ギルド職員は昆虫採集する
本日も連続投稿予定です。
よろしくお願いいたします。
黒蝶は、ただの怪談ではなくなった。
少なくとも、ルネリア新報はそう扱い始めている。
『黒蝶、火中より少年を救出』
その見出しが出てから、冒険者ギルド・ルネリア支部の食堂では、黒蝶の話題が少しずつ変な方向へ転がり始めていた。
「黒蝶って、火事場にも出るんだろ?」
「新聞に書いてあったな」
「次は何だ。迷子の猫でも助けるのか」
「それはそれで見てみたい」
「黒い仮面が猫を抱えて屋根から降りてくるのか?」
「怖がって逃げるだろ、猫が」
「いや、案外なつくかもしれねえぞ。猫も夜行性だし」
「黒蝶、猫属性説」
「もう何でもありだな」
冒険者たちは好き勝手に笑っている。
受付横で帳簿を整理していたリオは、無言で羽ペンを動かした。
火属性ではない。
水属性でもない。
猫属性でもない。
そもそも、属性に猫はない。
訂正したいことは山ほどあるが、口に出せることは一つもない。
黒蝶は、目立つために動いているわけではない。
悪党を止めるため。
人を助けるため。
証拠を拾うため。
必要があれば動く。
それだけだ。
ただし、その必要な行動は、時に派手な噂になる。
新聞の見出しになり、食堂の笑い話になり、子供の真似事になり、悪党の警戒になる。
そして、道具の消耗にもなる。
リオは机の隅に置いた紙片へ目を落とした。
ミラ・グリム魔工房から渡された、修理と追加装備の見積書である。
そこには、見るだけで胃のあたりが重くなる数字が並んでいた。
「リオ」
受付主任のマーレが声をかけてきた。
「はい」
「その紙を見てから、顔色が悪い」
「気のせいです」
「最近、お前の“気のせい”はだいたい気のせいじゃない」
「では、乾燥です」
「金額を見て乾燥するな」
マーレはあっさり言った。
リオは紙片を裏返した。
「何の見積もりだ」
「個人的な買い物です」
「個人的な買い物で、その顔になるのか」
「少し高い替え芯を」
「替え芯でその顔になるなら、その店は詐欺だ」
マーレの視線は鋭い。
ただし、問い詰めるためのものではない。
無理をする若手職員を見張るための目だ。
「リオ」
「はい」
「借金だけはするなよ」
「しません」
「本当だな」
「はい。借金は管理が難しいので」
「理由が妙に現実的だな」
「返済予定表が増えます」
「そこか」
マーレは少し呆れ、別の書類を差し出した。
「これ、午後までに整理しておいてくれ。東門外の採石場関係。衛兵から追加報告が来ている」
「分かりました」
リオは受け取り、目を通す。
採石場襲撃。
黒い腕輪関連物品の奪取。
土属性使いの痕跡。
荷馬車の移動先は不明。
旧坑道の一部に、新しく土を動かした痕跡あり。
夜鴉商会の関与濃厚。
そして、黒蝶と思しき人物の目撃報告あり。
リオは最後の行で手を止めた。
目撃報告。
また記録に残っている。
マーレが横から覗き込む。
「黒蝶、採石場にも出たらしいな」
「そのようですね」
「新聞がまた騒ぎそうだ」
「困りますね」
「お前が困ることではないだろ」
「資料が増えます」
「それは確かに困るな」
マーレは納得したように頷いた。
「ただ、黒蝶が出た場所には、だいたい夜鴉の影がある。衛兵も無視はできない」
「はい」
「オルドさんも、今日は昼過ぎに衛兵詰所へ行く。お前は資料室で過去記録を探しておけ」
「採石場周辺ですか」
「それと、夜鴉商会に関する古い苦情記録。運送、倉庫、貸金、冒険者崩れの斡旋。この辺りだ」
「分かりました」
リオは書類をまとめた。
仕事としては自然だ。
ギルド職員として、夜鴉商会の過去記録を調べる。
