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五、酔いどれ音頭①

 蛍光灯というものは、どうも人間を信用していない節があります。朝だろうが昼だろうが同じ白さで机を照らし、昨日泣いた顔も今日笑った顔も見分けようとせず、書類もコーヒーも人間も一緒くたに並べてしまう。その潔癖さが私は少し苦手でした。机の上には相変わらず崩れそうな書類の山が積み上がり、紙コップのコーヒーはとっくにぬるくなって薄茶色の輪を縁へ残し、プリンターは老人が咳払いでもするような音を立てながら紙を吐き出しています。窓際のブラインドから夏の日差しが細い縞になって床へ落ちていましたが、その陽気さも蛍光灯には敵わず、事務所全体は病室の待合室みたいな顔をしていました。

 その病室から、一人だけ患者が消えていました。毛塚さんです。たった一人いないだけで事務所は妙に広く見え、昨日まで咳払い一つ遠慮していた人たちが、今日は机越しに身を乗り出して笑っています。誰かが冗談を言えば、その笑いは隣の机まで転がり、また別の誰かが拾って笑う。キーボードを叩く音まで軽く聞こえるのですから、人間は指で仕事をしているのではなく、肺で仕事をしている生き物なのかもしれません。息苦しい日は一文字打つのも億劫なくせに、一度空気が軽くなると、皆さん急に仕事のできる人みたいな顔になります。もちろん誰も「毛塚さんがいないからですね」などとは言いません。口にした瞬間、それは悪口になりますからね。だから黙っています。黙ったまま、嬉しそうなのです。人間は便利ですね。口を閉じたまま拍手くらいなら簡単にできますから。

 昼を少し回った頃、ドアが開き、毛塚さんが入ってきました。笑い声は綺麗に止みました。しかし静かになったわけではありません。皆さん急に仕事熱心になっただけです。電話を取る人、コピー機へ歩く人、メールを打ち始める人。ほんの数秒前まで笑っていた人間が、世界平和でも背負っているような真面目な顔になります。あれは仕事ではありません。仕事をしている顔です。人間は顔だけなら大抵の職業を演じられるようですね。

 毛塚さんは誰の顔も見ませんでした。自分の席へ座ると引き出しを開け、一つずつ私物を段ボールへ詰め始めます。煙草の箱、灰皿、黄ばんだカップ、使い古したボールペン。昨日まであれほど偉そうだった机も、荷造りを始めた途端、粗大ゴミの日を待つ家具みたいに見えてきます。権威というものは案外、木材より脆い素材でできているのかもしれません。ガムテープを引く音だけがやけに耳につきました。別に大きな音ではありません。ただ、人が一人辞める音というものは、きっとああいう乾いた音なのです。

 誰も口を開きません。しかし静かではありませんでした。皆さん、誰かの勇気待ちなのです。自分では言えない。でも誰かが代わりに言ってくれたなら、その人を勇者と呼び、自分も同じ気持ちだったという顔だけはしたい。拍手というものは便利ですね。他人の勇気へ便乗するだけで、自分まで立派な人間になれた気がするのですから。

 その期待へ応えるように、乾君が立ち上がりました。椅子を引く音は小さかったはずなのに、その瞬間だけは事務所中の耳がそちらを向いた気がします。皆さん「ああ、この人が言うのですね」という顔をしていました。勇者には、観客がよく似合います。

 乾君は毛塚さんの前まで歩き、少し黙ってから口を開きました。

「録音したのは俺です。本部へ送ったのも俺です。あんたは人を傷つけすぎた。それで今日こうなった。ただ、それだけです」

 短い言葉でした。短いのですが、私はその短さより、そこへ来るまでの長さばかり考えていました。ああ、この人は随分練習したのでしょうね。録音しようと決めた夜があり、本部へ送信ボタンを押した夜があり、今日ここで何を言うかも何度も頭の中で繰り返したのでしょう。人間は不思議です。本当に言いたいことほど自然には言えない。だから磨く。削る。何度も反芻して、最後には即興だったような顔で差し出す。その熱心さが、私は昔から少し苦手でした。

