ギルド職員は煤にまみれる
リオは、喉の奥に煤が残っているような感覚で目を覚ました。
息を吸うと痛い。
胸の奥がざらつく。
肩は重い。腰も痛い。足の裏は、まるで一晩中、崩れかけた床を踏み抜かないよう支え続けたみたいだった。
実際、その通りだった。
支えたのは本体ではない。
灰色の仮面をつけた、土属性の複製体だ。
それでも、統合した瞬間、全部こちらに戻ってきた。
煙を吸った記憶。
梁の重さ。
床が沈む感覚。
ミラの腕を掴んだ時の熱。
火付け役の少年が、恐怖で火属性の魔力を暴れさせていた気配。
そして、燃える工房。
「……最悪だ」
リオは天井を見上げたまま、かすれた声で呟いた。
ギルド二階奥の小部屋。
いつもの狭い自室だ。
机には活動記録帳が開きっぱなしになっている。床にはペンが落ちていた。部屋の隅には灰色装備を突っ込んだ木箱があり、蓋は閉まりきっていない。
その隙間から、煤で汚れた防塵仮面が少しだけ見えていた。
防塵仮面。
粉塵には強い。
火災煙には弱い。
昨夜、それを体で覚えた。
リオは腕を伸ばそうとして、途中でやめた。
腕も痛い。
複製体の傷は、本体に傷跡として戻るわけではない。
けれど、痛みと疲労は戻る。
だから余計に気持ちが悪い。
体には傷がない。
なのに、体は痛い。
安全な部屋にいたはずの自分が、火事場から帰ってきたような顔をしている。
その矛盾が、リオにはまだ慣れなかった。
扉が叩かれる。
「リオ。起きているか」
マーレの声だった。
リオは一瞬、寝たふりを考えた。
やめた。
マーレ相手にそれをしても、どうせ通じない。
「……起きています」
「声がひどいな」
「煙を吸いました」
「だろうな」
扉が開き、マーレが入ってきた。
手には木椀と紙束。
部屋の中を見回したマーレは、床に落ちたペン、空の水差し、机に伏せられた記録帳を順に見て、眉を寄せた。
「昨日、火事場で動きすぎたな」
「少しだけです」
「少しでその声になるなら、火消し組は全員寝込んでいる」
「……それなりに動きました」
「最初からそう言え」
マーレは木椀を机に置いた。
「薬湯だ。喉に効く。まずいが」
「まずい前提なんですね」
「まずいものは先に言っておいた方が親切だ」
リオは苦労して体を起こした。
肩と腰が同時に文句を言う。
顔に出たらしい。
マーレが呆れたように言った。
「今日は受付に出るな」
「仕事が」
「奥で書類だけ見ろ。声がそれでは客前に出せん」
「すみません」
「謝るな。休めと言っている」
リオは木椀を受け取った。
薬湯は湯気だけでも苦かった。
一口飲む。
予想よりまずい。
思わず顔が歪む。
「効きそうです」
「まずいと言っていい」
「まずいです」
「よろしい」
マーレは紙束を机に置いた。
「昨夜の報告だ。ミラ・グリム魔工房、半壊。ミラ本人は命に別状なし。ただし足を痛めている。腕に軽い火傷。煙も吸っている」
リオの指に力が入った。
「……そうですか」
「火付け役の若者は衛兵が拘束した。刺客らしき男が二名。もう一名は逃走。夜鴉の関与が疑われている」
マーレは淡々と言った。
リオは頷く。
昨夜、灰守は二名を押さえた。
一名は逃した。
悔しい。
だが、あの場で全員を追う余裕はなかった。
ミラを逃がすこと。
火を広げないこと。
台帳と試作品を守ること。
全部を同時にやるには、灰守はまだ足りなかった。
「リオ」
「はい」
「お前が昨日、火消し組に渡した素材一覧は役に立ったそうだ」
「……そうですか」
「水をかけると危ない素材。粉塵が舞うとまずい素材。先に運び出すべき容器。火消し組が礼を言っていた」
「よかったです」
「だから、そこは誇っていい」
マーレの声は静かだった。
「工房が燃えたことまで、お前が背負うな。火をつけた者が悪い。襲った者が悪い。お前は火事場で、職員としてできることをした」
リオは木椀を見下ろした。
薬湯の表面が小さく揺れている。
自分の手が震えていた。
「……はい」
「返事が軽いな」
「喉が痛いので」
「なら、今日は余計なことを喋るな」
マーレはそう言って、もう一枚の紙を置いた。
「ミラから伝言だ」
リオは顔を上げた。
「ミラさんから?」
「ああ。『私は生きてる。工房は死にかけ。請求書は死なない。黒いのと灰色のには、あとで文句を言う』だそうだ」
リオはしばらく黙った。
