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14/19

ギルド職員は試行を繰り返す

 翌朝、リオは椅子から落ちかけた。


 寝台ではない。


 椅子だ。


 昨夜、机に突っ伏したところまでは覚えている。


 そのあと、寝台へ移動するつもりだった。


 つもりだっただけで、実際には活動記録帳を枕にして、そのまま眠ったらしい。


 頬に紙の跡がついている。


 右手にはペンを握ったまま。


 左腕は上がらない。


 肩も痛い。


 背中も痛い。


 指先は包帯を巻いたわけでもないのに、糸で擦られた記憶だけがまだ熱を持っている。


「……蜘蛛、嫌いになりそう」


 リオはかすれた声で呟いた。


 すでに少し嫌いだった気もする。


 机の上には、昨夜の成果が置かれている。


 灰白色の結晶片。


 仮称、夢霧石。


 そして、少量の白い糸。


 仮称、岩巣蜘蛛糸。


 どちらも、見た目だけなら地味だ。


 夢霧石は、白っぽい石片にしか見えない。


 岩巣蜘蛛糸も、乾きかけた糸くずに見える。


 だが、灰守が命がけで持ち帰った素材である。


 いや、命がけという言葉は少し大げさかもしれない。


 けれど、腕一本くらいは持っていかれかけた。


 実際には持っていかれていない。


 痛みだけは残っている。


 そういうところが、複製能力の嫌なところだった。


 リオは机に置いた記録帳をめくる。


 最後の一行が目に入った。


 灰守単独での採取は可能。


 ただし、痛い。


「……もっとまじめに書けなかったのかな」


 昨日の自分に言いたい。


 ただ、内容は正しかった。


 リオは夢霧石を布で包み、岩巣蜘蛛糸を小瓶に入れた。


 糸は不用意に触ると危ない。


 昨夜、試しに指で摘んだだけで、皮膚に薄く食い込んだ。


 切れるのではない。


 絡む。


 それも、表面に貼り付くのではなく、相手の逃げ道を探して入り込むように絡む。


 リオはその性質を思い出して、少しだけ顔をしかめた。


「……敵に使うものとしては、嫌だな」


 だが、必要だ。


 殺さず止めるためには、相手を逃がさない道具がいる。


 眠らせるだけでは足りない。


 視界を奪うだけでも足りない。


 粘糸を切られるなら、切る前に刃ごと絡め取るものが必要になる。


 リオは小瓶を革袋に入れた。


 それから、夢霧石を包んだ布も入れる。


 立ち上がる。


 膝が抗議した。


 無視する。


 今日はミラのところへ行かなければならない。


 工房が半壊していても、ミラが怪我をしていても、この素材を見せないことには何も始まらない。


 黒蝶は、昨日までの黒蝶ではいられない。


     *


 職人街は、まだ焦げた匂いがした。


 ミラ工房の前では、数人の職人が焼け残った材木を運び出している。


 火消し組の男が一人、屋根の危ない部分を指差して何か言っていた。


 ミラは昨日と同じように椅子に座っていた。


 だが、昨日と違って膝の上には帳面だけではなく、小さな作業板が置かれていた。


 包帯を巻いた腕で、焼け残った金具を選別している。


「ミラさん」


「来た」


 ミラは顔を上げる。


 そして、リオの顔を見て眉をひそめた。


「ひどい顔」


「昨日も言われました」


「昨日よりひどい」


「更新しました」


「そんなもの更新しなくていい」


 ミラは作業板を横に置いた。


「で、採れたの?」


 リオは革袋を出した。


 まず、布包みを開く。


 夢霧石。


 ミラの目が変わった。


 さっきまで怪我人だった職人の目から、完全に作る側の目になる。


「……粒じゃない」


「層になっていました。これでも急いで削ったので、形は悪いです」


「形はどうでもいい。問題は中身」


 ミラは夢霧石を指でつまもうとして、リオが止めた。


「素手は避けた方がいいかもしれません」


「何かあるの?」


「風を受けると、表面が曇ります。何かを吸って、吐くような反応がありました」


