ギルド職員は壁を飛び越える
夜鴉が動くなら、今夜だ。
リオは、そう判断していた。
ギルド二階奥の小部屋。
机の上には、ルネリア旧裏市場跡の地図が広げられている。
古い倉庫。
閉鎖された地下保管庫。
火種管、糖蜜油、乾燥石灰を扱っていた記録。
アッシュが証言した、薬臭さと焦げた砂糖のような匂い。
右手だけの黒い手袋。
点は、もう線になっていた。
マーレには寝ろと言われた。
実際、寝たい。
喉はまだ痛い。背中も痛い。腕も重い。蜘蛛の糸に擦られた指先は、傷がないのに熱を持っているような気がする。
だが、夜鴉がアッシュを放っておくとは思えなかった。
火付け役。
証言者。
失敗した道具。
そういうものを、夜鴉は残さない。
リオは机の上に、小さな弾を並べた。
眠霧弾、三発。
岩絡み弾、二発。
黒膜弾、一発。
鳴響弾、一発。
通常の眠り弾、五発。
中和香の小瓶。
数だけ見れば、心細い。
だが、昨日までの黒蝶とは違う。
リオは黒蝶装備の箱を開けた。
防毒仮面。
黒い外套。
革手袋。
眠り銃。
風圧管の調子は悪くない。銃本体は壊れていない。
問題は、弾だ。
そして、敵の対策だ。
リオは深く息を吸い、喉の痛みに顔をしかめた。
部屋の中央に立つ。
意識を沈める。
自分を、もう一人、外へ押し出す。
空気が揺れた。
同じ顔の少年が、リオの前に立つ。
風属性の複製体。
今夜、夜に出る方のリオ。
本体は、出ない。
出てはいけない。
複製体は無言で黒蝶装備を身につけた。
黒い外套を羽織る。
防毒仮面をつける。
腰に弾を仕込む。
眠り銃を確認する。
本体リオは、最後に中和香の小瓶を差し出した。
「眠霧弾は、密閉空間で使いすぎない」
黒蝶は頷く。
「岩絡み弾は二発だけ。雑兵には使わない」
黒蝶は頷く。
「アッシュが狙われていたら、救出優先。支部長はその後」
黒蝶は少しだけ間を置いてから、頷いた。
本体リオは苦く笑った。
「今の間、嫌だな」
黒蝶は答えない。
同じ自分だから分かる。
アッシュを餌にする相手を、放っておけない。
でも、支部長も逃がせない。
だから嫌な間が生まれる。
「無理は」
リオは言いかけて、やめた。
無理をするな。
言っても無駄だ。
同じ自分だから分かる。
「……戻ってきて」
黒蝶は窓枠に足をかけた。
黒い外套が、夜風を受ける。
次の瞬間、黒蝶はギルド二階の窓から夜へ消えた。
本体リオは、椅子に座る。
机の上の地図を見る。
自分はここにいる。
夜には出ない。
ただ、戻ってくる痛みだけを待つ。
それが一番嫌だった。
*
アッシュは、ミラ工房の焼け残った倉庫脇で水を飲んでいた。
作業は終わった。
焦げた梁を運び、燃え残った釘を拾い、煤けた板を分けた。
手は真っ黒だ。
喉も痛い。
火をつけた自分が、燃え跡を片付けている。
笑える。
いや、笑えない。
衛兵の見張りはいる。
だが、交代の時間で、少しだけ人数が減っていた。
アッシュは壁に背を預け、空を見た。
「……逃げるなら今か」
小さく呟く。
逃げられるとは思っていない。
封印具がある。
衛兵もいる。
何より、逃げたところで行く場所がない。
でも、言ってみたかった。
「逃げるのか」
声がした。
アッシュは振り返る。
路地の奥に、男が立っていた。
布で顔を隠している。
右手だけ、黒い手袋。
薬臭い。
そして、焦げた砂糖みたいな甘い匂い。
アッシュの喉が固まった。
「お前……」
「支部長がお呼びだ」
「誰が行くかよ」
「来るさ」
男は小さな筒を取り出した。
