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第2話 ダンジョンのぶどう

 一歩足を踏み入れるごとに、ダンジョンの様相は静かに、だが確実に狂い始めていた。


 先ほどまでかろうじて直立して歩けていたはずの天井が、突如としてウォルターの頭上すれすれまで低く垂れ下がっている。数ヶ月前にこの周辺の地層を調査した際には、間違いなくもっと高さと空間の広がりがあったはずだった。


 岩盤そのものが、目に見えない巨大な圧力で押し潰され、ねじ曲げられたかのような空間の歪み。これは自然の地殻変動によるものではない。極めて高密度な魔力が局地的に暴走し、物理法則そのものを一時的に書き換えてしまった明確な痕跡だった。


 さらに歩みを進めたウォルターは、足元を照らすランタンの光の端に、ある奇妙なものを捉えて足を止めた。


 周囲の岩肌とは明らかに異質な、有機的な紫色の丸い果実の連なり。


 ひとふさのぶどうが、泥にまみれた岩盤の上に転がっていた。


 ――こんな最下層に、ぶどうだと。


 ウォルターは警戒を解かぬまま、視線だけで対象を観察する。


 ここより上層の採掘場で働く魔導石工が、疲労回復のための果物を持ち込むこと自体は珍しいことではない。だが、それはあくまで実をもぎ取った状態での話だ。目の前に転がっているぶどうは、太く瑞々しいツルがついたままの完全な姿をしている。しかも異常なことに、そのツルはただ落ちているのではなく、生き物のように岩肌の亀裂へと深く潜り込み、奥に埋まっている何かと完全に癒着していた。


 ウォルターの脳裏に、今日ダンジョンへ潜る直前、組合長から煩わしそうに告げられた言葉が蘇る。


『ウォルター、もし奥で妙な痕跡を見つけたらすぐに知らせてくれ。実は今朝から、地上の警察が組合に押しかけてきていてな。なんでも、警察が追っていた魔導師が、このダンジョンへ逃げ込んだらしい』


 ダンジョン内は、絶対の技術と知識を持つ組合員しか立ち入ることが許されず、外部の者が入る際は必ず組合員の同行が必要だという厳格なルールがある。魔力を持ったままの魔導師が単身で潜り込めばどうなるかなど、火薬庫の中で松明を振り回すようなものだ。


 ――なるほど、予感は的中したらしい。


 ウォルターは、目の前のぶどうと空間の歪みを論理的に結びつけた。


 不法侵入した魔導師が、この空間に眠る巨大な魔導石と共鳴を引き起こしたのだ。結果として重篤な魔力暴走が発生し、侵入者の肉体は組成を書き換えられ、哀れな植物へと変異してしまった。いま彼の目の前に広がる光景は、その凄惨な事故の紛れもない証明だった。


 ここでウォルターが取るべき行動は一つしかない。直ちに踵を返し、地上へ戻って組合に報告することだ。


 変異を引き起こした魔導石の周辺は極めて不安定な状態にある。不用意に触れれば二次暴走を引き起こしかねない。報告を受けた組合は討伐隊を派遣し、周辺の安全を確保した上で、変異した元人間を処理する。それが、この業界の絶対の鉄則だった。


 ――ひとりじゃ手に負えない。引き返して応援を呼ぼう。


 ウォルターは一切の感情を交えることなくそう結論づけ、静かに背を向けた。その、第一歩を踏み出そうとした瞬間だった。


「待って!」


 冷え切った洞窟の静寂を切り裂くように、若い女の甲高い声が背後から響いた。


 ウォルターの足がわずかに止まる。やはり、完全に植物化しているわけではなく、意志と魔力が残留しているらしい。


 だが、ここで対応してはならない。ウォルターは過去の知識の引き出しから、ひとつの推論を導き出した。


 ――これは、獲物を罠に誘い込むタイプの魔物と同じだ。


 この世界には、人間の声帯を模写して助けを呼び、振り返った者を捕食する凶悪な魔物が存在する。あるいは、変異の過程で知性を歪められ、道連れを欲しているだけの危険な存在かもしれない。


