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ギルド職員は昆虫採集する

本日も連続投稿予定です。

よろしくお願いいたします。

 黒蝶ファントムは、ただの怪談ではなくなった。


 少なくとも、ルネリア新報はそう扱い始めている。


 『黒蝶ファントム、火中より少年を救出』


 その見出しが出てから、冒険者ギルド・ルネリア支部の食堂では、黒蝶の話題が少しずつ変な方向へ転がり始めていた。


「黒蝶って、火事場にも出るんだろ?」


「新聞に書いてあったな」


「次は何だ。迷子の猫でも助けるのか」


「それはそれで見てみたい」


「黒い仮面が猫を抱えて屋根から降りてくるのか?」


「怖がって逃げるだろ、猫が」


「いや、案外なつくかもしれねえぞ。猫も夜行性だし」


「黒蝶、猫属性説」


「もう何でもありだな」


 冒険者たちは好き勝手に笑っている。


 受付横で帳簿を整理していたリオは、無言で羽ペンを動かした。


 火属性ではない。


 水属性でもない。


 猫属性でもない。


 そもそも、属性に猫はない。


 訂正したいことは山ほどあるが、口に出せることは一つもない。


 黒蝶は、目立つために動いているわけではない。


 悪党を止めるため。


 人を助けるため。


 証拠を拾うため。


 必要があれば動く。


 それだけだ。


 ただし、その必要な行動は、時に派手な噂になる。


 新聞の見出しになり、食堂の笑い話になり、子供の真似事になり、悪党の警戒になる。


 そして、道具の消耗にもなる。


 リオは机の隅に置いた紙片へ目を落とした。


 ミラ・グリム魔工房から渡された、修理と追加装備の見積書である。


 そこには、見るだけで胃のあたりが重くなる数字が並んでいた。


「リオ」


 受付主任のマーレが声をかけてきた。


「はい」


「その紙を見てから、顔色が悪い」


「気のせいです」


「最近、お前の“気のせい”はだいたい気のせいじゃない」


「では、乾燥です」


「金額を見て乾燥するな」


 マーレはあっさり言った。


 リオは紙片を裏返した。


「何の見積もりだ」


「個人的な買い物です」


「個人的な買い物で、その顔になるのか」


「少し高い替え芯を」


「替え芯でその顔になるなら、その店は詐欺だ」


 マーレの視線は鋭い。


 ただし、問い詰めるためのものではない。


 無理をする若手職員を見張るための目だ。


「リオ」


「はい」


「借金だけはするなよ」


「しません」


「本当だな」


「はい。借金は管理が難しいので」


「理由が妙に現実的だな」


「返済予定表が増えます」


「そこか」


 マーレは少し呆れ、別の書類を差し出した。


「これ、午後までに整理しておいてくれ。東門外の採石場関係。衛兵から追加報告が来ている」


「分かりました」


 リオは受け取り、目を通す。


 採石場襲撃。


 黒い腕輪関連物品の奪取。


 土属性使いの痕跡。


 荷馬車の移動先は不明。


 旧坑道の一部に、新しく土を動かした痕跡あり。


 夜鴉商会の関与濃厚。


 そして、黒蝶と思しき人物の目撃報告あり。


 リオは最後の行で手を止めた。


 目撃報告。


 また記録に残っている。


 マーレが横から覗き込む。


「黒蝶、採石場にも出たらしいな」


「そのようですね」


「新聞がまた騒ぎそうだ」


「困りますね」


「お前が困ることではないだろ」


「資料が増えます」


「それは確かに困るな」


 マーレは納得したように頷いた。


「ただ、黒蝶が出た場所には、だいたい夜鴉の影がある。衛兵も無視はできない」


「はい」


「オルドさんも、今日は昼過ぎに衛兵詰所へ行く。お前は資料室で過去記録を探しておけ」


「採石場周辺ですか」


「それと、夜鴉商会に関する古い苦情記録。運送、倉庫、貸金、冒険者崩れの斡旋。この辺りだ」


「分かりました」


 リオは書類をまとめた。


 仕事としては自然だ。


 ギルド職員として、夜鴉商会の過去記録を調べる。


 採石場襲撃の資料を整理する。