「……元気そうですね」
「元気の形が特殊だな」
「はい」
リオは少しだけ笑った。
喉が痛んだ。
それでも、笑えた。
マーレは扉へ向かう。
「昼まで寝ていろ。午後、動けるならミラ工房へ行っていい。ただし走るな。荷物を持つな。火事場に入るな」
「三つ目は分かります」
「全部分かれ」
「はい」
マーレは扉を開け、最後に振り返った。
「リオ」
「はい」
「お前は便利だから、周りも頼る。だが、自分で自分を便利に使い潰すな」
それだけ言って、マーレは出ていった。
扉が閉まる。
部屋に静けさが戻った。
リオは薬湯をもう一口飲んだ。
やはり、まずい。
けれど少しだけ、喉の奥が楽になった。
机の上の記録帳を引き寄せる。
昨日の文字は乱れていた。
灰守活動記録。
火災煙への耐性不足。
ガーゴイル・スキン、連続衝撃で粒子袋のずれあり。
硬化泥、火場で袋破損。
石噛み杭、回収不能四本。
粘糸弾、残数少。
黒膜弾、残数一。
眠り弾、残り七。
うち二発、湿気により散布不安定の可能性あり。
眠り銃本体、使用可能。
ただし、旧型眠り弾は布マスクで対策される可能性大。
リオはそこで手を止めた。
眠り銃は壊れていない。
黒蝶の主武装は、まだ使える。
だが、問題はそこではなかった。
弾が少ない。
補充できない。
そして何より、敵が学び始めている。
眠り粉は吸わせなければいい。
布で口を覆えばいい。
濡れ布ならなおいい。
昨日の襲撃を仕切った者がいるなら、次は必ずそれを用意する。
黒蝶は強いから勝っていたのではない。
準備があったから、勝てていた。
相手より先に考え、相手より先に用意できていたから、殺さずに済んでいた。
その準備が、今は足りない。
「……まずいな」
リオは記録帳の端に、短く書いた。
装備不足。
旧型対策の危険。
次に夜鴉が来たら、今の黒蝶では足りない。
*
午後、リオは杖をついて職人街へ向かった。
杖といっても、立派なものではない。
ギルドの訓練場に転がっていた短い木棒である。
受付横でオルドに見つかり、「お前、爺さんになったのか」と笑われた。
リオは「腰が百歳です」とだけ返した。
オルドは笑うのをやめて、少し真面目な顔になった。
「無理すんなよ」
「はい」
「お前のはいは信用ならん」
「最近よく言われます」
「じゃあ直せ」
その言葉だけ受け取って、リオは職人街へ向かった。
ミラ工房は、遠目にも痛々しかった。
看板は焦げ落ち、屋根の一部は崩れている。表の作業場は黒く煤け、壁には火消し組が水をかけた跡が残っていた。
その前で、ミラは椅子に座っていた。
足に包帯。
腕にも包帯。
それなのに、膝の上には帳面があり、片手で何かを書いている。
「ミラさん」
「ああ、来た」
ミラは顔を上げた。
目の下に疲れはある。
でも、目は死んでいない。
リオは少し安心した。
「大丈夫ですか」
「大丈夫に見える?」
「見えません」
「正直でよろしい」
ミラは焦げた工房を親指で示した。
「見ての通り。作業場はしばらく無理。炉も点検しないと危ない。細かい加工台は焼けた。工具は半分生きてる。材料は三割死んだ」
「……すみません」
「それ、私が聞きたい謝り方じゃない」
ミラの声が少し硬くなった。
リオは口を閉じる。
ミラは帳面を閉じ、リオを見た。
「燃やしたのは夜鴉。火をつけたのはあの赤毛の子。私はそれを間違えない。だから、あんたも間違えないで」
「でも、黒蝶装備を作っていたから狙われたのは」
「それはそう」
ミラはあっさり頷いた。
「だから、次はもっと上手く隠す。もっと上手く作る。もっと上手く守る。謝って終わる話じゃない」
リオは黙った。
ミラは片手で帳面を叩く。
「で、黒蝶さんと灰色の人に伝言」
「……はい」
「装備、足りないでしょ」
リオの表情が動いた。
ミラは見逃さない。
「やっぱりね。眠り弾は残り少ない。粘糸弾もかなり使った。黒膜弾は補充できない。灰色の装備は防塵仮面が火災煙に負けた。ガーゴイル・スキンも縫い直しがいる」
「そこまで分かりますか」
「私が作ったの」
「はい」
「でも今は作業場がこれ。大きな修理は無理。精密加工も無理。つまり、今の黒蝶は弱い」
リオは返せなかった。
その通りだった。
ミラは続ける。
「だから、二択」
「二択?」
「一つ、しばらく夜に出ない」
