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15/19

ギルド職員は壁を飛び越える

 夜鴉が動くなら、今夜だ。


 リオは、そう判断していた。


 ギルド二階奥の小部屋。


 机の上には、ルネリア旧裏市場跡の地図が広げられている。


 古い倉庫。


 閉鎖された地下保管庫。


 火種管、糖蜜油、乾燥石灰を扱っていた記録。


 アッシュが証言した、薬臭さと焦げた砂糖のような匂い。


 右手だけの黒い手袋。


 点は、もう線になっていた。


 マーレには寝ろと言われた。


 実際、寝たい。


 喉はまだ痛い。背中も痛い。腕も重い。蜘蛛の糸に擦られた指先は、傷がないのに熱を持っているような気がする。


 だが、夜鴉がアッシュを放っておくとは思えなかった。


 火付け役。


 証言者。


 失敗した道具。


 そういうものを、夜鴉は残さない。


 リオは机の上に、小さな弾を並べた。


 眠霧弾、三発。


 岩絡み弾、二発。


 黒膜弾、一発。


 鳴響弾、一発。


 通常の眠り弾、五発。


 中和香の小瓶。


 数だけ見れば、心細い。


 だが、昨日までの黒蝶とは違う。


 リオは黒蝶装備の箱を開けた。


 防毒仮面。


 黒い外套。


 革手袋。


 眠り銃。


 風圧管の調子は悪くない。銃本体は壊れていない。


 問題は、弾だ。


 そして、敵の対策だ。


 リオは深く息を吸い、喉の痛みに顔をしかめた。


 部屋の中央に立つ。


 意識を沈める。


 自分を、もう一人、外へ押し出す。


 空気が揺れた。


 同じ顔の少年が、リオの前に立つ。


 風属性の複製体。


 今夜、夜に出る方のリオ。


 本体は、出ない。


 出てはいけない。


 複製体は無言で黒蝶装備を身につけた。


 黒い外套を羽織る。


 防毒仮面をつける。


 腰に弾を仕込む。


 眠り銃を確認する。


 本体リオは、最後に中和香の小瓶を差し出した。


「眠霧弾は、密閉空間で使いすぎない」


 黒蝶は頷く。


「岩絡み弾は二発だけ。雑兵には使わない」


 黒蝶は頷く。


「アッシュが狙われていたら、救出優先。支部長はその後」


 黒蝶は少しだけ間を置いてから、頷いた。


 本体リオは苦く笑った。


「今の間、嫌だな」


 黒蝶は答えない。


 同じ自分だから分かる。


 アッシュを餌にする相手を、放っておけない。


 でも、支部長も逃がせない。


 だから嫌な間が生まれる。


「無理は」


 リオは言いかけて、やめた。


 無理をするな。


 言っても無駄だ。


 同じ自分だから分かる。


「……戻ってきて」


 黒蝶は窓枠に足をかけた。


 黒い外套が、夜風を受ける。


 次の瞬間、黒蝶はギルド二階の窓から夜へ消えた。


 本体リオは、椅子に座る。


 机の上の地図を見る。


 自分はここにいる。


 夜には出ない。


 ただ、戻ってくる痛みだけを待つ。


 それが一番嫌だった。


     *


 アッシュは、ミラ工房の焼け残った倉庫脇で水を飲んでいた。


 作業は終わった。


 焦げた梁を運び、燃え残った釘を拾い、煤けた板を分けた。


 手は真っ黒だ。


 喉も痛い。


 火をつけた自分が、燃え跡を片付けている。


 笑える。


 いや、笑えない。


 衛兵の見張りはいる。


 だが、交代の時間で、少しだけ人数が減っていた。


 アッシュは壁に背を預け、空を見た。


「……逃げるなら今か」


 小さく呟く。


 逃げられるとは思っていない。


 封印具がある。


 衛兵もいる。


 何より、逃げたところで行く場所がない。


 でも、言ってみたかった。


「逃げるのか」


 声がした。


 アッシュは振り返る。


 路地の奥に、男が立っていた。


 布で顔を隠している。


 右手だけ、黒い手袋。


 薬臭い。


 そして、焦げた砂糖みたいな甘い匂い。


 アッシュの喉が固まった。


「お前……」


「支部長がお呼びだ」


