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ギルド職員は積み重ねる

 翌朝。


 リオは、足の裏が重いまま目を覚ました。


 痛いわけではない。


 筋肉痛とも少し違う。


 湿った土の感触が、まだ足の底に残っているような重さだった。


 昨夜、複製体は北側の湿った林で素材を採った。


 黒煙茸。


 濾過草。


 眠蝶粉。


 粘糸虫の古糸は、巣の場所だけ確認して引いた。


 戦闘はしていない。


 誰かに追われたわけでもない。


 火事場に飛び込んだわけでもない。


 採石場で土属性使いとやり合ったわけでもない。


 ただ、歩いて、探して、しゃがんで、採って、戻っただけだ。


 それなのに、体が地味に疲れている。


「……採取、侮れないな」


 リオは寝台から起き上がり、自分の足を見た。


 足裏に傷はない。


 足首も腫れていない。


 昨日の複製体の疲労が戻っただけだ。


 ただ、それだけにしては、妙に感覚が残っている。


 柔らかい土。


 湿った根。


 薄い空洞。


 足を置く前に、沈むと分かった場所。


 あれは何だったのか。


 風属性の感覚ではない。


 少なくとも、いつもの風ではなかった。


 リオは机の上の活動記録を開いた。


 昨夜の最後の一文が目に入る。


『素材採取は、黒蝶の戦闘訓練にもなり得る。特に足場感覚』


 足場感覚。


 書いた本人が、少し疑っている。


 リオは、まったく体を動かせないわけではない。


 子供のころは、オルドに何度もギルド裏庭へ引っ張り出された。


 走れ。


 転べ。


 受け身を取れ。


 荷物を抱えて逃げろ。


 相手の剣を見るな。足を見ろ。


 足だけ見るな。肩を見ろ。


 逃げ道は、入る前に探せ。


 そういうことを、何度も叩き込まれた。


 オルドは、リオを冒険者にするつもりではなかった。


 少なくとも、リオ自身はそう受け取っている。


 ただ、ギルドで生きるなら、危ない場面から逃げる術くらいは必要だと、そう言われ続けてきた。


 最初は何度も転んだ。


 砂を食んだ。


 肩を打った。


 泣いたこともある。


 それでも、走り方、転び方、起き上がり方だけは体に残った。


 成長するにつれて、ギルドの仕事は増えた。


 帳簿。


 依頼票。


 報告書。


 資料整理。


 受付補助。


 覚えることが増え、手が足りなくなり、裏庭での訓練は少しずつ間が空くようになった。


 完全に途切れたわけではない。


 だが、毎朝のように走らされていたころに比べれば、ずいぶんまだらになった。


 一方で、別の訓練はしていた。


 黒蝶として動く複製体には、装備の動作確認が必要だった。


 眠り銃の構え。


 粘糸弾の反動。


 屋根へ上がる時の足運び。


 外套を掴まれた時の離脱。


 仮面越しの狭い視界で走る練習。


 煙の中で姿勢を低くする動き。


 それらは本格的な鍛錬ではない。


 だが、経験は統合時に本体へ戻る。


 だから、リオの体は同年代の一般人よりは動く。


 少なくとも、机に向かっているだけの職員ではない。


 ただし、それは冒険者として戦えるという意味ではなかった。


 複製体での装備訓練は、あくまで黒蝶装備を扱うためのものだ。


 砂袋を抱えて走ること。


 荷物を守りながら転ぶこと。


 誰かに足を払われた時に頭を打たないこと。


 そういう、生身の逃げ方とは少し違う。


 リオは羽ペンを取り、活動記録の余白に小さく書き足した。


『本体にも、足裏の違和感が残存。疲労だけでなく、感覚の残り方に注意』


 そこまで書いたところで、扉が叩かれた。


「リオ。起きているか」


 オルドの声だった。


「はい」


「入るぞ」


 返事を待ってから、ギルドマスターのオルドが部屋に入ってきた。


