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泥華  作者: 神保 小太郎
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6/11

二、東京百面相③

 人間というものは妙なもので、昼間は「ちゃんとした大人」の顔をしているくせに、夜になりますと、急に煙を吐きながら人生について考え始めます。

 しかも大抵、ろくな答えは出ません。

 本作には、そういう種類の人間が出てまいります。

 どうぞ、生暖かい目で眺めて頂ければと思います。


 乾杯。私はまた、飲んで、吸って、吐いております。煙は、綺麗な雲のように夜空へと昇ってゆきます。もう私は二十歳になりました。成人です。法律も世間も、「はい、これで貴方も立派な大人ですよ」と言わんばかりに酒瓶を差し出してくる。けれど実際のところ、大人というのは、ただ合法的に腐れる資格を得ただけなのかもしれません。

 ひとりの飲酒は、妄想の発端、気鬱の拍車。飲めども飲めども気の晴れるものではない。どこかで読んだ本にそう書いてありましたが、まったくその通りです。馬鹿な戯言が頭の中でドクロのようにぐるぐると巻きつくだけなんですよ。なんも楽しくなんかありません。けれど止められない。魔法でしょうか、それとも文学でしょうか。

 煙草を咥え、火を点け、煙を肺へ入れて、煙を吐き出します。まるで自分という生き物を、一度煙に変換してから外へ逃がしているみたいで、なんとも気分がいい。嗚呼、人間、最初から煙で出来ていれば、こんな面倒な肉体など持たずに済んだものを。

 そのときです。

 ぶん。

 と、夜風の向こうで、なにかが鳴ったのでございます。

 ぶん、ぶん。

 ……あれは、ヌンチャクではありませんか。

 向かいの駐車場で、誰かがヌンチャクを振っております。最初に見たときは、酔いの見せる幻覚だと思っておりました。そもそも現代にヌンチャクを振る女などおりますか。しかも深夜、ジャージ姿で、街灯に照らされながら、ぶん、ぶん、と。

 けれど次の日もいた。

 その次の日も。

 煙を吐きながら眺めておりますと、あちらもこちらに気付いているようで、ときおり、ちら、とこちらを見るのでございます。いや、気のせいかもしれません。酔いどれというものは、自意識だけは立派ですから。

 それにしても妙な女でした。

 ヌンチャクというのは、もっとこう、怒りだとか、暴力だとか、男の誇大妄想みたいなものの象徴かと思っておりましたが、彼女のそれは違う。どちらかといえば、寂しさを振り回しているような音でした。

 ぶん、ぶん。

 春先の夜風の中で、その音だけが、やけに乾いて響くのです。

 私は時折、あの女が本当に存在しているのか、不安になることがありました。酔いどれという生き物は、自分の孤独が極まると、平気で幻覚に人格を与え始めますから。月に話しかけたり、電柱に敗北感を覚えたり、冷蔵庫のモーター音に母性を見出したり。えぇ、笑ってくださって結構。こちらも割と本気です。

 ある夜、私は随分と飲みすぎておりました。

 飲め飲め、踊れ踊れ、酔ったが勝ちよ。パッと一缶、飲み切ってやりましょう。そう思って空き缶を床へ転がした、その時でした。

「なあ、あんた、なんでこんなとこで飲んでるん?」

 ぎょっ、と致しました。

 目の前に、そのヌンチャク女が立っていたのでございます。

「……えっ? 誰ですか?」

「向かいに住んでる雛。よろしくね」

「あっ……お雛様、ですか? これはこれは、お雛様がこんなところに。お会いできて光栄です」

「いやいや、そういうのじゃなくて、雛はウチの名前やで」

「こりゃあ失敬、失敬。お労しい芸風の一つかと思ったもので。酔いが過ぎたようです」

 彼女は勝手に私の隣へ座り込み、缶チューハイをじぃっと見つめております。

「それ、うまいん?」

「不味いですよ」

「じゃあなんで飲むん?」

「不味いからです」

「意味わからへん」

「人生も大概、不味いでしょう」

「えっ、めっちゃ美味いやん、人生。わっはっはっはっ」

 彼女は酔っているのか素なのか、とにかく笑います。笑うたび、顔の部品が全部ばらばらに暴れているみたいな笑い方でした。美人ではありません。むしろ、くら雀みたいな顔です。けれど、そういう顔ほど、妙に記憶へ残る。