 黒蝶の目撃報告を分類する。


 表向きには、それだけだ。


 だが、リオの頭の中では別の一覧が広がっていた。


 眠蝶粉。


 粘糸虫の糸。


 黒煙茸。


 濾過草。


 音鳴り蜥蜴の喉膜。


 灰繊維。


 消火粉用鉱石。


 石粉。


 硬化泥用の鉱砂。


 どれも、高級素材ではない。


 むしろ、市場では扱いづらい半端物だ。


 けれど、黒蝶にとっては命綱だった。


     ◇


 昼過ぎ。


 リオはギルドの資料室で、夜鴉商会に関する古い記録を漁っていた。


 夜鴉商会。


 表向きは、小規模な運送と金融を扱う商会。


 しかし、実態はもっと濁っている。


 借金を抱えた冒険者崩れへの仕事斡旋。


 身元の怪しい荷の運搬。


 倉庫契約の名義貸し。


 違法すれすれの護衛依頼。


 衛兵に届かない程度の苦情。


 ギルドが直接処分できない程度の噂。


 そういうものが、古い紙の中に少しずつ沈んでいた。


「表に出ない悪事ほど、書類が薄い」


 リオは小さく呟いた。


 明確な証拠があれば、衛兵が動く。


 被害届が出れば、ギルドも対応する。


 だが夜鴉商会は、その手前で止めるのがうまい。


 苦情。


 未払い。


 行方不明。


 依頼不履行。


 喧嘩。


 荷違い。


 どれも単体では弱い。


 だが、並べると線になる。


 黒い腕輪。


 火災倉庫。


 採石場襲撃。


 バルド・グレイン。


 老人。


 ガロ。


 そして、黒蝶を測るような動き。


 リオは古い紙をめくる手を止めた。


 敵は黒蝶を調べている。


 なら、黒蝶に関わるものも調べている可能性がある。


 装備。


 素材。


 修理。


 動き。


 噂。


 火災現場。


 新聞。


 ミラ工房。


 考えた瞬間、胃のあたりがまた重くなった。


 ミラの言葉が蘇る。


 名前が広がると、追う人も増える。


 悪党だけではない。


 衛兵、商人、新聞屋、物好きな冒険者。


 みんな、黒蝶を見たがるようになる。


 見る者が増えれば、痕跡も拾われる。


 リオは古い記録を閉じた。


 資料室の窓から、職人街の方角を見る。


 今日は、行く必要がある。


 見積もりの件もある。


 素材の件もある。


 そして何より、黒蝶の装備が今のままでは足りない。


 バルド・グレイン。


 あの土属性使い相手に、黒蝶は不利だった。


 風で飛ぶ。


 屋根を使う。


 煙を読む。


 粉を流す。


 今までの戦い方が、採石場では半分以上封じられた。


 地面を信じない。


 そう書いた。


 だが、信じないだけでは足りない。


 地面をどう避けるか。


 地面をどう読むか。


 それを考えなければ、次は逃げることすらできない。


     ◇


 夕方。


 ミラ・グリム魔工房の扉を叩くと、中から気の抜けた声が返ってきた。


「爆発してない人だけどうぞー」


「今日は爆発していません」


「今日は、って言い方がもう不穏なんだよね」


 リオが入ると、作業台の上には素材が並んでいた。


 粉。


 布。


 乾燥した草。


 黒い茸の欠片。


 薄い膜のようなもの。


 古びた糸。


 小瓶。


 そして、見積書。


 ミラは椅子に座り、片目に拡大鏡をつけたまま振り返った。


「いらっしゃい、リオ君。見積もりで倒れに来た?」


「倒れません」


「顔色は倒れそうだけど」


「数字には強い方です」


「強い人は、その紙を裏返さない」


 リオは手にしていた見積書を、そっと机に置いた。


「相談があります」


「予算を半分にしたい?」


「できれば」


「無理」


「早いですね」


「だって無理だもん」


 ミラは作業台の素材を一つずつ指差した。


「濾過草。黒煙茸。粘糸虫の古糸。音鳴り蜥蜴の喉膜。灰繊維。消火粉用の鉱石。眠蝶粉。あと、低出力鳴響弾の調整用に響き石の欠片」


「高級素材ではないですよね」


「うん。高級ではない」


「では、なぜこの金額に」


