表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/36

ギルド職員は踏みとどまる

 それから五日が過ぎた。


 リオの朝は、砂袋から始まるようになった。


 走る。

 転ぶ。

 起きる。

 荷物を抱えたまま、濡れた土を避ける。


 オルドは容赦がない。


 木箱の陰から棒を出す。

 足元に砂を撒く。

 わざと荷物をぶつけてくる。

 時には、通りがかった冒険者にまで協力させる。


「リオ、右」


「右ですか」


 リオが右へ避ける。


 そこへ、オルドの棒が足元へ入った。


「右を見るな。右に来るとは言っていない」


「言いましたよね」


「言っただけだ」


「詐欺です」


「実戦はもっとひどい」


 そう言われると、反論しづらい。


 昼はギルドで、夜鴉商会の古い記録を漁る。


 運送記録。

 倉庫契約。

 行方不明者の報告。

 黒い腕輪に関する衛兵からの照会。

 採石場襲撃の追加報告。


 そして、ルネリア新報の記事。


 黒蝶(ファントム)は、また小さく紙面に載っていた。


 『採石場襲撃現場に黒蝶の影か』


 一面ではない。


 だが、載ったことに変わりはない。


 夕方には、ミラ工房へ素材を届けた。


 黒煙茸。

 濾過草。

 眠蝶粉。

 粘糸虫の古糸は、まだ少量しか採れていない。


 ミラは文句を言いながらも、瓶を確認し、糸を選別し、粉を乾燥皿へ移した。


「悪くない。けど、少ない」


「危険を避けています」


「それはえらい」


「褒められると不安になります」


「じゃあ言い直す。少ない」


「そちらの方が落ち着きます」


「それもどうなの」


 夜は、短時間だけ複製体を出した。


 黒蝶としてではない。


 少なくとも、新聞に載るようなことはしない。


 眠蝶粉を採る。


 濾過草を束ねる。


 古い石橋の下を確認する。


 湿った土を踏み、木の根を避け、空洞を覚える。


 派手なことは何もない。


 悪党を倒すわけでもない。


 屋根を飛ぶわけでもない。


 ただ、足元を見る日が続いた。


 湿った土。

 乾いた土。

 石畳。

 崩れた壁。

 床板。

 空洞。

 根。

 穴。


 それらは一つ一つなら、ただの経験だった。


 だが、複製体にとって経験は少し違う。


 動いた時間。

 見たもの。

 痛み。

 違和感。

 判断。


 それらは統合され、本体へ戻る。


 そして、戻ったものは消えない。


 少しずつ、積もる。


 足の裏に。


 記録の余白に。


 複製という異常な力の底に。


     ◇


 五日目の夕方。


 ルネリア城下町には、細い雨が降っていた。


 石畳が濡れ、職人街の炉の煙が低く流れる。


 リオはギルドの資料室で、湿った外套を椅子の背にかけながら、夜鴉商会の倉庫記録を確認していた。


 マーレが受付から顔を出す。


「リオ」


「はい」


「今日は早めに上がれ。雨の日に夜鴉の記録を読んでいると、顔が暗くなる」


「天候の問題でしょうか」


「半分はお前の問題だな」


「厳しいですね」


「事実だ」


 マーレは一枚の紙を机に置いた。


「それと、職人街で少し揉め事があったらしい」


「揉め事?」


「ルネリア新報の記者が、いくつかの工房に取材して回っているそうだ。黒蝶の装備について聞いているとか何とか」


 リオの手が止まった。


「エルマ・リードですか」


「おそらくな」


「ミラ工房には」


「まだ分からない。ただ、時間の問題だろう」


 リオは小さく息を吐いた。


 ミラなら、下手なことは言わない。


 言わないはずだ。


 ただし、相手をからかいすぎる可能性はある。


 マーレの指摘は正しい。


「少し、職人街に寄ってから帰ります」


「仕事で?」


「ギルド備品の件で」


「便利な言い訳だな」


「便利です」


「長居するなよ」


「はい」


「あと、雨で足元が悪い。朝の訓練を無駄にするな」


「分かりました」


 リオは資料を閉じた。


 その時だった。


 外から鈍い音が響いた。


 鐘ではない。


 爆発音。


 続いて、ざわめき。


 さらに遅れて、火事の鐘が鳴った。


 一度。

 二度。

 三度。


 資料室の空気が変わる。


「場所は」


 マーレの声に、受付側の職員が答えた。


「職人街です! 南側、魔工房の並び!」


 リオの手が止まった。


 南側。

 魔工房の並び。

 ミラ・グリム魔工房。


 マーレがすぐにリオを見た。


「リオ」


「……はい」


「現場には火消し組と衛兵が行く」


「分かっています」


「お前が飛び込む場所じゃない」


「分かっています」


「本当に?」


 リオは息を整えた。


「魔工房なら、水をかけると危ない素材があります。危険素材の一覧を作ります」


 マーレは一瞬黙った。


 その判断自体は、正しい。


 職人街の魔工房には、水で反応する粉、熱で爆ぜる鉱石、煙を出す茸、毒性のある薬液がある。


 火消し組が知らずに水をかければ、二次被害が起きる。


「三分で作れ」


「はい」


「持っていくなら、衛兵に渡すだけだ」


「はい」


「現場に入るな」


「はい」


