が伸びてくる。


 松本くんの足音がしても、目を向けようとしない。


 何を見つけたの?


 そうきかなくても、思い出す言葉がある。


 やめて。


 神の候補の魂を食べれば、不老不死になれる。


 シーヴァくんが、2人だけに教えた話だ。


 その言葉を口に出したら、戻れなくなりそう。


 わたしは森田くんを支える腕に、力を入れる。


 夜叉の指が上着の襟に触れる。


 布を引かれるより先に、舞人くんが台を押す。


 短い端が、夜叉の膝の横に当たる。


 夜叉は足を引いて指を離す。


「間宮、こっち見ろ!」


 舞人くんが差し出す手が、目の前へ入る。


 伸びた手をつかんで台の真ん中まで体をずらすと、森田くんの体も、わたしの膝と一緒に動く。


 息を吐くとのどの奥がひりひりして、怖くて、ずっと息を止めていたみたいだ。


「……ありがとう」


「まだ、お礼はあとだ」


 舞人くんはわたしの前へ両足を広げる。


 夜叉の目は、その肩越しにわたしを見ている。


 大きな耳が動くたびにベストの襟がこすれ、そんな細かい音まで、妙にはっきり聞こえる。


 能力なんか使ってなくても、怖い音は聞こえるんだね。


「その小さいのを、置いていけ」


 夜叉は森田くんのほうへ、短く指を向ける。


「おまえが、出てこい」


 わたしは餌じゃない。


 声にしたら泣きそうで、わたしは森田くんを抱く腕に力を込める。


 人を置いていけなんて、そんなの嫌だ。


「こいつに、触るな」


 舞人くんが、まっすぐ夜叉を見る。


 こいつがわたしだと一瞬遅れて気づき、名字で呼ばれるときより、舞人くんの声が近くに感じる。


 夜叉が腕を上げると、舞人くんは左へ動く。


 わたしから遠ざけようとしているんだ。


 でも、夜叉の顔はわたしから離れない。


 横から回り込む指に舞人くんが戻ってきて、同じ場所を、行ったり来たりさせられている。


「舞人くん、台車!」


 壁際の設備箱の横に、畳んだ台と、空の台車が並んでいる。


 わたしが指さしたその台車は、床の白線から外れた、給水台のすぐ近くにある。


 背の高い持ち手なら、腕との間に置ける。


 舞人くんは指さした先へ1歩で向かうと、持ち手をつかみ、台車を床へ引き出す。


 車輪が引っかかり、動きが止まる。


 そこへ夜叉の腕が、上から落ちてくる。


「横、横へ!」


 わたしの声に舞人くんが持ち手を引き直す。


 車輪がくるりと向きを変えて滑る。


 指は、台車のなくなった床を強くたたく。


 間に合った!


 舞人くんは台車を、わたしたちと夜叉の間へ運ぶ。


 松本くんの通る白線は、ぎりぎり空けてある。


 台車が止まって舞人くんがちらりと見た腕時計は、18時8分を少し過ぎている。


 給水台の陰は横からなら簡単に入られるし、ここでは、ずっと守り続けられない。


 わたしは壁の広告を見て、紙の図に触れる。


 あの角の向こうへ行けば、腕は横から届かない。


 入ってきた道を、もう一度見つけるんだ。


レリ・マハーシーヴァ エンディングテーマ「ここにある」

https://youtu.be/RXc36LRIwuI

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