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泥華  作者: 神保 小太郎
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9/11

三、酔舌奇譚③

 こんばんは。

「いやよいやよも好きのうち」なんて言葉があります。

それが言えるなら、「好きよ好きよも好きのうち」も当てはまる気がするのです。

そう考えると、どちらにせよ好きなんです。

では、その好きってなんでしょう。

その人のことを考えると胸がきゅうと苦しくなることかな、とか。声を聞くと少し安心することかな、とか。会いたいと思うことかな、とか。会いたくないと思うことかな、とか。そんな素敵で身軽な言葉を吐き出している自分を、私は今、妄想しておりました。

実に綺麗です。

まるで恋を知っている人みたいです。

残念ながら、その発言者は私なのですが。

好きよ好きよ好きよ。いやよいやよいやよ。

そのどちらの顔も違う顔をしているのに、なぜだか笑っている気がするのです。

そんな気がする私の恋愛観は案外メルヘンでしょうか。メンヘラでしょうか。

どちらにせよ不便でしょうね。

今回のお話は、そんな妄想の中にいる人間が書いたラブレターです。

 酔いのせいでしょうか。普段なら正面を見て歩くことなど到底できないこの私が、すれ違う人々の顔を、はっきりと見れます。額の皺も、唇の動きも、光の加減で変わる瞳の色も逃げずに受け止められる。

 通りは賑やかで、居酒屋から吐き出される笑い声が、夜風に混じって漂ってきます。

肩を寄せ合う若いカップルが横を通り過ぎ、女性の方がなにか囁くと、男は子供のように笑い声を立てる。斜め前の男たちは酔いに赤く染まった顔で大きく手を振り、タクシーを止めようとしている。背広姿の男が一人、スマートフォンを見つめたまま無表情に歩き、通りの端では、露店の明かりに足を止める女性が、袋から唐揚げを取り出しています。

そんな雑踏の中で、ふと目に留まるのは若い女性たちです。流行の色を纏い、髪をきちんと整え、歩みまで軽やかに。 私に注がれるのは、まるで審判のごとき目線の群れ。酔いに浮かされているせいか、そうした視線も少しも気に障りません。頭の中が色欲で埋め尽くされていても、それ自体が罪となることはない。胸張って歩いていいんですよ、無罪の人間は。

 けれども私は、やはり人間であって、ただの獣ではありません。ふっと、真面目な思いが胸に舞い降りるのです

 どうか、皆さま雛さんより可憐ではありませんように、と。

そう冀った時に限って、そのすれ違う女性は、服装とは比例しない、チンケな顔をしているのです。

 安閑 その度に、私は小さく、心の奥で安堵いたします。その油断も束の間、菖蒲、君子蘭、芍薬、百合、蘭、流石に牡丹は現れずですか。それでも、美の応酬。街路がまるで花壇のように咲き乱れております。家では薺が咲いている。

 そうだ、皆、同じ顔であればいいんだ。優劣などという概念が、この世から消えてしまえばいい。そうすれば私は安心して、世界を見渡せる。雛さんだけを、真っ直ぐに見つめていられる。

 私は、雛さんの心の美しさは一番と胸張って申し上げられます。あんな善美で磨かれたお心は、そう易々と拝めるものではありません。美人は容易く見つけられますが、美心を探すは五里霧中です。

 なのに、なぜでしょう。今、私は、彼女のことを悪く言ってみたくてしょうがないのです。その衝動は、自分でも不思議でなりません。もし実際に口にしてしまったら、その瞬間に胸のどこかがきゅうと痛み、言葉の裏に潜む嘘臭さに、自ら顔をしかめるでしょう。

 だったら話さなければよろし?ええ、その通り。

 褒めればよろし?いいえ、それは違います。惚気などというのは、もっと悪い。

 故に、口を閉ざすのが一番。沈黙こそが牡丹かな。

 

