ギルド職員は蜘蛛の巣掃除に追われる
蜘蛛が跳んだ。
灰色の仮面――灰守は、避けなかった。
避けられなかった、と言った方が正しい。
黒蝶なら、風を踏んで横へ抜けていた。
黒い外套をひるがえし、天井すれすれを滑るように移動して、眠り銃を撃っていたかもしれない。
だが、今ここにいるのは黒蝶ではない。
灰守だ。
飛ばない。
軽くない。
速くない。
だから、受ける。
灰守は左腕を前に出した。
蜘蛛の脚が叩きつけられる。
衝撃。
ガーゴイル・スキンが硬化した。
外套の下、腕を覆う防具が一瞬だけ石のように固くなる。
だが、重い。
「っ、ぐ……!」
腕ごと持っていかれる。
踏ん張った足が、坑道の土を削った。
硬化した防具は、折れはしない。
だが、中の腕は別だ。
痛みが走る。
骨まではいっていない。
たぶん。
そう判断している間に、二本目の脚が横から来た。
灰守は腰の袋を破る。
硬化泥。
地面に叩きつける。
土属性の魔力を流し込む。
泥が一瞬で広がり、足元だけを固めた。
逃げ場ではない。
杭だ。
自分の足を、地面に縫い止める。
次の衝撃。
体が揺れる。
けれど、飛ばされない。
蜘蛛の脚が外れた瞬間、灰守は石噛み杭を一本、壁に打ち込んだ。
狙いは蜘蛛ではない。
足首に絡みついた糸だ。
白い糸を杭に引っかけ、地面へ押さえ込む。
蜘蛛が引く。
灰守の足が持っていかれそうになる。
だが、杭が食い込む。
糸が鳴った。
弦のような音。
高く、嫌な音だった。
「強いな……!」
灰守は膝を曲げた。
体勢を低くする。
蜘蛛は大きい。
人間の胴ほどある腹。
人の腕ほど太い脚。
坑道の奥を白い糸で埋めている。
だが、動きは完全ではない。
大きすぎる。
坑道の幅に対して、脚が長すぎる。
広い場所なら厄介だ。
でも、ここは狭い。
灰守は壁に手を当てた。
地面の奥を探る。
さっき感じた流れ。
大地の中をゆっくり通る、細い呼吸のようなもの。
それが、壁の白い層へ繋がっている。
この坑道は古い。
支えている岩も、すでに何度か崩れている。
なら、壊せる。
壊してはいけない場所と、壊していい場所がある。
灰守は、それを足裏で探した。
蜘蛛がまた跳ぶ。
灰守は右へ転がった。
完全には避けられない。
肩をかすめる。
防具が硬化する。
衝撃が抜ける。
痛みは抜けない。
灰守は壁際に片膝をつき、手にしていた短い工具を白い層へ突き立てた。
削る。
灰白色の粒がこぼれた。
目的の素材。
ミラが見せたものと同じ。
いや、もっと大きい。
砂粒ではない。
薄い結晶片だ。
白く、灰色で、半透明。
息を吹きかけると、表面がかすかに曇った。
まるで、石が息をしたようだった。
「これか」
灰守は採取袋を取り出す。
その瞬間、背中に糸が飛んだ。
避けきれない。
白い糸が外套に絡む。
重い。
粘る。
ただの糸ではない。
外套の繊維に食い込み、引けば引くほど締まる。
蜘蛛が奥へ引いた。
灰守の体が浮いた。
「まず――」
言い切る前に、壁へ叩きつけられた。
息が詰まる。
喉の奥から、煤の味が戻ってきた。
違う。
これは昨日の煙の記憶だ。
統合した時の痛みが、まだ体に残っている。
今の衝撃で、それが起きた。
灰守は歯を食いしばる。
ここで戻れば、本体に全部戻る。
煙の痛み。
腕の痛み。
背中の衝撃。
蜘蛛の恐怖。
そして、素材は持ち帰れない。
「……まだだ」
灰守は、糸を切ろうとしなかった。
切れない可能性が高い。
切るための刃もない。
なら、使う。
