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ギルド職員は迷子を届ける

 セヴラン・グリスは、膝をついていた。


 地下倉庫の床は冷たい。

 壁際では、崩れた木箱と割れた瓶が転がっている。黒膜胞子の瓶は砕け、粘糸樹脂の塊が床に白く貼りつき、粗悪な眠り弾の筒が無惨にへこんでいた。


 黒蝶を真似た道具の残骸。


 その中心に、黒蝶が立っている。


 裂けた外套。

 傷の入った仮面。

 使い切った弾帯。


 けれど、倒れてはいない。


 バルド・グレインは壁際に座り込んだまま、動かなかった。大剣は手の届かない場所に転がり、片腕には粘糸と岩絡み弾の残滓が絡みついている。


 彼は負けを認めた。


 だから、もう動かない。


 セヴランは、荒い息を吐きながら黒蝶を見上げた。


「……化け物め」


 黒蝶は答えなかった。


 仮面の奥で、短く息を整える。


 肩が痛む。

 脇腹が軋む。

 膝は重い。

 弾は、ほとんど残っていない。


 それでも、足は前へ出た。


 セヴランが口元を歪める。


「私を殺すか?」


 黒蝶は黙ったまま近づく。


「できまい。君はそういう仮面ではない。悪人を眠らせ、縛り、衛兵に引き渡す。殺さない。それが君の売りだ」


 セヴランの声には、まだ毒があった。


 恐怖に押されながら、それでも言葉で逃げ道を作ろうとしている。


「私には価値がある。君が知らないことを知っている。君が知りたがることを、いくらでも――」


「黙れ」


 黒蝶の声は低かった。


 セヴランの言葉が止まる。


「動くな」


「……何を」


 セヴランの黒い革手袋がわずかに動いた。


 次の瞬間、白い糸が飛んだ。


 粘糸が手首を打ち、セヴランの腕を背後の柱へ縫い止める。


「ぐっ……!」


「遅い」


 黒蝶は片膝をつき、セヴランの黒い革手袋を剥ぎ取った。


 床に、細い針が落ちた。


 袖口から薄い刃。

 指輪の裏に仕込まれた小さな魔石。

 懐に隠された印章。

 紙のように薄い薬包。


 黒蝶はそれらを一つずつ取り上げ、無造作に床へ並べた。


「それに触るな」


「触る」


 黒蝶は指輪を抜いた。


 セヴランの顔色が変わる。


「返せ。それは支部長印だ」


「返さない」


「貴様、それが何を意味するか分かって――」


「分かる」


 黒蝶は、床に散らばった帳簿の一冊を拾った。


 黒い革表紙。

 角は擦れている。

 表紙には夜鴉商会ルネリア支部の印がある。


 セヴランの喉が鳴った。


「やめろ」


 黒蝶は帳簿を外套の内側へ入れた。


「支部は、人では動かない」


 セヴランが睨む。


「何を言っている」


「帳簿で動く」


 黒蝶は、別の棚へ視線を向けた。


 棚には未記入の契約書、黒い腕輪状の魔道具、粗悪な防毒面、眠り弾の失敗品が並んでいる。どれも、黒蝶の道具を真似たものだった。


 だが、似ているだけだった。


 眠らせるための道具。

 縛るための道具。

 煙で視界を奪う道具。

 人を殺さず、捕らえ、戻すための道具。


 それを、セヴランは別のものにした。


 眠らせて黙らせる。

 縛って運ぶ。

 煙で隠す。

 証言者を消す。


 同じ形をした、まったく別の道具。


 黒蝶は、棚に残っていた射出筒を踏み潰した。


 乾いた音がした。


「やめろ!」


「遅い」


 黒蝶は、黒膜胞子の瓶を布で包み、口を封じる。粘糸樹脂の試作品は床に叩きつけて固化させた。眠り粉らしき粉末は水瓶に落とし、使えない泥に変える。


 破壊ではない。


 無力化。


 使える形で残さない。


 セヴランは歯を食いしばった。


「君は、自分が何をしているか分かっていない。道具に善悪はない。あるのは、使う者の都合だけだ」


 黒蝶は動きを止めた。


 そして、短く答えた。


「違う」


「何が違う」


「戻すための道具だ」


 セヴランが眉をひそめる。


「戻す?」


「眠らせた者は、朝に返す。縛った者は、裁きに返す。救った者は、日常に返す」