「いいじゃない」


「いいんですか」


「変な素材ほど、使い道がある」


 ミラは薄い布越しに夢霧石を摘まむ。


 片目を細め、光に透かした。


「水分を抱え込んでる。いや、水だけじゃないね。粉も入る。隙間が多い。でも脆い。熱には弱そう」


「ミラさんが前に見つけた粒も、熱すると割れると言っていました」


「うん。炉は駄目。削って、薄くして、風で反応を見る」


「今の工房でできますか」


「本格加工は無理。試作ならできる」


 ミラはそう言って、次に小瓶を見た。


「それは?」


「蜘蛛の糸です」


「……本当に取ってきたの?」


「逃げながら」


「だから危ない顔してたって言ったのに」


 ミラは小瓶を受け取り、蓋を開けようとした。


 リオはまた止めた。


「それも素手は危ないです」


「どんな糸なの」


「切るより先に絡みます。皮膚にも食い込みました」


「最高じゃない」


「最高なんですか」


「敵に使うなら」


「味方に使うと最悪ですね」


「だから黒蝶さんに持たせるのよ」


 ミラは楽しそうに笑った。


 怪我人の顔ではない。


 完全に職人の顔だった。


 リオは少しだけ安心し、少しだけ不安になった。


「ミラさん、無理は」


「しない。私は指示するだけ」


「本当に?」


「たぶん」


「今のたぶんは信用できません」


「お互い様でしょ」


 ミラは近くにいた若い職人に声をかけた。


「悪いけど、仮作業台を空けて。あと薄刃と風通し管、焼け残ってる方を持ってきて」


「ミラさん、まだ休んでないと」


「休みながら指示する」


「それは休みって言うんですか」


「言うことにした」


 職人は呆れながらも動いた。


 リオはミラの横に立つ。


 仮作業台。


 焼け残った板を二枚重ねただけの、頼りない台だ。


 その上に、薄刃、小さな管、布、乾いた眠蝶粉、空の弾殻が並べられていく。


 工房は半壊している。


 炉は使えない。


 精密加工台も焼けた。


 それでも、道具は少し残っている。


 人もいる。


 ミラは息を吸い、短く言った。


「やることは二つ」


「はい」


「夢霧石で、眠蝶粉を霧にできるか」


「はい」


「蜘蛛糸で、切られにくい粘糸弾が作れるか」


「はい」


「成功したら黒蝶さんは一段上がる。失敗したら、ただの危ない粉と面倒な糸」


「分かりやすいです」


「でしょう」


 ミラは薄刃を指差す。


「リオ、削って」


「僕が?」


「私は片腕が使えない」


「それはそうですが」


「石を割らないように、表面を撫でる感じで」


「削るのではなく?」


「削ろうとすると割れる。撫でて剥がす」


 リオは薄刃を持った。


 夢霧石を布の上に置く。


 刃を当てる。


 少し力を入れた。


 ぱき、と音がした。


 夢霧石の端が割れた。


 ミラが無言でリオを見た。


「……削りました」


「見れば分かる」


「すみません」


「撫でて」


「はい」


 リオは力を抜いた。


 刃を滑らせる。


 今度は、白い薄片がめくれた。


 紙のように薄い。


 石なのに、布のように軽い。


 ミラが頷く。


「それ。それを弾殻の内側に入れる」


「割れそうです」


「割れたらやり直し」


「貴重素材です」


「だから慎重に」


 リオは息を止めた。


 手が震える。


 昨夜の蜘蛛糸の痛みが指に残っている。


 それでも、何とか薄片を弾殻の内側に入れた。


 ミラが眠蝶粉を少量、そこへ落とす。


 通常の眠り弾より少ない量だ。


「少ないですね」


「霧になるなら、この量で十分。多いと危ない」


「危ないというのは」


「吸った人間が眠るんじゃなく、倒れる」


 リオは口を閉じた。


 ミラは淡々と続ける。


「非殺傷装備なんでしょ。濃ければいいってものじゃない」


「はい」


「黒蝶さんにもそう言っておいて」


「……はい」


 ミラは弾殻を閉じた。


 完全な密閉ではない。