「返事だけで終わらせるなよ」


 リオは頷いた。


 紙を引き寄せる。


 書くべきものは決まっていた。


 濾過草の乾燥束。

 黒煙茸の粉末。

 硬化泥用の樹脂。

 灰繊維。

 音鳴り蜥蜴の喉膜。

 魔石灯の予備魔石。

 粘糸虫の古糸。

 水をかけてよいもの。

 かけてはいけないもの。


 手は速く動いた。


 ギルド職員としての仕事。


 それは嘘ではない。


 だが、書きながら、リオは分かっていた。


 ただの火事ではない。


 最初に聞こえたのは、火の鐘ではなく爆発音だった。


 職人街の火災に見せかけた何か。


 そして狙われる理由が、ミラ工房にはある。


 黒蝶装備。


 素材の流れ。


 新聞記者の取材。


 夜鴉の焦り。


 線はもう、繋がっている。


 リオは危険素材一覧を書き終え、マーレに渡した。


「行ってきます」


「衛兵に渡すだけだ」


「はい」


「ミラ工房が心配なのは分かる。だが、現場で知り合いを助けようとする素人が、一番危ない」


「分かっています」


「……分かっている顔じゃない」


 リオは答えられなかった。


 マーレは短く息を吐いた。


「走るなら、せめて転ぶな」


 その一言には、正体を探る響きはない。


 ただ、朝の訓練を見ていた受付主任の、現実的な忠告だった。


「はい」


「行け。オルドさんには私から言う」


 リオは頭を下げ、資料室を飛び出した。


     ◇


 職人街へ向かう途中で、煙が見えた。


 雨の中でも分かる、黒い煙。


 普通の木材が燃える煙ではない。


 油。


 薬品。


 乾燥素材。


 魔石粉。


 いくつもの匂いが混ざり、鼻の奥を刺す。


 リオは走りながら周囲を見た。


 火消し組が動いている。


 衛兵もいる。


 だが、職人街の路地は狭い。


 雨で石畳は滑る。


 人が集まり、荷車が詰まり、思うように進めない。


「下がれ! 水属性持ちは前へ!」


「水をかけるな! 魔工房だぞ!」


「危険素材の一覧を持ってこい!」


「裏口側にも人を回せ!」


 リオは衛兵を捕まえ、危険素材一覧を渡した。


「ギルドからです。ミラ・グリム魔工房で扱っている可能性のある素材一覧です。水を直接かけると危険なものがあります」


「助かる! 火消し組に回す!」


「中に人は」


「確認中だ! ただ、裏口側で争った音がしたって話がある!」


 争った音。


 リオの背筋が冷えた。


 やはり火事だけではない。


 リオは人混みの向こうに、ミラ工房の看板を見た。


 半分焦げている。


『ミラ・グリム魔工房』


 その下の扉は壊れ、内側から煙が噴き出していた。


 火は一階奥。


 だが、煙の流れが妙に低い。


 床下からも焦げ臭い。


 支柱か床がやられている。


 リオは周囲を見た。


 ミラの姿がない。


 エルマ・リードらしき記者の姿も見えない。


 代わりに、裏路地側から短い悲鳴が聞こえた。


 ミラの声ではない。


 若い男の声。


 リオは人混みから離れた。


 表通りではない。


 工房裏の搬入口へ続く、細い路地。


 雨水が流れ、足元が滑る。


 リオは迷わず走った。


 足元を見るな。


 足元を感じろ。


 オルドの声が、頭の中に残っている。


 角を曲がったところで、リオは立ち止まった。


 裏口側に、見張りが一人いる。


 夜鴉の印はない。


 だが、普通の火事場で裏口を見張る人間はいない。


 男は短剣を持ち、周囲を警戒している。


 中に仲間がいる。


 ミラを逃がさないため。


 何かを持ち出すため。


 最後に火事に見せるため。


 リオはゆっくりと後退した。


 黒蝶なら、見張りを眠らせて入れる。


 だが、今回は違う。


 黒蝶は速い。


 煙を読める。


 眠り弾で敵を落とせる。


 だが、崩れる床を支えることはできない。


 敵を眠らせても、梁が落ちれば終わる。


 工房の中で短剣使いが暴れ、火付け役が炎を撒き、支柱が傷つけられているなら、必要なのは黒い蝶ではない。


 沈む床に足を置き、折れる柱を止め、敵の踏み込みを潰す者。


 今必要なのは、飛ぶ羽ではない。


 踏みとどまる重さだった。


 リオはさらに奥の空き倉庫へ入った。


 扉を閉める。


 そこには、小さな包みが置いてあった。


 黒い外套ではない。


 灰色の短外套。


 フルフェイスの防塵仮面。


 衝撃硬化軽鎧。


 灰底靴。


 石噛み杭。


 短索。


 硬化泥袋。


 折り畳み式の作業板。


 まだ、実戦で使うつもりはなかった。


 まだ、検証は終わっていない。


 まだ、装備も仮だ。


 だが、予定は崩れる。


 ミラが言った通りだ。


 リオは右手を前に出した。


 いつもの複製感覚に触れる。


 軽い。

 風が通る。

 黒蝶の輪郭。


 その奥に、別のものがある。


 重い。


 沈む。


 地面に根を張るような輪郭。


 リオは、そちらへ魔力を流した。


 空気は揺れなかった。


 代わりに、床板がぎしりと鳴った。


 もう一人のリオが現れる。


 同じ顔。


 同じ目。


 だが、立ち方が違う。


 軽くない。


 足が床を確かめるように置かれている。


「行けるか」


