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四、都会の乳と田舎の乳④

 久しぶりに自宅へ戻りました。湿った空気が窓辺にまとわりつき、閉め切ったカーテンの隙間から橙色の街灯、積み上がったままの本と冷え切った灰皿。

 住み慣れた薄汚れが背中に触れた途端、胸の奥がふっとほどけ、澄んだ空気が喉をすうっと通り抜けてゆくのを感じました。

 疲れた、疲れた。孤独の帰還がもたらす解放の軽さが、足の指先にまで染みわたってゆきます。

 都会の乳。

 貴方から預かった鍵はポケットの底でぬるく、次に伺えばきっと貴方はすんと澄まして、私を田舎の下僕のように扱われるのでしょう。それでも私は、また行ってしまうのでしょう。

「今は一人でいたい」と自分に言い聞かせると、網戸を抜ける風が耳元で「寂しいくせに」と囁きます。素朴で、みっともない乳を、今は雛さんが恋しいと、私は胸の内で告げるのです。けれど高飛車の後では、雛さんのそれさえなお小さく、余計な一言で傷つけてしまいそうです。

 私は缶を一本開け、煙草に火をつけて外へ出ました。アスファルトは昼の熱をまだ腹に抱え、靴底からじんわりと温が返ってきます。酔いは耳の裏から静かに回り、気がつけば、彼女のアパートの前に立っておりました。

 インターホンを押すと、痘痕のある男が出てきて「はい、なにか?」と言いました。私は頭を下げ、「夜分、申し訳ございません……雛さん、いらっしゃいますか」と声を絞り出します。奥から「雛~、誰か来てるぞ~」「えっ、誰~? 今行くね~」というやり取りが聞こえ、玄関に現れた彼女は無邪気な笑顔で「聖太君! ごめんね、ちょっと友達と出てくるね」と私の手を当然のように掴み、薄暗い駐車場へ引き出しました。生温いアスファルトの感触のなか、掌と掌が触れたところだけが特別に火照ります。

「ごめん、あれ……ウチの新しい彼氏やねん。セイちゃんのことも好きやから、ちょっと複雑なんやけど」

 ──嗚呼、貴方が高飛車の乳でいらっしゃいましたか。若き萌芽のような彼は、貴方の明るさを灯りにしているのではなく、貴方自身の性から勢いよく噴き上がる焔であり、その燃料は他者の愛情なのだったのですか。私は貴方を「俗女」と決めつけていましたが、実際は毒婦にして阿婆擦れのじゃじゃ馬、天衣無縫の気まぐれそのもの。

 己の傷を互いに舐め合う群れのなかで、貴方は痘痕づらの男と戯れ、乳を弄するのですね。己の身の丈に見合う相手と、軽やかに乳をこねくり合っている。そうでしょう、そうでしょう。

 だが私はやはり、貴方の尺度で量られる男ではないのです。私は自分を低く見積もっていたのかもしれません。田舎の出で立ちかもしれぬ私を、都会の光が選んだ者のように見せかけて生きている。その錯覚がなければ、私はとうに壊れていたのかもしれません。田舎者が抱くような、生温い乳を抱いた芋女には、到底手に負えぬ男であると、どこか思い込む必要があるのです。ならば家の鏡をすべて焼き払い、街のショーウィンドウに映る自分を片端から燃やしてしまおう。この勘違いの煙のなかを、私は幻の輪郭のまま彷徨い歩くのです。

 言葉は喉で痙攣するばかりで、私は俯いたまま肩を震わせておりました。

 彼女は黙って私の背に細い腕を回し、頬にかかる髪の匂いと体温の湿り気で私を包みます。熱に負け、骨が軋み、背骨が溶けてゆくような感覚。乳の奥に牙が潜んでいるのを知りつつも、その牙に噛まれたいという欲望が燃え上がります。いっそ、この甘ったるい腐臭のなかで窒息して死にたい。

 ──いいえ、しかし、それは許されません。

 この乳の温もり、このぬるま湯のような抱擁は醜怪であり、なに一つ美しいものを生みはしない。私は弄ばれているのだと認め、己に言い聞かせます。恥を知りなさい、私。

 想像してご覧なさい。彼女と並んで街を歩くときの、あの冷ややかな視線を。そこには一片の羨望もなく、ただ「お似合いだ」と嘲る空気だけが満ちております。私は私の素養通りの相手を連れ、その通りの評価を浴びる。それが現実であり、夢などそこここには落ちてはおりません。

