幕間 小悪党は砂埃を起こす
ガロは、風属性だった。
ただし、それを誇りに思ったことは一度もない。
指先で小さな風を起こせる。
砂埃を少し巻ける。
紙切れを揺らせる。
相手の顔に、ほんの少し埃を飛ばせる。
その程度だ。
風属性だと分かった時、周りの大人は言った。
軽い属性だな、と。
逃げ足だけは速くなるかもな、と。
ガロも、そう思っていた。
火のように燃やせない。
土のように壁を作れない。
水のように傷を洗えない。
自分の風は、何の役にも立たない。
そう思っていた。
黒蝶を見るまでは。
◇
東門外の採石場。
ガロは、崩れた石垣の陰にいた。
赤茶けた髪を布で隠し、息を殺している。
隣には、ぼろ布をまとった老人。
名は知らない。
知る必要もない。
向こうも、ガロのことを仲間だとは思っていないだろう。
使えるかどうかを見ている。
それくらいは分かる。
「近づきすぎるな」
老人が小さく言った。
「分かってるよ」
「バルドは巻き込む」
「分かってるって言ってんだろ」
ガロは舌打ちした。
だが、声は抑えた。
採石場は夜の中に沈んでいた。
月明かりに照らされた切り石。
放置された荷台。
古い吊り上げ用の木柱。
砂利混じりの道。
崖。
岩陰。
屋根はない。
黒蝶がいつも使う、逃げ場のような屋根はない。
そのことに気づいた時、ガロは少しだけ笑いそうになった。
黒蝶はどうする。
屋根がなければ、あいつはどう動く。
そこへ、黒い影が現れた。
黒蝶。
新聞屋は、ファントムなどと書いていた。
黒蝶と書いて、ファントム。
洒落た名前だ。
気取った名前だ。
気に食わない名前だ。
黒蝶は黒蝶だ。
夜に出て、悪党を眠らせ、何も言わずに消える、むかつく黒い仮面。
新聞屋が何と呼ぼうが、ガロにとってはそれで十分だった。
遠くからでも分かる。
黒い仮面。
黒い外套。
銀の蝶紋。
相変わらず、気に食わないくらい静かだった。
ガロは歯を噛んだ。
黒蝶も、風属性だ。
少なくとも、ガロはそう見ている。
煙を流す。
粉を操る。
弾を飛ばす。
屋根から屋根へ、風を足場のように使って移動する。
同じ風。
同じはずだ。
なのに、黒蝶の風は人を助ける。
ガロの風は、砂埃を舞わせるくらいしかできない。
「……むかつく」
ガロは小さく呟いた。
老人が横目で見る。
「何がだ」
「何でもねえ」
答える気はなかった。
黒蝶は地面を見ていた。
ただ近づくのではなく、石を叩き、反響を聞き、足場を選んでいる。
また道具か。
また準備か。
また読みか。
だが、今回は違った。
地面が沈んだ。
黒蝶の足元だけが、狙ったように落ちる。
黒蝶は粘糸弾で逃げた。
直後、石杭が突き出た。
もし一歩遅れていたら、足を貫かれていた。
ガロの背筋に、ぞわりとしたものが走った。
強い。
バルド・グレイン。
老人が連れてきた、土属性使い。
ガロは最初、ただの無愛想な中年だと思っていた。
剣を振り回すわけでもない。
派手な魔法を撃つわけでもない。
怒鳴りもしない。
笑いもしない。
だが違った。
あいつは、地面を持っている。
足場を持っている。
相手がどこに立ち、どこへ逃げ、どこで転ぶかを、最初から手の中に入れている。
「風は上を取る。土は下を取る」
バルドの声が、夜気の中を低く転がった。
「ここに屋根はないぞ、黒蝶」
ガロは思わず口元を歪めた。
そうだ。
ここに屋根はない。
黒蝶は強い。
だが、強い場所に立っているから強いのかもしれない。
なら。
その場所から引きずり下ろせばいい。
◇
足元を崩される。
それだけで、人間は簡単に転ぶ。
ガロは、それをよく知っていた。
子供のころ、逃げるときはいつも足元を見ていた。
石が浮いていないか。
泥に足を取られないか。