あの時と同じ筒。
火種筒。
アッシュの左手首の封印具が、じり、と熱を持った。
筒が赤く光る。
アッシュの中の火属性魔力に反応している。
「やめろ」
「叫べ。黒蝶が来る」
男が笑った。
次の瞬間、筒が弾けた。
火ではない。
赤い煙。
それがアッシュの足元に絡みつき、封印具を熱くする。
「っ、あああっ!」
手首が焼けるように痛んだ。
アッシュは膝をつく。
見張りの衛兵が振り向く。
その背後から、別の男が襲いかかった。
短い悲鳴。
衛兵が倒れる。
殺してはいない。
だが、動けない。
アッシュは息を荒げる。
火を出そうとすると、封印具が焼ける。
出さなくても、筒が魔力を引きずり出そうとする。
自分の火が、自分の意思と関係なく暴れようとしている。
「やめろ……!」
「便利な火だな」
男が言った。
「支部長もそうおっしゃっていた」
便利な火。
使える火。
あの時、嬉しかった言葉。
今は、吐き気がする。
「ふざけんな……!」
だが、火は出ない。
出せば封印具に焼かれる。
出さなければ、筒に引かれる。
膝が地面につく。
男がアッシュの腕を掴んだ。
「来い」
「離せ!」
「暴れるな。死体では餌にならん」
その言葉に、アッシュの背筋が冷えた。
餌。
自分は餌なのだ。
黒蝶を誘い出すための。
失敗した火付け役の、最後の使い道。
アッシュは歯を食いしばった。
その時。
路地の上で、黒い布が揺れた。
男が顔を上げる。
屋根の端に、黒い仮面が立っていた。
銀の蝶が、暗い夜にかすかに光る。
「黒蝶……!」
男が叫ぶ。
黒蝶は答えない。
ただ、眠り銃を構えた。
男は笑った。
「遅かったな」
路地の左右から、夜鴉の男たちが現れる。
全員、布マスクをしていた。
目には防塵眼鏡。
手には湾曲した短剣。
屋根の上にも二人。
黒蝶の逃げ道を塞ぐように立つ。
男はアッシュを引きずりながら言った。
「眠り粉は効かん。粘糸は切れる。黒い膜は風で払う。お前の手品は調べ済みだ」
黒蝶は沈黙していた。
路地の奥。
倒れた衛兵。
膝をつくアッシュ。
布マスクの男たち。
その配置を、黒蝶は見ていた。
昨日までの黒蝶なら、ここで眠り弾を撃つ。
敵はそう思っている。
だから布マスクをしている。
昨日までの黒蝶なら、粘糸弾で足を止める。
敵はそう思っている。
だから刃を持っている。
昨日までの黒蝶なら、黒膜弾で視界を奪う。
敵はそう思っている。
だから風車具を用意している。
黒蝶は、ゆっくりと銃口を下げた。
男が笑みを深める。
「怖じ気づいたか」
黒蝶は、初めて口を開いた。
「古い」
「何?」
「情報が古い」
男が眉をひそめた。
次の瞬間、屋根の上から小さな弾が路地の中央へ落ちた。
眠り弾ではない。
弾が割れる。
白い霧が、地面を這うように広がった。
男たちは一瞬、布マスクを押さえた。
それで防げると思っていた。
だが、霧は上へ逃げない。
足元へ絡む。
靴の隙間。
手袋の端。
防塵眼鏡の縁。
露出した首筋。
布の外側。
じわりとまとわりつく。
「な、何だこれは……!」
男の一人が膝をついた。
次にもう一人。
眠ってはいない。
だが、立っていられない。
指示を出す声が遅れる。
視線が揺れる。
足が重くなる。
「吸うな! 吸うんじゃない!」
男が叫ぶ。
黒蝶は静かに言った。
「吸うだけじゃない」
その声は低かった。
怒っているのか、冷静なのか、アッシュには分からなかった。
ただ、その一言で、男たちの顔色が変わった。
