四、都会の乳と田舎の乳③
朝が来ました。まっとうで、正しく、容赦のない朝が訪れたのを、私はベッドの中で横たわったまま見届けております。
隣には都会の方が寄り添い、見慣れぬ天井はいつもより遠く、知らぬカーテンはいつもより厚く見えます。窓から差し込む光の角度すら、昨日とは微かにずれているようで、世界の輪郭が一枚、剥がれ落ちたかのような心持ちがいたします。昨日のざわめきがまるで別世界の出来事であったかのように、この朝は白く澄み渡り、なにもなかったように静謐です。
都会の方はまだ眠っており、その寝息の静けさが逆に胸の内を圧迫いたします。呼吸の一つ一つが枕越しに伝わり、その律動が私の鼓動と小さく喧嘩をしているように感じられるのです。ふと雛さんの顔が脳裏をよぎり、喉の奥がきゅうと詰まるような感覚とともに、胃の底が重たく沈みます。あの活発で慈悲深い、善美な彼女の姿が鮮明に蘇るたび、自分の性に潜む暗い部分がまざまざと映し出されるようで、恥と嫌悪が胸の中で波立ちます。けれども、どういうわけか、私はベッドから抜け出すことができません。足先に力が入らぬまま、その場に沈み込んでしまうのです。
やがて都会の方がゆっくりと目を開け、掠れた声で「おはよ」と仰いました。私はただ「おはようございます」と、習い覚えた礼を返すように口を動かすしかありません。都会の方は静かにベッドを抜け、台所の方へと消えていかれます。薄い布越しに差す朝の光と混じり合うように立ち上る上等な豆の香りが鼻腔をかすめ、その香りは眠気を覚ますというよりも、私の罪悪感の輪郭をゆっくりとぼかしてゆくように感じられます。朝の光と珈琲の香が交わるその瞬間、赦しめいたなにかが静かに網を張り、私は知らぬうちに床に向かって引かれてゆくのを見ておりました。
午前が過ぎるにつれ、空腹の感覚が明瞭になってまいります。空腹、空腹という反芻が腹の中で手に取るように分かるほどに空っぽで、胃は苛立ちとすり減るような虚しさでどうにかなりそうです。雛さんの前ならば躊躇なく「お腹が空きました」と言えるのに、なぜかこの方にはその一言が出てきません。
けれど、その方の横顔を見るだけで、妙な優越感のようなものが胸に忍び込み、その苛立ちを忍ばせてしまうのです。涼やかな目元、すんと通った小生意気な鼻、欲しげにうるむ厚い唇、端正な輪郭の奥に潜む鋭い目付きが、私の言葉を飲み込ませるように働きます。私など相手にならぬと知りながら、その静かな所作を見ていると、なにも言えなくなってしまうのです。
罪悪感よりも、その場のぬるま湯のような安堵が心地よく、私は自らの弱さに身を任せてしまいます。気がつけば、また抱き合っている。触れ合う手の温もりは心を温めるどころか、ゆっくりと感覚を麻痺させ、幸福でも不幸でもない、ただ深く沈むような感覚が胸を満たします。雛さんの顔がふと浮かび、その思いを押しやろうとする度に抱き合う腕の力が増すように感じられ、私はこの部屋が私を赦すためにではなく、じわじわと堕とすために存在しているのだと、どこかで悟っている自分を感じます。
昼の光は、奇妙にやさしいものでした。赦しでも咎でもなく、ただ私たちを一時的に眠らせるだけの光。
都会の方はカーテンの隙間から射す陽を眺めながら、「今日、帰らなくていいの?」と一度だけ呟かれました。私は答えませんでした。答えないという答えのまま、午後の空気は静かに過ぎていきました。
夜が訪れ、部屋が薄闇に包まれてゆくころ、カーテンの隙間から漏れる街灯の光が床に一本、細い帯となって落ちていました。その弱い光のなかで、都会の方は枕に頬を預けたまま、天井をぼんやりと見上げ、ゆっくりと口を開かれました。
「私さあ、ずっと性善説とか性悪説とか、そういうの考えててさ……私、やっぱり人間って性悪だと思うんだよね。だってさ、人間って絶対、どこかに化け物飼ってるでしょ? 善いことしたあとってさ、ちょっと悦に浸るじゃない? その時点でもう、性悪じゃん」