 もちろん乾君は正しいのでしょう。毛塚さんは多くの人を傷つけましたし、今日ここへ至るだけの理由もありました。しかし、正しさというものは案外、味気ない食べ物です。誰もが口を揃えて「美味しい」と言うのですが、食べ終わった後に思い出すのは、たいてい別の料理です。

 私の目は乾君ではなく、毛塚さんの背中ばかり追いかけていました。昨日まであれほど人を見下ろしていた人が、煙草の箱が潰れないよう新聞紙を折り直し、カップを割らないよう丁寧に包み直しています。人間というものは弱ると急に几帳面になるらしいですね。強かった頃には机を叩き、書類を放っていた人が、負けた途端に紙一枚まで大事に扱い始める。敗北には礼儀があるのでしょうか。少なくとも勝利より、姿勢はずっと綺麗です。

 その背中を見ているうち、私は妙に安心してしまいました。ようやく人間になった、と思ったのです。昨日まで歩いていたのは毛塚さんではありません。肩書です。肩書が煙草を吸い、肩書が怒鳴り、肩書が人を睨んでいただけでした。ところが今日は、その肩書だけがどこかへ落ち、一人の中年男性が段ボールを抱えて歩いています。実に結構です。人間はそのくらいみっともない方が信用できます。

 私はそっと立ち上がり、その後を追いかけました。

「毛塚さん」

 振り向きません。

「何か、お力になれることはありますか」

 しばらく黙ったまま歩いていましたが、やがて小さく笑って、

「大丈夫だ。俺は実家の病院を継ぐだけだから」

 とだけ言いました。

 私は思わず笑いそうになりました。

 ああ、その嘘はいけません。

 嘘の質が底をついていらっしゃる。

 人生の最後に吐く嘘というものは、もう少し背筋が伸びていてほしいものです。せめて聞く側へ「騙されてあげようか」と思わせるだけの品位くらいは残しておいていただきたい。しかし、それを指摘するほど私は野暮ではありません。嘘にも最後くらいは尊厳があります。

 私は静かに頷きました。

「それなら安心しました」

 毛塚さんも頷き返しました。

 それで十分でした。

 別れというものは、案外、立派な言葉ではなく、出来の悪い嘘一つで終わるものなのかもしれません。

 私は心の中でだけ、小さく頭を下げました。

 ──さようなら、師匠。


 事務所へ戻ると、さっきまで毛塚さんが背負っていた重苦しさは跡形もなく消え失せ、代わりに誰かの勝利だけが部屋中へ薄く広がっていました。人というものは不思議ですね。悲しみは隠したがるくせに、安堵だけは隠しきれません。机を挟んで顔を寄せ合い、声を潜めては笑い、時折「痛快だった」という言葉があちらこちらから聞こえてきます。その「痛快」という一言が、私はどうにも引っ掛かりました。人は自分が殴られた話には眉をひそめますが、他人が殴られた話なら「痛快」と笑える。痛みというものは、自分の皮膚を破らない限り娯楽へ化けるらしいのです。乾君の名は英雄のように囁かれ、皆さん揃って昨日までの自分を忘れた顔をしています。さっきまで誰も口にできなかった言葉が、一人の人間を通過した途端、急に自分たち全員の言葉へ昇格する。拍手とは便利ですね。他人の勇気へ便乗するだけで、自分まで勇敢になれた気がするのですから。

 私はその輪を眺めながら、自分の頭がおかしくなったのではないかと思っていました。本来なら鼻で笑って終わるはずでした。乾君のあの台詞がどれだけ周到で、どれだけ自分自身へ酔ったものだったか、先ほどまで私は心の中で散々値踏みしていたのです。それなのに、昨夜の酒でもまだ脳味噌の裏へへばり付いていたのでしょうか。意志だけは「黙っていろ」と言っているのに、舌だけが勝手に歩き始めます。