黒蝶が動く。
屋根から落ちる。
風を纏う。
黒い外套が、夜を切る。
男たちが湾曲短剣を構える。
「粘糸は切れ――」
黒蝶の銃口が跳ねた。
白灰色の糸が飛ぶ。
岩絡み弾。
短剣に触れた瞬間、糸が刃へ絡んだ。
「なっ」
切ろうとした短剣が、逆に奪われる。
刃の根元に糸が食い込み、手首ごと引かれる。
男は武器を捨てようとした。
遅い。
糸は手袋にも絡んでいた。
黒蝶が横へ回り、男の足を払う。
倒れた男の腕が、壁際の金具に縫い止められた。
「切れない糸じゃない」
黒蝶が呟く。
「切る前に絡む糸だ」
アッシュは、呆然とそれを見ていた。
強い。
黒蝶は強い。
でも、ただ速いのではない。
ただ道具が強いのでもない。
相手が何を対策してくるかを、先に見ていた。
対策ごと、潰している。
布マスクの男が背後から黒蝶に飛びかかる。
黒蝶は振り返らない。
小さな弾を足元へ落とした。
鳴響弾。
乾いた音が、路地の壁で跳ねた。
男たちが耳を押さえる。
距離感が狂う。
足音の向きがずれる。
黒蝶は、その一瞬にアッシュの前へ降りた。
火種筒を持つ男が、アッシュを盾にした。
「動くな!」
黒蝶の動きが止まる。
男は笑った。
「やはり止まる。殺せない者は、こうすれば止まる」
アッシュの喉元に短剣が当たる。
冷たい。
封印具がまだ熱い。
膝が震える。
黒蝶は銃口を下げたままだ。
男は勝ち誇った。
「武器を捨てろ」
黒蝶は答えない。
ただ、左手をわずかに動かした。
風が、赤い煙を撫でる。
火種筒から漏れていた煙が、アッシュの手首から離れた。
封印具の熱が少しだけ下がる。
アッシュは息を飲んだ。
ほんの少し。
痛みが緩む。
それだけで、足に力が戻る。
黒蝶は短く言った。
「伏せろ」
「は――」
「伏せろ」
命令されたのが腹立たしかった。
だから、アッシュは反射的に伏せた。
黒蝶が撃った。
通常の眠り弾ではない。
岩絡み弾でもない。
黒膜弾。
黒い膜が、男の顔面と短剣の間に広がる。
「ぐっ!」
男の視界が塞がる。
短剣がアッシュの喉から離れた。
黒蝶が踏み込む。
風が鳴る。
男の手首に粘糸が絡む。
短剣が落ちる。
アッシュは地面を転がって離れた。
黒蝶は男の膝を蹴り抜き、壁へ叩きつける。
殺さない。
だが、容赦はない。
男は膝から崩れた。
布マスクの夜鴉たちは、すでに半数が膝をついている。
残りは逃げようとした。
だが、逃げ道には岩絡み糸が張ってある。
切ろうとして、刃を取られる。
飛び越えようとして、足を絡め取られる。
黒蝶は一人ずつ、倒していった。
眠らせる。
縛る。
視界を奪う。
音を狂わせる。
それだけ。
それだけで、夜鴉の男たちは立っていられなくなった。
黒蝶は最後に、火種筒を持っていた男の襟を掴んだ。
「支部長はどこだ」
男は荒く息をしている。
眠霧弾は浅く効いているだけだ。
眠ってはいない。
だから、恐怖は残っている。
「言うと、思うか……」
黒蝶は男の手元を見た。
右手だけの黒手袋。
その内側に、薬品の匂い。
焦げた砂糖のような匂い。
アッシュの証言と一致している。
「言わなくてもいい」
黒蝶は男の手袋を剥いだ。
手の甲に、黒い羽根の焼き印。
さらに、その下に小さな倉庫印があった。
旧裏市場跡の地下倉庫で使われていた、古い管理印。
黒蝶はそれを見て、頷いた。
「もう分かった」
男の顔が青ざめる。
アッシュが手首を押さえながら立ち上がった。
「おい」
黒蝶は振り返る。
「……あいつ、支部長のところにいるのか」