 大柄な体が、狭い職員部屋に入ると少し窮屈そうに見える。


 その手には、朝の報告書ではなく、古い革袋があった。


 嫌な予感がした。


「顔色は悪くないな」


「おはようございます」


「足は?」


「足ですか」


「昨日から、歩き方が少し変だ」


 リオは一瞬だけ黙った。


 オルドの目は鋭い。


 黒蝶の正体を知っているわけではない。


 複製のことも知らない。


 だが、リオの体調や癖には妙に気づく。


 育ての親に近い立場というのは、こういう時に厄介だった。


「少し疲れが残っているだけです」


「採石場関係で夜更かししたか」


「記録を整理していました」


「それだけか」


「はい」


 嘘ではない。


 全部ではないだけだ。


 オルドはしばらくリオを見た。


 それから、持っていた革袋を軽く放った。


 リオは受け取る。


 重い。


「何ですか、これは」


「砂袋だ」


「なぜ僕に」


「朝の訓練を戻す」


 リオは革袋を見下ろした。


 砂袋。


 革袋いっぱいに詰められた砂。


 冒険者の訓練道具としては珍しくない。


 ただし、ギルド職員の部屋に朝から持ち込まれるものではない。


「戻す、ですか」


「昔はやっていただろう」


「子供のころの話です」


「体は覚えている」


「だいぶ帳簿向きの体になりましたが」


「なら、少し戻せ」


 オルドは即答した。


「僕は冒険者ではありません」


「知っている」


「受付業務と資料整理が主な仕事です」


「それも知っている」


「なら、鍛える必要は」


「ある」


 また即答だった。


 オルドは腕を組む。


「最近、事件が近い。夜鴉、黒い腕輪、火災、採石場。お前は資料を扱う立場上、危ない情報に触れる」


「それは、そうですが」


「それに、お前はよく歩き回る。資料室、倉庫、職人街、衛兵詰所。たまたま危ない場面に出くわすこともある」


「たまたま」


「たまたまだ」


 オルドはわざとらしく言った。


 リオは反論しなかった。


「戦えとは言わん。剣を持てとも言わん。だが、転ぶな。転んだ時に頭を打つな。足を取られた時に、足首を折るな。荷物を持っていても逃げられるようにしろ」


「……逃げる訓練ですか」


「そうだ」


 オルドは少しだけ口元を歪めた。


「ギルド職員でも、逃げ足くらいは必要だ」


 それは、昔から何度も聞いた言葉だった。


 リオがまだ小さく、裏庭の砂地で何度も転ばされていたころから。


「仕事は」


「午前の最初だけだ。マーレには話してある」


「マーレさんにも?」


「むしろマーレが先に言ってきた。お前を一度外に出して動かせ、と」


 裏切られた。


 いや、心配されているだけだ。


 リオはそう自分に言い聞かせた。


「拒否権は」


「ない」


「ですよね」


 リオは砂袋を抱え直した。


 重い。


 腕にずしりとくる。


「分かりました。着替えます」


「五分で来い。裏庭だ」


「はい」


 オルドが部屋を出ていく。


 リオはしばらく砂袋を見下ろした。


 逃げる訓練。


 転ばない訓練。


 足場を見る訓練。


 偶然にしては、今の自分に必要すぎる。


 リオはため息をついた。


「……本体も、さぼっていた分を戻さないと駄目か」


 それは、避けてきた現実だった。


     ◇


 ギルド裏庭は、朝のうちはまだ人が少ない。


 倉庫の裏。


 訓練用の丸太。


 古い木箱。


 荷運び用の台車。


 冒険者たちが暇な時に軽く体を動かすための場所だ。


 地面は踏み固められているが、場所によって砂利が混じっている。


 倉庫側は硬い。


 井戸の近くは少し湿っている。


 日陰には苔がある。


 リオはそこを見ただけで、昨日の林を思い出した。


 足元。


 硬い場所。


 滑る場所。


 沈む場所。


「まず歩け」


 オルドが言った。