 いずれにせよ、関わるだけ命の危険を伴う。ウォルターは絶対に振り返るまいと固く決意し、再び歩みを再開した。


「ちょっと! 無視しないでよ! こっちを振り向いてってば!」


 声はさらに切迫した色を帯びる。


「お願い……助けて欲しいの……!」


 哀れみを誘うような、懇願するような口調。人類の同情心を利用するタイプの魔物によくある手口だ。この手の擬態型は、自身の移動能力が極端に低いため、獲物が射程圏内に入ってくるのを待つしかない。つまり、立ち止まらずに一定の距離まで離れてしまえば完全に無害となる。ウォルターは歩幅を広げ、徹底的な黙殺を決め込んだ。


「……あーもう! 絶対に無視して帰るつもりね!? あんた血も涙もないわけ!? それならこっちにも手があるんだから!」


 怒気を孕んだ叫び声が響いた直後、絶対の暗黒であったはずの空間が、目を焼くような紫色の閃光に包まれた。


 ウォルターは不意の眩しさに目を細め、身の危険を感じて立ち止まらざるを得なかった。ランタンの灯りなど意味をなさないほどのまばゆい光の粒子が、彼の目の前の空間に渦を巻き、やがてひとりの人間の輪郭を形成していく。


 そこに現れたのは、若い女の姿をした精巧な立体映像だった。


 紫色の大きな三角帽子に、同じく鮮やかな紫のローブを羽織っている。ローブの大きく開いた前身頃からは、純白のレースがあしらわれたミニスカートと、滑らかな太ももが惜しげもなく露わになっていた。長く美しい銀色の髪が、重力のない空間を漂うように揺らいでいる。卵形の輪郭を持った顔立ちは、芸術品のように端正だった。


 暗く汚れたダンジョンには決定的に不釣り合いな、華やかで自己主張の激しい出で立ち。


「私はイブリン。魔導師よ」


 空中に浮かぶ銀髪の女――イブリンは、細い腕を組んでウォルターを見下ろすように言った。


「見ての通り、ダンジョンに囚われてしまって非常に困っているの。ずっと誰かが通りかかるのを待っていて……もうこれ以上は私の身体が持たないわ。お願い、私を掘り出して。それと、せめて水が欲しいの」


 ウォルターは表情一つ変えず、ただ目の前の異常な光景を冷徹に分析した。


「……いったい、どういう原理だ」


「振り返って本体を見てもらえばわかるわよ」


 イブリンが顎で背後を指し示す。ウォルターが油断なく振り返ると、岩肌の亀裂の奥が照らし出された。


 そこには、プリズムのように鮮やかな虹色に輝く、極めて純度の高い魔導石が埋まっていた。ウォルターがこれまでの石工人生で見てきた中でも最上級と言える、完璧な結晶だ。


 そしてその見事な魔導石に、先ほどのぶどうのツルが深く根を下ろすように癒着していた。どうやら、壁の中の魔導石から直接魔力を吸い上げ、彼女自身の姿をホログラムのように投影しているらしい。


「ここ最近、組合で魔導師の正規入場が許可されたという話は聞いていない」


 ウォルターの低い声に、イブリンは露骨に愛想笑いを浮かべた。


「細かいことは気にしないで。ちょっとばかり手違いがあっただけよ」


「警察に追われて逃げ込んだ不法侵入者。それが君だろう。そして魔導暴走を引き起こし、ぶどうに変えられた」


「……」


 図星を突かれたのか、イブリンのホログラムが一瞬だけ気まずそうに目を逸らした。


「規定通り、組合に報告する」


「お願い! それだけは絶対に止めて! 殺されちゃう!」


 イブリンは両手を合わせて必死に懇願した。


「そうとも限らないだろう」


「魔物に変異した人間は、例外なく殺処分されてるっていう話じゃないの!」


「それは変異した元人間が理性を失い、手当たり次第に人を襲うからだ。君のように理性を保ち、安全だと証明できれば大丈夫だろう」


「その証明の機会が確実に与えられる保証は、どこにあるのよ!?」


「さあ。そこまでは知らない。討伐隊の判断次第だ」


「ほら! そんな命を懸けたリスクのあることはできないわ! というか、話は後回し! まずは急いでお水をちょうだい! 早くしないと私、しなびちゃう! 枯れて死んじゃう!」


 そこは本物のぶどうと同じ生態らしい。ウォルターは小さく息を吐くと、腰に下げていた水筒の蓋を開けた。そして、ホログラムの彼女には目もくれず、岩肌に転がる本体のぶどうの房に向けて、無表情のまま直接冷たい水を浴びせかけた。