「数が多い。加工が面倒。失敗率が高い。あと、最近ちょっと値が上がってる」


 リオは顔を上げた。


「値が上がっている?」


「少しね」


「なぜですか」


「店主に聞いたら、“妙に買いに来る奴が増えた”って」


「この素材を?」


「正確には、この辺りの半端素材を。濾過草、黒煙茸、粘糸虫の古糸。普通の職人なら余らせるようなものばっかり」


 リオは口を閉じた。


 嫌な予感は、当たっていた。


 ミラは作業台の上に、古糸を一本置いた。


「この糸、高級な魔糸じゃない。熱に弱いし、湿気ると扱いづらい。普通の冒険者は買わない。職人も、安いから練習用に使うくらい」


「はい」


「でも、君の知り合いはこれを使ってる」


「知り合いが」


「はいはい。黒蝶さんが」


 ミラは次に黒煙茸をつまむ。


「これもそう。煙は出るけど臭いがきついし、薬にも染料にも半端。普通は売れ残る」


「黒膜弾の遮光材に向いています」


「そう。向いている。向いていることを知っていればね」


 ミラは今度は濾過草を指差した。


「濾過草も単体では大したことない。でも、層にして仮面へ組み込めば、それなりに使える」


「はい」


「眠蝶粉は効きが不安定。風で粒を整えられる人間なら使える」


「……はい」


「つまり、どれも“普通は微妙な素材”なの。だけど、組み合わせると黒蝶さんの装備になる」


 リオは沈黙した。


 ミラはその沈黙を見て、軽くため息をついた。


「リオ君。高い素材を買わなければ目立たない、と思ってたでしょ」


「……少し」


「半分正解。半分間違い」


 ミラは、作業台の端に置いた新聞を指で弾いた。


 そこにはまた黒蝶の記事が載っている。


 今回は一面ではない。


 だが、採石場に黒蝶らしき影が現れたという小さな記事だった。


「新聞に載った。町で噂になった。黒蝶さんが使う道具も少しずつ目撃されてる。眠らせる弾。黒い膜。粘る糸。煙を避ける仮面」


「……」


「そうなると、見る人は見る。高級素材じゃなくても、不自然な消費は目立つ」


「誰も買わないものを買い続ける方が、逆に目立つ」


「そういうこと」


 ミラは少しだけ真面目な顔で言った。


「仕入れの癖も、持ち主を語るよ」


 その言葉は、リオの胸に重く落ちた。


 顔。


 声。


 歩き方。


 外套の縫い目。


 道具の選び方。


 修理跡。


 そして、素材の仕入れ。


 すべてが正体へ続く糸になる。


 黒蝶は、目立たないために安い素材を使っていた。


 だが、それは別の意味で目立つ。


 リオは、見積書へ視線を落とした。


「では、購入量を減らすしかありませんね」


「方法はある」


「あるんですか」


「ある。ただし面倒」


「聞きます」


 ミラは指を三本立てた。


「一つ。仕入れ先を分散する。職人街だけじゃなく、薬草市、冒険者露店、行商人、周辺村から少しずつ」


「記録が散りますね」


「その代わり管理が面倒。品質も揃わない」


「二つ目は?」


「用途を偽装する。濾過草は薬草庫用。黒煙茸は染料試験。粘糸虫の古糸は修理練習。ギルド備品や工房試作用に混ぜる」


「巻き込む範囲が広がります」


「そう。嘘が増える。嘘が増えると、破綻も増える」


「三つ目は?」


 ミラは少しだけ間を置いた。


「自分で採る」


 リオは予想していた答えに、ゆっくり頷いた。


「やはり、そうなりますか」


「そうなるね」


「危険は?」


「ある。場所による。眠蝶は夜の森。黒煙茸は湿った倒木の下。粘糸虫は古い石橋や洞穴。濾過草は湿地。消火粉用の鉱石は採石場周辺にもあるけど、今は危ない」


「採石場は避けます」


「避けて。土属性使いがいるなら最悪」


「はい」


 ミラはじっとリオを見た。


「君が行くの?」


「知り合いが」


「その知り合い、採取もするんだ」


「器用なので」


「便利だねえ」


 ミラは呆れたように言ったが、止めはしなかった。


 止めても行く、と分かっているからだ。


「じゃあ、最低限の採取道具を用意する。戦闘用じゃなくて採取用。袋、瓶、乾燥箱、虫避け、簡易手袋、採取用の小型刃物。あと、素材ごとの見分け方を書いたメモ」