「誰が行くかよ」


「来るさ」


 男は小さな筒を取り出した。


 あの時と同じ筒。


 火種筒。


 アッシュの左手首の封印具が、じり、と熱を持った。


 筒が赤く光る。


 アッシュの中の火属性魔力に反応している。


「やめろ」


「叫べ。黒蝶が来る」


 男が笑った。


 次の瞬間、筒が弾けた。


 火ではない。


 赤い煙。


 それがアッシュの足元に絡みつき、封印具を熱くする。


「っ、あああっ!」


 手首が焼けるように痛んだ。


 アッシュは膝をつく。


 見張りの衛兵が振り向く。


 その背後から、別の男が襲いかかった。


 短い悲鳴。


 衛兵が倒れる。


 殺してはいない。


 だが、動けない。


 アッシュは息を荒げる。


 火を出そうとすると、封印具が焼ける。


 出さなくても、筒が魔力を引きずり出そうとする。


 自分の火が、自分の意思と関係なく暴れようとしている。


「やめろ……!」


「便利な火だな」


 男が言った。


「支部長もそうおっしゃっていた」


 便利な火。


 使える火。


 あの時、嬉しかった言葉。


 今は、吐き気がする。


「ふざけんな……!」


 だが、火は出ない。


 出せば封印具に焼かれる。


 出さなければ、筒に引かれる。


 膝が地面につく。


 男がアッシュの腕を掴んだ。


「来い」


「離せ!」


「暴れるな。死体では餌にならん」


 その言葉に、アッシュの背筋が冷えた。


 餌。


 自分は餌なのだ。


 黒蝶を誘い出すための。


 失敗した火付け役の、最後の使い道。


 アッシュは歯を食いしばった。


 その時。


 路地の上で、黒い布が揺れた。


 男が顔を上げる。


 屋根の端に、黒い仮面が立っていた。


 銀の蝶が、暗い夜にかすかに光る。


「黒蝶……!」


 男が叫ぶ。


 黒蝶は答えない。


 ただ、眠り銃を構えた。


 男は笑った。


「遅かったな」


 路地の左右から、夜鴉の男たちが現れる。


 全員、布マスクをしていた。


 目には防塵眼鏡。


 手には湾曲した短剣。


 屋根の上にも二人。


 黒蝶の逃げ道を塞ぐように立つ。


 男はアッシュを引きずりながら言った。


「眠り粉は効かん。粘糸は切れる。黒い膜は風で払う。お前の手品は調べ済みだ」


 黒蝶は沈黙していた。


 路地の奥。


 倒れた衛兵。


 膝をつくアッシュ。


 布マスクの男たち。


 その配置を、黒蝶は見ていた。


 昨日までの黒蝶なら、ここで眠り弾を撃つ。


 敵はそう思っている。


 だから布マスクをしている。


 昨日までの黒蝶なら、粘糸弾で足を止める。


 敵はそう思っている。


 だから刃を持っている。


 昨日までの黒蝶なら、黒膜弾で視界を奪う。


 敵はそう思っている。


 だから風車具を用意している。


 黒蝶は、ゆっくりと銃口を下げた。


 男が笑みを深める。


「怖じ気づいたか」


 黒蝶は、初めて口を開いた。


「古い」


「何?」


「情報が古い」


 男が眉をひそめた。


 次の瞬間、屋根の上から小さな弾が路地の中央へ落ちた。


 眠り弾ではない。


 弾が割れる。


 白い霧が、地面を這うように広がった。


 男たちは一瞬、布マスクを押さえた。


 それで防げると思っていた。


 だが、霧は上へ逃げない。


 足元へ絡む。


 靴の隙間。


 手袋の端。


 防塵眼鏡の縁。


 露出した首筋。


 布の外側。


 じわりとまとわりつく。


「な、何だこれは……!」


 男の一人が膝をついた。


 次にもう一人。


 眠ってはいない。


 だが、立っていられない。


 指示を出す声が遅れる。


 視線が揺れる。


 足が重くなる。


「吸うな! 吸うんじゃない!」


 男が叫ぶ。


 黒蝶は静かに言った。


「吸うだけじゃない」


 その声は低かった。


 怒っているのか、冷静なのか、アッシュには分からなかった。


 ただ、その一言で、男たちの顔色が変わった。