 本体が聞く。


 新型の複製体は、床へ視線を落とした。


「床下に空洞。右奥の板が弱い」


「今それを聞いたわけじゃない」


「行ける」


 本体はフルフェイスの防塵仮面を渡した。


 灰色の硬質仮面。


 目元には厚い透明鉱石の覗き窓。


 口元には交換式の濾過層。


 頬と顎は厚く、瓦礫や粉塵から顔を守る。


 黒蝶の仮面が怪談なら、これは作業場に残るための面だ。


 次に、衝撃硬化軽鎧。


 灰噛み砂と硬化泥樹脂を薄く封入した、重い布鎧。


 普段は少し硬い胴衣。


 だが、衝撃を受けた瞬間、中の粒子が噛み合い、一瞬だけ殻になる。


 ミラは、試作品をこう呼んでいた。


 衝撃硬化軽鎧ガーゴイル・スキン


「黒蝶じゃない」


「ああ」


「飛べない」


「分かってる」


「荒くなる」


「いい」


 本体は短く言った。


「殺すな」


 新型複製体は、灰色の仮面を被った。


 声が低く、重くこもる。


「殺さない」


「支えろ」


「ああ」


「止めろ」


「ああ」


「間に合わせろ」


 灰色の仮面は頷いた。


「行く」


 灰色の仮面が、倉庫の裏口から雨の中へ出ていく。


 リオ本体は、すぐには動かなかった。


 膝に力を入れ、呼吸を整える。


 ここで消えるわけにはいかない。


 リオ・アルヴェルは、ギルド職員として現場に来ている。


 危険素材一覧を渡し、火消し組と衛兵に情報を届けるために来ている。


 ならば、その役を続ける必要がある。


 リオは外套の襟を直し、表通りへ戻った。


     ◇


 灰色の仮面が工房裏へ向かった頃、リオは火消し組の輪に戻っていた。


「ギルドの兄ちゃん!」


 火消しの一人が濡れた紙を握って叫ぶ。


「この黒煙茸ってやつ、水をかけていいのか!」


「粉末なら直接は避けてください。煙が増えます。周囲を濡らして、火の回りを止める方が安全です」


「分かった!」


「濾過草の束は水をかけても構いません。ただ、魔石灯の予備箱には近づけないでください。熱で割れる可能性があります」


「魔石灯の箱はどれだ!」


「青い留め具の木箱です。ミラ工房なら作業場の右奥に置いていることが多いです」


「右奥だな!」


 リオは雨で滲む紙を押さえながら、素材名を読み上げた。


 指先は冷えている。


 だが、頭は冷えていない。


 工房の中で、灰色の仮面が床を踏み固めている。


 その同じ時、工房の外で、リオは濡れた紙を押さえながら火消し組に素材名を読み上げていた。


 誰かが見れば、リオはただのギルド職員だった。


 現場に飛び込めず、心配そうに工房を見つめる若い職員。


 それでいい。


 それが必要だった。


 衛兵の一人が裏路地を指さした。


「おい、裏に何かいるぞ!」


「黒蝶か!」


 リオは顔を上げた。


 雨と煙の向こう、灰色の影が工房の裏へ消えるところだった。


 黒ではない。


 銀の蝶紋もない。


 灰色のフルフェイス仮面。


 リオは、他の誰よりもそれを知っている。


 だが、今のリオは知らない顔をした。


「黒蝶では、ないように見えます」


「じゃあ何だ、あれは!」


「分かりません。ただ、工房の中へ向かっています」


「おい、衛兵! 裏へ回れ!」


「火消しを減らすな! 中に人がいるかもしれん!」


 現場がざわつく。


 リオは唇を結び、工房を見た。


 行け。


 間に合わせろ。


     ◇


 ミラ工房の裏口にいた見張りは、雨に気を取られていた。


 表通りの火消し組の声。


 中から響く金属音。


 煙。


 雨。


 足音は紛れていた。


 だから、灰色の仮面が近づいたことに気づいたのは、目の前に立たれてからだった。


「なっ――」


 男が短剣を抜く。


 灰色の仮面は避けなかった。


 短剣が胸元へ走る。


 刃が灰色の胴に触れた瞬間、軽鎧の内側で細かな砂が噛み合った。


 鈍い音。


 布は裂けた。


 だが、刃は深く沈まない。


「硬っ――」


 男が言い終える前に、灰色の仮面の手がその腕を掴んだ。


 灰底靴が濡れた石畳を噛む。


 押す。


 投げない。


 殴らない。


 ただ、体ごと壁へ運ぶ。


 男の背中が工房の外壁に叩きつけられた。


 息が潰れる。


 短剣が落ちる。


 灰色の仮面は男の襟を掴んだまま、低く言った。


「寝ていろ」


 拳ではなく、肘。


 腹へ一撃。


 男は声も出せずに崩れた。


 死んではいない。


 だが、しばらく立てない。


 灰色の仮面は石噛み杭を一本抜き、男の外套の裾を石畳へ縫い止めた。


 逃げられない程度に。


 そして裏口へ向かった。


     ◇


 工房内は、火事というより、荒らされた後だった。


 棚が開けられている。


 素材箱が床に転がっている。


 帳簿が数冊、革袋へ詰め込まれている。


 黒煙茸。

 濾過草。

 粘糸虫の古糸。

 眠蝶粉。


 半端な素材ばかりを記した台帳が、男の手にあった。


「台帳は」


「これだ。妙な素材ばかりだ。上が言っていた通りかもしれん」


「分かるのか」


「分からん。持ち帰れば向こうで調べる」


「試作品は」


「奥の箱だ。女が鍵を隠している」


 ミラは倒れた棚の前に膝をついていた。