「助かります」


「ただし、絶対に無理はしないこと」


「分かっています」


「分かってない人の返事だね」


「努力します」


「それも禁止」


 ミラは見積書の隅に新しい項目を書き込んだ。


「あと、これ」


「何ですか」


「採取した素材の買い取り価格表。市場で買うより安く済むけど、ただじゃないと思って」


「お金を取るんですか」


「加工賃は取るよ。私は慈善工房じゃない」


「それはそうですね」


「それと、君が採ってきたものは品質確認する。使えないものは使えない。変な混ぜ物をすると、仮面の中で爆発するかもしれない」


「仮面の中で爆発は困ります」


「かなり困るね」


 ミラは真顔で頷いた。


「それからもう一つ」


「はい」


「新聞屋にも気をつけて」


「新聞屋?」


 リオは少し意外に思った。


「夜鴉ではなく?」


「夜鴉にも気をつける。衛兵にも気をつける。新聞屋にも気をつける」


「新聞屋は敵ではないでしょう」


「敵じゃなくても、秘密を暴くことはある」


 ミラは作業台の新聞を軽く叩いた。


「見出しをつける人間は、名前をつける。名前をつけたら、次は正体を知りたくなる」


「……」


「黒蝶さんが何を使ってるか。どこから来るか。誰が直してるか。誰が見積書で青くなってるか」


「最後は関係ありません」


「あるかもよ」


 リオは思わず眉を寄せた。


 ミラは少し笑った。


「まあ、今すぐ記者が工房に来るとは思わない。でも、覚えておいて。悪党だけが追跡者じゃない」


「覚えておきます」


「うん」


 ミラは採取用の小袋をリオに渡した。


「じゃあ、黒蝶さんに渡して。今夜行くなら、眠蝶粉は東の雑木林じゃなくて、北側の湿った林の方がいい。東は最近、人が多い」


「なぜ詳しいんですか」


「職人だから」


「職人は素材の場所まで把握するものなんですね」


「腕のいい職人はね」


 ミラは得意げに笑った。


 そして最後に、低く付け加えた。


「それに、黒蝶さんが死んだら、代金を回収できないし」


「そこですか」


「そこもある」


     ◇


 夜。


 ギルドの自室で、リオは採取道具を並べていた。


 仮面。


 外套。


 眠り銃。


 ただし、戦闘用の弾は少ない。


 代わりに、採取瓶、布袋、乾燥箱、手袋、小型刃物、虫避けの匂い袋、素材メモ。


 まるで冒険者というより、薬草採りの見習いである。


 もう一人のリオが、机の向こうに立っていた。


 複製体。


 黒蝶になる自分。


 だが今夜は、黒蝶として出るべきか迷う。


 黒蝶の外套と仮面は目立つ。


 新聞で名前まで飾られたばかりだ。


 黒蝶ファントムが森で茸を採っているところを目撃されたら、噂がまたおかしな方向へ伸びる。


「黒蝶、採取業者説」


 複製体が言った。


「やめて」


「黒蝶、茸好き説」


「やめて」


「黒蝶、湿地に出没」


「本当にやめて」


 本体のリオは額を押さえた。


 自分同士の会話は、時々無駄に疲れる。


「今夜は黒蝶装備を一部だけ使う。仮面は必要。森で眠蝶粉を扱うなら吸い込み対策がいる。外套は黒すぎるから裏返す」


「裏地は灰色」


「目立ちにくい。銀の蝶紋は隠す」


「眠り銃は?」


「持つ。ただし使わない前提。採取が目的」


「目的外使用は禁止」


「自分に言われると腹が立つ」


「正論だから」


 本体は小さく息を吐いた。


 そして、採取メモを渡す。


「目的は三つ。眠蝶粉、濾過草、黒煙茸。粘糸虫の古糸は危険なら後日」


「戦闘は避ける」


「避ける」


「夜鴉の影があれば?」


「追わない。採取を優先」


「信用できない」


「僕もそう思う」


 二人は同時に黙った。


 同じ顔で、同じように渋い表情をする。


 本体のリオは、改めて言った。


「今夜は本当に採取だけだ。戦うための準備を整えるために、戦いに行くわけにはいかない」


「分かった」


「三原則」


「死なない。捕まらない。装備を落とさない」


「追加」