 黒蝶が動く。


 屋根から落ちる。


 風を纏う。


 黒い外套が、夜を切る。


 男たちが湾曲短剣を構える。


「粘糸は切れ――」


 黒蝶の銃口が跳ねた。


 白灰色の糸が飛ぶ。


 岩絡み弾。


 短剣に触れた瞬間、糸が刃へ絡んだ。


「なっ」


 切ろうとした短剣が、逆に奪われる。


 刃の根元に糸が食い込み、手首ごと引かれる。


 男は武器を捨てようとした。


 遅い。


 糸は手袋にも絡んでいた。


 黒蝶が横へ回り、男の足を払う。


 倒れた男の腕が、壁際の金具に縫い止められた。


「切れない糸じゃない」


 黒蝶が呟く。


「切る前に絡む糸だ」


 アッシュは、呆然とそれを見ていた。


 強い。


 黒蝶は強い。


 でも、ただ速いのではない。


 ただ道具が強いのでもない。


 相手が何を対策してくるかを、先に見ていた。


 対策ごと、潰している。


 布マスクの男が背後から黒蝶に飛びかかる。


 黒蝶は振り返らない。


 小さな弾を足元へ落とした。


 鳴響弾。


 乾いた音が、路地の壁で跳ねた。


 男たちが耳を押さえる。


 距離感が狂う。


 足音の向きがずれる。


 黒蝶は、その一瞬にアッシュの前へ降りた。


 火種筒を持つ男が、アッシュを盾にした。


「動くな!」


 黒蝶の動きが止まる。


 男は笑った。


「やはり止まる。殺せない者は、こうすれば止まる」


 アッシュの喉元に短剣が当たる。


 冷たい。


 封印具がまだ熱い。


 膝が震える。


 黒蝶は銃口を下げたままだ。


 男は勝ち誇った。


「武器を捨てろ」


 黒蝶は答えない。


 ただ、左手をわずかに動かした。


 風が、赤い煙を撫でる。


 火種筒から漏れていた煙が、アッシュの手首から離れた。


 封印具の熱が少しだけ下がる。


 アッシュは息を飲んだ。


 ほんの少し。


 痛みが緩む。


 それだけで、足に力が戻る。


 黒蝶は短く言った。


「伏せろ」


「は――」


「伏せろ」


 命令されたのが腹立たしかった。


 だから、アッシュは反射的に伏せた。


 黒蝶が撃った。


 通常の眠り弾ではない。


 岩絡み弾でもない。


 黒膜弾。


 黒い膜が、男の顔面と短剣の間に広がる。


「ぐっ!」


 男の視界が塞がる。


 短剣がアッシュの喉から離れた。


 黒蝶が踏み込む。


 風が鳴る。


 男の手首に粘糸が絡む。


 短剣が落ちる。


 アッシュは地面を転がって離れた。


 黒蝶は男の膝を蹴り抜き、壁へ叩きつける。


 殺さない。


 だが、容赦はない。


 男は膝から崩れた。


 布マスクの夜鴉たちは、すでに半数が膝をついている。


 残りは逃げようとした。


 だが、逃げ道には岩絡み糸が張ってある。


 切ろうとして、刃を取られる。


 飛び越えようとして、足を絡め取られる。


 黒蝶は一人ずつ、倒していった。


 眠らせる。


 縛る。


 視界を奪う。


 音を狂わせる。


 それだけ。


 それだけで、夜鴉の男たちは立っていられなくなった。


 黒蝶は最後に、火種筒を持っていた男の襟を掴んだ。


「支部長はどこだ」


 男は荒く息をしている。


 眠霧弾は浅く効いているだけだ。


 眠ってはいない。


 だから、恐怖は残っている。


「言うと、思うか……」


 黒蝶は男の手元を見た。


 右手だけの黒手袋。


 その内側に、薬品の匂い。


 焦げた砂糖のような匂い。


 アッシュの証言と一致している。


「言わなくてもいい」


 黒蝶は男の手袋を剥いだ。


 手の甲に、黒い羽根の焼き印。


 さらに、その下に小さな倉庫印があった。


 旧裏市場跡の地下倉庫で使われていた、古い管理印。


 黒蝶はそれを見て、頷いた。


「もう分かった」


 男の顔が青ざめる。


 アッシュが手首を押さえながら立ち上がった。


「おい」


 黒蝶は振り返る。


「……あいつ、支部長のところにいるのか」


「おそらく」


「俺も行く」


「駄目だ」