 片足を作業台の脚に挟まれ、腕を押さえられている。


 顔は煤で汚れているが、目は死んでいない。


「人の工房を漁るなんて、いい趣味してるね」


「喋るな。誰の注文だ」


「お客様の秘密」


「何を作っている」


「変なもの」


「ふざけるな」


「看板に書いてあるでしょ。変な相談可って」


 刺客の一人が舌打ちした。


「連れていくか」


「火が回る。面倒だ」


「なら黙らせる」


「おい、待てよ!」


 赤髪の若者が叫んだ。


 少年というには育っている。


 だが、大人と呼ぶにはまだ早い。


 十五ほど。


 リオより一つ下くらい。


 煤で汚れた頬。


 荒い火属性の魔力。


 手には火打ち具に似た魔道具。


「火は最後って話だったろ! 中に人がいるなんて聞いてねえぞ!」


「予定が変わった」


「俺は、脅しと目くらましだけだって聞いた!」


「火をつけた時点で同じだ」


「殺しなんか受けてねえ!」


「なら黙って見ていろ。邪魔ならお前も燃やす」


 若者の顔が強張った。


 利用されたことに、今気づいた顔だった。


 灰色の仮面は、煙の奥を見た。


 ミラを押さえる刺客が二人。


 革袋を持つ刺客が一人。


 火付け役の若者が一人。


 工房を荒らす。

 帳簿を奪う。

 試作品を持ち去る。

 ミラを黙らせる。

 最後に火をつける。

 事故に見せる。


 誰が命じたのかは分からない。


 だが、やり口は見えていた。


 夜鴉は、使えるものを使う。


 いらなくなれば捨てる。


 灰色の仮面は一歩踏み出した。


 床が鳴る。


 全員が振り向いた。


「誰だ」


 灰色の仮面は答えない。


 代わりに、硬化泥袋を一つ投げた。


 短剣の男の足元で袋が弾ける。


 男は鼻で笑った。


「泥遊びか」


 次の瞬間、その笑みが消えた。


 泥が靴底を噛み、足首まで重くなる。


 踏み出せない。


 退けない。


 灰色の仮面は前へ出た。


 短剣が届く距離。


 男は無理やり腕だけで斬りつける。


 灰色の仮面は左腕の簡易土盾で受けた。


 避けない。


 受けたまま前へ出る。


 盾の表面に塗られた硬化泥が、刃を鈍らせた。


 右拳に石粉と泥がまとわりつく。


 硬泥拳。


 殴るための拳ではない。


 止めるための重り。


 拳が男の剣腕へ落ちた。


 鈍い音。


 短剣が床に転がる。


「ぐっ……!」


 男が膝をつく。


 灰色の仮面はその肩を掴み、床へ押し倒した。


 石噛み杭を一本。


 袖ごと床へ縫い止める。


「立つな」


 短い声。


 それだけだった。


 鎖使いが動いた。


 灰色の仮面の腕に鎖が絡む。


 黒蝶なら、外套を捨てて抜けただろう。


 灰色の仮面は抜けなかった。


 鎖を掴む。


 引く。


 鎖使いの体が前へ泳ぐ。


「馬鹿が!」


 男は踏ん張ろうとした。


 だが、その足元だけが柔らかい。


 灰色の仮面が、床下の土を緩めていた。


 男の靴が沈む。


 踏ん張りを失った体を、灰色の仮面は鎖ごと引き寄せた。


 肩で受ける。


 ガーゴイル・スキンが衝撃で硬化する。


 そのまま男を作業台へ叩きつけた。


 薬瓶が揺れる。


 男の息が詰まる。


 灰色の仮面は鎖を外し、男の足首に短索を巻いた。


 近くの柱へ石噛み杭。


 固定。


 動けない。


 革袋を持った刺客が動いた。


 逃げるつもりだ。


 速い。


 灰色の仮面は、黒蝶ほど速くない。


 追いつけない。


 なら、足を消す。


 灰色の仮面は床へ手をついた。


 男の前方だけ、床板が鈍く盛り上がる。


 ほんの少し。


 膝が止まるには十分だった。


 男の上体だけが前へ流れる。


 革袋が手から離れた。


 灰色の仮面は短索を投げる。


 輪が革袋に引っかかる。


 引く。


 革袋だけをこちらへ寄せる。


 男は床に手をつき、体勢を立て直した。


 袖を破り、近くの窓へ向かう。


 逃げる。


 灰色の仮面は追わなかった。


 革袋は取り返した。


 ミラはまだ奥にいる。


 火も回っている。


 優先順位を間違えるな。


 逃げた男は、振り返らなかった。


 代わりに、火付け役の若者が後ずさる。


「く、来るな!」


 火打ち具が震える。


 火属性の魔力が暴れ、床の油に火が伸びる。


 灰色の仮面は若者を見た。


 十五ほど。


 リオの一つ下。


 もし拾われた場所が違えば。


 もし育てた大人が違えば。


 それ以上は考えない。


 今は火を止める。


「逃げるな」


 低く言った。


「俺は、知らなかったんだよ!」


「知らなかったなら」


 灰色の仮面は一歩進む。


「今から見ろ」


 若者の背後で、ミラが咳き込んだ。


 倒れた棚。

 燃え移り始めた素材箱。

 床に縫い止められた刺客。

 崩れかけた支柱。

 煙。

 油。

 火。


 火をつけた先にあるもの。


 若者は目を見開いた。


「俺は……目くらましだけって……」


「火は、お前のものだ」


 灰色の仮面は短く言った。


「他人の命令で燃やすな」


 若者は何も言えなかった。


 その瞬間、頭上で梁が鳴った。


 戦闘で揺れたせいか。