「素材に夢中にならない。妙な痕跡を追わない。新聞記者に見つからない」


「最後は可能性低いけど」


「低くても嫌だ」


「同感」


 複製体は灰色の裏地を外側にして外套を羽織り、仮面をつけた。


 黒蝶ではない。


 少なくとも見た目は。


 それでも、夜に動くもう一人の自分であることに変わりはない。


「行ってくる」


「早めに戻って」


「努力します」


「その返事は禁止されてる」


「自分にも禁止されるのか」


 複製体は窓から夜へ出た。


     ◇


 北側の湿った林は、ルネリア城下町からそう遠くない。


 昼間は薬草採りや子供が入ることもあるが、夜は別だ。


 湿った土の匂い。


 腐葉土。


 細い虫の羽音。


 遠くの獣の声。


 月明かりは木々に遮られ、地面には斑にしか届かない。


 複製体は低く移動した。


 黒蝶として屋根を渡る時とは違う。


 ここには屋根がない。


 風を使って枝から枝へ移ることはできるが、採取道具を壊すわけにはいかない。


 足元を見る。


 湿った土。


 落ち葉。


 木の根。


 ぬかるみ。


 小さな穴。


 採石場でバルドに足場を奪われた感覚が、まだ体のどこかに残っていた。


 地面を信じない。


 そう書いた。


 けれど、今夜は地面を読まなければならない。


 沈む場所。


 固い場所。


 滑る場所。


 虫がいる場所。


 茸が生える場所。


 同じ足元でも、戦場とは違う。


 複製体はミラのメモを開いた。


『黒煙茸。湿った倒木の影。表面は黒いが、内側に青灰色の筋。似た毒茸あり。臭いが強すぎるものは不可』


 臭い。


 複製体は仮面越しに息を吸った。


 仮面の濾過層が少し匂いを削る。


 だが、完全には消えない。


 湿気と腐った木の匂いの中に、わずかに焦げたような匂いが混じっている。


 黒煙茸だ。


 複製体は倒木の根元にしゃがみ込んだ。


 黒い茸が三つ。


 メモと照合する。


 表面。


 筋。


 柄の硬さ。


 問題ない。


 小型刃物で根元から切り、乾燥箱へ入れる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 地味だ。


 黒蝶がやることとは思えないほど地味だ。


 だが、これが黒膜弾になる。


 視界を切り、火の粉を防ぎ、時には土壁の表面を覆う。


 派手な戦いの裏側には、こういう地味な作業がある。


 複製体は次の素材を探した。


 濾過草。


 湿った水辺に生える細い草。


 葉の裏に白い粉のようなものがついている。


 間違えると、ただの雑草だ。


 いや、雑草ならまだいい。


 似た毒草もある。


 複製体は水辺に膝をつき、一本ずつ確認した。


 葉の形。


 茎の柔らかさ。


 匂い。


 粉。


 地味だ。


 非常に地味だ。


 だが、仮面の中で煙を吸わないためには必要だった。


 採る。


 束ねる。


 袋に入れる。


 湿りすぎないよう、布を挟む。


 ミラのメモは細かい。


 細かすぎる。


 しかし、その細かさで命が助かる。


 複製体は黙々と手を動かした。


 そのうち、時間の感覚が薄くなっていく。


 戦いとは違う集中。


 敵を探すのではなく、素材を探す。


 足音を消すのではなく、足元を荒らさないように歩く。


 風で粉を散らすのではなく、湿った葉を乾かしすぎないようにする。


 同じ風属性でも、使い方がまるで違う。


 風は攻撃だけではない。


 煙を逃がすだけでもない。


 葉についた水滴を飛ばしすぎないように、弱く撫でることもできる。


 眠蝶粉を探す頃には、月が少し傾いていた。


 眠蝶。


 夜にだけ飛ぶ小さな蝶。


 羽に眠りを誘う粉をまとい、外敵から身を守る。


 ただし、その粉は湿気に弱い。


 強く風を当てると散りすぎる。


 素手で触れると吸い込む。


 使い方を間違えれば、自分が眠る。


 複製体は慎重に林の奥へ進んだ。


 小さな淡い光が見える。


 眠蝶だ。


 数は多くない。


 光る羽が、闇の中でゆっくり揺れている。