「ただいまー!雛ちゃんいるう?」

「ここにいるやん。ちょっと、ヘロヘロじゃ〜ん。だいぶ呑んできたんでしょ」

「ちょいとお酒をくださいな、平安美人様」

「なんなんそれ。あんたまだ飲むん?大丈夫?」

「今日は最高のコンディションなんですよ。これはしょうがないんです」

「なんでなん? なんかいいことあったん?」

「いいえ。嫌なことあって私は不機嫌なんですよ。酒に対してこれほど上等な肴はありゃしません」

「わっはっはっはー! なにそれっ」

 雛さんは相も変わらず私の戯言に笑います。笑いとは安堵から生まれる嘲笑です。この人は私よりも下にいる─そう確信したとき、人は安心して笑うのです。

 彼女から見た私は、小さな子猫にすぎません。爪を立てても大したことはない、手軽に撫で回せる相手なのです。だからこそ笑うのです。いっそのこと、ライオンになって引っ掻き回してしまおうか。暴力ってやつですよ、暴力。 そう聞くと皆様は目をキラリと光らせるでしょうが、ご安心くださいまし。私にはできっこありません。「暴力」という単語は、私の辞書の頁にちゃんと挟まっているのです。あるにはあるのです。だけどそれは知性の棚に収まっているだけで、重さも、慣性もないのです。

 腕がぶるぶる震えて拳がぎゅっとなる─その仕組みが、私にはまるで分かりません。皮膚の下でキシッと軋む音、鼓膜の奥で小さな破片がコロコロ鳴るようなその在り処が、私には見えないのですよ。

 でもですね、人を言葉で切り裂くのは得意なのです。そこだけは、いやらしく研ぎ澄ましております。酔って正直になるのか、酔って弱みを晒すのかは分かりません。ただ一つ言えるのは、拳の音は聞こえませんが、舌の刃はいつでも爛々と光っているということです。

 これはこれで暴力なのでしょうか?

 では、体への暴力、心への暴力、どちらが悪いでしょう? 

 体への暴力です。だって体への暴力は心への暴力にもなりますから。まぁ、どちらの暴力も悪に変わりはありません。人にするものなら、人に在らずです。

「ねえ、あんた、飲み過ぎ。それくらいにしておき」

「うるさいです、醜女。どうか酒を注いでいただけませんか、プリンセス?」

「わっはっはっはーーー!」

 彼女はまた笑いました。笑い転げています。彼女の笑顔が、憎いのです。憎い。

─嗚呼、今夜の私はすこぶる機嫌が悪いのです。

 今夜の肴は、不興ひとつ。

 おやすみなさいませ。


 おはようございます。おやすみなさい。行ってきます。ただいま。そんな言葉ばかりを、私は最近、毎日のように口にしています。呼吸のようでいて、どこか人工の酸素みたいな挨拶です。便利な言葉のはずなのに、どういうわけか、胸の底では逆に不便を覚えるのです。言葉というものは、吐き出すたびに、自分の輪郭をすり減らしていくのかもしれません。

「行ってらっしゃーい!」

「行ってきます」

 口先だけの呼吸合わせ。それ以上でも以下でもないのに、律儀に演じている自分に倦怠を覚えるのです。

 今日は、どうにも体力がありません。体力のある日に限っては、妙に負けん気を発揮し、道端に可憐な女性が歩いていようと、決して目の端にすら映さぬよう努めるのです。欲への勝利からのヒーローインタビューなんか繰り広げながら、どこかの取材カメラに映っている気分で、涼しい顔して通り過ぎるんです。

 ところが本日の私は、すこぶる弱体なのです。弱り切った心身は、あたかも軟弱な天候に支配されているかのようでして、女性の姿を目の端から追い払う力さえ持ち合わせておりません。曇天を睨みつける不機嫌な顔を装いながら、内心ではヘラヘラと安っぽい笑いを浮かべている。そんな矛盾が私をひどく惨めにします。

 いっそ部屋に閉じこもって、人間の悪口でも暗唱するんです。ひとりきりで、声に出すでもなく、ただ口の内で反芻しながら人間を呪うのです。その方がずっと、健全というものです。

 まぁ、要するに、仕事に行きたくないんですよ、こんチキショウ。人間の義務は、朝に始まり、朝に終ります。


最近思うのですが、人間は名前を付けるのが好きです。

恋愛とか。

友情とか。

優しさとか。

嫉妬とか。

そんなふうに名前を付けてしまうものですから、まるで正体を知った気になってしまうのです。

実際は何一つ分かっていないくせに。

私もその病気を患っております。

なかなか治りません。

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