 即答だった。


 アッシュの眉が跳ねる。


「何でだよ!」


「足手まといになる」


「言い方!」


「事実だ」


「くそっ……!」


 アッシュは拳を握った。


 火を出そうとして、封印具がじり、と鳴る。


 黒蝶はそれを見た。


「その火は、今は使うな」


「命令すんな」


「忠告だ」


「それも腹立つ」


「なら、お願いにする」


 黒蝶は少しだけ声を落とした。


「生きていろ」


 アッシュは言葉を失った。


 黒蝶は倒れた衛兵の脈を確認し、中和香を少しだけ嗅がせた。


 衛兵がうめく。


 命に別状はない。


 黒蝶は、夜鴉の男たちを拘束したまま路地に並べ、見えやすい場所に火種筒と手袋を置いた。


 証拠。


 衛兵が来れば分かる。


 そして、黒蝶は屋根へ跳んだ。


 アッシュはその背中に叫んだ。


「黒蝶!」


 黒蝶は振り返らない。


「逃がすなよ!」


 黒い外套が、一瞬だけ夜風に揺れた。


 答えはない。


 だが、アッシュにはなぜか、それで十分だった。


     *


 旧裏市場跡の倉庫は、外から見ればただの廃屋だった。


 扉は腐り、看板は外され、窓には板が打ちつけられている。


 だが、黒蝶は知っている。


 地下に空間がある。


 本体リオが調べた地図では、倉庫の下には古い保管庫が広がっている。


 さらに、その奥は地下水路に繋がっている。


 逃走路としては十分だ。


 黒蝶は屋根から降りた。


 眠霧弾は残り二発。


 岩絡み弾は残り一発。


 黒膜弾は使った。


 鳴響弾も使った。


 残る通常弾はあるが、支部長が対策している可能性は高い。


 十分とは言えない。


 だが、ここで止まれば支部長は逃げる。


 黒蝶は扉の隙間から風を入れた。


 空気の流れを見る。


 奥から、薬品の匂い。


 糖蜜を焦がしたような甘い匂い。


 石灰の粉っぽさ。


 そして、土の匂い。


 黒蝶は足を止めた。


 土の匂い。


 ただの地下の匂いではない。


 魔力を含んだ、重い土の気配。


「……いるな」


 黒蝶は呟いた。


 バルド。


 採石場で戦った男。


 前回、黒蝶はバルドに苦戦した。


 足場を奪われ、踏み込みを潰され、風の逃げ場を制限された。


 土属性の戦い方が、まるで分かっていなかった。


 だが、今は違う。


 灰守がいる。


 いや、今ここに灰守はいない。


 同時に出せるわけではない。


 けれど、灰守として火の中で踏みとどまった記憶がある。


 旧坑道で、地面の空洞を読んだ記憶がある。


 岩巣蜘蛛の糸を、切らずに杭へ逃がした記憶がある。


 地面が何をされるのか。


 どこが支えで、どこが抜けるのか。


 少しだけ、分かる。


 黒蝶は扉を開けた。


 地下へ続く階段。


 暗い。


 狭い。


 天井が低い。


 黒蝶にとって不利な場所だ。


 支部長が選んだのだろう。


 黒蝶は降りた。


     *


 地下倉庫の奥。


 支部長セヴラン・グリスは、椅子に座っていた。


 銀の指輪。


 片手だけの黒い革手袋。


 細い目。


 机の上には、書類の束と小さな金庫がある。


 その横に、眠り弾の粗悪な複製品。


 粘糸樹脂の試作品。


 黒膜胞子の瓶。


 黒蝶装備を再現しようとした跡だ。


 セヴランは黒蝶を見ても、すぐには立たなかった。


「来たか」


 黒蝶は答えない。


「火付け役は?」


 沈黙。


「生きているな。お前のような手合いは、ああいう子供を見捨てられない」


 黒蝶の指が、眠り銃に触れる。


 セヴランは笑った。


「撃つか? 布も眼鏡も用意してある。今さら眠り粉など――」


 黒蝶は撃たなかった。


 ただ、机の上の試作品を見た。


「欲しかったのは、装備か」


「当然だ」


 セヴランは立ち上がる。


「お前は道具の価値を分かっていない。眠らせ、縛り、視界を奪う。殺さずに済む。つまり、標的を傷つけずに運べる。貴族の子息を攫うのにも、証言者を消さずに黙らせるのにも使える」