言い終えた都会の方は、唇の端をわずかに持ち上げられました。笑いというには薄く、嘲りというには静かすぎる、その中途半端な表情が、闇の中でぼんやりと浮かんでいます。
そんな裁判を自分の中で絶えずやっている人間が、私以外にもいたのか、そう思いました。
私の持論はこうです。人間というのは、甲乙をつけねばならぬとすれば、私は性善に軍配を上げます。
現代社会を眺めれば、その証はあまりにも明白です。
多様性と呼ばれるこの世情。男だ、女だ、中性だと、性の境界はゆるやかにほどけ、装いも趣味も、発言も思想も、もはや誰の専売でもなくなっている。
誰もが自分という器を手に取り、その中に好きな色を流し込んでいる。服に個性を描く者もいれば、肌に絵を刻む者もいる。誰かは動画の中で己を演じ、誰かは匿名のまま詩を綴る。そこには、かつて“恥”とされたものが、いまや“表現”として認められているという、時代の小さな奇跡が確かに息づいております。嘲笑の外で、欺瞞の外で、そっと、しかし確かに一歩を踏み出してしている。
凡人なりに恥じらいながらも世界を表現しようとする勇気。価値観にそぐわぬものにはきっちり蓋をする潔癖。画面の中であれ、街角であれ、「個」が「個人」として尊重されている。これが現実なのです。
もちろん、その反対側では、不逞の輩がわんさかと蠢いております。それでも、それこそ人間らしい在り方ではありませんか。この仕組みが建前であろうと虚飾であろうと、とにかく“出来てしまっている”という事実が尊いのです。この胡散臭い調和こそが、こそばゆくも人間的な「性善」のかたち。
差別も戦争も、相も変わらず渦を巻いておりますがね。それでも私は言い切ります──人間は性善であると。ええ、狂気じみた断言です。
もし人が本当に生まれつき攻撃的であるならば、産声もまた、呪詛のように世界を拒んでいたでしょう。けれど現実には、多くの乳児が「ママ」「パパ」と呼びかけることから始める。あれは、他者へと手を伸ばす最初の祈り、世界に向けた、もっとも無垢な呼吸なのです。
やがて人は拗れ、怪物めいた面を見せるようになります。けれどそれは必然的な悪ではなく、自己という個性を掘り当てようとする、深い渦の一部にすぎません。悪とは、掘り当てた自己の副産物なのです。
人は己を知ろうとして、しばしば他人を傷つける。その罪は憎むべきものではなく、自己探求の代償。そう考えれば、悪とは善の裏面であり、人間の進化にとって欠かせぬ試練なのかもしれません。
結局のところ、人の根を育てるのは、置かれた土壌にほかなりません。もし選べるのであれば、誰しも善良を選び、富豪を選び、大きな犬を選んで幸福街道を闊歩していたことでしょう。だがそうはいかない。恵みに選ばれず、己の悲惨を呪う者が常。けれど幾年か経てば、その呪った環境にさえ愛着が芽生え、それを犯そうものなら人は狂気に走る。
これをなんと呼ぶ?皮肉にも、善行ですよ。
だから私は思うのです。人は、生まれた瞬間から、善でも悪でもない。その両方に触れ、揺れ、変わり続ける混沌という宿命を背負って生まれてくる。そしてその揺らぎこそが、善の源泉でありましょう。
善とは、絶対的な光ではなく、闇を抱えた人がそれでも求めようとする手の動き。悪の影があるからこそ、善の灯が見える。
しかし、こうして理屈を並べ立てるたび、私は自らの偽善を見透かします。なぜなら、私自身は性悪でございますから。抱きしめたい人を裏切り、裏切っている自分を嫌悪しながらも、抗えずにこのぬるま湯に浸かっている。
善か悪か。そんな問いを掲げた瞬間に、私の中ではもう答えが濁りはじめるのです。それでも私は、信じたいのです。善があるからこそ、悪を恥じるという感情が生まれる。その恥の一滴に、まだ人間の可能が宿っていると。