 黒蝶はセヴランを見下ろした。


「お前は、戻さないために使った」


 セヴランは一瞬、言葉を失った。


 黒蝶は、それ以上語らなかった。


 地下倉庫の奥へ向かう。


 木箱の陰に、アッシュがいた。


 赤茶けた髪。

 煤の跡が残る頬。

 薄く震える肩。

 火属性の魔力が、呼吸に合わせて揺れている。


 少年は黒蝶を見た。


「……お前、何なんだよ」


 黒蝶は手を差し出した。


「立て」


「答えろよ」


「あとだ」


「偉そうに……」


 アッシュは悪態をついたが、その手は黒蝶の手を掴んだ。


 熱い。


 火が暴れているのではない。

 火を怖がっている熱だった。


 黒蝶はアッシュを立たせ、倉庫の出口へ向かわせる。


 そこで、壁際のバルドが低く笑った。


「俺は縛らないのか」


 黒蝶は振り返った。


「逃げられるのか」


「無理だな」


「なら、寝ていろ」


「甘いな」


「よく――」


 そこで、黒蝶は口を閉じた。


 仮面の奥で、息だけが浅く残る。


 今のは、リオだ。


 黒蝶の言葉ではない。


 バルドが、わずかに口角を上げた。


「……何でもない」


「死ぬなよ、黒蝶」


 黒蝶は答えなかった。


 代わりに、倉庫の暗がりへ視線を向けた。


 いない。


 老人がいない。


 セヴランのそばにいた、あの老人。

 皺だらけの顔。

 細い杖。

 声に笑いを含ませながら、目だけは一度も笑わなかった男。


 戦闘の最中、姿を消している。


 逃げたのではない。


 黒蝶はそう感じた。


 戻ったのだ。


 報告に。


 セヴランも、ようやくそれに気づいたらしい。


 顔から血の気が引いた。


「……まさか」


 小さな声だった。


 黒蝶は問わない。


 問い詰めても、今のセヴランは答えない。

 答えるなら、朝だ。

 表の場で、証拠を突きつけられた時。


 黒蝶は、床に落ちていた別の帳簿を拾った。全部は持てない。必要なのは、支部を動かす線が分かる分だけだ。


 支部長印。

 帳簿の一部。

 契約書の束。

 アッシュの名前が記された紙片。

 黒い腕輪の破片。

 黒蝶模造品の部品。


 黒蝶はそれらを布に包んだ。


 セヴランが叫んだ。


「待て! それを持っていくな!」


 黒蝶は振り返らない。


「朝を待て」


「黒蝶!」


「お前の夜は終わった」


 黒蝶はアッシュを連れ、地下倉庫を出た。


     *


 夜の支部は、まだ静かだった。


 上階には数名の男たちが倒れている。黒蝶が眠らせた者、粘糸で縛った者、バルド戦の余波で逃げ出した者。


 支部そのものは、まだ建っている。


 けれど、もう動かない。


 契約印はない。

 帳簿の一部はない。

 地下倉庫の試作品は使えない。

 アッシュはいない。

 バルドは戦意を失った。

 老人は消えた。


 支部長の椅子だけが残っていても、支部は動かない。


 黒蝶は、裏口からアッシュを外へ出した。


 空はまだ暗い。

 ただ、東の端にわずかに青が混じり始めていた。


「歩けるか」


「……歩ける」


 アッシュはそう言ったが、足元はふらついていた。


 黒蝶は近くの荷車の陰に少年を座らせた。


「ここにいろ」


「置いてくのかよ」


「すぐ人が来る」


「誰が」


「起きていれば分かる」


「ふざけんな。説明しろよ」


 黒蝶は、腰の小袋から小さな紙片を取り出した。


 そこには、最小限の文字だけが書いてある。


 夜鴉支部。

 地下倉庫。

 子ども一名。

 支部長印押収。

 ギルドへ。


 黒蝶はそれを、近くの巡回路に面した木箱の上へ置いた。衛兵か、朝の荷運びか、誰かが見つける位置。


 アッシュは黒蝶を睨んだ。


「お前は?」


「いない方がいい」


「何で」


「仮面だからだ」


「意味分かんねぇ」


「それでいい」


 黒蝶は背を向けた。


 アッシュの声が追いかけてくる。


「おい!」


 黒蝶は止まらない。