「歩く、ですか」


「そうだ。砂袋を抱えて、あの木箱まで行って戻れ」


「それだけですか」


「それだけだ」


 リオは砂袋を抱え、歩き出した。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 砂袋が重い。


 体の前に重心がずれる。


 普段なら気にならない小石で、足がわずかにぶれる。


 戻る。


 オルドは腕を組んだまま見ている。


「昔よりはましだな」


「昔と比べるんですか」


「比べる」


「ひどいですね」


「今の方が大きいんだから、当然だ」


「理屈ではそうですが」


「もう一回」


「はい」


「今度は、足元を見るな」


 リオは眉を寄せた。


「見るな、ですか」


「顔を下げすぎると、前から来る相手が見えん。足元を見るな。足元を感じろ」


「昔もそれ、言われましたね」


「昔からできていなかったからな」


「そこまで言わなくても」


「だから訓練する」


 リオはもう一度歩いた。


 足元を見すぎない。


 視線は前。


 だが、足の裏に意識を置く。


 硬い。


 小石。


 少し湿り。


 沈まない。


 滑る。


 リオは苔の手前で、自然と足を半歩ずらした。


 オルドの眉が少し動く。


「今、何で避けた」


「滑りそうだったので」


「見えたか」


「いえ。何となく」


「何となく、か」


 オルドはそれ以上言わなかった。


「次は走れ」


「走るんですか」


「逃げ足の訓練だからな」


 リオは砂袋を抱えたまま、裏庭を走らされた。


 速く走る必要はない。


 転ばないこと。


 荷物を落とさないこと。


 角で膨らみすぎないこと。


 木箱の陰から誰かが出てきたと想定して避けること。


 井戸の周囲では足を滑らせないこと。


 倉庫の段差でつまずかないこと。


 それだけだ。


 それだけなのに、息が上がる。


 黒蝶として屋根を走る複製体の記憶はある。


 だが、本体の体力は別だ。


 記憶があっても、筋肉は増えない。


 経験が戻っても、心肺は鍛えられない。


 当然のことだ。


 当然すぎて、少し腹が立つ。


「遅くなったな」


「昔と比べてですか」


「そうだ」


「昔の僕は、砂袋を持っていませんでした」


「言い訳はできるようになった」


「成長です」


「違う」


 オルドが木の棒で足元を指した。


「お前は年の割には動ける。昔、仕込んだからな」


「それは感謝しています」


「だが、最近は机に座りすぎだ」


「仕事ですので」


「仕事で死なれても困る」


 リオは返す言葉に詰まった。


 オルドは続ける。


「もう一周」


「はい」


 リオは走った。


 足が重い。


 肺が痛い。


 砂袋が邪魔だ。


 だが、少しずつ分かってくる。


 荷物を前で抱えると、足元を取られやすい。


 曲がる時は、荷物の重さも一緒に曲げなければならない。


 足を大きく出すより、細かく出した方が滑りにくい。


 濡れた土の上では、踏み込まずに抜ける。


 砂利では、足裏を少し広く使う。


 黒蝶の動きとは違う。


 跳ぶのではない。


 踏む。


 滑らない。


 転ばない。


 倒れるなら、受け身を取る。


「止まれ」


 オルドの声で、リオは足を止めた。


 息が乱れている。


 腕も痛い。


「次は転べ」


「はい?」


「転べ」


「命令として珍しいですね」


「いいから転べ」


 オルドは砂地を指した。


「人間、転ばないのが一番だ。だが、転ぶ時は転ぶ。なら、変な転び方をするな」


「受け身ですか」


「そうだ」


 オルドは実演した。


 大柄な体が、意外なほど軽く動く。


 足を取られたように体勢を崩し、肩から転がり、すぐに片膝で起きる。


 元冒険者。


 その肩書きが、急に現実味を帯びた。