「それより、タバコを肴に飲んでるの? ……煙も酒も泣いてるで。ウチが味噌汁を作ってあげよか?」

「剣呑の呑みですよ。どうぞ中へいらして、作ってください」

「いや……作らへんよ。ただ、一緒に飲もうや」

「どうぞ、どうぞ。それより……雛さん、ヌンチャクを振っていましたか?」

「あ、見えてた? ……そう、ウチも酔ってて、気が大きくなってな。ウチ、どうやらサドらしいんよ」

「なら、私がマゾなので……ちょうどいいですね」

「ふふ……なにそれ」

 その夜の記憶は曖昧です。

 酔いというのは、不思議なものですね。人の顔も、言葉も、輪郭を失い、代わりに思想の形だけが浮かび上がってくる。あれほど遠くに仰ぎ見ていた神秘も、その包みをすべて剥ぎ取ってしまえば、かくもたやすく陳腐へと堕ちてしまうものでしょうか。

 未知というものが持つ求心力は、なんと計り知れぬことでしょう。もし人々が皆、素っ裸の民族であったなら、果たして子は生まれるのでしょうか。性欲というまどろっこしいざわめきに惑わされず、ただ真実の、清らかに鳴り響く音頭に身を委ねる。未来など鼻くそのごとく吹き飛ばし、限られた命を携えた自分たちだけで踊り狂う──それこそが、美しき世界でしょう。

 私は鬼なのでしょうか。純なるものなど、毛ほども宿してはおりません。夢中に快楽で荒れ狂う貴方もまた、鬼であったなら。割に合う。それが一番よろしいのです。

 こんなことを考える私は、やっぱり天使。

 朝。

 知らぬ醜女が、隣で寝ております。

 くら雀のような、とぼけたお顔。とても愛される類の顔ではありません。……いや、こんなことを言ってはいけませんね。私は、人様の外見にケチをつけるほどの器ではない。それにしても誰なんです、貴方は?

 肩を、トン、トン、トン。三度、優しく叩きました。

「んっ……あっ、セイちゃん。おはよぉ〜」

「あの、申し訳ないのですが、昨夜のことを全く覚えておりませんで……。なにか粗相を致しましたかね?」

「いや、全然。ウチが童貞奪ってあげたくらいやな」

「えっ、本当ですか?」

「うん」

「全然身に覚えが……」

 その瞬間、みっともないほど大きな乳の残像が、脳裏をいやらしく揺れました。

「あっ」

「思い出した?」

「嗚呼ああー、思い出しました、思い出しました」

「ほら、鏡見にいき。男前になってるで〜」

「……いや、下品になってます。もう白シャツなんか着れません」

 わっはっはっはーーー。

 私たちは、朝っぱらから、壊れた玩具みたいに笑っています。

 春爛漫、桜の季節がまいりました。

 街も野も淡い紅に染まり、人々は誰も彼も浮き立っています。けれど私は、この桜というやつがどうにも好きになれないのです。桜というのは、傲慢の自惚れ屋ですよ。

 春になれば当然のように咲き誇り、さながら国民的スター。ニュースに取り上げられ、場所取りに人を呼び寄せ、こう言わんばかりなのです。

「はい、皆さんお待ちかねの私です。どうぞご覧なさい、美しいでしょう? 一年待った甲斐があったでしょう?」

 尊大無礼も甚だしくはありません?

 けれど毎度、負けてしまうんですよ。冬のあいだ散々悪口を溜め込んでいたのに、いざ春、あの薄紅の集合体が風に揺れれば惨敗なんです。砂を噛むような思いで、平伏すしかない。桜とは、美の暴君なのです。

「桜綺麗やなあ。なんか桜があるだけで春好きんなるわ」

 目の前では、桜が惜しげもなく枝という枝から咲きこぼれている。そんなもの、美しいに決まっている。いやらしいほどに、圧倒的で、抗いがたく、完膚なきまでに美しい。

「雛さんは梅の花みたいですね」

「なんで桜見ながらそんなこと言うん?」

「梅は、誰も待っていなくても咲いているんですよ。ほら、こっちを見て、桜なんかより濃い色してるよ、って。誰も気に留めないなかでも、一生懸命叫んでいる。よく出来た性根じゃありませんか」

「めっちゃ無礼やん、ウチに」

「じゃあ、雛さんは桜になりたいんですか?」

「じゃあ、ウチは向日葵」

「向日葵というのは、ずっと太陽に見てもらおうと、あれこれ色仕掛けを繰り返す淫らの化身なんですよ」

「じゃあ菜の花」

「いいえ、蕎麦の花です」

「なんでやねん」

「知りません。酔ってるんです」

 空からは桜、地面からは菜の花。

 私たちの真ん中にだけ、名前のつかない幸福が、ぼんやりと咲いておりました。


 春になると、人間は少し狂いますね。

 桜を見て泣いたり、酒を飲んで笑ったり、普段なら絶対に好きにならないような人間を、なぜか愛おしく思ったりする。

 ほんのり危険な季節です。

 けれど案外、人生というのは、そういう一瞬の気の迷いだけで出来ているのかもしれません。

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