 支柱が切られていたせいか。


 焼けた梁が、重さに耐えきれず折れかけている。


 落ちれば、ミラのいる作業場を潰す。


 灰色の仮面は動いた。


 敵は止めた。


 だが、工房はまだ崩れる。


 むしろここからが本番だった。


「ミラ」


 呼び捨てだった。


 リオなら、たぶん呼ばない。


 黒蝶なら、そもそも呼ばない。


 灰色の仮面は、短く言った。


「伏せろ」


 ミラは目を見開いたが、従った。


 灰色の仮面は石噛み杭を二本抜き、床へ打ち込んだ。


 硬化泥を撒く。


 土属性の魔力を流す。


 杭が床板を抜け、その下の梁と土台に噛み込む。


 さらに折り畳み作業板を開き、倒れかけた棚の下へ滑り込ませる。


 支えではない。


 落下の角度を変えるための板。


 梁が折れた。


 轟音。


 火花。


 雨音すら消える。


 梁は完全には止まらない。


 だが、落ちる角度が変わった。


 ミラの上ではなく、作業台の端へぶつかる。


 作業台が砕ける。


 破片が飛ぶ。


 灰色の仮面は土盾で受けた。


 衝撃で左腕が痺れる。


 ガーゴイル・スキンが硬化する。


 だが、二度目の衝撃には追いつかない。


 細い木片が肩に刺さる。


「っ」


 短く息が漏れた。


 痛い。


 だが、動ける。


 灰色の仮面はミラの足元へ滑り込んだ。


 作業台の脚が、ミラの足を挟んでいる。


 持ち上げるには重い。


 黒蝶なら粘糸で引く。


 だが、今は違う。


 灰色の仮面は床へ手を置いた。


 作業台の脚の下。


 そこだけ床をわずかに沈める。


 逆に、ミラの足元を固める。


 重さがずれる。


「抜け」


 ミラが自分の足を引き抜く。


 靴が裂けた。


 だが、足は抜けた。


「立てるか」


「たぶん」


「立て」


「優しくないね!」


「喋れるならいける」


「基準が雑!」


 ミラは立ち上がろうとして、膝をついた。


 灰色の仮面は短索を投げ、ミラの腰へ回した。


「掴め」


「何に」


「俺に」


 ミラは一瞬だけ灰色の仮面を見た。


 その声。


 その言い方。


 リオに似ている。


 だが、違う。


 短い。


 重い。


 落ち着きすぎている。


 ミラは何か言いかけ、やめた。


 灰色の仮面は折り畳み作業板を倒れた棚の上へ渡し、硬化泥で固定する。


 即席の足場。


 ミラを先に通す。


 若者がまだ立ち尽くしていた。


「お前も来い」


 灰色の仮面が言う。


「俺も?」


「燃えたいのか」


「嫌だ!」


「なら来い」


 若者は歯を食いしばり、作業板へ足をかけた。


 その背後で、床が抜けた。


 火に食われた梁が落ち、床板が下へ崩れる。


 若者の足が沈む。


「うわっ!」


 灰色の仮面は手を伸ばし、若者の腕を掴んだ。


 軽い。


 年齢の割に、細い。


 栄養が足りていない。


 だが、暴れる力はある。


「暴れるな」


「落ちる!」


「だから暴れるな」


 灰色の仮面は足元を固めた。


 灰底靴が床を噛む。


 しかし、床そのものが弱い。


 このまま引けば、自分も沈む。


 周囲の土を緩める。


 若者の足の下だけ固める。


 踵を抜く角度を作る。


「足を横に抜け」


「横?」


「今」


 若者が言われた通りに動く。


 足が抜けた。


 灰色の仮面は若者を作業板へ押し出した。


「走れ」


 若者は走った。


 ミラがその襟首を掴む。


「こっち!」


「離せ!」


「離したら落ちる!」


「それは嫌だ!」


「じゃあ黙れ!」


 ミラの方が強かった。


 若者は黙った。


     ◇


 工房の外で、リオは雨に濡れたまま立っていた。


 火消し組に渡した危険素材一覧は、もう何人もの手を渡っていた。


「右奥の青い留め具の箱! 水をかけるな!」


「黒煙茸の粉末棚、周囲を濡らせ!」


「濾過草の束は運び出せ!」


 指示が飛ぶ。


 リオはそれを聞きながら、工房を見つめていた。


 心配している顔を作る必要はなかった。


 本当に心配していた。


 ミラは無事か。


 灰色の複製体は間に合ったか。


 中にいる若者は何者か。


 刺客は何人か。


 黒蝶ではなく、新型を選んだ判断は正しかったか。


 考えても、今の本体には分からない。


 統合するまでは、複製体の記憶は戻らない。


 だから、外から見るしかない。


 ただのリオとして。


 ギルドの見習い職員として。


 火消し組の後ろで、濡れた紙を握るしかなかった。


 衛兵の一人がリオに目を向ける。


「顔色が悪いぞ。煙を吸ったか?」


「少し。大丈夫です」


「無理するな。中には入るなよ」


「はい」


 リオは頷いた。


 その時、工房の奥で大きな音がした。


 梁が折れた音。


 火消し組がどよめく。


 リオの指が紙を握り潰した。


「ミラさん……」


 口から漏れた声は、誰に聞かせるためでもなかった。


     ◇


 出口までは、まだ少しある。


 表口は火と煙で塞がれている。


 裏口は、倒れた棚で半分潰れている。


 左奥に、古い搬出用の小窓。


 大人一人が通れるかどうか。


