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五、酔いどれ音頭②

 第一夜の音頭──灰神楽

 夜がふやけた音を立てて、そっと始まります。

 冷蔵庫の底から冷奴と納豆を取り出し、小さな卓へ並べました。本当は肉が食べたいのです。焼き網の上で脂を爆ぜさせながら、獣の匂いを部屋中へ撒き散らす、あの下品な食べ物が恋しくてたまりません。肉というものは実に潔い。皿へ運ばれた瞬間から、「食え」としか申しません。健康も美容も十年後の身体も知ったことではない、とでも言いたげに、ただ今この一口だけを幸福へ変えてみせる。あれほど嘘のない食べ物を、私は他に知りません。

 ところが人間には頭という厄介な臓器が付いております。

 腹は肉を欲しておりますのに、頭だけは「吹き出物になりますよ」「明日の顔が腫れますよ」「肌が荒れますよ」と、まだ来てもいない明日を盾にして今日の食欲へ説教を始めるのです。実に卑怯です。空腹は今ここにあるというのに、美醜という奴は未来ばかりを味方につける。

 仕方なく私は冷奴を崩します。

 白い四角は何一つ抵抗せず、箸が触れたところから静かに形を失っていく。その様子を眺めておりますと、まるで私の食欲そのものが豆腐へ閉じ込められ、少しずつ崩されているような気がしてまいります。納豆は相変わらず糸を引いております。あの糸というものは豆ではありません。未練です。肉へ伸ばしかけた私の手首へ絡み付き、「まあまあ」と理性が袖を引っ張っているのでしょう。理性というものは実に湿っぽい。いつだって糸を引きます。

 しかし、その理性が守っているものは、たかが皮一枚です。

 翌朝になれば頬のどこかが赤く盛り上がり、小さな吹き出物が「昨夜はどうも」と律儀に挨拶へ参ります。鏡の中ではあの程度の膨らみが山ほど大きく見えるのですから、自意識というものは虫眼鏡でも飲み込んでいるのでしょう。指先で触れれば少し痛むだけなのに、「見られる」という恐怖はその何倍にも膨れ上がる。どうやら人間の皮膚というものは肉でできているのではありません。羞恥でできているようです。

 そして、煙草もまた同じです。

 小学生の頃、ある双子の写真を見せられました。顔の製造元はまったく同じだと分かるのに、一人は精悍で溌剌とし、もう一人は十年ばかり先を生きてきたような顔をしております。頬は垂れ、肌は乾き、まるで使い古された雑巾みたいに皺を抱えていました。「違いは何だと思いますか」先生がそう尋ね、誰かが食生活だの睡眠だのと答えた末に、「喫煙です」と静かに告げたのでした。

 小学生の私には、それはなかなか衝撃的でした。煙の吸引で、人は十年老いる。そんな恐ろしい代物が世の中にあるのかと本気で震え、私は絶対に吸わない、煙草なんて一生縁のない人生を歩くのだと、青臭い誓いを胸へ立てたものです。

 人生というものは、随分と人の誓いを笑うのが上手ですね。

 今だって好き好んで吸っているわけではありません。煙草なんて苦くて、不味くて、肺は痛むし、息は臭くなるし、肌まで老ける。良いところを一つ探せと言われても、灰皿が重くなるくらいしか思い付きません。それでも火を点けてしまう。煙は喉を裂き、胸へ黒い痰を貼り付かせ、灰は寿命を削る砂時計みたいに静かに落ちていく。それなのに、その苦味がどこか蜜のようで、その痛みさえ「まだ生きていますよ」と身体が寄越してくる便りのように感じられてしまうのですから、人間という生き物は実に始末が悪い。

 考えてみれば、肉が美味いのでも、酒が美味いのでも、煙草が美味いのでもありません。私が毎晩負けている相手は、もっと小さく、もっとしつこく、もっと救いようのないものです。

 自意識。

 たった、それだけです。

 もし人間から自意識というものを綺麗に摘出できたなら、世界はずいぶん甘くなるのでしょう。コンビニで一番甘い菓子パンを選び、ガムシロップとミルクをたっぷり入れたカフェオレを飲みながら、「甘いですねえ」「いやあ、本当に甘い」「見てください、私のシャボン玉の方が大きいですよ、うふふふ」などと言って笑い合う。それだけで一日が終わるはずです。幸福というものは、本来その程度の大きさしか持っていないのでしょう。

 ところが私の自意識だけは、それを決して許しません。

 「ダサい」

 たった三文字です。

 その三文字だけで、幸福は呆気なく砕け散ってしまう。実に優秀です。他人を救ったことは一度もありませんが、私が幸せになりそうな瞬間だけは驚くほど鼻が利く。だから眠れない。だったら飲むしかありませんでしょう。吸うしかありませんでしょう。夜更かしは美容の大敵ですから。