故に私は、自らを性悪と認めた上で、性善を信じるのです。それは赦しではなく、観察です。悪を見つめ、そこに小さな光を見出すこと。善悪の境を分けようとするのではなく、その混ざりの中で、どうにか人でありたいと願う。それが、私の滑稽な信仰なのです。
そして今夜もまた、罪悪感を抱きながらここにいる。都会の光に濡れ、雛さんの名を胸に沈め、己の卑しさを舐め尽くしながら、それでも人間は性善であると呟いてしまうのです。まるで、神のいない祈りのように。
そんな自論を述べたところで、あなたの答えが正解に決まっております。都会で育ち、洗練された環境に身を置き、賢き大学で学び、多くの人と交わりながら場数を踏み、その中で身のこなしや言葉遣いも自然と磨かれたのでしょう。そうして都会の空気に馴染み、人前では軽やかに笑い、欲しいものを、欲しい時に手に入れる術を心得ている。街の光で鍛えられた、眩しい賢さです。
私は都会のインテリを、心底、嫌っています。彼らのすました顔つき、磨き上げられた知性の匂い、全てが嫌です。けれども不思議なことに、その都会のあなたが、私の手を取ってはキスをせがみ、屈託なく微笑みかけてくる。洗練という名の今日のあなた、その欲望の焦点が、よりにもよって私であるという事実に、私はひどく戸惑うのです。それが、ただの気の迷いであろうことも承知しています。ですが、時折あなたが私の戯言に頷き、しばしば欺されるような瞬間があると、私はあなたを舞台に立たせ、台詞を紡がせる戯曲師のような気分になります。
布団の中で互いの腕に身を預け、まっすぐに目を交わす。吐く息が頬を撫で、瞬きの数さえ数えられるほどの距離で、暗がりの眼差しは静かに光り、私の胸をひどく騒がせます。
都会の香りをまとったその美しい顔を、私は観察します。人の目を見れば分かるのです。やがてあなたは私に失望するだろうという確信を抱きつつも、私はなお、あなたを見つめ続ける。賢きあなたはいつか本当の私に気付き、その視線は皮膚の下の醜さにまで届くでしょう。
あなたの顔立ちを辿るたび、人は自らの容姿に相応しい性質や習慣、感情を、無意識のうちに纏っていくのだと信じざるを得ません。顔や背丈、質や点数の枠組みのなかで、私たちは知らず知らずに呼吸しているのです。ならば、私の容姿が許される世界はどこにあるのかと、ふと考えてしまいます。やはり、庶民派の雛さんの顔が私にはしっくりきます。その傍にいると呼吸はゆるやかになり、手足の力がふっと抜けていく。
だが今、私は背伸びをしている。自分の身の丈を超え、あたかも対等に並んでいるという錯覚を抱き、その影で、私は雛さんをどこかで愚弄しているのです。
私はどんな虫にも化けられるのです。ぬめりを帯びた小さな命として、飾り気のない言葉を心底から吐き出せば、あなたはきっと、この虫を飼うには向かない。毛虫を、ゴキブリを、掌に載せることが出来ますか。指で潰すか、容赦なく追い払うか、あるいは腰を引いて逃げるか。そのどれかに違いありません。
雛さんは違います。雛さんは、私のような虫ケラを、掌の中でそっと包み込むかのように抱きしめてくれるのです。それがいけないのかもしれません。
どんなに汚れたゴキブリであっても、私はどこかで正面から見据え、目を見開いて処されるほうが似合っているように感じます。羽音と死の寸前の匂いが、私を正気へと引き戻すのですから。
私はその境目で、恐怖と昂りのあいだを、荒く息をしながら行ったり来たりする。雛さんの傍では、私はすっかり安心し切って眠ってしまう。のうのうと生きてしまう。そうした馴染みが、雛さんの罪なのだと私は思います。
今宵もまた、私は己の業に抱かれ、冷や汗をかきながら目を閉じます。
嗚呼、ちみてぇ、ちみてぇ。