 灰色の仮面はそこを選んだ。


 黒蝶なら、窓から飛び出せる。


 だが、ミラと若者はそうはいかない。


 逃げ道を作る必要がある。


 灰色の仮面は作業板をもう一枚広げた。


 足場を渡す。


 硬化泥を撒く。


 床へ固定。


 次に石噛み杭を壁へ打つ。


 短索を張る。


 手すり代わり。


「ここを渡れ」


 ミラが先に進む。


 若者が続く。


 背後で、縛られていた刺客の一人が呻きながら動いた。


 袖を裂き、杭から抜けかけている。


 しぶとい。


 刺客は床の短剣へ手を伸ばす。


 ミラを狙っている。


 灰色の仮面は追わない。


 距離がある。


 間に合わない。


 なら、短剣を消す。


 石粉筒を振る。


 濡れた床に石粉が散る。


 刺客の指が短剣に触れる直前、灰色の仮面は床下へ魔力を落とした。


 短剣の周囲の床がわずかに沈む。


 雨水と粉と泥が混ざり、刃が床へ貼りついた。


 刺客が引く。


 抜けない。


 次の瞬間、灰色の仮面の小型杭が飛んだ。


 男の手首の服を床へ縫い止める。


「終わりだ」


 それだけ言って、背を向ける。


 刺客は呻いた。


 殺さない。


 だが、もう戦えない。


 灰色の仮面は最後に、革袋を抱え直した。


 中身は見ない。


 ここで開けている余裕はない。


 ただ、外へ出す。


 奪われなければ、それでいい。


 全部は救えない。


 ミラ。


 若者。


 火消し組。


 隣の工房。


 帳簿。


 試作品。


 全部は無理だ。


 灰色の仮面は、燃え移り始めた素材棚の前へ硬化泥袋を投げた。


 土を盛る。


 火を消す壁ではない。


 延焼を数十秒遅らせるだけの低い土留め。


 それでいい。


 数十秒あれば、火消し組が届くかもしれない。


 届かなければ、燃える。


 それ以上は背負わない。


「行く」


 ミラと若者を小窓へ押し出す。


 外の雨が見えた。


 ミラが先に抜ける。


 若者が続く。


 灰色の仮面は最後に窓枠へ手をかけた。


 その時、足元が沈んだ。


 床が抜ける。


 採石場。


 バルド。


 沈む地面。


 軽いな、黒蝶。


 だから沈む。


 違う。


 今は黒蝶ではない。


 灰色の仮面は沈んだ足を無理に引かなかった。


 周囲の土を緩める。


 足の下だけ固める。


 踵をひねり、抜く。


 体が前へ倒れる。


 小窓の向こうから、ミラが手を伸ばしていた。


「早く!」


 灰色の仮面はその手を掴んだ。


 外へ転がり出る。


 直後、背後で工房の一部が崩れた。


 火花と煙が、雨の中へ噴き上がった。


     ◇


 外は騒然としていた。


 火消し組が怒鳴る。


 衛兵が人を下がらせる。


 職人たちが隣の工房から荷を運び出す。


 雨はまだ降っている。


 しかし、炎は弱まり始めていた。


 危険素材一覧が回ったおかげか、水をかける場所とかけない場所が分けられている。


 火消し組の動きが、少しだけ整っている。


 小窓の方で声が上がった。


「人が出たぞ!」


「負傷者だ!」


 リオは反射的に駆け出しかけた。


 だが、衛兵に肩を押さえられた。


「下がれ! 危ない!」


「ミラさん!」


 今度の声は、抑えきれなかった。


 煤だらけのミラが、火消し組に支えられている。


 片足を引きずっているが、意識はある。


 その横で、赤髪の若者が衛兵に押さえられていた。


「離せよ!」


「暴れるな!」


「俺は知らなかったんだよ!」


「火をつけたのはお前か!」


「目くらましだけって言われた! 中に人がいるなんて聞いてねえ!」


 その言葉に、周囲の職人たちがざわめいた。


 リオはミラを見た。


 ミラもリオを見た。


 工房の中で見た灰色の仮面。


 外で心配そうに立つギルド職員。


 同時にいる。


 なら、同じ人間ではない。


 普通なら、そう考える。


 ミラは煤だらけの顔で、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「ミラさん、怪我は」


「生きてるよ」


 声は掠れていた。


「工房は」


「見れば分かるでしょ。ひどいもんだね」


「すみません」


「なんでリオが謝るの」


「……分かりません」


 ミラは咳き込み、それから少しだけ笑った。


「心配そうな顔、上手いね」


「本当に心配しています」


「だろうね」


 それ以上、ミラは言わなかった。


 リオも聞かなかった。


 その時、衛兵の一人が灰色の仮面に気づいた。


「おい、あいつは」


 別の火消しが叫ぶ。


「黒蝶か!」


 灰色の仮面は立ち上がった。


 黒い外套ではない。


 銀の蝶紋もない。


 灰色のフルフェイス仮面と短い外套。


 煤と土にまみれた姿。


 火消しが戸惑う。


「違うのか?」


 灰色の仮面は短く答えた。


「違う」


 衛兵が一歩近づく。


「では何者だ」


「通りすがりだ」


「無理がある!」


「だろうな」


 灰色の仮面は静かに言った。


 かなり怪しい。


 だが、説明する気はない。


 リオはその会話を、火消し組の後ろから見ていた。


 自分の声ではない。