「……はぁ……生き返るぅ……」


 ぶどうが水を吸った途端、空中のイブリンのホログラムが、まるで極上の美酒でも味わったかのように深く息をつき、その光の輪郭を強くした。


「で。水はやった。ぼくにこれ以上どうしろというんだ」


「あなた、その服装からして魔導石工でしょう? 見ての通り、私は壁の中の魔導石と完全に癒着して、ぶどうになってしまったの! とりあえず、私がくっついているその魔導石ごと、岩から掘り出して欲しいのよ!」


「そのあとは?」


「地上に連れてって、安全な場所に隠してちょうだい」


「……隠したあとは?」


「ええっと……人間に戻る方法を一緒に探してほしい、かな……?」


「却下だ。結局、組合に引き渡すのが最も合理的だ」


「だからそれだけはやめてって言ってるでしょ!」


 イブリンの映像がウォルターの目の前まで迫り、食ってかかる。


「そうだ! あなたが私を引き取って、秘密裏に養ってくれれば良いのよ! こう見えても私は、中央の魔法学院で百年の一人の天才と言われた超優秀な魔導師なんだから! 一緒にいれば絶対にあなたの役に立つわ!」


「魔導具はおろか、魔力すら厳禁のダンジョンで働くぼくの、一体何に魔導師の君が役立つというんだ」


「き……きっと、仕事では役に立たなくても、普段の生活には役立つわよ! 掃除とか、料理とか……! 色々と……!」


 ウォルターの視線が、再び岩肌のぶどうへと向かう。手足もないひとふさのぶどうが、果たしてどうやって箒を握り、包丁を扱うというのか。天才と自称する割には、提案があまりにも杜撰で短絡的だった。


 だが、ウォルターは実直な男だ。実直であるがゆえに、彼の頭の中では、組合の厳格な規則と目の前の状況が極めて冷静に照らし合わされていた。


 ――組合の規則第4条。理性を失い、人に危害を加える変異体は魔物と認定し、直ちに殺処分すること。


 目の前の女はやかましいが、明確な理性を持っており、危害を加える様子もない。つまり厳密な定義において彼女は『魔物』ではない。よって、討伐隊を呼んで殺処分に処すのは、規則の誤用となる。


 ――さらに組合の規則第12条。採掘した魔導石は、組合が適正価格で全量買取を行うこと。


 ウォルターは岩肌の奥の、虹色に輝く純度の高い魔導石を見つめた。これほどの品なら、組合に持ち込めば四十万ギニー、いや五十万ギニーにはなるだろう。


 だが、この石には人間の女が癒着している。人間がくっついた魔導石を組合に買い取らせることは、国法における『人身売買』に該当する重大な犯罪行為だ。実直な石工として、そのような違法取引に加担するわけにはいかない。


 つまり、彼女は魔物ではないため討伐の対象外であり、人間が癒着している以上、魔導石として組合に納品することも不可能。


 ――結論。彼女は魔物でも鉱物でもなく、ただの『遭難した要救助者』である。ならば、発見者である自分が一時的に保護し、引き取るのは規則違反でもなんでもなく、当然の義務である。


 それは詭弁かもしれない。


 だが、過去に崩落事故で同業者を命がけで救い出したウォルターにとって、たとえ相手が不法侵入者であろうと、理性を保った人間が討伐隊に処理されるのを黙って見過ごすことは、規則を破ること以上に自身の倫理観に反していたのだ。


 それに、あの見事な虹色の魔導石が、討伐隊に処理されたらどうなるだろうか。ここまでぶどうのつると融合してしまった石を綺麗な状態ではぎ取れるのか疑問だ。どうせつるは切断し、石は細かく粉砕するだろう。これほど美しい石が無惨に破壊されるのは石工としては忍びなかった。


 ウォルターは、決して本音を悟られまいと、ことさら大きなため息を一つ演じてみせた。


「……わかった。引き取ることにするよ」


「やった! 助かったぁ……! 本当にありがとう! 信じてたわ!」


 空中のイブリンが両手を突き上げて歓喜の声を上げる。


「ところで、あなたの名前は?」


「ぼくはウォルターだ」


「ウォルターね! 命の恩人! これからよろしくね!」


 満面の笑みを浮かべるホログラムの女を冷めた目で見つめながら、果たしてこのやかましいぶどうとよろしくするような事態が訪れるのだろうかと、ウォルターは手袋をはめ直しながら静かに疑問を抱いていた。

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