 綺麗だった。


 だが、気を抜くと危険だ。


 複製体は仮面の密閉を確認し、採取瓶を構える。


 風を細く使う。


 強すぎず、弱すぎず。


 蝶を傷つけず、羽から落ちる粉だけを瓶へ導く。


 最初は少し散った。


 次は少し集まった。


 三度目で、瓶の底に薄い粉が溜まる。


 眠蝶は逃げていった。


 殺さない。


 必要な分だけ取る。


 これは黒蝶の武器になる。


 悪党を眠らせる弾になる。


 だが、今この瞬間は、ただの繊細な採取だった。


 複製体は瓶に栓をする。


 その時、足元がわずかに沈んだ。


「……」


 複製体は動きを止めた。


 ぬかるみ。


 ただの湿地。


 そう判断しかけて、思い直す。


 足裏の感覚が妙に鋭い。


 柔らかい土。


 その下に、少し硬い層。


 さらにその下に、空洞のような感触。


 採石場で、低出力鳴響弾を使った時の反響に似ている。


 複製体は小さく首を傾げた。


 風属性の感覚ではない。


 これは、何だ。


 足元をもう一度確かめる。


 ぬかるみ。


 根。


 空洞。


 古い獣穴だろうか。


 複製体は低出力鳴響弾を使わず、木の枝で地面を軽く叩いた。


 鈍い音。


 下に空洞がある。


 足を置けば、崩れていたかもしれない。


 複製体はゆっくりと後退した。


「地面を信じない、か」


 小さく呟いてから、すぐに口を閉じる。


 喋る必要はない。


 だが、違和感は残った。


 今のは、道具で見つけたわけではない。


 足が先に気づいた。


 採石場の経験か。


 バルドに地面を奪われた恐怖が、体に残っているのか。


 あるいは、長時間この複製体で動き続けているせいで、足場への感覚が鋭くなっているのか。


 分からない。


 ただ、記録するべきだ。


 複製体はその場所に小さな枝を立て、迂回した。


     ◇


 帰り道、複製体はもう一度だけ足を止めた。


 林の外れ。


 古い石橋の下。


 そこに、粘糸虫の巣があった。


 予定では危険なら後日。


 だが、古糸が少し垂れている。


 巣の主は近くにいないように見える。


 採れるかもしれない。


 複製体はしばらく迷った。


 素材に夢中にならない。


 妙な痕跡を追わない。


 新聞記者に見つからない。


 追加規則を思い出す。


 しかし、粘糸弾は採石場で大きく消耗した。


 バルド相手には固定先を増やす必要がある。


 古糸は欲しい。


 複製体は、短く息を吐いた。


「少しだけ」


 自分で言って、自分で駄目だと思った。


 少しだけ。


 この言葉は危険だ。


 少しだけ確認する。


 少しだけ追う。


 少しだけ助ける。


 その少しだけが、だいたい厄介事に繋がる。


 複製体は手を引いた。


 今日は採らない。


 場所だけ記録する。


 石橋の形。


 周囲の草。


 水音。


 街道からの距離。


 次に来るなら、専用の道具が必要だ。


 複製体は踵を返した。


 その判断は、正しかった。


 直後、橋の裏で何かが動いた。


 大きな影。


 粘糸虫の成体だ。


 拳ほどの大きさの複眼が、闇の中で鈍く光る。


 もし糸に手を伸ばしていれば、噛まれていた。


 複製体は静かに距離を取った。


 戦う必要はない。


 採取は、勝つことではない。


 持ち帰ることだ。


     ◇


 夜明け前。


 複製体はギルドの自室へ戻った。


 本体のリオは、机で待っていた。


「遅い」


「採取は時間がかかる」


「怪我は?」


「なし」


「戦闘は?」


「なし」


「夜鴉は?」


「見ていない」


「新聞記者は?」


「いない」


「素材は?」


 複製体は袋と瓶を机に並べた。


 黒煙茸。


 濾過草。


 眠蝶粉。


 少量だが、質は悪くないはずだ。


「粘糸虫は?」


「場所だけ見つけた。成体がいたから採らなかった」


「正しい」


「自分に褒められても微妙」


「分かる」


 本体は素材を一つずつ確認した。