 黒蝶の中で、何かが冷えた。


 殺さない道具。


 人を死なせないための道具。


 それを、この男は別の形で見ている。


 傷つけずに奪う道具。


 殺さずに支配する道具。


 セヴランは続けた。


「非殺傷。実に便利な思想だ。お前の甘さは、商売になる」


 黒蝶は、一歩踏み出した。


 その瞬間。


 床が沈んだ。


 黒蝶は風を踏もうとした。


 だが、天井が低い。


 横へ抜けるには壁が近い。


 足元の石床が、黒蝶の踏み込みに合わせて斜めに落ちる。


 黒蝶の体勢が崩れた。


 地下倉庫の奥で、低い声がした。


「久しぶりだな、黒いの」


 土の匂い。


 重い足音。


 バルドが現れた。


 分厚い腕。


 土色の外套。


 手甲には細かな石紋が刻まれている。


 彼は壁に片手を当て、倉庫の床全体を自分の掌の中に置いているようだった。


 セヴランが笑う。


「紹介するまでもないか。前に手を焼いた相手だろう」


 黒蝶は姿勢を立て直した。


 バルドは黒蝶を見て、口の端を上げる。


「今日は飛びにくい場所でやろうぜ」


 黒蝶は答えない。


 前回と同じだ。


 足場を奪う。


 踏み込みをずらす。


 風で逃げる先を壁で潰す。


 黒蝶の軽さを、地面へ叩き落とす。


 バルドが足を踏み鳴らした。


 床が波のようにずれる。


 黒蝶は後ろへ跳ぶ。


 だが、着地点が沈む。


 読まれている。


 いや、読ませている。


 バルドは、黒蝶が軽いことを知っている。


 空へ逃げることを知っている。


 ならば、空へ逃げた先を潰せばいい。


 黒蝶は壁を蹴った。


 天井が迫る。


 土の板がせり出し、進路を塞ぐ。


 前回なら、ここで押し込まれていた。


 だが、黒蝶はその土板を見た。


 どこからせり出しているか。


 どこが支えか。


 どこが見せかけか。


 灰守の記憶が、足元の奥で疼く。


 旧坑道で、蜘蛛の巣の支点を落とした時の感覚。


 地面は、一枚ではない。


 支えがある。


 抜ける場所がある。


 バルドは全部を動かしているわけではない。


 動かしているように見せているだけだ。


 黒蝶は、あえて沈む床に足を置いた。


 バルドの眉が動く。


「そこに乗るのか」


 床が落ちる。


 黒蝶は落ちる瞬間、風で体重を抜いた。


 足は沈む。


 体は沈まない。


 そのまま壁際へ滑る。


 バルドが追う。


 黒蝶は眠り銃を撃った。


 眠霧弾。


 白い霧が、地面に沿って広がる。


 バルドは鼻で笑った。


「眠り粉か。効かねえよ」


 彼は大きく息を止めた。


 だが、霧は上に行かない。


 足元へ絡む。


 手甲の隙間。


 首筋。


 目元。


 布のない皮膚。


 バルドの膝が、ほんのわずかに沈んだ。


 ほんのわずか。


 だが、黒蝶には十分だった。


 バルドが舌打ちする。


「……粉じゃねえな」


 黒蝶は答えない。


 風を細く流し、霧をバルドの足元に留める。


 バルド級の戦闘員を眠らせるには足りない。


 けれど、半拍遅らせることはできる。


 バルドが床へ手を伸ばす。


 その右手甲に、白灰色の糸が飛んだ。


 岩絡み弾。


 バルドは手甲を振る。


 切ろうとする。


 糸は切れないのではない。


 切る刃に絡む。


 手甲の継ぎ目へ食い込む。


「何だ、こいつは」


 バルドの土属性の魔力が、一瞬乱れた。


 床の波が止まる。


 黒蝶は低く踏み込んだ。


 バルドが左腕を振る。


 黒蝶は受けない。


 風で半歩ずらす。


 拳が外套をかすめる。


 衝撃だけで、黒蝶の肩が軋む。


 まともに受ければ終わる。


 だが、受けない。


 前回は、地面が襲ってくるだけに見えた。


 今は違う。