「手を突くな。手首を折る。頭を打つな。荷物を抱えている時は、荷物を捨てるか、抱え込んで丸まれ。状況による」


「状況によることが多いですね」


「だから体に覚えさせる」


 リオは砂地に立った。


「まず、ゆっくり倒れろ」


「ゆっくり転ぶのは、それはそれで怖いですね」


「怖いくらいでちょうどいい」


 リオは言われた通り、体を崩す。


 肩から転がる。


 砂が服に入る。


 痛い。


 想像より痛い。


「昔よりはましだ」


「昔はどれだけ酷かったんですか」


「最初は棒みたいに倒れていた」


「忘れてください」


「覚えておく」


「ひどい」


「もう一回」


 もう一回。


 もう一回。


 もう一回。


 肩。


 背中。


 膝。


 砂。


 息。


 回数を重ねると、痛みは少し減った。


 代わりに、体の使い方が分かってくる。


 地面へ逆らわない。


 落ちる方向を殺さず、流す。


 腕を突っ張らない。


 頭を守る。


 膝をすぐ入れる。


 起き上がる。


「次は足を引っかける」


「引っかける?」


「俺が棒で足を払う。転べ」


「避けるのではなく?」


「避けられるなら避けろ。無理なら転べ」


「難易度が上がりましたね」


「実戦はもっと理不尽だ」


 オルドは木剣のような短い棒を持った。


 リオは砂袋を抱える。


 歩く。


 足元に棒が入る。


 避ける。


 二度目。


 避ける。


 三度目。


 棒が早い。


 足を取られ、リオは転がった。


 砂が口に入る。


「っ……」


「起きろ」


 リオは起きた。


「今のは悪くない。頭は打っていない」


「褒められている気がしません」


「褒めている」


「ありがとうございます」


「もう一回」


 もう一回。


 もう一回。


 もう一回。


 逃げる訓練というより、転ばされる訓練だった。


 だが、確かに必要だった。


 バルドの石杭。


 沈む地面。


 泥穴。


 黒蝶は複製体だから無茶ができる。


 だが、痛みと経験は戻る。


 本体が弱すぎれば、その負荷に耐えられない。


 まして、いつか本体が巻き込まれる可能性もある。


 逃げられないギルド職員では困る。


「リオ」


 オルドが棒を下ろした。


「はい」


「さっきから、足を置く場所の判断がいい」


「そうですか」


「前はもっと雑だった。いや、昔は基礎だけは入っていたが、最近は鈍っていた。今日は、その鈍りとは違う」


「……」


「湿った場所を避けた。砂利の上で歩幅を変えた。苔の前で足をずらした。意識しているのか」


「少し」


「誰かに教わったか」


「資料で」


「資料で足運びは覚えん」


「ですよね」


 リオは苦笑した。


 嘘が下手になっている。


 あるいは、オルド相手だと通じにくいだけか。


 オルドは深く追及しなかった。


「まあいい。良い変化なら使え」


「はい」


「ただし、過信するな。足元を読めると思った時ほど、罠を踏む」


 その言葉は、リオの中にすっと入った。


 バルド戦。


 黒蝶は足元を読もうとした。


 だが、読んだつもりの足場そのものを操作された。


「覚えておきます」


「なら次だ」


「まだあるんですか」


「当然だ」


 オルドは砂袋を指した。


「今度は、それを抱えて倉庫まで運べ。途中で三回、俺が邪魔をする」


「邪魔」


「実戦想定だ」


「職員の業務にしては過酷ですね」


「夜鴉が相手なら、この程度で済めば優しい」


「それはそうですが」


「走れ」


 リオは走った。


     ◇


 訓練が終わる頃には、リオの服は砂だらけになっていた。


 肩が重い。


 膝が痛い。


 息も上がっている。


 だが、不思議と頭ははっきりしていた。


 体を動かしたせいか。


 あるいは、足元に集中し続けたせいか。