 ミラのメモと照合する。


 大きな失敗はなさそうだ。


「他には?」


 複製体は少し考えた。


「足元の空洞に気づいた」


「鳴響弾で?」


「使ってない。足で」


 本体のリオは顔を上げた。


「足で?」


「湿地の下に空洞があった。踏む前に違和感があった。採石場の時の感覚に近い」


「風で?」


「違うと思う」


「じゃあ何」


「分からない」


 二人は黙った。


 複製体は続ける。


「地面の柔らかさ、下の硬さ、空洞。そういうものが、少し分かりやすくなってる気がする」


「バルド戦の経験?」


「かもしれない。採取で足元を見続けたせいかもしれない。長時間稼働の影響かもしれない」


「記録する」


「した方がいい」


 本体は活動記録を開いた。


『素材採取。北側湿林。黒煙茸三、濾過草一束、眠蝶粉少量。粘糸虫古糸は場所のみ確認、成体ありのため未採取』


 続ける。


『複製体、足元の空洞を道具なしで感知。風属性魔法によるものではない可能性。採石場での経験、足場への警戒、長時間稼働による感覚変化か。要検証』


 ペン先が止まる。


 複製体は椅子に座っている。


 疲れている。


 本体も、見ているだけで分かる。


 戦闘ではない。


 火事場でもない。


 だが、長時間の採取は確実に体力を削っている。


「統合する?」


「する」


「疲労は?」


「それなり」


「痛みは?」


「ない。足裏が重いくらい」


「感情は?」


「地味な作業への納得と、粘糸虫を採らなかった自制心への満足」


「何それ」


「分からないけど、たぶん戻る」


 本体は小さく笑った。


 指先が触れる。


 複製体の輪郭が揺れ、消えた。


 次の瞬間、リオの体に重さが落ちてきた。


 眠気。


 湿気。


 土の匂い。


 葉を一枚ずつ確認した集中。


 眠蝶粉を瓶へ導く緊張。


 足元のぬかるみ。


 空洞に気づいた時の違和感。


 粘糸虫の巣に手を出さなかった判断。


 それらが、一気に自分のものになる。


 戦闘の痛みよりは軽い。


 だが、地味に重い。


 リオは机に手をついた。


「……採取、疲れるな」


 当然の結論だった。


 けれど、必要な疲労だった。


 机の上には素材がある。


 買えば足がつくもの。


 買い続ければ誰かに見られるもの。


 自分で採れば危険はある。


 だが、痕跡は減る。


 それに、採取の経験は無駄ではなかった。


 足場。


 土。


 湿気。


 根。


 空洞。


 これまで黒蝶が軽く飛び越えていたものを、今夜は一つずつ見た。


 リオは活動記録に、最後の一文を書き足した。


『素材採取は、黒蝶の戦闘訓練にもなり得る。特に足場感覚』


 そこまで書いて、ペンが止まる。


 足場感覚。


 風ではない。


 土に近い感覚。


 考えすぎだろうか。


 この世界で、人は基本的に一人一属性。


 リオの複製体も、これまでは風属性だった。


 そうでなければならない。


 少なくとも、そう思っていた。


 だが、複製という能力自体が、そもそも普通ではない。


 リオは自分の手を見た。


 まだ、何かが変わったわけではない。


 新しい力が出たわけでもない。


 土を操れるわけでもない。


 ただ、足元が少し気になっただけだ。


 今は、それだけでいい。


 夜明けの鐘が遠くで鳴った。


 今日もまた、ギルド職員の一日が始まる。


 机の上には、採取した素材。


 横には、修理費の見積書。


 奥には、夜鴉商会の記録。


 リオは黒煙茸の入った乾燥箱を見下ろした。


 湿った森の匂いが、まだ指先に残っている。


 黒蝶ファントムは新聞に追われ、夜鴉に測られ、素材屋の帳簿にも足跡を残し始めている。


 ならば、次はその足跡を消す方法を考えなければならない。


 買えないなら、採るしかない。


 その単純な結論は、見積書に並んだ数字よりも、ずっと重く見えた。

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