 乾杯。


 一口目。

 火が喉を通ります。

 冷えた液体のはずなのに、喉へ触れた途端だけは赤く燃え始めるのですから酒というものは随分な詐欺師です。その火種は食道を転げ落ち、胃の底へぽつりと落ちる。すると普段は寡黙な胃袋まで「火事だ」「侵入者だ」「これは大変だ」と大騒ぎを始め、肝臓も膵臓も腸も、何事かと目を覚まします。身体という国は実に噂好きです。一人が騒げば百人が騒ぎ、事情も知らぬまま祭りだけが始まってしまう。

 ところが脳味噌だけは様子が違いました。

 「こりゃあ、てぇへんだぁ」

 そう申したかと思えば、

 「祭りじゃ、祭りじゃぁー」

 と、勝手に祝祭の号令を掛け始めるのです。

 胃袋は悲鳴を上げ、心臓は鼓動を速め、肺はまだ何も吸っていないというのに咳払いを始めている。それなのに脳だけは法被を羽織り、提灯を吊るし、どこから運んできたのか櫓まで組み始めるのですから始末に負えません。危機というものを祝祭へ変える能力だけは、人間の脳味噌は昔から天下一品だったのでしょう。

 二口、三口と流し込む頃には、私の身体はとうに私の住む国ではなくなっておりました。喉の奥では笛が鳴り、胃袋では太鼓が鳴り、心臓は拍子木を打ち、血液は屋台を冷やかす客みたいに身体中を忙しなく歩き回っています。私は煙草へ火を点けます。すると祭りは人間の身体を離れ、胸の奥へ一本の古道が静かに姿を現すのでした。昼間には決して見えぬ石畳の道です。誰も掃かず、誰も歩かず、それでも何百年もそこにあったようなその道の真ん中へ、いつの間にか石の道祖神が一柱立っています。鼻は欠け、肩には苔が生え、雨風へ削られているというのに、その目だけは妙に艶やかで、まるで私が煙を供えに来ることを何十年も待っていたような顔をしております。

 そうですか、そうですか。煙というものは、吸うためではなく、捧げるためのものだったのですか。

 一本、白い煙が立ち昇るたび、石の道祖神の肩へ狐が飛び乗り、その尻尾が煙を払えば、どこからともなく天狗が酒樽を担いで現れ、河童は升を抱えたまま腹を叩き、鬼は炭火を囲み、山姥は皺だらけの手を打って笑っています。誰一人口は利きません。ただ笛だけが鳴り、太鼓だけが鳴り、提灯だけが風もないのに揺れ続け、灰が一本落ちるたび祭りは道の奥へ、奥へと進んでいく。二本目の灰が落ちる頃には、道祖神の足元へ酒が満ち、名も知らぬ神々まで盃を掲げ始めるのでした。

 煙が立ち昇るたび、祭りは少しずつ道の奥へ進んでまいります。道祖神の足元にはいつの間にか酒が満ち、名も知らぬ神々まで盃を掲げ始めるものですから、いよいよ私も何か一つ差し出さねば具合が悪い。では、今宵は何を燃やしましょう。羞恥でしょうか、虚栄でしょうか、自意識でしょうか。それとも、明日の朝に頬へ芽吹く吹き出物まで、前借りして焚べてしまいましょうか。火というものは実に律儀です。差し出されたものを一度たりとも断ったことがなく、恥も見栄も後悔も、燃えるものであれば等しく赤く照らし、最後には灰という一つの姿へ揃えてしまうのです。おもしろいではありませんか。


 喉の奥がむずむずと震え、胃袋の底から得体の知れぬ可笑しさが込み上げてまいりました。もういけません。こうなってしまえば理屈の出番はおしまいです。さあさあ、皆様お立ち会い。今宵の夜祭り、笛も太鼓もございませんが、臓物どもはすっかり浮かれ切っております。ほおら皆様、ご一緒に。


トントコ、トントコ。トロリン、コロリン。

頭は風鈴、胃袋ゃ太鼓、肺にゃ狐が笛を吹き、骨は橋桁、血潮は神輿。

ヨイサ、ヨイ。ヨイヨイサ。

酒は北から坂を越え、煙は西から橋を越え、灰は野道へ花を撒き、朝はまだまだ口を開けぬ。

トントコ、トントコ。ササラ、サラサラ。

頬には花が一つ咲く。咲いてゃ恥、散ってゃ酒、花か酒かは風が決める。

ホイサ、ホイ。

道祖神ゃ石の耳。石の耳には虫が鳴き、虫の声には火が宿り、火の中ゃ水が眠り、水の底では月が錆びる。

ヨイサ、ヨイ。

笛ゃ笛笛、太鼓ゃ腹腹、狐ゃ影影、鬼ゃまだ来ぬ。

トントコ、トントコ。トロリン、コロリン。

盃ゃ月へ、徳利ゃ雲へ、灰ゃ畑へ、夢ゃ井戸へ。井戸の底から誰か呼ぶ。呼べば笑う、笑えば眠る、眠れば朝も道に迷う。

ササラ、サラサラ。

咲けや頬花、燃えろや恥花、散れや酒花、また来い夜花。

トントコ、トントコ。トロリン、コロリン。

エンヤラ、ホイ。

エンヤラ、ホ。

眠たや、眠たや。

石ころ一つ。

枕に一つ。

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