採石場襲撃の資料を整理する。
黒蝶の目撃報告を分類する。
表向きには、それだけだ。
だが、リオの頭の中では別の一覧が広がっていた。
眠蝶粉。
粘糸虫の糸。
黒煙茸。
濾過草。
音鳴り蜥蜴の喉膜。
灰繊維。
消火粉用鉱石。
石粉。
硬化泥用の鉱砂。
どれも、高級素材ではない。
むしろ、市場では扱いづらい半端物だ。
けれど、黒蝶にとっては命綱だった。
◇
昼過ぎ。
リオはギルドの資料室で、夜鴉商会に関する古い記録を漁っていた。
夜鴉商会。
表向きは、小規模な運送と金融を扱う商会。
しかし、実態はもっと濁っている。
借金を抱えた冒険者崩れへの仕事斡旋。
身元の怪しい荷の運搬。
倉庫契約の名義貸し。
違法すれすれの護衛依頼。
衛兵に届かない程度の苦情。
ギルドが直接処分できない程度の噂。
そういうものが、古い紙の中に少しずつ沈んでいた。
「表に出ない悪事ほど、書類が薄い」
リオは小さく呟いた。
明確な証拠があれば、衛兵が動く。
被害届が出れば、ギルドも対応する。
だが夜鴉商会は、その手前で止めるのがうまい。
苦情。
未払い。
行方不明。
依頼不履行。
喧嘩。
荷違い。
どれも単体では弱い。
だが、並べると線になる。
黒い腕輪。
火災倉庫。
採石場襲撃。
バルド・グレイン。
老人。
ガロ。
そして、黒蝶を測るような動き。
リオは古い紙をめくる手を止めた。
敵は黒蝶を調べている。
なら、黒蝶に関わるものも調べている可能性がある。
装備。
素材。
修理。
動き。
噂。
火災現場。
新聞。
ミラ工房。
考えた瞬間、胃のあたりがまた重くなった。
ミラの言葉が蘇る。
名前が広がると、追う人も増える。
悪党だけではない。
衛兵、商人、新聞屋、物好きな冒険者。
みんな、黒蝶を見たがるようになる。
見る者が増えれば、痕跡も拾われる。
リオは古い記録を閉じた。
資料室の窓から、職人街の方角を見る。
今日は、行く必要がある。
見積もりの件もある。
素材の件もある。
そして何より、黒蝶の装備が今のままでは足りない。
バルド・グレイン。
あの土属性使い相手に、黒蝶は不利だった。
風で飛ぶ。
屋根を使う。
煙を読む。
粉を流す。
今までの戦い方が、採石場では半分以上封じられた。
地面を信じない。
そう書いた。
だが、信じないだけでは足りない。
地面をどう避けるか。
地面をどう読むか。
それを考えなければ、次は逃げることすらできない。
◇
夕方。
ミラ・グリム魔工房の扉を叩くと、中から気の抜けた声が返ってきた。
「爆発してない人だけどうぞー」
「今日は爆発していません」
「今日は、って言い方がもう不穏なんだよね」
リオが入ると、作業台の上には素材が並んでいた。
粉。
布。
乾燥した草。
黒い茸の欠片。
薄い膜のようなもの。
古びた糸。
小瓶。
そして、見積書。
ミラは椅子に座り、片目に拡大鏡をつけたまま振り返った。
「いらっしゃい、リオ君。見積もりで倒れに来た?」
「倒れません」
「顔色は倒れそうだけど」
「数字には強い方です」
「強い人は、その紙を裏返さない」
リオは手にしていた見積書を、そっと机に置いた。
「相談があります」
「予算を半分にしたい?」
「できれば」
「無理」
「早いですね」
「だって無理だもん」
ミラは作業台の素材を一つずつ指差した。
「濾過草。黒煙茸。粘糸虫の古糸。音鳴り蜥蜴の喉膜。灰繊維。消火粉用の鉱石。眠蝶粉。あと、低出力鳴響弾の調整用に響き石の欠片」
「高級素材ではないですよね」
「うん。高級ではない」
「では、なぜこの金額に」
「数が多い。加工が面倒。失敗率が高い。あと、最近ちょっと値が上がってる」
リオは顔を上げた。
