第16話 ぶどうは甘酸っぱい
魔法の反動による急激な疲労の波が、少しずつ引いていく。
薄暗く冷たいダンジョンの奥深く。ウォルターはピクリとも動かなかった手足にどうにか力を込め、這いつくばった状態からゆっくりと上体を起こした。
荒かった呼吸はいくぶん落ち着いたものの、全身の筋肉は鉛のように重く、関節の節々が鈍く痛んでいる。背中に冷たい岩壁を感じながら寄りかかり、ウォルターは深く、長く息を吐き出した。
彼の手元には、先ほど掘り出したばかりの巨大な群青色の魔導石と、イブリンが入った魔導ランタンが置かれている。
ウォルターは震える手で腰のポシェットを探り、昨日スーパーで買っておいた食料を取り出した。一番安い、石のように硬いバゲットと、塩気の強い干し肉。それに水筒に入った水だ。
本来なら地上に帰ってから温かい食事をとりたかったが、今の自分の身体では、採掘した魔導石を抱えて数キロの坑道を歩き切る体力など微塵も残っていなかった。まずはここでカロリーを補給し、最低限動けるようになるまで休息をとるしかない。
音を立てて硬いバゲットを噛みちぎる。疲労困憊の顎にはなかなかの重労働だったが、水で流し込みながら胃に落としていくと、少しだけ体に熱が戻ってくるのを感じた。
一方、ランタンの傍らにフワリと浮かび上がった等身大のホログラムの少女――イブリンは、無言でバゲットをかじるウォルターの姿を、さっきからじっと見つめていた。
――良いわね。
イブリンは、心の中でひっそりとそう呟いた。
額からじっとりと汗を垂らし、片膝を立てて壁に寄りかかるウォルターの姿。普段のアパートの部屋で見ている時は「いつも地味な作業着を着ている無愛想な男」としか思っていなかった。
しかし今、命がけの過酷な労働をやり遂げた直後の彼は、いかにも『仕事のできる大人の男』という頼もしさに満ちていた。ランタンの放つ純白の光が彼の顔の半分を照らし出し、もう半分には濃い陰影が彩られている。その光と影のコントラストが、彼の彫りの深い横顔をいっそう印象深く、魅力的に見せていたのだ。
「……なんだ?」
無言で干し肉をかじっていたウォルターが、視線に気づいて顔を向けた。
『っ……、なんでもないわ』
見惚れていたことを悟られまいと、イブリンは少し慌ててホログラムの顔をそらした。
「それにしても」
ウォルターは痛む肩をさすりながら、恨めしそうにイブリンを見た。
「仕事が二時間程度で早く終わったのは良いけど、そのあと一瞬で『一日分の疲労』に襲われて全く動けなくなるんだから、あんまり効率が良いとは言えないな。おかげで、少なくとも半日はここから動けないぞ。これなら普通に一日かけて手作業で掘ったのと同じだ」
『む……。今回の魔法は、ずいぶんと不評みたいね』
ウォルターの文句を聞いて、イブリンはちょっとだけ残念な気持ちになった。自分ではウォルターの負担を減らす最高に役に立つ魔法だと思って施しただけに、使用者から不満を言われるのは、天才魔導師としてのプライドが少々傷つく。
ホログラムの少女が、あからさまにシュンと肩を落とした。
その様子を見たウォルターは、少し言い過ぎたかとバツが悪そうに頭を掻いた。
「……まあでも、良いこともひとつある」
『良いこと? なになに?』
イブリンがパッと顔を上げる。
「一気に集中して作業できることだな。何時間も岩を叩き続けていれば、どうしても終盤は集中力が切れて手元が狂うことがある。だが、短時間で一気に進められるから、その分、普段よりはるかに緻密な仕事が行えたと思っているよ。あの石を無傷で出せたのは、君のおかげだ」
『なーほーね!』
不器用ながらも自分を認めてくれたフォローの言葉に、イブリンの顔にパァッと明るい笑みが戻った。
「で、その天才魔導師さんに聞くが、この蓄積した疲労を一発でとるような便利な魔法はないのか?」
ウォルターが冗談めかして尋ねると、イブリンはあっさりと頷いた。
『あるわよ』
「あるのかよ」
ウォルターは呆れたように即答した。
『ただ、正確に言うと『疲労をとる』んじゃなくて、『人体の自然治癒力や細胞の代謝を強制的に向上させて、疲労物質を分解する』魔法なんだけどね。医療の分野でもまだ研究途上の魔法だから、人間の体に施した場合、副作用で何が起こるのかは完全に解明されてないのよ』
「副作用か……」
バゲットを飲み込み、ウォルターは眉をひそめた。
「たとえば、どんなことが考えられるんだ?」
『軽いものだと、全身がものすごく痒くなったり、蕁麻疹が出たりとか。重篤なものだと、急激な代謝の亢進に心臓が耐えきれなくて、意識消失、頻脈、最悪の場合は心不全とかかしらね』
「……わりと危険な感じがするのは、気のせいか?」
『気のせいじゃないわよ。研究所での動物実験では、割とよく死んでるし……。まあ、それでもいいなら、今すぐあなたに施してあげるけど?』
イブリンが指先を光らせてニヤリと笑う。
「……遠慮しておく」
『ふふっ。その方が良いわね』
ウォルターは深くため息をついた後、少しだけ感心したような目でイブリンを見た。