路地の角に誰かが待っていないか。
割れた瓶が落ちていないか。
雨水に隠れた穴がないか。
上なんか見ていられなかった。
上を見れば、殴られる。
前を見れば、塞がれる。
後ろを見れば、追いつかれる。
だから、足元を見るしかなかった。
倒れることには慣れている。
殴られて倒れた。
蹴られて倒れた。
腹を空かせて倒れた。
熱を出して倒れた。
だが、倒れたままなら、次は踏まれる。
だから立つ。
理由なんて、それだけでよかった。
ガロにとって、不屈とは勇気ではない。
きれいな覚悟でもない。
ただ、踏まれたまま終わらないための癖だった。
だから、黒蝶が宙へ逃げた時。
ガロはまた、腹が立った。
あいつは、上へ逃げられる。
自分の風では、あんなことはできない。
同じ風属性なのに。
◇
黒蝶が眠り弾を撃った。
バルドの前に土壁が立つ。
弾が砕け、粉が舞う。
だが、バルドはもうそこにいない。
「当たらなきゃ意味ねえのか」
ガロは小さく呟いた。
「何がだ」
老人が聞く。
「黒蝶の道具だよ」
眠り銃。
あれを食らえば、たぶん終わる。
ガロも一度、あの眠りに落とされた。
悔しいくらい、何もできなかった。
だが、当たらなければ意味がない。
撃つ前に読めばいい。
撃たせる場所をずらせばいい。
撃たれた瞬間に壁を出せばいい。
道具は強い。
だが、道具にも癖がある。
取り出す。
構える。
狙う。
撃つ。
その間がある。
黒蝶は速い。
だが、間は消えない。
ガロは目を細めた。
そこだ。
そこを見ればいい。
黒蝶が黒膜弾を使う。
視界が切れる。
だが、バルドは止まらない。
地面の振動で黒蝶の位置を読む。
「視界を奪う。悪くない」
バルドが言った。
「だが、足音は消えていない」
ガロは喉の奥で笑った。
見えなくても、分かる。
そういう見方もある。
黒蝶が風で土煙を払う。
その風の流れを読まれて、礫が飛ぶ。
黒蝶は外套で受ける。
少しだけ動きが鈍る。
負傷している。
燃える倉庫で無理をしたのだろう。
ガロは、その時の黒蝶を思い出した。
火の中から子供を助け、腕輪の男まで引きずり出し、何も言わずに去っていった黒い影。
翌朝には、新聞屋が勝手に名前を飾っていた。
黒蝶。
幻の守護者。
火中より少年を救出。
馬鹿みたいな見出しだと思った。
だが、火の中で見た黒蝶は、確かに消えなかった。
逃げればいい場面で、逃げなかった。
倒すだけじゃねえのかよ。
あの時、ガロはそう思った。
そして今、また思う。
助けるために傷ついたなら、その傷も弱点になる。
「馬鹿じゃねえの」
ガロは小さく吐き捨てた。
だが、その声には、いつもの嘲りが少し足りなかった。
◇
戦いは、一方的ではなかった。
黒蝶は確かに苦しんでいる。
だが、潰れない。
地面を沈められれば、粘糸弾で上へ逃げる。
足場を崩されれば、岩へ跳ぶ。
土壁で塞がれれば、黒膜と風で穴を作る。
眠り弾を防がれれば、鳴響弾で隙を作る。
勝ててはいない。
だが、終わらない。
ガロはそこに、苛立ちに似た感情を覚えた。
何で折れない。
何で諦めない。
それは自分の領分だったはずだ。
何度倒されても立つ。
何度負けても戻る。
何度笑われても噛みつく。
それだけは、自分のものだった。
なのに黒蝶も、折れない。
しかも、ただ耐えているだけではない。
考えている。
変えている。
次の手を探している。
ガロは、強く歯を噛んだ。
黒蝶は土壁に閉じ込められた。
左は石杭。
右は泥穴。
後ろは壁。
前にはバルド。
終わりだ。
そう見えた。
だが黒蝶は、低出力の鳴響弾を地面に叩きつけた。
何かを聞いている。
ガロには分からない。
だが、黒蝶は背後の土壁へ黒膜弾を撃ち、風を一点に当てた。
土壁に小さな穴が開く。