「値が上がっている?」
「少しね」
「なぜですか」
「店主に聞いたら、“妙に買いに来る奴が増えた”って」
「この素材を?」
「正確には、この辺りの半端素材を。濾過草、黒煙茸、粘糸虫の古糸。普通の職人なら余らせるようなものばっかり」
リオは口を閉じた。
嫌な予感は、当たっていた。
ミラは作業台の上に、古糸を一本置いた。
「この糸、高級な魔糸じゃない。熱に弱いし、湿気ると扱いづらい。普通の冒険者は買わない。職人も、安いから練習用に使うくらい」
「はい」
「でも、君の知り合いはこれを使ってる」
「知り合いが」
「はいはい。黒蝶さんが」
ミラは次に黒煙茸をつまむ。
「これもそう。煙は出るけど臭いがきついし、薬にも染料にも半端。普通は売れ残る」
「黒膜弾の遮光材に向いています」
「そう。向いている。向いていることを知っていればね」
ミラは今度は濾過草を指差した。
「濾過草も単体では大したことない。でも、層にして仮面へ組み込めば、それなりに使える」
「はい」
「眠蝶粉は効きが不安定。風で粒を整えられる人間なら使える」
「……はい」
「つまり、どれも“普通は微妙な素材”なの。だけど、組み合わせると黒蝶さんの装備になる」
リオは沈黙した。
ミラはその沈黙を見て、軽くため息をついた。
「リオ君。高い素材を買わなければ目立たない、と思ってたでしょ」
「……少し」
「半分正解。半分間違い」
ミラは、作業台の端に置いた新聞を指で弾いた。
そこにはまた黒蝶の記事が載っている。
今回は一面ではない。
だが、採石場に黒蝶らしき影が現れたという小さな記事だった。
「新聞に載った。町で噂になった。黒蝶さんが使う道具も少しずつ目撃されてる。眠らせる弾。黒い膜。粘る糸。煙を避ける仮面」
「……」
「そうなると、見る人は見る。高級素材じゃなくても、不自然な消費は目立つ」
「誰も買わないものを買い続ける方が、逆に目立つ」
「そういうこと」
ミラは少しだけ真面目な顔で言った。
「仕入れの癖も、持ち主を語るよ」
その言葉は、リオの胸に重く落ちた。
顔。
声。
歩き方。
外套の縫い目。
道具の選び方。
修理跡。
そして、素材の仕入れ。
すべてが正体へ続く糸になる。
黒蝶は、目立たないために安い素材を使っていた。
だが、それは別の意味で目立つ。
リオは、見積書へ視線を落とした。
「では、購入量を減らすしかありませんね」
「方法はある」
「あるんですか」
「ある。ただし面倒」
「聞きます」
ミラは指を三本立てた。
「一つ。仕入れ先を分散する。職人街だけじゃなく、薬草市、冒険者露店、行商人、周辺村から少しずつ」
「記録が散りますね」
「その代わり管理が面倒。品質も揃わない」
「二つ目は?」
「用途を偽装する。濾過草は薬草庫用。黒煙茸は染料試験。粘糸虫の古糸は修理練習。ギルド備品や工房試作用に混ぜる」
「巻き込む範囲が広がります」
「そう。嘘が増える。嘘が増えると、破綻も増える」
「三つ目は?」
ミラは少しだけ間を置いた。
「自分で採る」
リオは予想していた答えに、ゆっくり頷いた。
「やはり、そうなりますか」
「そうなるね」
「危険は?」
「ある。場所による。眠蝶は夜の森。黒煙茸は湿った倒木の下。粘糸虫は古い石橋や洞穴。濾過草は湿地。消火粉用の鉱石は採石場周辺にもあるけど、今は危ない」
「採石場は避けます」
「避けて。土属性使いがいるなら最悪」
「はい」
ミラはじっとリオを見た。
「君が行くの?」
「知り合いが」
「その知り合い、採取もするんだ」
「器用なので」
「便利だねえ」
ミラは呆れたように言ったが、止めはしなかった。
止めても行く、と分かっているからだ。