 バルドがどこへ魔力を通しているか、少しだけ分かる。


 灰守の記憶がある。


 土属性複製体が、痛みと一緒に持ち帰った感覚がある。


 黒蝶はバルドの右手甲に絡んだ糸を、床下の金属梁へ引っかけた。


 バルドが力を込める。


 床が動こうとする。


 だが、右腕と床下の梁が、同じ糸で繋がった。


 バルドが地面を動かそうとするほど、自分の腕が引かれる。


 彼の目が見開かれた。


「俺の土を、支点にしたのか」


 黒蝶は短く答えた。


「前は、されるだけだった」


 バルドが笑った。


 獰猛に。


「いいじゃねえか」


 床が砕けた。


 バルドは自分の右手甲ごと、岩絡み糸を床から引き剥がそうとする。


 力が違う。


 糸が軋む。


 金属梁が歪む。


 黒蝶はもう一発撃てない。


 岩絡み弾はこれで最後だ。


 眠霧弾も残り一発。


 余裕はない。


 黒蝶は鳴響弾の残骸から拾っていた小さな金属片を、指で弾いた。


 地下倉庫に、甲高い音が跳ねる。


 バルドの耳が一瞬そちらを向く。


 黒蝶は、その一瞬でバルドの懐へ入った。


 眠り銃の銃身で、バルドの膝裏を打つ。


 効かない。


 いや、効く場所ではない。


 目的は痛みではない。


 重心。


 眠霧弾で鈍った足。


 岩絡み糸で引かれた右腕。


 音で一瞬ずれた視線。


 そこへ、膝裏を押す。


 バルドの体が、半歩沈んだ。


 黒蝶は風を真下へ叩きつけた。


 軽く飛ぶための風ではない。


 相手の重心を、さらに沈めるための風。


 バルドの膝が床についた。


 床が割れる。


 だが、沈んだ床は黒蝶が選んだ場所だった。


 先ほどバルド自身が崩しかけ、支えを弱くした場所。


 そこへ、黒蝶は事前に糸を回していた。


 バルドの右腕。


 床下の梁。


 沈んだ床。


 その三つが、岩絡み糸で繋がる。


 バルドは立とうとした。


 立てない。


 片膝をついたまま、右腕を引かれ、左足は沈んだ床に噛まれている。


 眠ってはいない。


 意識もある。


 だが、動けない。


 黒蝶は銃口を向けた。


 バルドはしばらく黙っていた。


 そして、低く笑った。


「……越えたか、黒いの」


 セヴランの顔から、笑みが消えていた。


「バルド?」


 バルドは立てない。


 右腕に力を込めても、糸と床が軋むだけ。


 左足を抜こうとしても、自分が沈めた床が逆に足を噛んでいる。


 バルドは黒蝶を見上げた。


「今日は、俺の負けだ」


 セヴランが叫んだ。


「何を言っている! 立て、バルド! お前は私が雇った戦闘員だろう!」


 バルドは支部長を見た。


 その目は、冷めていた。


「立てねえから負けなんだろうが」


「ふざけるな! 金は払っている!」


「金で地面は動く」


 バルドは息を吐いた。


「俺の負けまでは、買えねえよ」


 セヴランの顔が歪む。


 切り札が膝をついた。


 雑兵は倒された。


 アッシュは奪い返された。


 旧黒蝶対策は破られた。


 そして、前回黒蝶を苦しめたバルドまで無力化された。


 支部長の目に、初めて本物の恐怖が浮かんだ。


「……嘘だろう」


 黒蝶は、ゆっくりとセヴランへ向き直った。


 眠霧弾は残り一発。


 通常弾はまだある。


 だが、もう十分だった。


 セヴランは一歩下がる。


 机の上の書類に手を伸ばした。


 燃やすつもりだ。


 黒蝶は銃口を上げた。


「終わりだ」


 セヴランの喉が鳴った。


 地下倉庫の奥で、バルドが片膝をついたまま笑っている。


 支部長は、ようやく理解した。


 自分が調べていた黒蝶は、もうここにはいない。


 昨日までの黒蝶は、もういない。

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