リオは黙る。
「もう一つ、今あるものだけで一段上げる」
「……後者しかないですね」
「知ってた」
ミラは少しだけ笑った。
「ただし、手持ちの素材じゃ限界がある。眠蝶粉を濃くするだけだと危ないし、布マスク対策も抜けない。粘糸も今のままだと、刃物で対策される」
「夜鴉の現場責任者がいるなら、次はそこを突いてくると思います」
「現場責任者?」
「昨日の襲撃を組んだ者です。支部長か、それに近い立場の誰か」
「なるほど。そいつは、昨日までの黒蝶を相手にするつもりで来るわけだ」
「はい」
「だったら、新しい素材がいる」
ミラはそう言って、焼け残った棚から小さな革袋を取り出した。
中には、灰色の砂粒のようなものが入っていた。
「これは?」
「前に採石場の残土から出た変な粒。使い道が分からなくて放っておいた。水を吸う。粉も吸う。でも普通に熱すると割れる。風を通すと、少しだけ中身を吐く」
リオは革袋を受け取った。
指先に置く。
ただの砂粒に見える。
だが、灰守の記憶が反応した。
土属性複製体の足裏に残っていた感覚。
採石場。
沈む地面。
バルド。
足元の奥で、何かが流れているような感覚。
「……これ、どこで?」
「旧採取場の奥。崩れた坑道の近くだったと思う」
「旧坑道」
「危ないから普通は入らない。あと、魔物も出る」
「ですよね」
リオは革袋の中を見つめた。
眠り粉を粉のまま撃つから、布で防がれる。
なら、粉ではない形にする。
霧。
風で運ぶ。
ただの煙ではなく、眠り成分を抱えた霧。
布をすり抜け、目や皮膚にもわずかに作用するもの。
危険だ。
使い方を間違えれば、眠らせる道具では済まない。
だが、夜鴉はもう眠り粉対策をしてくる。
黒蝶が同じことをしていれば、次は負ける。
「この素材が、もっとあれば」
リオが言う。
ミラは頷いた。
「眠り弾を変えられるかもしれない。粉じゃなく、霧に」
「布マスク対策を抜ける」
「たぶんね。ただし、専用防毒仮面なしで使うと自分も倒れる」
「黒蝶向きですね」
「黒蝶以外が使ったら事故るわよ」
そこがいい。
いや、よくはない。
だが、夜鴉にコピーされても、簡単には扱えない。
道具だけでは完成しない。
風の制御と防毒仮面があって、初めて武器になる。
リオは革袋を握った。
「採りに行きます」
「言うと思った」
「今夜」
「早い」
「夜鴉が次に動く前に必要です」
「行くのは黒蝶?」
リオは首を横に振った。
「灰色の方です」
ミラは少しだけ目を細めた。
「採石場なら、そっちの方が向いてるか」
「ええ。地面の違和感を拾える気がします」
「気がする、で旧坑道に入るのはだいぶ怖いわね」
「怖いです」
「正直でよろしい」
ミラは帳面を開き、簡単な地図を描いた。
「旧坑道はここ。こっちは崩落跡。こっちは水が溜まりやすい。奥に行くなら、壁の色が変わる場所を探して。灰色というより、白っぽい層。そこにさっきの粒が混じってた」
「分かりました」
「あと」
ミラは少し声を低くした。
「糸に気をつけて」
「糸?」
「前に採取職人が言ってた。旧坑道の奥に、やたら強い糸が張ってあるって。普通の蜘蛛じゃない。たぶん魔物」
「蜘蛛ですか」
「たぶんね。しかも大きい」
リオは少しだけ黙った。
今の装備で、大型魔物。
普通に考えれば避けるべきだ。
だが、強い糸。
今までの粘糸弾より強い素材。
もしそれが手に入るなら。
夜鴉が粘糸対策をしてきた時、その対策ごと絡め取れるかもしれない。
「……必要ですね」
「リオ」
「はい」
「今、危ない顔した」
「していません」
「してた。素材を見る職人と同じ顔」
「それはミラさんでは」
「だから危ないって言ってるの」
ミラはため息をついた。
「行くなら、目的を絞って。石を採る。糸は取れたら取る。魔物を倒すのが目的じゃない」
「分かっています」
「分かってる人間の返事は信用できないのよね」
「僕の周り、それを言う人が多いです」
「じゃあ直しなさい」
リオは苦笑した。
マーレと同じことを言われた。
ただ、今は少しだけありがたかった。
心配されている。
秘密を知られているわけではない。
全部を説明できるわけでもない。
それでも、リオが無理をしようとしていることだけは、周りに見えている。
「ミラさん」
「何」
「戻ったら、加工の指示をお願いします」