「じゃあ、最低限の採取道具を用意する。戦闘用じゃなくて採取用。袋、瓶、乾燥箱、虫避け、簡易手袋、採取用の小型刃物。あと、素材ごとの見分け方を書いたメモ」
「助かります」
「ただし、絶対に無理はしないこと」
「分かっています」
「分かってない人の返事だね」
「努力します」
「それも禁止」
ミラは見積書の隅に新しい項目を書き込んだ。
「あと、これ」
「何ですか」
「採取した素材の買い取り価格表。市場で買うより安く済むけど、ただじゃないと思って」
「お金を取るんですか」
「加工賃は取るよ。私は慈善工房じゃない」
「それはそうですね」
「それと、君が採ってきたものは品質確認する。使えないものは使えない。変な混ぜ物をすると、仮面の中で爆発するかもしれない」
「仮面の中で爆発は困ります」
「かなり困るね」
ミラは真顔で頷いた。
「それからもう一つ」
「はい」
「新聞屋にも気をつけて」
「新聞屋?」
リオは少し意外に思った。
「夜鴉ではなく?」
「夜鴉にも気をつける。衛兵にも気をつける。新聞屋にも気をつける」
「新聞屋は敵ではないでしょう」
「敵じゃなくても、秘密を暴くことはある」
ミラは作業台の新聞を軽く叩いた。
「見出しをつける人間は、名前をつける。名前をつけたら、次は正体を知りたくなる」
「……」
「黒蝶さんが何を使ってるか。どこから来るか。誰が直してるか。誰が見積書で青くなってるか」
「最後は関係ありません」
「あるかもよ」
リオは思わず眉を寄せた。
ミラは少し笑った。
「まあ、今すぐ記者が工房に来るとは思わない。でも、覚えておいて。悪党だけが追跡者じゃない」
「覚えておきます」
「うん」
ミラは採取用の小袋をリオに渡した。
「じゃあ、黒蝶さんに渡して。今夜行くなら、眠蝶粉は東の雑木林じゃなくて、北側の湿った林の方がいい。東は最近、人が多い」
「なぜ詳しいんですか」
「職人だから」
「職人は素材の場所まで把握するものなんですね」
「腕のいい職人はね」
ミラは得意げに笑った。
そして最後に、低く付け加えた。
「それに、黒蝶さんが死んだら、代金を回収できないし」
「そこですか」
「そこもある」
◇
夜。
ギルドの自室で、リオは採取道具を並べていた。
仮面。
外套。
眠り銃。
ただし、戦闘用の弾は少ない。
代わりに、採取瓶、布袋、乾燥箱、手袋、小型刃物、虫避けの匂い袋、素材メモ。
まるで冒険者というより、薬草採りの見習いである。
もう一人のリオが、机の向こうに立っていた。
複製体。
黒蝶になる自分。
だが今夜は、黒蝶として出るべきか迷う。
黒蝶の外套と仮面は目立つ。
新聞で名前まで飾られたばかりだ。
黒蝶が森で茸を採っているところを目撃されたら、噂がまたおかしな方向へ伸びる。
「黒蝶、採取業者説」
複製体が言った。
「やめて」
「黒蝶、茸好き説」
「やめて」
「黒蝶、湿地に出没」
「本当にやめて」
本体のリオは額を押さえた。
自分同士の会話は、時々無駄に疲れる。
「今夜は黒蝶装備を一部だけ使う。仮面は必要。森で眠蝶粉を扱うなら吸い込み対策がいる。外套は黒すぎるから裏返す」
「裏地は灰色」
「目立ちにくい。銀の蝶紋は隠す」
「眠り銃は?」
「持つ。ただし使わない前提。採取が目的」
「目的外使用は禁止」
「自分に言われると腹が立つ」
「正論だから」
本体は小さく息を吐いた。
そして、採取メモを渡す。
「目的は三つ。眠蝶粉、濾過草、黒煙茸。粘糸虫の古糸は危険なら後日」
「戦闘は避ける」
「避ける」
「夜鴉の影があれば?」
「追わない。採取を優先」
「信用できない」
「僕もそう思う」
二人は同時に黙った。
