三、酔舌奇譚①
人間というものは、案外、自分の醜さには耐えられないものです。
だから皆、優しさだとか、正しさだとか、夢だとか、そういう綺麗な布を、自分の上へ何枚も被せながら生きている。
けれど夜更けになりますと、その布の隙間から、蛇みたいなものが時々覗くのです。
本エピソードは、そういう夢の話です。
あまり、健康にはよろしくありません。
「俺な、本が大好きなんだ。なんかさ、上手く言えないんだけど、とにかく大好きなんだよ」
「そうなんですね。だから小説家になりたいんですよね。でも、どうしてそんな好きになったんですか」
「多分な、俺が馬鹿だからなんだと思う。学生の頃、ずっとグレててさ、勉強なんてこれっぽちもやったことなかったんだよ。それで大人になって、あの頃カッコいいと思ってたことが、急にダサく見えてきたんだ。結局、社会は“ペンは剣より強し”の世界線じゃん。だから、大人になった時に心底思ったんだよ──俺、本当にカッコ悪いなって。それで、その負い目で読書を始めたみたいな感じなんだよ」
「なるほど……」
「最初は意味も分からず読んでただけ。でも辞められなくなって、本棚に本が積まれていくのを眺めるだけで嬉しかったんだ。……本っていうより、自分の自意識を埋め合わせる道具だったのかもしれないな」
「分かる気がします。私もそんな気持ちで本を読んでいました。なんか、タバコのきっかけと同じ感じがしますね」「確かにそうだわ。俺、次元に憧れてタバコ吸い始めたからな」
「私は幼少期から、自意識の申し子みたいな子供でした。軽い頭に無理やり重い文章を押し込んでいるような読書をしてましたね。今でも、気取った本を読む時なんかは、頭がズーンと沈むような気分になります。けれど、読み終わって外に出ると、新しい輪郭が視界にできているようで、気持ちがいいんです」
「めっちゃ分かる。魔法だよね、もはや。……てか聖太はさあ、なにか書いてみようとしたことある?」
「ありますよ。でも、なにひとつ書けませんでした。もし才能の華があるのなら、手足が折れようが血を吐こうが、這いつくばってでも取りに行きましたよ。けど、どこにも見つからなかった。何度探しても、何度叫んでも、無いものは無いんです。単純な話です。……乾くんは見つけられました?」
「無いね。本当に無い」
「じゃあ、なんで書くんです? 辛くありませんか?」
「なにもしないなら、死んだ方がマシなんだよ。ベタだけど、“人生一回きり”って言葉がずっと心にある。文学的な理由じゃないけど、それで十分だと思うんだ」
「……素敵ですよ。乾くんの本、読んでみたいですね」
「えっ、本当に? 今、パソコンちょうどカバンに入ってるんだ。読んでみてよ」
乾くんは上機嫌です。私が三件、乾くんが八件。獲得件数の差は歴然。今日は毛塚様が休みで、あからさまに羽根を伸ばしていたのです。その勢いのまま、気が大きくなったのか、私なんかを誘って一緒に酒を飲んでいる。
身近な人間の小説ほど、読みたくないものはありません。もしそれが、私の心をほんの少しでも揺らすようなら、私は間違いなく気が狂ってしまうのです。
「はい、これ。読んでみて。内容は分かりやすいから、きっと読みやすいと思う」
──赤い屋根が、呼吸をしている。ぺこり、ぺこりと。まるで、誰かの皮膚のように、温かく、湿っている。その上に、釜を抱えた老婆が立っている。笑っている、笑っている。目も、口も、皺という皺までも、すべて上向いた不気味な笑み。なのに、その視線だけが、真っ直ぐに僕を刺してくる。
老婆が、屋根の上からふわりと飛んでくる。音もなく、抵抗もなく。赤い屋根から重さを忘れたまま、壺を抱いてこちらへと舞い降りてくる。粘つくような音で壺が鳴き、白く濡れた蛇が、するすると現れる。それはなんの迷いもなく老母の体を足元から首元へと登り、老婆の首に優しく巻きついていった。
老婆が口を開く。
「老婆はお好きかい?」
「嫌い」
「蛇は?」
「嫌い」
「老婆を愛せるかい?」
「愛せない」
「蛇を、愛せるかい?」
「愛せない」
「どうしてだい?」
「貴方も蛇も醜いから。醜きものは醜きもの。僕のような器じゃ愛せない」
僕は、すべて正直に答えた。嘘をつく余地が、夢の中には存在していなかった。老婆は笑いながら近づいてきて、僕の胸にそっと手を添えた。掌のひらはひやりと冷たく、その奥で何かが蠢いているような、重たい鼓動があった。
「カラスは、何色だい?」
そう問われたとき、僕はほんの少しだけ意地を込めて申し上げた。
「青」
その瞬間、鎌が青く光った。夜の底に沈んだ氷のように、深く、澄んで、青く。刃は、僕の首筋に静かに沈んでいく。音もなく、けれど確かに、血が流れていく感覚。赤い血。夢の中でも、ちゃんと赤い。蛇がそれを啜りつづける。一口ずつ、飲んで、飲んで、飲み干していく。