 では、未来を覗いてみましょうか。彼女と私の子供──芋が芋を、劣等が劣等を再生産するのです。産声を上げた瞬間から、その子は己の卑屈を自覚してしまうでしょう。母に似た土の乳房をしゃぶりつつも、眼だけは妙に澄み切って己の惨めさを凝視し、授業参観の日には黒板の前でクラスの笑い声を自分に向けられたものとして受け取り、耳の奥でぐつぐつと煮詰めてしまう。

 私の血を引くがゆえの自意識という病を胎内から呑み込み、血まみれの小さな化け物として生まれてくるだろうと想像するだけで、私は吐き気を覚えます。

 けれども、もしあの都会の高飛車な方と歩む未来であればどうでしょう。洗練の香水と哲学めいた囁きが、夜の石畳に微笑を落とす。葡萄酒の赤が唇に灯り、通りすがる者は「まあ、素敵な奥さん」と囁くでしょう。

 そして、もし子が生まれるなら、その胎内で私の卑屈な血は濾過され、蒸発して、ただ瑞々しい肌と澄んだ瞳だけを残す、私の影を一滴も継がぬ子。だからこそそれは私の子なのです。私の卑屈を踏み台にし、屈辱を肥やしにして芽吹いた優生の花。

 授業参観の日、その子は壇上から母に向かって、憎らしくも愛おしい笑みを投げ、したり顔をして見せる。私は後ろの隅でひとり拍手をし、誰にも気づかれぬ影のまま座っている。それでよいのです。それこそが私の望む幸福なのです。

 私は酔っています。酔いは未来を歪ませ、現実を甘美に塗り替えます。彼女と歩む未来には湿った土の匂いと腐った果実の影がつきまとい、一方で高飛車の方と歩む未来には葡萄酒と花の香りが満ちている。そこには奇蹟に仮託された死の気配が密やかに潜んでいるのです。

 夢に生きるとは、死に恋うることなのだと思います。私の子は生まれる前から私を殺し、母の乳を吸うごとに私の幻を呑み込み、私の未来を呪いとして背負って歩くでしょう。それでもよい、それが甘美なのですよ。

 人生は一度きり。彼女との茶番は殴り捨て、幻にすがるのです。ほら、もう一人の高飛車なご婦人が待っています。あのだらしなく垂れた手を、今すぐ上げなさい。上げて、この生ぬるい体を遠ざけるのです。

 ──さあ、都へ参りましょう。

 私は彼女の腕を静かにほどき、踵を返して夜道を駆けました。階段を昇る足がもつれ、手すりの冷たさが掌に刺さります。呼吸は酒と煙でざらつき、目の奥が赤く熱くなってゆく。やがて、もう一つの扉の前に立ちます。ノックもそこそこに鍵を差し込み、ふと戸が開くと──

「もう帰ってきたの? どうしたの、目、真っ赤じゃん。それに酒臭い……ほら、上がって、上がって」

 と、迎えの声があふれます。高飛車に見えていたあの人は、酒でぜんまいの回らぬ私の体を、理屈など抜きにして優しく抱きしめてくださいました。肩の骨が軋み、胸の鼓動はやがて彼女の胸の内で音を失っていく。

 高飛車なるはずの乳は、とても高飛車とは思えぬほどに優しく、どうやら私は、乳を取り違えていたらしい。まったく、なんと愚かで、愛しい勘違いでしょう。田舎の乳とはこれにておさらばです。


 彼女の腕のぬくもりが、まだ微かに肌に残っています。それは本来ならば、安らぎの象徴であるはずでした。けれども私は、その優しさをまっすぐに受け取ることができません。優しければ優しいほど、女性というものは、皮肉にも下品に見えてしまうのです。なぜなら、男という生き物は、女性の優しさにつけ込む野蛮な輩だからです。自分の目論見通りの甘えを許されれば許されるほど、それを「当然の権利」のように錯覚し、ますます身近に感じ、やがて舐めてかかり、粗雑に扱うようになる。

 こんなにも上手くいかない逆説が、この世に他にあるでしょうか。思いに思いを重ね、丁寧に、品よく生きようとする女性ほど、結局はその優しさの重みで損をする。なんと残酷な構造でしょう。思いを込めて生きる女性ほど、その優しさや誠実さを踏みにじられることなく、自分らしく静かに人生を歩める世でなくてはいけません。

 では、優しくない女性はどうでしょうか。彼女たちは男に甘えを許さない。媚びず、施さず、凛として己を立たせる。その姿は一見すると冷たく、傲慢にすら映ることもあるでしょう。けれど、だからこそ男は彼女たちを容易に舐めることができず、粗雑にも扱えない。敬意を抱くか、あるいは恐れを抱くか。いずれにしても、境界線を超えることは叶わない。優しさを失った代償に、彼女たちは「品格」という鎧を身にまとうのです。