同じ顔で、同じように渋い表情をする。
本体のリオは、改めて言った。
「今夜は本当に採取だけだ。戦うための準備を整えるために、戦いに行くわけにはいかない」
「分かった」
「三原則」
「死なない。捕まらない。装備を落とさない」
「追加」
「素材に夢中にならない。妙な痕跡を追わない。新聞記者に見つからない」
「最後は可能性低いけど」
「低くても嫌だ」
「同感」
複製体は灰色の裏地を外側にして外套を羽織り、仮面をつけた。
黒蝶ではない。
少なくとも見た目は。
それでも、夜に動くもう一人の自分であることに変わりはない。
「行ってくる」
「早めに戻って」
「努力します」
「その返事は禁止されてる」
「自分にも禁止されるのか」
複製体は窓から夜へ出た。
◇
北側の湿った林は、ルネリア城下町からそう遠くない。
昼間は薬草採りや子供が入ることもあるが、夜は別だ。
湿った土の匂い。
腐葉土。
細い虫の羽音。
遠くの獣の声。
月明かりは木々に遮られ、地面には斑にしか届かない。
複製体は低く移動した。
黒蝶として屋根を渡る時とは違う。
ここには屋根がない。
風を使って枝から枝へ移ることはできるが、採取道具を壊すわけにはいかない。
足元を見る。
湿った土。
落ち葉。
木の根。
ぬかるみ。
小さな穴。
採石場でバルドに足場を奪われた感覚が、まだ体のどこかに残っていた。
地面を信じない。
そう書いた。
けれど、今夜は地面を読まなければならない。
沈む場所。
固い場所。
滑る場所。
虫がいる場所。
茸が生える場所。
同じ足元でも、戦場とは違う。
複製体はミラのメモを開いた。
『黒煙茸。湿った倒木の影。表面は黒いが、内側に青灰色の筋。似た毒茸あり。臭いが強すぎるものは不可』
臭い。
複製体は仮面越しに息を吸った。
仮面の濾過層が少し匂いを削る。
だが、完全には消えない。
湿気と腐った木の匂いの中に、わずかに焦げたような匂いが混じっている。
黒煙茸だ。
複製体は倒木の根元にしゃがみ込んだ。
黒い茸が三つ。
メモと照合する。
表面。
筋。
柄の硬さ。
問題ない。
小型刃物で根元から切り、乾燥箱へ入れる。
一つ。
二つ。
三つ。
地味だ。
黒蝶がやることとは思えないほど地味だ。
だが、これが黒膜弾になる。
視界を切り、火の粉を防ぎ、時には土壁の表面を覆う。
派手な戦いの裏側には、こういう地味な作業がある。
複製体は次の素材を探した。
濾過草。
湿った水辺に生える細い草。
葉の裏に白い粉のようなものがついている。
間違えると、ただの雑草だ。
いや、雑草ならまだいい。
似た毒草もある。
複製体は水辺に膝をつき、一本ずつ確認した。
葉の形。
茎の柔らかさ。
匂い。
粉。
地味だ。
非常に地味だ。
だが、仮面の中で煙を吸わないためには必要だった。
採る。
束ねる。
袋に入れる。
湿りすぎないよう、布を挟む。
ミラのメモは細かい。
細かすぎる。
しかし、その細かさで命が助かる。
複製体は黙々と手を動かした。
そのうち、時間の感覚が薄くなっていく。
戦いとは違う集中。
敵を探すのではなく、素材を探す。
足音を消すのではなく、足元を荒らさないように歩く。
風で粉を散らすのではなく、湿った葉を乾かしすぎないようにする。
同じ風属性でも、使い方がまるで違う。
風は攻撃だけではない。
煙を逃がすだけでもない。
葉についた水滴を飛ばしすぎないように、弱く撫でることもできる。
眠蝶粉を探す頃には、月が少し傾いていた。
眠蝶。
夜にだけ飛ぶ小さな蝶。
羽に眠りを誘う粉をまとい、外敵から身を守る。
ただし、その粉は湿気に弱い。
強く風を当てると散りすぎる。