 裏庭の地面の違いが、訓練前より少し分かる。


 倉庫脇の土は硬い。


 井戸の近くは湿っている。


 木箱の下には小石が溜まりやすい。


 台車が通る場所だけ、わずかに轍がある。


 普段なら気にも留めないものだ。


 だが、足場を見ると、場所の使われ方が見えてくる。


 誰がよく通るか。


 どこで荷物を置くか。


 どこが滑るか。


 どこに逃げられるか。


 どこで転ぶか。


 リオは、これまで書類で見ていたものを、地面から読む感覚を覚え始めていた。


「よし。今日はここまでだ」


 オルドが言った。


「ありがとうございました」


「礼を言う余裕はあるか」


「礼だけなら」


「なら明日もできるな」


 リオは顔を上げた。


「明日も?」


「一回で戻ると思うな」


「ですよね」


「毎朝少しやる。走る、転ぶ、運ぶ、避ける」


「業務前にですか」


「そうだ」


「勤務時間には」


「入らん」


「厳しい」


「生き残るための時間だ。文句を言うな」


 リオは反論できなかった。


 そこへ、倉庫の方から笑い声がした。


「お、リオがしごかれてる」


「珍しいもん見たな」


「ギルド職員も訓練するのか?」


 数人の冒険者が、いつの間にか裏庭に来ていた。


 暇なのか、依頼前なのか、面白がっているだけなのか。


 リオは砂まみれのまま軽く頭を下げた。


「お見苦しいところを」


「いやいや。なかなか良い転がりっぷりだったぞ」


「褒め言葉ですか、それ」


「たぶんな」


 若い冒険者が笑った。


 別の中堅冒険者が、リオの足元を見る。


「でも、最後の方は結構避けてたな」


「そうですか」


「湿った場所、ちゃんと避けてただろ。あれ、初心者はよく滑る」


「滑りたくなかったので」


「それが大事なんだよ」


 冒険者は足元の砂を蹴った。


「戦う前に転んだら終わりだからな。剣が上手いやつでも、足元が悪いとあっさり負ける」


 リオは思わず聞き返した。


「足元が悪いと、ですか」


「ああ。雨の日の石畳、ぬかるんだ街道、森の根、崩れた床。魔物より先に足場で死ぬやつもいる」


「なるほど」


「だから逃げるのも技術だ。逃げられるやつは長生きする」


 オルドが横から言った。


「聞いたか」


「はい」


「冒険者もたまには良いことを言う」


「たまには余計だろ、ギルマス」


 冒険者たちが笑う。


 その雰囲気は軽い。


 だが、言葉は重かった。


 逃げられるやつは長生きする。


 黒蝶は、逃げた。


 バルドから逃げた。


 勝てなかった。


 止められなかった。


 だが、逃げたから次がある。


 リオは砂のついた手を見た。


 この手は、剣を握るための手ではない。


 書類を書く手だ。


 道具を組み合わせる手だ。


 記録を残す手だ。


 それでも、転んだ時に起き上がれなければ意味がない。


     ◇


 昼。


 リオは資料室で、少しぎこちない動きで椅子に座った。


 膝と肩が痛い。


 受け身の練習で全身が砂まみれになったため、着替えはしたが、体の重さは残っている。


 マーレが書類束を置きながら、ちらりと見た。


「生きてるか」


「一応」


「オルドさん、容赦なかった?」


「昔よりはましだと言われました」


「褒め言葉だな」


「そうでしょうか」


「オルドさんが本当に駄目だと思ったら、ましとは言わない」


「なるほど」


「で、どのくらい転がされた?」


「数えたくありません」


「なら効いてるな」


 マーレは机の上に昼食の包みを置いた。


「食べてから資料を読め」


「まだ何も言っていません」


「言う前に置いた」


「ありがとうございます」


「礼を言うなら食べろ」


 リオは包みを開いた。


 パンと干し肉と、薄く切った果物。


 簡単だが、資料室でかじるだけのパンよりはずっとまともだ。