「しかし、君はいつも思いつきで適当に魔法をかけているように見えるけど、案外、人体のリスクや物理法則の限界とかをしっかり考えて魔法を使っているんだな?」
『もちろんよ。私は天才だもの』
イブリンは得意げに胸を張った。
もっとも、ホログラムの生成や念動力など、自分が今使っている魔法の大半が「ぶどうになってからなんとなく出来た思いつき」であることは、黙っておくことにした。経験上、自分にとってリスクがある魔法かどうかは直感でわかるものだが、それを理屈っぽいウォルターが納得するように説明できる自信はなかったからだ。
しばらくの間、ダンジョンにはウォルターが食事をとる咀嚼音と、地下水が滴るかすかな水音だけが響いていた。
食事を終え、水筒の水を飲み干したウォルターは、ふと真面目な顔つきになり、岩壁から背中を離して居住まいを正した。
「なあ……イブリン」
低く、真剣なトーンで名前を呼ばれ、イブリンはビクッと身構えた。
「君は……一体、何者なんだ?」
『な、なによ急に』
「ずっと不思議だったんだ。警察に追われていることはひとまず置いておくとして、君の魔法の知識や技術の範囲は、あまりにも広すぎやしないか? 光の屈折を利用したホログラムを作ったり、念動力で物理干渉をしたりしていたから、てっきり『工学系』の魔導師だとばかり思っていた。なのに、さっきの副作用の知識といい、人体の構造や『医療』にも精通している。どういうことだ?」
ウォルターの真っ当な指摘に、イブリンは小さく息を吐いた。
『まあね。私にできない魔法はないわ。だって――』
「――天才だから、か」
口癖のようにイブリンが言う言葉を、ウォルターが先回りして口にした。
『ちょっと! 私のセリフとらないでよ!』
「だいたい想像つくからな」
怒るホログラムに向かって、ウォルターはふふっと小さく笑った。
「安心しろ。いまさら君を警察に突き出したりはしない。ただ、これだけ命を預け合っているんだから、正体くらい教えてくれよ。せめてどんな仕事や勉強をしていたかとか。その膨大な知識量……どこかの研究職か?」
『……期待するほどの、大層な正体はないわよ』
「ほぅ」
『私は『王立魔導学院』の研究生よ。専門は生命工学』
「思ったより普通だな」
『ふ、普通で悪かったわね!』
王国最高の頭脳が集まる王立魔導学院の研究生。世間一般からすればエリート中のエリートだが、石工であるウォルターにとっては、ただの『学校のえらい生徒さん』程度の認識らしかった。
「しかし、そんな普通の天才研究生が、どうして遠く離れたこの街で警察に追われるハメになったんだ。一体何をやらかしたんだ?」
『別に、何もやらかしてないわよ』
イブリンはむっとしてそっぽを向いた。
「なにもやらかしてないのに、警察に追われるなんてことがあるもんか」
『それがあるのよ。……全く、不思議よねぇ』
イブリンはどこか遠くを見るような、少しだけ寂しそうな目をした。彼女が明確に「理由」を口にしない以上、それ以上踏み込むのは野暮というものだろう。
ウォルターは大きく、深いため息をついた。
「……まぁいい。話したくないなら、これ以上は聞かない」
『ウォルター』
追及をやめて再び壁に寄りかかろうとしたウォルターを、イブリンの静かな声が引き止めた。
『私……あなたに、すごく感謝してるのよ』
「え?」
『あなたが、あの日あの場所で私を助けてくれなかったら。……私、誰にも見つからないまま、ダンジョンの奥で文字通り『干しぶどう』になってたからね。ありがとう』
「な、……なんだよ急に」
いつも強気で憎まれ口ばかり叩くイブリンからの、あまりにも素直で真っ直ぐな感謝の言葉。予想外の不意打ちに、ウォルターは狼狽し、少しだけ頬を掻いて視線を彷徨わせた。
そんなウォルターの照れたような反応を見て、イブリンのホログラムの頬もうっすらと朱色に染まった。彼女は少し照れくさそうに視線を逸らし、ローブの袖をギュッと握りしめながら言った。
『いつか、私が無事に人間の身体に戻れたら……その時は、ちゃんとお礼するから。だから……それまで、しっかり私の面倒見てよね?』
少し上目遣いで、甘えるような響きを帯びた声。
ウォルターはひとつ咳払いをして、わざとぶっきらぼうに答えた。
「……わかった。期待しないでおくよ」
『ちょっと! そこは『期待しておくよ』ってかっこよく言うところじゃないの!?』
口をとがらせて文句を言うイブリンを見つめながら、ウォルターの口元には微かな笑みが浮かんでいた。
その顔を見て、イブリンもふっと笑みをこぼす。
――本当に、変な男。
口は悪いし、理屈っぽいし、デリカシーもない取っ付きにくいところがあるけれど、根は驚くほど親切で、優しい男だ。そしてただ優しいだけでなく、自分の技術に対する信念や、言いたいことを明確に伝える揺るぎない芯の強さも持っている。
何より、こうして他愛のない話をしていて、全く退屈しない。
こんな感情を抱いたのは、イブリンにとって初めてのことだった。