素手で触れると吸い込む。
使い方を間違えれば、自分が眠る。
複製体は慎重に林の奥へ進んだ。
小さな淡い光が見える。
眠蝶だ。
数は多くない。
光る羽が、闇の中でゆっくり揺れている。
綺麗だった。
だが、気を抜くと危険だ。
複製体は仮面の密閉を確認し、採取瓶を構える。
風を細く使う。
強すぎず、弱すぎず。
蝶を傷つけず、羽から落ちる粉だけを瓶へ導く。
最初は少し散った。
次は少し集まった。
三度目で、瓶の底に薄い粉が溜まる。
眠蝶は逃げていった。
殺さない。
必要な分だけ取る。
これは黒蝶の武器になる。
悪党を眠らせる弾になる。
だが、今この瞬間は、ただの繊細な採取だった。
複製体は瓶に栓をする。
その時、足元がわずかに沈んだ。
「……」
複製体は動きを止めた。
ぬかるみ。
ただの湿地。
そう判断しかけて、思い直す。
足裏の感覚が妙に鋭い。
柔らかい土。
その下に、少し硬い層。
さらにその下に、空洞のような感触。
採石場で、低出力鳴響弾を使った時の反響に似ている。
複製体は小さく首を傾げた。
風属性の感覚ではない。
これは、何だ。
足元をもう一度確かめる。
ぬかるみ。
根。
空洞。
古い獣穴だろうか。
複製体は低出力鳴響弾を使わず、木の枝で地面を軽く叩いた。
鈍い音。
下に空洞がある。
足を置けば、崩れていたかもしれない。
複製体はゆっくりと後退した。
「地面を信じない、か」
小さく呟いてから、すぐに口を閉じる。
喋る必要はない。
だが、違和感は残った。
今のは、道具で見つけたわけではない。
足が先に気づいた。
採石場の経験か。
バルドに地面を奪われた恐怖が、体に残っているのか。
あるいは、長時間この複製体で動き続けているせいで、足場への感覚が鋭くなっているのか。
分からない。
ただ、記録するべきだ。
複製体はその場所に小さな枝を立て、迂回した。
◇
帰り道、複製体はもう一度だけ足を止めた。
林の外れ。
古い石橋の下。
そこに、粘糸虫の巣があった。
予定では危険なら後日。
だが、古糸が少し垂れている。
巣の主は近くにいないように見える。
採れるかもしれない。
複製体はしばらく迷った。
素材に夢中にならない。
妙な痕跡を追わない。
新聞記者に見つからない。
追加規則を思い出す。
しかし、粘糸弾は採石場で大きく消耗した。
バルド相手には固定先を増やす必要がある。
古糸は欲しい。
複製体は、短く息を吐いた。
「少しだけ」
自分で言って、自分で駄目だと思った。
少しだけ。
この言葉は危険だ。
少しだけ確認する。
少しだけ追う。
少しだけ助ける。
その少しだけが、だいたい厄介事に繋がる。
複製体は手を引いた。
今日は採らない。
場所だけ記録する。
石橋の形。
周囲の草。
水音。
街道からの距離。
次に来るなら、専用の道具が必要だ。
複製体は踵を返した。
その判断は、正しかった。
直後、橋の裏で何かが動いた。
大きな影。
粘糸虫の成体だ。
拳ほどの大きさの複眼が、闇の中で鈍く光る。
もし糸に手を伸ばしていれば、噛まれていた。
複製体は静かに距離を取った。
戦う必要はない。
採取は、勝つことではない。
持ち帰ることだ。
◇
夜明け前。
複製体はギルドの自室へ戻った。
本体のリオは、机で待っていた。
「遅い」
「採取は時間がかかる」
「怪我は?」
「なし」
「戦闘は?」
「なし」
「夜鴉は?」
「見ていない」
「新聞記者は?」
「いない」
「素材は?」
複製体は袋と瓶を机に並べた。
黒煙茸。
濾過草。
眠蝶粉。
少量だが、質は悪くないはずだ。
「粘糸虫は?」
「場所だけ見つけた。成体がいたから採らなかった」
「正しい」