「おそらく」
「俺も行く」
「駄目だ」
即答だった。
アッシュの眉が跳ねる。
「何でだよ!」
「足手まといになる」
「言い方!」
「事実だ」
「くそっ……!」
アッシュは拳を握った。
火を出そうとして、封印具がじり、と鳴る。
黒蝶はそれを見た。
「その火は、今は使うな」
「命令すんな」
「忠告だ」
「それも腹立つ」
「なら、お願いにする」
黒蝶は少しだけ声を落とした。
「生きていろ」
アッシュは言葉を失った。
黒蝶は倒れた衛兵の脈を確認し、中和香を少しだけ嗅がせた。
衛兵がうめく。
命に別状はない。
黒蝶は、夜鴉の男たちを拘束したまま路地に並べ、見えやすい場所に火種筒と手袋を置いた。
証拠。
衛兵が来れば分かる。
そして、黒蝶は屋根へ跳んだ。
アッシュはその背中に叫んだ。
「黒蝶!」
黒蝶は振り返らない。
「逃がすなよ!」
黒い外套が、一瞬だけ夜風に揺れた。
答えはない。
だが、アッシュにはなぜか、それで十分だった。
*
旧裏市場跡の倉庫は、外から見ればただの廃屋だった。
扉は腐り、看板は外され、窓には板が打ちつけられている。
だが、黒蝶は知っている。
地下に空間がある。
本体リオが調べた地図では、倉庫の下には古い保管庫が広がっている。
さらに、その奥は地下水路に繋がっている。
逃走路としては十分だ。
黒蝶は屋根から降りた。
眠霧弾は残り二発。
岩絡み弾は残り一発。
黒膜弾は使った。
鳴響弾も使った。
残る通常弾はあるが、支部長が対策している可能性は高い。
十分とは言えない。
だが、ここで止まれば支部長は逃げる。
黒蝶は扉の隙間から風を入れた。
空気の流れを見る。
奥から、薬品の匂い。
糖蜜を焦がしたような甘い匂い。
石灰の粉っぽさ。
そして、土の匂い。
黒蝶は足を止めた。
土の匂い。
ただの地下の匂いではない。
魔力を含んだ、重い土の気配。
「……いるな」
黒蝶は呟いた。
バルド。
採石場で戦った男。
前回、黒蝶はバルドに苦戦した。
足場を奪われ、踏み込みを潰され、風の逃げ場を制限された。
土属性の戦い方が、まるで分かっていなかった。
だが、今は違う。
灰守がいる。
いや、今ここに灰守はいない。
同時に出せるわけではない。
けれど、灰守として火の中で踏みとどまった記憶がある。
旧坑道で、地面の空洞を読んだ記憶がある。
岩巣蜘蛛の糸を、切らずに杭へ逃がした記憶がある。
地面が何をされるのか。
どこが支えで、どこが抜けるのか。
少しだけ、分かる。
黒蝶は扉を開けた。
地下へ続く階段。
暗い。
狭い。
天井が低い。
黒蝶にとって不利な場所だ。
支部長が選んだのだろう。
黒蝶は降りた。
*
地下倉庫の奥。
支部長セヴラン・グリスは、椅子に座っていた。
銀の指輪。
片手だけの黒い革手袋。
細い目。
机の上には、書類の束と小さな金庫がある。
その横に、眠り弾の粗悪な複製品。
粘糸樹脂の試作品。
黒膜胞子の瓶。
黒蝶装備を再現しようとした跡だ。
セヴランは黒蝶を見ても、すぐには立たなかった。
「来たか」
黒蝶は答えない。
「火付け役は?」
沈黙。
「生きているな。お前のような手合いは、ああいう子供を見捨てられない」
黒蝶の指が、眠り銃に触れる。
セヴランは笑った。
「撃つか? 布も眼鏡も用意してある。今さら眠り粉など――」
黒蝶は撃たなかった。
ただ、机の上の試作品を見た。
「欲しかったのは、装備か」
「当然だ」
セヴランは立ち上がる。