 風を通すための細い隙間がある。


「試す?」


「ここで?」


「外で」


 ミラは当然のように言った。


     *


 試射場所は、工房裏の焼け残った空き地になった。


 人払いはした。


 火消し組も遠巻きに見ている。


 ミラは椅子に座ったまま、布を口元に当てている。


 リオは眠り銃を構えた。


 銃本体は壊れていない。


 煤で詰まったわけでもない。


 ただ、今まで通りに使っていては、もう足りない。


 リオは試作弾を込める。


 仮称、眠霧弾。


 的は木箱。


 その上に、布マスクを被せた小さな人形が置かれている。


 ミラが作った。


 妙に雑な顔が描いてある。


「これ、夜鴉の人ですか」


「そう。嫌な顔にした」


「芸が細かいですね」


「顔は雑だけどね」


 リオは銃口を向けた。


 風属性の魔力を流す。


 強すぎてはいけない。


 弱すぎても霧にならない。


 撃つ。


 小さな音。


 弾は木箱の手前で割れた。


 白い霧が、ふわりと広がる。


 普通の眠り粉より重い。


 煙のように上へ逃げず、地面に近い位置を漂った。


 布マスクをつけた人形の周囲を包む。


 リオは目を細めた。


「成功、ですか」


「まだ」


 ミラは言った。


 次の瞬間、霧の一部が風に巻かれて戻ってきた。


「まず――」


 リオは銃を下げる。


 防毒仮面をつけていない。


 ほんの少し吸った。


 足から力が抜けた。


「っ……!」


 膝が落ちる。


 完全に眠るほどではない。


 だが、視界がふらつく。


 ミラが椅子から立とうとして、足を痛めて顔をしかめた。


「だから外でやったのに!」


「外でも戻りますね……!」


「風の制御!」


「はい……!」


 リオは地面に手をつきながら、霧を横へ流した。


 遅い。


 でも動く。


 白い霧は地面を這うように流れ、少し離れた草の上で薄くなった。


 しばらくして、リオは何とか立ち上がった。


 膝が笑っている。


 眠気は浅い。


 ただ、足が重い。


 これが敵に効くなら、かなり強い。


 同時に、かなり危ない。


 ミラはじっと霧の消えた場所を見ていた。


「使える」


「使う側にも効きました」


「だから使える」


「どういう意味ですか」


「本当に効くものしか、自分には返らない」


「もう少し安全な証明方法がよかったです」


「黒蝶さんには専用防毒仮面を必ずつけさせること。密閉場所では使わないこと。子供や老人には使わないこと。風下に味方がいる時も使わないこと」


「記録します」


「あと、濃度を半分にする」


「半分でも効きますか」


「布マスク対策を抜くのが目的でしょ。倒し切る必要はない。膝を落とせば、あとは粘糸でいい」


 リオは頷いた。


 眠霧弾は、完成ではない。


 だが、方向は見えた。


 粉ではない。


 霧。


 吸わせるのではなく、まとわりつかせる。


 布マスクをしていても、足から力を奪う。


 黒蝶の新しい一手になる。


「次、蜘蛛糸」


 ミラが言った。


「もうですか」


「眠気が残ってる?」


「少し」


「じゃあ座って。手は動くでしょ」


「鬼ですか」


「職人」


 リオは反論できなかった。


     *


 岩巣蜘蛛糸の加工は、眠霧弾より面倒だった。


 糸が言うことを聞かない。


 引くと硬くなる。


 緩めると絡む。


 水を含ませると粘る。


 乾くと、石のように張る。


 ミラはそれを見て、嬉しそうに言った。


「面倒。最高」


「基準が分かりません」


「簡単な素材は、敵にも簡単に真似される」


「なるほど」


「これは、真似しようとした人間が先に絡まる」


「それはいいですね」


「いい性格になってきたじゃない」


「褒められている気がしません」


 ミラは蜘蛛糸を、通常の粘糸弾の芯にほんの少しだけ混ぜることにした。


 全部を蜘蛛糸にすると、扱えない。


 弾の中で固まる。


 撃つ前に銃口で詰まる。