「マーレさん」


「何だ」


「訓練の件、マーレさんからオルドさんに?」


「言った」


「なぜ」


「お前が最近、見ていて危なっかしいから」


「そんなにですか」


「そんなに」


 即答だった。


 リオはパンを持ったまま沈黙した。


 マーレは帳簿を開きながら言う。


「昔はもう少し、ちゃんと動いていた。オルドさんにしごかれていたからな」


「見ていたんですか」


「たまに。転がされて砂まみれになって、半泣きで戻ってくる子供がいれば目立つ」


「忘れてください」


「無理だな」


 最近、昔の話を掘り返される日らしい。


 マーレは少しだけ声を柔らかくした。


「ギルドの仕事が忙しくなってから、訓練は減っただろう。お前は便利だから、仕事を回される。回されれば、こなしてしまう。こなせるから、また回される」


「ありがたいことではあります」


「そうだな。だが、体は置いていかれる」


 リオは何も言えなかった。


 まさにその通りだった。


「無理をするなと言っても、お前は無理をする。なら、せめて無理をした時に倒れにくくしておく方がいい」


「信用されていないですね」


「信用している。だから、止まらないのも分かっている」


 マーレの声は淡々としていた。


 責める調子ではない。


 だが、逃げ道もない。


「ギルド職員に必要な能力ではない気もします」


「必要だ。最近は特に」


「夜鴉の件ですか」


「それもある。黒い腕輪もある。黒蝶の噂もある。新聞屋も嗅ぎ回り始めている」


 リオはパンを持つ手を止めた。


「新聞屋?」


「ルネリア新報の記者が、午前中に来た」


「ギルドに?」


「ああ。黒蝶の目撃証言について聞きたいと」


 予想より早い。


 ミラが言っていたことが、すでに現実になっている。


「対応は」


「受付で止めた。正式な衛兵発表以上のことは話せないと言って帰した」


「そうですか」


「ただ、また来るだろうな」


「なぜですか」


「目がそういう目だった」


 マーレは少し面倒そうに言った。


「好奇心と仕事熱心が混ざった顔だ。ああいうのは、簡単には諦めない」


「名前は?」


「エルマ・リード。ルネリア新報の記者だそうだ」


 エルマ・リード。


 リオはその名前を覚えた。


 新聞社が黒蝶にファントムという読みをつけた。


 その記事を書いた本人かどうかは分からない。


 だが、いずれにせよ、黒蝶を追う人間が増えたことは確かだった。


「リオ」


「はい」


「お前、職人街に出入りしているだろ」


 リオは一瞬だけ、心臓が跳ねた。


「はい。ギルド備品の修理などで」


「聞かれたら、それで通せ」


「聞かれたら、ですか」


「記者が何を追うか分からない。黒蝶の装備に興味を持てば、職人街にも行く」


「……分かりました」


「ミラにも一応伝えておけ。余計なことを喋るな、と」


「ミラさんは喋らないと思います」


「喋らないが、相手をからかいすぎて別の意味で面倒になる可能性がある」


「否定できません」


 マーレは小さく息を吐いた。


「とにかく、黒蝶の件はギルドも慎重に扱う。衛兵との関係もあるし、夜鴉の件もある。お前は不用意に首を突っ込むな」


「はい」


「返事だけは良い」


「よく言われます」


「そこも直せ」


 また一つ、口癖に近いものを指摘された。


 リオはパンをかじりながら、心の中で活動記録に書き足した。


 不用意な定型返答、注意。


     ◇


 午後の資料整理は、思ったより進まなかった。


 体が痛い。


 椅子に座っているだけでも肩が重い。


 だが、その分、体の感覚に意識が向く。


 床板の硬さ。


 椅子の脚のぐらつき。


 机の下の板が一枚だけ浮いていること。


 資料室の床は、入口近くと奥で音が違うこと。


 これまでもそこにあったはずなのに、気にしたことはなかった。


 リオは誰もいないタイミングで、軽く床を踏んだ。