 自分の口調でもない。


 なのに、自分だ。


 それが妙に遠く見えた。


 その時、工房の外壁がまた鳴った。


 隣へ倒れかけている。


 火消し組が叫ぶ。


「下がれ!」


「隣へ移るぞ!」


 灰色の仮面は動いた。


 衛兵の脇を抜け、工房の外壁へ走る。


「おい、待て!」


 待たない。


 外壁の下。


 雨で柔らかくなった土。


 そこへ硬化泥を混ぜる。


 土属性の魔力を通す。


 低い土の帯が、隣の工房との間に伸びる。


 火を止める壁ではない。


 火の粉と油の流れを遮る、低い防火帯。


 さらに小型杭を打ち、倒れかけた棚板を固定する。


 職人が叫ぶ。


「そこ押さえてくれ!」


「水を流すぞ!」


 火消し組が水を流す。


 灰色の仮面が作った土の帯に沿って、水が広がる。


 火の進路が少しだけ曲がる。


 隣の工房へ伸びかけていた炎が、勢いを失った。


「今だ! 粉をどかせ!」


「炉を落とせ!」


「壁側、押さえろ!」


 火消し組と職人たちが一気に動く。


 灰色の仮面は、その動きを見てから引いた。


 自分一人で火を消す必要はない。


 全部背負うな。


 ミラの言葉。


 マーレの言葉。


 今できることは、数秒を稼ぐこと。


 その数秒を、他の誰かが使える形にすることだ。


 灰色の仮面は裏路地へ下がった。


 だが、その前にミラが声をかけた。


「待って」


 灰色の仮面は止まった。


 ミラは煤だらけの顔で、片足を引きずりながら立っている。


「黒蝶さんの知り合い?」


「そういうことにしておけ」


「命令形」


「今は急ぐ」


「うん。まあ、そうだね」


 ミラは壊れかけた工房を見て、疲れたように笑った。


「伝えといて」


「何を」


「次からは、ちゃんと専用の装備名を決める」


「装備名?」


「灰色の仮面さん、じゃ呼びにくい」


「不要だ」


「必要あるよ。私が管理しづらい」


「管理上か」


「そう。管理上」


 ミラは咳き込みながら、それでも笑った。


「灰色で、守る役。仮称、灰守」


 灰色の仮面は答えなかった。


 答えないまま、雨の裏路地へ下がる。


 ミラの声が追ってきた。


「黒蝶さんにも言っといて。請求書は二人分にするから」


 灰色の仮面は、今度こそ何も言わなかった。


     ◇


 灰色の仮面が裏路地へ消えた後も、現場はしばらく混乱していた。


 衛兵は若者を拘束し、火消し組は延焼を止めるために走り回る。


 工房の中からは、縛られた刺客たちが引き出された。


 一人は裏口の外。


 一人は作業場の床。


 どちらも生きている。


 だが、まともに歩ける状態ではなかった。


「こいつら、何者だ」


「工房を襲った連中だろう」


「火付けだけじゃない。中で争った跡がある」


「黒蝶じゃなくて、灰色の仮面がやったのか?」


 声があちこちから上がる。


 リオは濡れた紙を握ったまま、少しふらついた。


 まだ統合していない。


 なのに、体の奥が重い。


 複製体が限界に近いのかもしれない。


「顔色が悪いぞ」


 衛兵がリオを見た。


「煙を吸ったようです。少し下がります」


「ああ。無理するな。ギルドにはこっちから連絡を入れる」


「お願いします」


 リオは頭を下げた。


 それから、ミラの方を一度だけ見た。


 ミラは火消し組に肩を貸されながら、リオを見ていた。


 何か言いたげだったが、言わなかった。


 リオも言わなかった。


 今は、戻らなければならない。


 あの灰色の仮面が、装備を抱えたまま倒れる前に。


     ◇


 裏路地に入った瞬間、灰色の仮面は壁に手をついた。


 限界が近い。


 息が荒い。


 土を使いすぎた。


 火の熱も吸った。


 煙も吸った。


 フルフェイスの防塵仮面は粉塵には強い。


 だが、黒蝶の防毒仮面ほど煙に強くない。


 喉が痛い。


 足が重い。


 踏ん張った分だけ、足裏から体力が抜けていく。


 それでも、戻らなければならない。


 この場で解除すれば、装備が残る。


 灰色の仮面の装備は、まだ誰にも渡せない。


 灰色の仮面は石噛み杭を回収できるものだけ拾った。


 すべては無理だ。


 火の中に残した杭もある。


 土に埋めた硬化泥もある。


 痕跡は残る。


 仕方がない。


 それより、生きて戻る。


 死なない。

 捕まらない。

 装備を落とさない。


 灰色の仮面は、雨の裏路地を低く進んだ。


 黒蝶のようには速くない。


 屋根へ跳ぶこともできない。


 だが、石畳の滑る場所は分かる。


 水が流れる方向も分かる。


 壁の下が少し崩れている場所も分かる。


 足元を見るな。


 足元を感じろ。


 オルドの声。


 湿った森。


 採石場。


 裏庭。


 すべてが、今の一歩に重なる。


     ◇


 空き倉庫へ戻ると、本体のリオが待っていた。


 顔色は悪い。


 火事の煙は、離れていても届いていた。


「ミラさんは」


「生きてる」


「知っています。外で見ました」


「工房は」


「半分以上、駄目」


「それも、見ました」


「なら聞くな」


「確認です」


 灰色の仮面は短く息を吐いた。