やがて白蛇が青くなっていった。澄んだ湖のように、どこか悲しげで、どこか赦されたように、青く、青く、染まっていく。僕の血が蛇を美しく染め上げてゆく。まるで、赦しを渡すために僕は生きていたかのように。
「また血を溜めときな」
そう誰かが言った気がした。誰の声でもなく、僕の内側で、囁くように、優しく。 あぁ、また夢を見ている。また、青を見せられるのか。まあ、いいだろう。どうぞ、またお越しなさい。僕の血はまだ、温かいままだから。
次の夜
地面が、ざわりと揺れている。すると、土の中から、たくさんの人間が生えてきた。生えた、という表現がいちばん相応しい。芽のように、茎のように、骨と皮と歯をこすり合わせながら、地面のあちこちに顔が芽吹いていく。そして、それらは一斉に枝へと手を伸ばしていく。
人間たちは、嬉々として林檎をもぎ取っている。林檎の赤が、ひとつ、またひとつと、空中で弾けてゆく。あの一番背の小さい子なんて、木の頂に立ちながら、口元を真っ赤にして林檎を頬張っている。まるで血を吸う吸血鬼のように、果汁を零し、喉を鳴らしている。
空は曇っていたが、不思議と明るく、光は林檎の皮にだけ反射して、まるで神々の祭壇のような儀式的風景が広がっていた。僕はその中心にぽつねんと立ち尽くしている。誰からも見向きされることなく、ただ、その光景を見せつけられるためだけに、置かれている。
『あっ!』――背の小さい子が、僕を上から指差す。なんて愉快なことなんだ。皆が、僕を知っていて、皆の目が、僕に注がれている。皆が、僕の顔を見て、ニッコリと微笑みかけてくる。目尻がこそばゆい、こそばゆい。林檎の甘い香りが、鼻腔を優しく膨らませる。 僕の名前を呼ぶ声たちが、鼓膜をやさしく弾ませていく。体がじんわりと温かくなり、心が五感で受けたそれらをそっと抱きしめ、包み込むのが分かった。目から汗が絶え間なく流れていく。熱くて、熱くて、仕方がない。僕は、まるで焼かれた林檎のように、自身のなかから甘さを滲ませ、ただその場に、熟して転がっている。
皆は持っている林檎を僕に見せつけ、それから僕めがけて投げ始める。けれど、その林檎たちは一つも余さず僕に当たることなく、頭上を越えていく。皆は怒りの表情を浮かべて投げ続ける。林檎は怒り、林檎は飛び、林檎は僕を避けて宙を舞っていく。風を感じた。頭上に、体に、そして心にまで。通り過ぎる林檎が生む風に、僕は涼しさを感じ、やがてそれが寒さに変わっていく。 冷たい汗が目尻を伝い、頬を滑り、足元へと落ちつづける。まるで、そこにだけ雨が降っているような錯覚を抱いた。僕は裸足だった。いいえ、裸足どころではない。僕の体には、布一つ、色一つ、なにも纏っていない。透明だけの浮き上がった個体。ああ、それは難しい訳だ。合点、承知だ。
「僕が悪かった、ごめんなさい」 そう小さく呟くと、僕の体が色を帯びはじめた。うっ……心臓に、一つの林檎が当たる。砕けた林檎から、血が噴き出してくる。僕は満面の笑みを浮かべた。
「良い的当てになれて、光栄です」
そう、誰にともなく声をかけた。すると僕のへりくだりが気に入ったのか、皆がハイタッチを交わしながら僕に近寄り、肩を組んできた。
ヒュウっと、大きくもなく、小さくもなく、ただ鋭い風が吹いた。砂煙のように揺れる空気の中、いつの間にかの夢で見た、あの老婆が輪の外に立っている。首には、かつてと同じく、青白い蛇が巻きついており、衣はぼろぼろに裂け、痩せこけた体には風が鳴いている。 老婆はあの時と変わらぬ、いや、それ以上に歪んだ笑みを、口元に貼りつけたままでいる。誰も怯えることなく、誰も戸惑うことなく、皆はまるで合図を受けたかのように、老婆に向かってナイフを投げ始めた。 金属音が宙を裂き、きらきらと光の破片を撒きながら飛び交ってゆく。
僕も、懸命に腕を振り抜いた。心のどこかで「これは夢だ」と分かっていながら、それでもこの参加を拒めなかった。僕の投げたナイフは、真っ直ぐに飛び、白蛇の鱗を割り裂き、そのまま老婆の首筋へと突き刺さった。蛇は青い血を撒き散らしながら呻き、老婆の肩を這って地面に落ちてゆく。それでも老婆は、立ち尽くしたまま、声をあげず、ただ静かに笑っていた。その笑みは、まるですべてを赦しているようでもあり、すべてを嗤っているようでもあった。
夢というものは不思議ですよね。
起きた瞬間は「変な夢だったな」で済むくせに、昼飯を食っている時や、電車を待っている時や、煙草に火をつけた瞬間なんかに、不意に喉の奥へ戻ってくる。
私は時々、人間の優しさというものが怖くなります。
皆が笑っている輪の中へ入った瞬間、自分まで笑ってしまうあの感じが、どうにも恐ろしい。
けれど、その恐ろしさに安心している自分もいる。
だから多分、人間は、皆どこかで蛇を飼っているのでしょう。
青くなるまで、ずっと。