「戻ったらね」
「はい」
「戻らなかったら請求書を投げられないから、困る」
「それは困りますね」
「本当に困りなさい」
ミラは焦げた工房を振り返った。
「黒蝶を一段上げる。灰色の人も一段上げる。工房がこの状態なら、やれることは少ない。でも、少ないからこそ、変なことができる」
「変なこと前提なんですね」
「普通のことをする作業台は燃えたから」
ミラは笑った。
リオも笑った。
喉はまだ痛かった。
けれど、胸の奥にあった重さが、少しだけ形を変えた。
責任。
焦り。
恐怖。
それらは消えない。
だが、動く理由にはなる。
*
その夜。
リオの小部屋に、灰色の仮面が置かれていた。
黒蝶装備の箱は閉じたまま。
今日は黒蝶ではない。
灰色の外套。
防塵仮面。
ガーゴイル・スキン。
硬化泥は残り少ない。
石噛み杭も、回収できた分だけ。
眠り銃は持たない。
粘糸弾を二つ。
黒膜弾を一つ。
あとは採取用の小袋と、短い工具。
旧坑道へ行くには、あまりに心細い装備だった。
本体のリオは、装備を確認しながら記録帳に書く。
目的。
一、旧採取場奥にて灰白色粒状素材を採取。
二、可能であれば強粘性糸素材を回収。
三、魔物討伐を目的としない。
四、危険時は撤退。
リオは四つ目を少し強く書いた。
そうしないと、自分が守らない気がした。
部屋の中央に立つ。
息を吸う。
喉が痛む。
それでも、意識を沈める。
複製体が現れた。
同じ顔。
同じ目。
だが、足元に重さがある。
土属性の複製体。
本体のリオは、灰色の仮面を差し出した。
「目的は採取。戦闘じゃない」
複製体は仮面を受け取る。
「分かってる」
「危ないと思ったら戻る」
「分かってる」
「蜘蛛が出たら逃げる」
「糸は?」
「取れたら取る」
「じゃあ、逃げながら取る」
「言い方」
複製体は少しだけ笑った。
それはリオ自身の笑い方だった。
だからこそ、少し腹が立った。
「無理はしない」
本体が言う。
複製体は灰色の仮面をつけた。
「無理をしないと、足りない」
「……そう言うと思った」
「同じだから」
「同じだから嫌なんだよ」
複製体は窓に足をかけた。
黒蝶のように飛ばない。
風を纏って夜へ舞うこともない。
灰色の仮面は、壁に手をかけ、石の継ぎ目を確かめながら降りていく。
遅い。
重い。
だが、落ちない。
夜の城下町を抜け、採取場へ向かう。
*
旧採取場は、街の外れにあった。
昼間なら、荷車の跡や採石道具の残骸が見える。
夜は違う。
岩肌は月明かりを鈍く返し、掘りかけの地面は黒い穴のように沈んでいる。
風が通るたび、どこかで小石が転がった。
灰色の仮面は、足を止めた。
地面に手をつく。
冷たい。
だが、ただ冷たいだけではない。
奥に、流れがある。
水脈ではない。
鉱脈でもない。
もっと細い。
もっと深い。
大地の中を、何かがゆっくり通っている。
呼吸。
そんな言葉が浮かんだ。
灰色の仮面は眉をひそめる。
これは普通の土属性魔法の感覚なのか。
それとも、自分の複製能力に関わる何かなのか。
分からない。
分からないが、今は記録するしかない。
足元の奥で、ひとつだけ感触が違う場所があった。
硬い。
けれど石ではない。
眠っているように静かで、触れると霧のように逃げる。
「……あそこか」
灰色の仮面は、旧坑道の入口を見た。
半分崩れた岩の口。
奥は暗い。
ミラの地図では、あの先に白っぽい層がある。
そして、糸に気をつけろ、とあった。
灰色の仮面は短い杭を一本抜いた。
足元を固める。
一歩、旧坑道へ入る。
空気が変わった。
湿っている。
土と石と、古い魔素の匂い。
数歩進んだところで、壁に白い筋が見えた。
灰色の仮面は手を伸ばす。
指先が、灰白色の粒を掠めた。
その瞬間。
足首に、何かが絡んだ。
「っ」
白い糸。
細い。
だが、重い。
引いた瞬間、逆に足を取られる。
坑道の奥で、何かが動いた。
石を擦るような音。
湿った糸が、天井から垂れる。
灰色の仮面は、ゆっくり息を吐いた。
目的は採取。
戦闘ではない。
そう記録したばかりだった。
だが、暗闇の奥から現れた脚は、一本だけで人の腕ほども太かった。
巨大な蜘蛛が、白い糸の向こうからこちらを見ていた。
灰色の仮面は、石噛み杭を握り直す。
「……逃げながら取る、でいこう」
蜘蛛が跳んだ。