 ぎし、と音がする。


 少し弱い。


 古い床板だ。


 次に、一歩横。


 音が違う。


 こちらは下の梁が近い。


 もう一歩。


 空洞がある。


 倉庫の床下へ続く小さな空間か。


 リオは眉を寄せた。


 分かる。


 いや、分かる気がする。


 確信ではない。


 だが、以前よりもずっと気になる。


 これは訓練の成果なのか。


 昨夜の採取の経験なのか。


 複製体の変化なのか。


 あるいは、ただ気にしすぎているだけか。


 リオは活動記録を取り出そうとして、手を止めた。


 今は勤務中だ。


 個人的な記録を広げるには向かない。


 代わりに、資料室の床板修繕メモとして小さく書く。


『資料室奥、床板一部浮きあり。後日確認』


 嘘ではない。


 ただ、本当に気にしているのは床板そのものではない。


 床板の下にある空間を、自分が気にしてしまったことだ。


     ◇


 夕方。


 訓練と仕事で疲れ切ったリオは、ミラ工房へ寄るかどうか迷っていた。


 新聞記者の件を伝える必要がある。


 ただし、体は休みたがっている。


 迷った末、短時間だけ寄ることにした。


 職人街は、夕方になると少し空気が変わる。


 炉の熱はまだ残っているが、店じまいの準備を始める工房もある。


 荷運びの若者が木箱を抱えて走り、鍛冶屋の弟子が怒鳴られ、魔道具屋の看板が灯り始める。


 ミラ・グリム魔工房の扉を叩く。


「爆発してない人だけどうぞー」


「今日は転がされました」


「何その返し。どうぞ」


 リオが入ると、ミラは作業台の上で眠蝶粉の瓶を確認していた。


「お、採ってきたやつ。質は悪くないよ」


「それは良かったです」


「ただ、少ない」


「危険を避けました」


「えらい」


「自分でもそう思います」


「自分で言うほど危険だったんだ」


 ミラは瓶を置き、リオを見る。


「で、今日はどうしたの。素材の追加? 見積もりへの抗議? それとも倒れに来た?」


「新聞記者がギルドに来ました」


 ミラの表情が変わった。


「ああ、来たか」


「来たか、なんですね」


「来ると思ってた」


「エルマ・リードという記者です」


「エルマ?」


 ミラは少し顔をしかめた。


「知っているんですか」


「何度か。職人街の記事で来たことがある。炉の安全点検がどうとか、職人街の若手特集がどうとか」


「どんな人ですか」


「しつこい」


「なるほど」


「あと、目がいい。道具を見る。手を見る。床の傷も見る。嫌なタイプ」


「記者としては優秀そうですね」


「職人からすると面倒」


 ミラは椅子にもたれた。


「黒蝶さんの記事を書いたのも、たぶんあの人だと思う」


「ファントムと読ませた人ですか」


「たぶんね。見出しを決めたのが本人か編集長かは知らないけど、あの手の名前を面白がるタイプではある」


「厄介ですね」


「かなり」


 ミラはリオの足元を見た。


「で、君は何で砂だらけなの」


「着替えたはずですが」


「靴」


 リオは自分の靴を見た。


 裏に、ギルド裏庭の砂が少し残っている。


「訓練しました」


「君が?」


「はい」


「何の?」


「逃げる訓練です」


「いいじゃん」


 ミラは意外そうに頷いた。


「誰が言い出したの?」


「オルドさんとマーレさんです」


「なるほど。大人がちゃんと大人してる」


「僕も大人のつもりですが」


「十六歳はまだ周りに怒られながら育つ時期だよ」


「厳しい」


「優しいんだよ」


 ミラは作業台から小さな布袋を取り出した。


「足、痛いでしょ。これ、湿布草。安物だけど、打ち身には効く」


「ありがとうございます。お代は」


「今回はいい。素材の質が悪くなかったから、おまけ」


「珍しいですね」


「私を何だと思ってるの」


「腕の良い職人です」


「よし」