 だから、芯だけ。


 外側は従来の粘糸。


 着弾して広がったあと、芯の蜘蛛糸が対象の刃や金具に絡む。


「これは切れない糸じゃない」


 ミラが言う。


「切ろうとした刃に、先に絡む糸」


「嫌ですね」


「敵にとってはね」


「名前は」


「岩絡み弾」


「そのままですね」


「分かりやすい方がいい」


 試射は、焼けた柱を使った。


 柱に短剣を括りつける。


 リオが岩絡み弾を撃つ。


 白灰色の粘糸が広がり、柱と短剣を巻き込んだ。


 ミラが若い職人に合図する。


 職人が短剣を引く。


 切ろうとする。


 その瞬間、糸が刃に絡んだ。


 粘る。


 巻きつく。


 短剣を引けば引くほど、糸が刃の根元に食い込んだ。


「うわ、何だこれ!」


 職人が叫ぶ。


 ミラが満足そうに頷いた。


「いいわね」


「いいですね」


 リオも素直に言った。


 岩絡み弾。


 数は作れない。


 蜘蛛糸が少なすぎる。


 今日作れるのは、せいぜい二発。


 だが、その二発があれば、支部長の逃走を止められるかもしれない。


 粘糸対策の刃を、刃ごと奪えるかもしれない。


「眠霧弾は三発」


 ミラが言った。


「岩絡み弾は二発。今の工房で安全に作れるのはそこまで」


「十分です」


「十分じゃない。だから無駄撃ちしない」


「はい」


「あと、眠霧弾は黒蝶用。岩絡み弾は黒蝶でも灰色の人でも使える。ただし、灰色の人が使うなら杭と合わせる」


「逃走路封鎖ですね」


「そう」


 ミラは作業板に短く書き込んだ。


 その文字は少し乱れていた。


 怪我のせいだ。


 リオはそれを見て、胸の奥が重くなる。


 しかし、謝らなかった。


 ミラが嫌がる謝り方だと分かっていたからだ。


 代わりに言った。


「次は、もっと上手くやります」


 ミラは顔を上げた。


 少し笑う。


「よろしい」


 それから、作業台の端にある小瓶をリオへ押しやった。


「持っていきなさい」


「これは?」


「眠霧弾の簡易中和香。吸ったら少しは戻る。味は最悪」


「薬湯とどちらが」


「比べる?」


「やめておきます」


 リオは小瓶を受け取った。


 眠霧弾三発。


 岩絡み弾二発。


 中和香。


 旧型弾、残りわずか。


 それだけ。


 たったそれだけで、次の夜に備えなければならない。


 それでも、昨日とは違う。


 昨日までの黒蝶ではない。


     *


 職人街の外れ。


 焼け跡から少し離れた路地で、赤茶けた髪の少年がこちらを見ていた。


 アッシュだった。


 衛兵に拘束されていたはずだが、今は手首に簡易封印具をつけられ、衛兵の一人に見張られている。


 おそらく、現場確認か何かで連れてこられたのだろう。


 アッシュはリオと目が合うと、露骨に顔をしかめた。


「何見てんだよ」


「いえ」


「説教なら聞かねえぞ」


「まだ何も言っていません」


「顔が説教くさい」


「そんな顔をしていましたか」


「してた」


 アッシュはリオの手元の革袋を見た。


「それ、何だよ」


「仕事道具です」


「ギルド職員って、そんな怪しい袋持つのか」


「場合によります」


「便利な仕事だな」


「便利ではありません」


 衛兵がアッシュの肩を押した。


「余計な口を叩くな」


「叩いてねえよ」


「叩いてる」


 アッシュは舌打ちした。


 リオは少しだけ黙り、それから言った。


「火は、まだ怖いですか」


 アッシュの目が鋭くなる。


「は?」


「昨日の火です」


「……知らねえよ」


「そうですか」


「俺は、燃やせって言われただけだ」


「はい」


「中に人がいるなんて聞いてなかった」


「はい」


「だからって、俺が悪くねえとは言ってねえ」


 アッシュは吐き捨てるように言った。


 その声は荒い。


 でも、昨日より少しだけ違った。


 逃げていない。


 少なくとも、言葉の上では。


 リオは頷いた。