「自分に褒められても微妙」
「分かる」
本体は素材を一つずつ確認した。
ミラのメモと照合する。
大きな失敗はなさそうだ。
「他には?」
複製体は少し考えた。
「足元の空洞に気づいた」
「鳴響弾で?」
「使ってない。足で」
本体のリオは顔を上げた。
「足で?」
「湿地の下に空洞があった。踏む前に違和感があった。採石場の時の感覚に近い」
「風で?」
「違うと思う」
「じゃあ何」
「分からない」
二人は黙った。
複製体は続ける。
「地面の柔らかさ、下の硬さ、空洞。そういうものが、少し分かりやすくなってる気がする」
「バルド戦の経験?」
「かもしれない。採取で足元を見続けたせいかもしれない。長時間稼働の影響かもしれない」
「記録する」
「した方がいい」
本体は活動記録を開いた。
『素材採取。北側湿林。黒煙茸三、濾過草一束、眠蝶粉少量。粘糸虫古糸は場所のみ確認、成体ありのため未採取』
続ける。
『複製体、足元の空洞を道具なしで感知。風属性魔法によるものではない可能性。採石場での経験、足場への警戒、長時間稼働による感覚変化か。要検証』
ペン先が止まる。
複製体は椅子に座っている。
疲れている。
本体も、見ているだけで分かる。
戦闘ではない。
火事場でもない。
だが、長時間の採取は確実に体力を削っている。
「統合する?」
「する」
「疲労は?」
「それなり」
「痛みは?」
「ない。足裏が重いくらい」
「感情は?」
「地味な作業への納得と、粘糸虫を採らなかった自制心への満足」
「何それ」
「分からないけど、たぶん戻る」
本体は小さく笑った。
指先が触れる。
複製体の輪郭が揺れ、消えた。
次の瞬間、リオの体に重さが落ちてきた。
眠気。
湿気。
土の匂い。
葉を一枚ずつ確認した集中。
眠蝶粉を瓶へ導く緊張。
足元のぬかるみ。
空洞に気づいた時の違和感。
粘糸虫の巣に手を出さなかった判断。
それらが、一気に自分のものになる。
戦闘の痛みよりは軽い。
だが、地味に重い。
リオは机に手をついた。
「……採取、疲れるな」
当然の結論だった。
けれど、必要な疲労だった。
机の上には素材がある。
買えば足がつくもの。
買い続ければ誰かに見られるもの。
自分で採れば危険はある。
だが、痕跡は減る。
それに、採取の経験は無駄ではなかった。
足場。
土。
湿気。
根。
空洞。
これまで黒蝶が軽く飛び越えていたものを、今夜は一つずつ見た。
リオは活動記録に、最後の一文を書き足した。
『素材採取は、黒蝶の戦闘訓練にもなり得る。特に足場感覚』
そこまで書いて、ペンが止まる。
足場感覚。
風ではない。
土に近い感覚。
考えすぎだろうか。
この世界で、人は基本的に一人一属性。
リオの複製体も、これまでは風属性だった。
そうでなければならない。
少なくとも、そう思っていた。
だが、複製という能力自体が、そもそも普通ではない。
リオは自分の手を見た。
まだ、何かが変わったわけではない。
新しい力が出たわけでもない。
土を操れるわけでもない。
ただ、足元が少し気になっただけだ。
今は、それだけでいい。
夜明けの鐘が遠くで鳴った。
今日もまた、ギルド職員の一日が始まる。
机の上には、採取した素材。
横には、修理費の見積書。
奥には、夜鴉商会の記録。
リオは黒煙茸の入った乾燥箱を見下ろした。
湿った森の匂いが、まだ指先に残っている。
黒蝶は新聞に追われ、夜鴉に測られ、素材屋の帳簿にも足跡を残し始めている。
ならば、次はその足跡を消す方法を考えなければならない。
買えないなら、採るしかない。
その単純な結論は、見積書に並んだ数字よりも、ずっと重く見えた。