「お前は道具の価値を分かっていない。眠らせ、縛り、視界を奪う。殺さずに済む。つまり、標的を傷つけずに運べる。貴族の子息を攫うのにも、証言者を消さずに黙らせるのにも使える」
黒蝶の中で、何かが冷えた。
殺さない道具。
人を死なせないための道具。
それを、この男は別の形で見ている。
傷つけずに奪う道具。
殺さずに支配する道具。
セヴランは続けた。
「非殺傷。実に便利な思想だ。お前の甘さは、商売になる」
黒蝶は、一歩踏み出した。
その瞬間。
床が沈んだ。
黒蝶は風を踏もうとした。
だが、天井が低い。
横へ抜けるには壁が近い。
足元の石床が、黒蝶の踏み込みに合わせて斜めに落ちる。
黒蝶の体勢が崩れた。
地下倉庫の奥で、低い声がした。
「久しぶりだな、黒いの」
土の匂い。
重い足音。
バルドが現れた。
分厚い腕。
土色の外套。
手甲には細かな石紋が刻まれている。
彼は壁に片手を当て、倉庫の床全体を自分の掌の中に置いているようだった。
セヴランが笑う。
「紹介するまでもないか。前に手を焼いた相手だろう」
黒蝶は姿勢を立て直した。
バルドは黒蝶を見て、口の端を上げる。
「今日は飛びにくい場所でやろうぜ」
黒蝶は答えない。
前回と同じだ。
足場を奪う。
踏み込みをずらす。
風で逃げる先を壁で潰す。
黒蝶の軽さを、地面へ叩き落とす。
バルドが足を踏み鳴らした。
床が波のようにずれる。
黒蝶は後ろへ跳ぶ。
だが、着地点が沈む。
読まれている。
いや、読ませている。
バルドは、黒蝶が軽いことを知っている。
空へ逃げることを知っている。
ならば、空へ逃げた先を潰せばいい。
黒蝶は壁を蹴った。
天井が迫る。
土の板がせり出し、進路を塞ぐ。
前回なら、ここで押し込まれていた。
だが、黒蝶はその土板を見た。
どこからせり出しているか。
どこが支えか。
どこが見せかけか。
灰守の記憶が、足元の奥で疼く。
旧坑道で、蜘蛛の巣の支点を落とした時の感覚。
地面は、一枚ではない。
支えがある。
抜ける場所がある。
バルドは全部を動かしているわけではない。
動かしているように見せているだけだ。
黒蝶は、あえて沈む床に足を置いた。
バルドの眉が動く。
「そこに乗るのか」
床が落ちる。
黒蝶は落ちる瞬間、風で体重を抜いた。
足は沈む。
体は沈まない。
そのまま壁際へ滑る。
バルドが追う。
黒蝶は眠り銃を撃った。
眠霧弾。
白い霧が、地面に沿って広がる。
バルドは鼻で笑った。
「眠り粉か。効かねえよ」
彼は大きく息を止めた。
だが、霧は上に行かない。
足元へ絡む。
手甲の隙間。
首筋。
目元。
布のない皮膚。
バルドの膝が、ほんのわずかに沈んだ。
ほんのわずか。
だが、黒蝶には十分だった。
バルドが舌打ちする。
「……粉じゃねえな」
黒蝶は答えない。
風を細く流し、霧をバルドの足元に留める。
バルド級の戦闘員を眠らせるには足りない。
けれど、半拍遅らせることはできる。
バルドが床へ手を伸ばす。
その右手甲に、白灰色の糸が飛んだ。
岩絡み弾。
バルドは手甲を振る。
切ろうとする。
糸は切れないのではない。
切る刃に絡む。
手甲の継ぎ目へ食い込む。
「何だ、こいつは」
バルドの土属性の魔力が、一瞬乱れた。
床の波が止まる。
黒蝶は低く踏み込んだ。
バルドが左腕を振る。
黒蝶は受けない。
風で半歩ずらす。
拳が外套をかすめる。
衝撃だけで、黒蝶の肩が軋む。
まともに受ければ終わる。
だが、受けない。
前回は、地面が襲ってくるだけに見えた。