「なら、次は燃やさない使い方を覚えた方がいいです」


「何だよ、それ」


「火は、燃やすだけではありません」


「説教じゃねえか」


「確認です」


「同じだろ」


「説教ならもっと長いです」


 アッシュは顔をしかめた。


「変なやつ」


「よく言われます」


「否定しろよ」


 そのやり取りを聞いていたミラが、椅子の上から声を飛ばした。


「アッシュ」


 少年の肩が跳ねた。


 アッシュはミラを見た。


 視線が一瞬、足の包帯と腕の火傷に落ちる。


 口が開く。


 だが、言葉が出ない。


 ミラは淡々と言った。


「許してないからね」


 アッシュの顔が強張った。


「……分かってる」


「でも、逃げないなら働かせる」


「は?」


「燃やした分、片付けなさい。火を出すんじゃなくて、焦げた梁を運ぶの。封印具が外れない範囲でね」


「何で俺が」


「燃やしたから」


 アッシュは何も言えなかった。


 衛兵が少し困ったようにする。


「ミラさん、それは正式な処分では」


「分かってる。だから今はお願い。正式な話はあとで衛兵とギルドを通す」


 ミラはアッシュを見る。


「火をつけた責任は、消えない。でも、逃げないなら手を動かす場所くらいはある」


 アッシュは唇を噛んだ。


 少しの間、黙る。


 それから、小さく言った。


「……俺に触らせていいのかよ」


「火を出したら叩く」


「怪我人だろ」


「片腕でも叩ける」


「怖ぇよ」


「燃やされた方が怖かったわ」


 アッシュは黙った。


 それから、目をそらして言った。


「……運ぶだけなら、やる」


 ミラは頷いた。


「よろしい」


 リオはそのやり取りを見ていた。


 許されたわけではない。


 謝れば済む話でもない。


 それでも、アッシュは今、逃げなかった。


 それは小さなことだ。


 けれど、火種にはなる。


 燃え広がる火ではなく、何かを温める火種に。


 そうなればいい。


 リオはそう思った。


     *


 その夜。


 ルネリアの裏路地に、黒い羽根の印をつけた男が膝をついていた。


 ミラ工房襲撃から逃げ延びた男である。


 男の前には、椅子に座る痩せた男がいた。


 指には銀の指輪。


 靴は磨かれている。


 片手だけ、黒い革手袋をしていた。


 男は低い声で言った。


「失敗したか」


「申し訳ありません、支部長」


 逃げ延びた男は頭を下げる。


「黒蝶ではありませんでした。灰色の仮面が、工房内に」


「灰色?」


「土属性と思われます。壁と床を操作し、こちらの二名を拘束しました。黒蝶との関係は不明です」


 支部長と呼ばれた男は、しばらく黙った。


 それから、笑った。


「なるほど。黒蝶は一人ではなかった、と」


「その可能性が」


「いや、そう思わせたいだけかもしれん」


 支部長は机の上に置かれた布をつまんだ。


 布マスク。


 濡れ布。


 ゴーグル。


 短剣。


 粘糸切断用の小さな刃。


 黒蝶対策の道具が並んでいる。


「眠り粉は吸わなければいい。粘糸は切ればいい。黒い膜は風で払えばいい。自警気取りの仮面など、道具を剥げばただの小僧だ」


 男は頭を下げたまま言う。


「しかし、灰色の仮面が」


「ならば、黒蝶を誘い出し、灰色もまとめて潰す」


 支部長は黒い革手袋の指を鳴らした。


「殺せない者は、最後には必ず甘さで負ける」


 そう言って、支部長は笑った。


 その机の上には、ミラ工房から奪い損ねた台帳の写しが一枚だけ置かれていた。


 完全ではない。


 だが、いくつかの素材名は読める。


 眠蝶粉。


 粘糸樹脂。


 黒膜胞子。


 そして、その下に空欄。


 まだ知らない新しい素材の名は、そこにはない。


 支部長は、昨日までの黒蝶を相手にするつもりでいた。


 そのことを、まだ知らない。

本日20時にもう1話投稿あります。

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