「乾君、見事でした」

 気付けばそんな言葉が口から落ちていました。

「あそこまで綺麗に決まるとは思いませんでしたよ。録音して、本部へ送って、最後に一言。実に現代的です。どこか教本でもあるのですか」

 乾君は怪訝そうに眉をひそめます。

「……どういう意味だ」

「褒めていますよ。私には真似できません。私は古典ばかり読んでおりますから。ああいう新しい英雄譚には疎いものでして。どうぞ今後もご指導ください、お師匠様」

 その瞬間、周りの笑いが止まりました。空気というものは実に臆病です。一人でも笑わなくなると、皆さん一斉に笑い方を忘れてしまいます。

 乾君はしばらく私を見つめていましたが、やがて小さく息を吐いて、「お前、感じ悪いよ」とだけ言いました。ああ、出ました。「感じ」。便利な言葉ですね。説明できないものは全部そこへ押し込められる。「感じが悪い」「空気が悪い」「雰囲気が悪い」。人間は言葉に困ると空気へ責任を押し付ける癖があります。

「嫌味のつもりか」

「まさか。私は今、あなたへ平伏しているのですよ。あれほど見事な立ち回りを見せられたのですから。私など到底かないません」

 そう言うと、乾君の顔から笑いが消えました。

「お前はいいよな。件数だけ上げて評価されてたんだから。俺たちは違う。ずっとあいつに苦しめられてきた」

 安心しました。ようやく「俺たち」が出てきました。一人で怒るより、「俺たち」と言った方が立派ですからね。人間は集団へ乗った瞬間、自分の感情まで公益へ昇格したような気になります。

「その口調、やめてくださいよ。主人公みたいですよ」

 私は笑いました。

「私は件数を積みました。皆さんは積めなかった。それだけでしょう。今こうして私はあなたへ頭を下げていますが、私が数字を積み上げていた頃、誰か私へ頭を下げましたか。誰も下げませんでしたよね。苦労というものは、自分の分だけ特別らしい」

 乾君は低い声で言いました。

「やっぱりお前は、ずっと俺たちを見下してたんだな」

 その一言がおかしくてたまりませんでした。

「今さらですか」

 思わず吹き出します。

「随分と出来のいい後付けですね。天才です。どうぞこれからも私めを導いてください」 

 笑いながら頭を下げた、その瞬間でした。

 頬へ乾いた音が走りました。

 不思議ですね。殴られた瞬間というものは、痛みより先に音が身体へ入ってくるようです。事務所中が静まり返り、さっきまで私の口から溢れていた笑いだけが綺麗になくなっていました。私は熱くなった頬へ手を当て、「これは失礼しました」とだけ言って頭を下げ、その場を後にしました。乾君へ負けたとは思いません。あの人も私も、大して変わらない。自分の正しさを人前で披露したくてたまらない、同じ種類の人間です。違うと思っていたのは私だけでした。

 廊下を歩きながら、ようやく笑いが引いていきました。乾君のことを、私はさっきまで散々笑っていたではありませんか。ところが気が付けば、私も同じ舞台へ上がっていました。胸の中で何度も磨いた皮肉を、人前で披露し、相手を刺したつもりで、自分の方が深く傷ついている。実に出来の悪い喜劇です。自分の底を見せた時点で負けなのですよ。賢い人間は、自分が賢いことを証明しません。優れた人間は、自分が優れていることを説明しません。胸の内へしまったまま、何事もなかったような顔で歩いていく。それが本当の余裕というものです。私は違いました。言葉を磨き、披露する日を待ち、ようやく出番が来たと思った瞬間、自分から舞台へ飛び出してしまった。乾君を笑う資格など、最初から一つもなかったのです。

 頬はまだ熱を持っていました。しかしあの痛みは乾君の手形ではありません。私の虚栄が、私の顔を殴った跡です。人を傷つけるために研いだ言葉は、人を切る前に持ち主の指を裂くものなのでしょう。私は弱い。本当に弱い。酒を飲み、悲劇へ酔い、自分だけが傷ついているような顔をして、悲しみの頂上へ登った気になっている。敗北にも随分と安い酔い方があるものですね。

 ……うえ、気持ち悪い。

 これは敗北でしょうか。それとも昨夜の酒でしょうか。

 嗚呼、ユレる、ユレる、マワる、マワる。

 最高難度の二日酔い、これってトリプルアクセル?

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