今は違う。
バルドがどこへ魔力を通しているか、少しだけ分かる。
灰守の記憶がある。
土属性複製体が、痛みと一緒に持ち帰った感覚がある。
黒蝶はバルドの右手甲に絡んだ糸を、床下の金属梁へ引っかけた。
バルドが力を込める。
床が動こうとする。
だが、右腕と床下の梁が、同じ糸で繋がった。
バルドが地面を動かそうとするほど、自分の腕が引かれる。
彼の目が見開かれた。
「俺の土を、支点にしたのか」
黒蝶は短く答えた。
「前は、されるだけだった」
バルドが笑った。
獰猛に。
「いいじゃねえか」
床が砕けた。
バルドは自分の右手甲ごと、岩絡み糸を床から引き剥がそうとする。
力が違う。
糸が軋む。
金属梁が歪む。
黒蝶はもう一発撃てない。
岩絡み弾はこれで最後だ。
眠霧弾も残り一発。
余裕はない。
黒蝶は鳴響弾の残骸から拾っていた小さな金属片を、指で弾いた。
地下倉庫に、甲高い音が跳ねる。
バルドの耳が一瞬そちらを向く。
黒蝶は、その一瞬でバルドの懐へ入った。
眠り銃の銃身で、バルドの膝裏を打つ。
効かない。
いや、効く場所ではない。
目的は痛みではない。
重心。
眠霧弾で鈍った足。
岩絡み糸で引かれた右腕。
音で一瞬ずれた視線。
そこへ、膝裏を押す。
バルドの体が、半歩沈んだ。
黒蝶は風を真下へ叩きつけた。
軽く飛ぶための風ではない。
相手の重心を、さらに沈めるための風。
バルドの膝が床についた。
床が割れる。
だが、沈んだ床は黒蝶が選んだ場所だった。
先ほどバルド自身が崩しかけ、支えを弱くした場所。
そこへ、黒蝶は事前に糸を回していた。
バルドの右腕。
床下の梁。
沈んだ床。
その三つが、岩絡み糸で繋がる。
バルドは立とうとした。
立てない。
片膝をついたまま、右腕を引かれ、左足は沈んだ床に噛まれている。
眠ってはいない。
意識もある。
だが、動けない。
黒蝶は銃口を向けた。
バルドはしばらく黙っていた。
そして、低く笑った。
「……越えたか、黒いの」
セヴランの顔から、笑みが消えていた。
「バルド?」
バルドは立てない。
右腕に力を込めても、糸と床が軋むだけ。
左足を抜こうとしても、自分が沈めた床が逆に足を噛んでいる。
バルドは黒蝶を見上げた。
「今日は、俺の負けだ」
セヴランが叫んだ。
「何を言っている! 立て、バルド! お前は私が雇った戦闘員だろう!」
バルドは支部長を見た。
その目は、冷めていた。
「立てねえから負けなんだろうが」
「ふざけるな! 金は払っている!」
「金で地面は動く」
バルドは息を吐いた。
「俺の負けまでは、買えねえよ」
セヴランの顔が歪む。
切り札が膝をついた。
雑兵は倒された。
アッシュは奪い返された。
旧黒蝶対策は破られた。
そして、前回黒蝶を苦しめたバルドまで無力化された。
支部長の目に、初めて本物の恐怖が浮かんだ。
「……嘘だろう」
黒蝶は、ゆっくりとセヴランへ向き直った。
眠霧弾は残り一発。
通常弾はまだある。
だが、もう十分だった。
セヴランは一歩下がる。
机の上の書類に手を伸ばした。
燃やすつもりだ。
黒蝶は銃口を上げた。
「終わりだ」
セヴランの喉が鳴った。
地下倉庫の奥で、バルドが片膝をついたまま笑っている。
支部長は、ようやく理解した。
自分が調べていた黒蝶は、もうここにはいない。
昨日までの黒蝶は、もういない。
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