人が通るには狭い。
だが、黒蝶は外套の留め具を外し、身を細くしてそこを抜けた。
ガロは思わず息を止めた。
「そこを抜けるか」
バルドも、同じことを言った。
黒蝶は返事をしない。
通報符を荷馬車へ投げ、荷の一部を奪おうとする。
だが、バルドが足を踏み鳴らすと、木箱の下の土が盛り上がり、粘糸が切れた。
黒蝶は荷を奪えなかった。
代わりに、布切れだけを掴む。
黒い羽根印。
勝ったとは言えない。
負けたとも言えない。
だが、黒蝶は何かを持ち帰る。
どんなに不利でも、空手では帰らない。
ガロは舌打ちした。
「しぶてえ」
老人が横で言った。
「お前と似ているな」
「似てねえ」
「倒れても終わらない」
「似てねえって言ってんだろ」
ガロは老人を睨んだ。
老人は笑わなかった。
その目は、相変わらず何かを測っている。
黒蝶を。
バルドを。
そして、ガロを。
◇
やがて、バルドは深追いしなかった。
「ここは俺の足場だ。お前を殺す必要はない。測れればいい」
その言葉に、ガロは眉をひそめた。
測る。
老人も、似たようなことを言っていた。
黒蝶を測る。
黒蝶の強さを測る。
黒蝶の限界を測る。
では、自分は何だ。
測るための駒か。
黒蝶を試すための餌か。
ガロは懐に手を当てた。
そこには、老人から渡された黒い腕輪がある。
まだ、つけていない。
つければ強くなるかもしれない。
痛みが遠くなる。
恐怖が鈍る。
戦い続けられる。
だが、火事場で見た。
腕輪をつけた男は、強くなったのではない。
逃げ時を失っただけだ。
痛みを感じなかったから、火の中で暴れた。
恐怖を感じなかったから、燃える倉庫から逃げなかった。
道具を使ったのではない。
道具に使われていた。
黒蝶は違う。
あいつは道具を使っている。
バルドも違う。
あいつは地面を使っている。
なら、自分は。
ガロは、腕輪を握る手に力を込めた。
使う。
いつか使うかもしれない。
だが、今ではない。
何も分からずに使えば、あの火事場の男と同じになる。
「どうした」
老人が聞いた。
「何でもねえよ」
「腕輪を使えば、黒蝶に近づけるかもしれんぞ」
ガロは横目で老人を見た。
「近づくだけならな」
「ほう」
「近づいた後に、使い潰されちゃ意味ねえだろ」
老人の口元が、わずかに動いた。
「本当に、学んでいるな」
「うるせえ」
ガロはまた舌打ちした。
褒められても嬉しくない。
この老人に褒められるということは、利用価値があると思われたということだ。
それは、嬉しいことではない。
危ないことだ。
◇
黒蝶が去った後、荷馬車は旧坑道の方へ消えていった。
バルドもそれに続く。
老人はしばらくその背中を見送っていた。
ガロは、黒蝶が消えた方向を見ていた。
強い奴は、強い場所にいる。
黒蝶は夜にいる。
屋根にいる。
風の中にいる。
仮面の奥にいる。
新聞の中では、幻にまでされている。
だが、幻だって足場を取られれば転ぶ。
バルドは地面にいる。
石にいる。
足場にいる。
準備した場所にいる。
強い奴が強いのは、そいつ自身だけのせいじゃない。
場所だ。
道具だ。
準備だ。
見方だ。
なら、その場所を壊せばいい。
道具を使う前に潰せばいい。
準備した場所から動かせばいい。
見ているものを、逆に見ればいい。
ガロはゆっくりと笑った。
自分は弱い。
それは変わらない。
風属性だというのに、黒蝶のような風は使えない。
魔法も大したことはない。
剣も中途半端。
真正面から黒蝶に勝てるわけがない。
バルドのように地面を支配することもできない。
だが、弱いなら弱いなりに見るものがある。
足元だ。
強い奴らが見落とす、泥と石と穴と逃げ道。
それから、空気。
砂埃。
息。
声。
足音。