 嗚呼、なるほど。私は今夜、彼女の優しさに赦されたのではない。ただ、品格を脱ぎ捨てた女に一時の哀れみを施されたにすぎないのです。その気づきが、朝よりも早く、胸の底に沈みはじめています。

 それは思索の果てではなく、どうしようもなく自生してしまった念。触れて、抱かれて、醒めて、そのすべてを経たのちに、自然と芽吹いてしまう懺悔の芽でした。夜はまだ明けません。酒は醒めても、夢だけは腐らないものです。腐った夢ほど甘く香り、私はその匂いを嗅ぎつけては、また自分から首を差し出すのでしょう。どうやら私は、生き延びることより、上手に腐ることのほうが得意らしい。

「あ、そうだ。」

 彼女は何かを思い出したように笑って、

「私ね、来月から留学するの」とだけ言いました。

 その時になって、ようやく私は彼女の顔を見ました。いつも通りの顔でした。嗚呼、こちらも高飛車でございましたか。

 私が勝手に恋をし、勝手に傷つき、勝手に死んでゆくあいだも、貴方はただ、ご自分の人生を生きておられたのですね。私は私のために生き、貴方は貴方のために生きている。それだけのことでした。それだけのことが、私にはどうしても耐えられなかったのです。

 気づけば私は夜道を歩いておりました。街灯がひとつ、またひとつと後ろへ遠ざかってゆきます。私は笑っていたのでしょうか。泣いていたのでしょうか。もう、それさえ分かりません。

「睨めっこしましょ。泣いたら負けよ、あっぷっぷ。」


 独りになる?そんなもの、妥当すぎて異議を申し立てる余地もありません。だいたい「独りになった」などと大袈裟に言うこと自体、笑止千万。私を好いてくださる方々が消えたのではない。好いてくださっているように見えていた幻が、ようやく霧散しただけの話です。

 私は哀愁を漂わせよと必死に努力しました。どうしようもない不幸を背負っているような顔を作り、それを優しき笑顔へと塗り替え、そこから生まれる老獪な強さを人格と呼んでいたのです。世界の深淵を見据え、その深淵から見つめ返される己までも知り尽くしているような、そんな慧眼を湛えた憂い顔。そんじょそこらのかまってちゃんとは訳が違うのだと、自分に酔っておりました。知恵熱を上げ、孤独を蒸留し、その濃度に彼女は酔い続けるものと、高を括っていたのです。

 けれど掘り下げれば、目的はたったひとつ。彼女の体でございました。都会で生まれ育った洗練の肌、その輪郭、その匂い。香水と煙草と夜風が混じり合った吐息。高飛車な眼差しの下で、乳だけは不意に慈愛へ姿を変え、母が子を抱くような温もりを帯びていた。到底、私などには割に合わぬ美。その支配へ辿り着けたという事実だけで、私は恍惚に打ち震えていたのです。

見たかった。触れたかった。嗅ぎたかった。舐めたかった。ただ、それだけでした。

 私はその赤裸々な貪りを「愛」と言い換え、「優しさ」と装い、「献身」という美辞麗句で丁寧に包み直していただけなのでしょう。髪に顔を埋めれば守っている気になり、肩を撫でれば慰めているつもりになる。けれど私の掌は体温を盗み、指先は肉の柔らかさを量り、眼差しは肌を食み、舌は言葉の裏側で欲望を舐め続けていただけ。私は優しかったのではありません。優しい男でありたいという欲望に酔っていただけだったのです。なんと下品なのでしょう。

 しかし、それを欺瞞と断じてしまえば、人は誰ひとり恋などできなくなります。誰も子を宿さず、誰も誰かを抱かず、人類は静かに滅びるのでしょう。それでも私は、美しい言葉で欲望を化粧し続けた己の卑しさだけは、どうしても赦すことができません。

 思い返せば、独りでいた頃の私は、独りでいることを不幸とは思っておりませんでした。ならば戻るだけです。……いいえ、戻れるはずがありません。一度、美しい幻の温度を知ってしまった身体は、その温もりだけを忘れることができないのです。

 酒は誠実です。飲めば飲んだだけ、翌朝には必ず返してまいります。けれど人の身体というものは、一度赦された温度だけは、死ぬまで返してはくれません。

 嗚呼、なんとも業の深い器ではございませんか。

──乾杯。

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