絡め取られたまま、灰守は腰の石噛み杭を二本抜いた。
一本を床へ。
もう一本を壁へ。
糸をその間に引っかける。
蜘蛛がさらに引く。
糸が張る。
坑道に高い音が響く。
灰守は、壁に置いた手へ土属性の魔力を流した。
壊していい場所。
蜘蛛の巣を支えている天井の一部。
そこだけを、緩める。
ばきり、と音がした。
蜘蛛の上で、石が崩れた。
大きくはない。
頭を潰すほどではない。
だが、巣の支点が落ちた。
蜘蛛の体がわずかに沈む。
脚が糸に絡む。
灰守を引いていた力が、一瞬だけ緩んだ。
その一瞬で、灰守は外套を脱いだ。
糸が絡んだ外套だけが、蜘蛛の方へ引きずられる。
灰守の体は地面へ落ちた。
肩から落ちる。
痛い。
だが、動ける。
灰守は転がりながら採取袋を掴み、壁の白い層へ手を伸ばした。
削る。
砕く。
入れる。
丁寧さは捨てた。
今は量だ。
袋に灰白色の結晶片を詰める。
蜘蛛が巣を破り、こちらへ向き直った。
腹が震える。
糸がまた来る。
灰守は黒膜弾を投げた。
黒い膜が坑道の中に広がる。
視界を奪う。
蜘蛛に目がどれだけ効くのかは分からない。
だが、糸を飛ばす狙いは乱せる。
白い糸が黒膜を突き破った。
灰守の頬をかすめる。
仮面の端が弾かれた。
危ない。
もう一手。
灰守は残った粘糸弾を一本、天井へ撃ち込んだ。
黒蝶用の旧式粘糸弾。
蜘蛛の糸に比べれば弱い。
だが、目的は拘束ではない。
落下防止。
灰守は粘糸を握り、壁を蹴った。
黒蝶のようには飛べない。
けれど、ぶら下がることはできる。
蜘蛛の脚が地面を叩く。
灰守はその上を、低く振り子のように抜けた。
着地。
足が痛む。
それでも走る。
入口へ向かう。
糸が足元に伸びる。
灰守は石噛み杭を投げた。
杭が床に刺さる。
足元の土を固める。
蜘蛛の糸が杭に絡み、そこで止まる。
止まったのは一瞬。
だが、一瞬でいい。
灰守は坑道の入口へ飛び出した。
月明かり。
外の空気。
湿った坑道の匂いから抜ける。
だが、蜘蛛は追ってきた。
入口を押し広げるように、巨大な脚が岩を砕く。
灰守は振り返る。
採取袋はある。
目的一、達成。
糸は。
灰守は、腰に絡みついている白い糸を見た。
外套を脱いだ時、完全には外れなかった。
腰の金具に、細く、だが強く絡んでいる。
蜘蛛がそれを引いた。
灰守の体が引き戻される。
目的二。
可能であれば、強粘性糸素材を回収。
「……可能だな」
灰守は笑った。
そして、地面を踏み抜いた。
自分の足元ではない。
蜘蛛の前脚の下だ。
旧採取場の地面は、古い坑道の上にある。
空洞がある。
灰守には、それが分かった。
蜘蛛の重さ。
脆い地盤。
支える土の厚み。
全部、足裏に返ってくる。
灰守は蜘蛛の前脚の下だけを緩めた。
どん、と地面が落ちる。
蜘蛛の巨体が傾いた。
腹が岩にぶつかる。
糸の張りが変わる。
灰守は腰の金具に絡んだ糸を掴んだ。
切らない。
引き抜く。
蜘蛛の体から伸びている糸の一部を、杭に巻きつける。
さらに地面へ打ち込む。
蜘蛛が暴れる。
糸が軋む。
灰守の手袋が裂けた。
指に痛み。
糸が皮膚を擦る。
熱い。
だが、離さない。
もう一本。
さらに杭を打つ。
糸を巻く。
固定する。
蜘蛛は、坑道の入口に半身を出したまま、地面に縫い止められた。
倒したわけではない。
殺してもいない。
ただ、動きを止めた。
灰守は息を荒げながら後ずさる。
蜘蛛が威嚇する。
腹が震え、また糸が飛びそうになる。
その前に、灰守は硬化泥の最後の袋を足元へ投げた。