 ミラは満足そうに頷いた。


「でも、訓練は続けた方がいいよ。黒蝶さんにも伝えて」


「知り合いに、ですね」


「はいはい。知り合いに」


 ミラは眠蝶粉の瓶を軽く振った。


「道具は助けになる。でも、最後に逃げるのは体だから」


 その言葉は、朝の訓練の疲労とよく噛み合った。


 逃げるのは体。


 複製体の記憶は戻る。


 だが、本体の体が耐えられなければ意味がない。


「伝えておきます」


「それと、エルマには気をつける。あの人、悪い人じゃないけど、記事のためなら少し危ない橋を渡る」


「夜鴉に狙われる可能性もありますね」


「あるね」


「黒蝶を追って、夜鴉に近づく」


「ありそう」


 二人は同時に黙った。


 それは、放っておくには危険な未来だった。


 だが、今から記者を止める方法もない。


 むしろ止めようとすれば、余計に怪しまれる。


「……また、見るものが増えました」


 リオが言うと、ミラは少し笑った。


「見られるものも増えてるよ」


「嬉しくないですね」


「でしょうね」


     ◇


 その夜。


 リオは自室で、湿布草を足首と膝に貼った。


 ひんやりとした感覚が広がる。


 体は疲れている。


 だが、頭は妙に冴えていた。


 机の上には、活動記録。


 採石場の地図。


 素材採取メモ。


 ギルド裏庭での訓練内容。


 そして、新聞記者エルマ・リードの名前。


 リオは羽ペンを取った。


『本体訓練再開。目的:逃走、受け身、荷物保持時の移動、足場判断』


 続ける。


『幼少期からの基礎訓練あり。ただし、近年はギルド業務増加により頻度低下。複製体で黒蝶装備の動作訓練は継続していたが、本体の基礎体力・逃走訓練とは別。要再調整』


 さらに書く。


『本体にも足場感覚の変化あり。裏庭、資料室床板にて確認。風属性感覚とは異なる可能性。ただし、訓練による注意力向上の可能性もあり。即断しない』


 もう一つ、書く。


『新聞記者エルマ・リード。黒蝶関連の取材でギルドへ来訪。ミラ曰く、観察力が高く、しつこい。夜鴉とは別方向の追跡者になり得る』


 書き終えて、リオは椅子にもたれた。


 足が痛い。


 肩も痛い。


 だが、採石場の時ほどではない。


 火事場の時ほどでもない。


 これは、必要な痛みだ。


 逃げるため。


 転んでも起きるため。


 誰かに追われた時、資料を抱えたままでも生きて帰るため。


 そして、いつか本体が巻き込まれても、何もしないまま終わらないため。


 リオは床に足を下ろした。


 木の床。


 その下の梁。


 さらにその下の空間。


 意識しなければ分からない。


 意識しても、まだ曖昧だ。


 だが、そこに何かがあることを、足が知ろうとしている。


 風は、空気を読む。


 煙を読む。


 音を読む。


 黒蝶は、それで夜を飛んできた。


 けれど今、リオの足は地面を読もうとしている。


 それが訓練の成果なのか。


 疲労の錯覚なのか。


 あるいは、複製という異常な力が、何かを変え始めているのか。


 まだ分からない。


 分からないことは、記録する。


 決めつけず、並べる。


 そこから線を引く。


 リオは活動記録の最後に、小さく書き足した。


『要検証。風ではない感覚』


 窓の外では、夜のルネリアが静かに沈んでいる。


 どこかで新聞社の輪転機が回っているかもしれない。


 どこかで夜鴉が次の荷を動かしているかもしれない。


 どこかでガロが、砂埃を起こす練習をしているかもしれない。


 リオは灯りを落とした。


 明日の朝も、訓練がある。


 それだけで、少し気が重い。


 だが、逃げ足くらいは必要だ。


 オルドの言葉が、思ったより長く耳に残っていた。

次話も連続投稿予定です。

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