 それだけでも苦しそうだった。


「火事ですか」


「襲撃だ」


 本体のリオの表情が変わった。


「夜鴉ですか」


「おそらく」


「刺客は」


「二人制圧。一人は外。一人は中。生きている」


「逃げた者は」


「一人。だが、革袋は取り返した」


「革袋?」


「台帳。試作品もあるかもしれない」


 本体のリオは唇を結んだ。


「他には」


 灰色の仮面は少し黙った。


「火付け役がいた」


「……火付け役?」


「若い。十五ほど。殺しは聞いていなかったらしい」


 本体のリオは、それ以上聞かなかった。


 統合すれば、全部戻る。


 聞くより早く、痛みごと分かる。


「装備は」


「杭をいくつか失った。硬化泥はほぼ空。外套は焦げた。仮面は煙を吸いすぎ。ガーゴイル・スキン、胸部に裂け。中の粒子袋は一部損傷」


「体は」


「重い」


「痛みは?」


「足。膝。腰。喉。肩。左腕」


「黒蝶と比べて?」


「疲れ方が違う」


 灰色の仮面は、床へ手をついた。


「飛ぶより、支える方が重い」


 本体は頷いた。


「統合する」


「待て」


 灰色の仮面が言った。


 本体は水を渡す。


 灰色の仮面が飲む。


 手が震えている。


「ミラさんに、何か言われた?」


「装備名を決めろと」


「この状況で?」


「管理上、必要らしい」


「ミラさんらしい」


「仮称、灰守」


 本体のリオは少し黙った。


 灰守。


 灰色で、守る役。


 悪くない。


 だが、名前がつくということは、見られたということでもある。


 黒蝶(ファントム)の時と同じだ。


 名前は勝手に広がる。


 そして、追う者を増やす。


「記録する」


「しろ」


 二人の指先が触れた。


 灰色の複製体の輪郭が揺れる。


 次の瞬間。


「――っ」


 リオの体に、重さが落ちた。


 黒蝶の統合とは違う。


 風の疲労ではない。


 土の重さ。


 膝。

 足裏。

 腰。

 煙。

 熱。

 壁に押し込んだ刺客の重さ。

 短剣を受けた胸の衝撃。

 鎖を引き返した腕の痛み。

 梁を支えた瞬間の圧力。

 床が抜ける感覚。

 若者の軽さ。

 ミラの手。

 火の進路を変えるために盛った土。

 革袋の重さ。


 そして、外から見ていた自分の視界とは別に、内側から見た工房の光景が流れ込んでくる。


 倒れた棚。


 荒らされた素材箱。


 ミラを押さえる刺客。


 火付け役の若者。


 奪われかけた台帳。


 折れる梁。


 灰色の仮面越しの、狭く暗い視界。


 それらが、一気に自分のものになる。


 リオは床に膝をついた。


 喉が焼けるように痛い。


 だが、息はできる。


 生きている。


 ミラも生きている。


 それだけを確認して、リオは震える手で活動記録を開いた。


 書く。


『灰色装備、初実戦投入』


 ペン先が震える。


 それでも書く。


『ミラ工房襲撃。火災に偽装した強奪および口封じの可能性。刺客二名制圧。一名逃走。革袋は奪還。火属性の若者一名、火付け役として利用された可能性』


 続ける。


『奪取対象は素材台帳、試作品、発注記録と思われる。刺客は黒蝶との関係を確定していたわけではない。怪しい素材流通の確認、または工房関係の洗い出しが目的か』


 さらに書く。


『本体リオは現場外周にて火消し組・衛兵へ危険素材一覧を共有。灰色装備の活動中、複数名から本体の所在確認あり。現時点では、灰色の仮面とリオを同一視する証言は出にくい』


 そこまで書いて、リオは少しだけペンを止めた。


 自分で書いておきながら、嫌な記録だった。


 だが、必要な記録でもある。


 続ける。


『土属性運用、有効。床面硬化、足場拘束、杭固定、硬化泥による進路制限、低い防火帯形成。戦闘適性あり。ただし黒蝶とは思想が異なる。荒い。重い。負荷大』


 さらに書く。


『ガーゴイル・スキン、短剣刺突に有効。ただし連続衝撃では硬化が追いつかない。煙対策不足。防塵仮面は粉塵には有効だが、火災煙には不十分。硬化泥・石噛み杭の消耗激しい』


 最後に、少し迷ってから書き足した。


『仮称:灰守』


 そこで、手が止まる。


 外ではまだ、火事の鐘が鳴っている。


 ルネリアの夜に、黒蝶ではない影が現れた。


 黒ではなく、灰色。


 飛ぶのではなく、踏みとどまる影。


 眠らせるのではなく、叩き伏せる影。


 まだ誰も、その正体を知らない。


 だが、目撃者はいる。


 火消し組。

 衛兵。

 職人。

 ミラ。

 火をつけた若者。

 逃げた刺客。

 そして、たぶん新聞記者も。


 それでも、同じ時刻、リオは現場にいた。


 濡れた紙を抱え、火消し組に素材名を読み上げていた。


 その事実だけは、誰かの目に残っている。


 リオは活動記録を閉じた。


 窓の外、雨はまだ細く降っている。


 その雨の向こうで、半壊したミラ工房の煙が、夜の空へ薄く流れていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

ブックマーク、評価、感想などいただけますと、とても励みになります。

引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