蜘蛛と自分の間に、低い壁を作る。
壁というより、盛り土。
防壁というには頼りない。
だが、糸の直線を切るには十分だった。
「目的は採取。戦闘じゃない」
自分に言い聞かせる。
灰守は採取袋を抱え、旧採取場から離れた。
背後で、蜘蛛が暴れている音がした。
杭は長くは保たない。
でも、今夜は逃げられる。
それでいい。
*
城下町へ戻るころには、灰守の左腕はまともに上がらなかった。
背中は痛い。
肩も痛い。
指先は擦り切れている。
喉は昨日からの煙の痛みに加え、坑道の湿った空気でさらに重くなっていた。
最悪だ。
だが、採取袋は無事だった。
中には灰白色の結晶片。
腰の金具には、蜘蛛の白い糸が巻き取られている。
少量。
本当に少量だ。
だが、今までの粘糸とは比べものにならない。
乾き始めた糸は、白から灰へ色を変え、指で押すと粘るのに、引くと鋼のように張った。
黒蝶の粘糸弾とは違う。
これは、絡め取るだけの糸ではない。
縫い止める糸だ。
灰守はギルドの裏手から壁を登った。
いや、登ったというより、這い上がった。
窓から小部屋へ戻る。
本体のリオが、椅子から立ち上がった。
顔色は悪い。
喉の痛みがある。
それでも、待っていた。
「戻った」
灰守が言う。
「見れば分かる」
本体のリオは、採取袋を見る。
「採れた?」
「採れた」
「蜘蛛は?」
「逃げた」
「倒してない?」
「倒す目的じゃない」
「よかった」
「よくはない」
灰守は腰の糸を見せた。
本体のリオの目が、少しだけ見開かれる。
「それが?」
「たぶん、ミラさんの言ってた糸」
「少ないな」
「文句あるなら次は本体で行って」
「絶対行かない」
「同じなのに?」
「同じだから嫌なんだよ」
灰守は笑った。
そして、崩れるように膝をついた。
本体のリオが慌てて支える。
その瞬間、統合の感覚が来た。
拒めない。
戻る。
痛みが、本体へ流れ込む。
腕。
肩。
背中。
指。
坑道の湿った匂い。
蜘蛛の脚が迫る恐怖。
糸に引かれて壁へ叩きつけられた衝撃。
採取袋を握った執着。
逃げながら取る、という自分の馬鹿な判断。
全部。
「っ……!」
リオは声を殺して机に手をついた。
視界が白くなる。
膝が落ちそうになる。
だが、落ちる前に椅子に座った。
しばらく、呼吸だけをした。
吸う。
痛い。
吐く。
痛い。
でも、生きている。
戻ってきた。
机の上には、採取袋がある。
その横に、白い糸。
灰白色の結晶片。
リオは震える手で、記録帳を開いた。
字は乱れた。
それでも書く。
旧採取場奥、灰白色結晶片を回収。
仮称、夢霧石。
風属性で内包物を霧化する可能性あり。
強粘性糸を少量回収。
仮称、岩巣蜘蛛糸。
通常粘糸より強靭。
切断困難。
石噛み杭との相性良。
大型蜘蛛、未討伐。
再接近は危険。
リオはペンを止めた。
最後に、一行だけ書き足す。
灰守単独での採取は可能。
ただし、痛い。
そこまで書いて、リオは机に突っ伏した。
採取袋の中で、夢霧石がかすかに曇った。
まるで、眠っていた石が、ようやく息を始めたみたいに。
リオはその小さな曇りを、片目だけで見た。
「……ミラさんに、持っていかないと」
声はひどくかすれていた。
だが、口元は少しだけ笑っていた。
「……蜘蛛の巣掃除って、普通は箒でやるものだと思うんだけどな」
黒蝶の弾は、まだ少ない。
工房は、まだ直っていない。
夜鴉は、次に来る。
それでも。
昨日までの黒蝶ではない。
その材料だけは、今、机の上にあった。