ガロは指先を少しだけ動かした。
小さな風が起きる。
足元の砂が、ほんのわずかに舞った。
今までは、何の役にも立たないと思っていた風だ。
だが、今は違う。
目に入れば、相手は瞬きする。
喉に入れば、咳き込む。
耳元で鳴れば、足音を聞き間違える。
眠り粉だって、散らせるかもしれない。
黒蝶の風は、煙を逃がす。
ガロの風は、砂を目に入れる。
それでいい。
それが、自分の風だ。
「老人」
「何だ」
「黒蝶を倒すには、黒蝶を強い場所から出せばいい」
「そうだな」
「バルドを倒すには、あいつの足場じゃない場所へ出せばいい」
「そうだ」
「じゃあ、俺を倒すには?」
老人は少しだけガロを見た。
ガロは笑っていた。
汚く、薄く、しぶとい笑み。
「俺を倒すには、どうすりゃいい?」
老人はしばらく答えなかった。
やがて、低く言った。
「お前は、倒すだけでは終わらんのだろう」
ガロは鼻で笑った。
「分かってんじゃねえか」
倒れることには慣れている。
だが、倒れたままでは終わらない。
それだけは、誰に教わったわけでもない。
最初から、そうするしかなかった。
◇
ルネリアの夜風が、採石場の砂を撫でていく。
黒蝶は消えた。
バルドも去った。
荷馬車も旧坑道の闇へ消えた。
残ったのは、足跡と、崩れた土と、砕けた石。
ガロは、黒蝶が最後に立っていた場所へ歩いた。
老人は止めなかった。
そこには、土が荒れていた。
沈んだ跡。
粘糸がこびりついた岩。
黒膜の残滓。
石杭が突き出た穴。
戦いの跡。
新聞に載るような綺麗な幻ではない。
土にまみれ、削られ、逃げた跡だ。
ガロはしゃがみ込み、地面に触れた。
まだ少し柔らかい。
バルドが動かした土だ。
次に、岩に残った粘糸を指でつまむ。
切れにくい。
だが、熱や土には弱い。
黒蝶の道具も、万能ではない。
ガロは、その糸を少しだけ剥がし取った。
「何をしている」
老人が聞く。
「拾ってる」
「何を」
「負け方」
老人が目を細めた。
ガロは立ち上がる。
「勝ち方なんて、俺にはまだ分からねえ。でも、黒蝶がどう崩されたかは見えた。バルドが何を使ったかも見えた。なら、それを拾う」
「それで強くなるつもりか」
「強くなる?」
ガロは笑った。
「違うな」
強くなる。
その言葉は、まだ自分には似合わない。
黒蝶のように強くなる。
バルドのように強くなる。
新聞に幻だ何だと書かれるようになる。
そんなものは、すぐには無理だ。
だが。
「負けにくくなる」
ガロは言った。
「まずはそれでいい」
老人は初めて、少しだけ愉快そうに笑った。
「小悪党らしい答えだ」
「褒めてねえだろ」
「褒めている」
「なおさらむかつく」
ガロは背を向けた。
懐には黒い腕輪。
指先には、黒蝶の粘糸の残り。
頭の中には、バルドの土壁と、黒蝶の逃げ方。
そして足元には、柔らかい土。
ガロは指先で、ほんの少しだけ風を起こした。
砂埃が舞う。
月明かりの中で、それはひどく小さく、頼りない風だった。
だが、ガロは笑った。
強い奴は上を見る。
だが、ガロは足元を見る。
上を見上げている余裕がなかったから。
踏まれないために、ずっとそうしてきたから。
だから今夜、ガロは一つ覚えた。
風は、空を飛ぶためだけのものじゃない。
足元の砂を舞わせることもできる。
相手の目を塞ぐこともできる。
強い奴が、強くいられる場所を汚すこともできる。
ガロは夜の採石場を歩き出した。
まだ弱い。
まだ三流だ。
だが、三流のまま終わるつもりはない。
倒れることには慣れている。
次は、誰かの足元を乱す番だ。
本日3回目の投稿でした。
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