「名前くらい言えよ!」


 黒蝶は屋根へ上がる直前、わずかに振り返った。


「黒蝶」


「それ名前じゃねぇだろ!」


 黒蝶は答えず、夜明け前の屋根へ消えた。


     *


 ギルド二階、自室。


 窓が、音もなく開いた。


 黒蝶は滑り込むように部屋へ入った。

 外套の裾を押さえ、布包みを机の上に置く。


 机には、すでに本体のリオがいた。


 椅子に座っている。

 顔色は悪い。

 眠ってはいない。

 眠れるはずもなかった。


「……戻ったね」


 リオが言った。


 黒蝶は仮面を外す。


 同じ顔。

 同じ目。

 ただ、片方は夜の埃を浴び、片方は机の前で朝を待っていた。


「終わった」


 黒蝶が言う。


 リオは机の上の布包みを見た。


「終わってない顔だ」


「老人が消えた」


「だろうね」


「セヴランは朝に動く」


「本部も動く」


「アッシュは保護される」


「されるように、こっちで動く」


 短いやり取りだった。


 同じ自分同士だから、説明は要らない。


 リオは布包みを開いた。


 帳簿。

 印章。

 契約書。

 紙片。

 腕輪の破片。


 証拠としては不十分。

 だが、照合の起点としては十分。


 夜の黒蝶が奪ったものを、朝のギルド職員リオが書類にする。


 そう考えると、リオは少しだけ笑いそうになった。


 笑えない状況なのに。


「統合しよう」


 黒蝶が言った。


「うん」


 次の瞬間、黒蝶の輪郭が崩れた。


 記憶が戻る。

 疲労が戻る。

 痛みが戻る。


「っ……!」


 リオは椅子から滑り落ち、床に膝をついた。


 肩。

 脇腹。

 膝。

 背中。

 魔力の枯れ。

 バルドの土杭を避けた時の衝撃。

 セヴランの地下倉庫で吸った粉塵。

 アッシュの手の熱。


 全部が一度に戻ってくる。


 請求書だ、とリオは思った。


 黒蝶の夜間活動費。

 戦闘費。

 救出費。

 装備損耗費。

 身体酷使費。


 まとめて本体へ請求された。


「……分割払いにしてほしい」


 リオは床に手をついたまま呟いた。


 だが、そんな制度はない。


 窓の外は、もう白み始めていた。


 ギルドは、今日も開く。


 そしてリオは、出勤しなければならない。


     *


「リオ。早めに来ていて正解だった」


 朝一番。


 受付主任のマーレは、リオを見るなりそう言った。


 リオは書類束を抱えたまま、薄く笑った。


「……帰ってもいいですか」


「駄目だ」


「体調不良で」


「顔色が悪いのは認める。だが今日は全員顔色が悪くなる日だ」


 マーレの机には、すでに書類が積まれていた。


 夜明け前に見つかった匿名の紙片。

 夜鴉商会ルネリア支部に関する通報。

 衛兵からの照会。

 過去の冒険者失踪記録。

 未払い依頼の苦情。

 行方不明者の相談記録。


 そして、リオが夜のうちにギルドの保管箱へ滑り込ませた帳簿の写し。


 マーレは、その帳簿を指先で叩いた。


「これが今朝、資料箱に入っていた」


「……物騒ですね」


「そうだな」


 マーレの目は鋭かった。


「出どころは分からん。だが、中身は本物に近い」


「確認しますか」


「する。お前の得意分野だ」


 リオは思わず目を閉じた。


 昨夜、自分で盗んだ帳簿を、今朝、自分で照合する。


 自業自得にも程がある。


「リオ?」


「いえ。やります」


 リオは帳簿を開いた。


 日付。

 依頼番号。

 荷物の出入り。

 名前のない支払い。

 不自然に消えた護衛依頼。

 夜間倉庫の使用記録。

 そして、ギルドの記録上では処理済みになっているはずの、行方不明者に関する薄い線。


 リオは、過去の相談記録を引く。


 年齢。

 属性。

 失踪日時。

 最後に受けた依頼。

 関係した商会名。


 線がつながる。


 細く、黒く、いやな線だった。


「……マーレ主任」


「見つけたか」


「まだ断定はできません。ただ、照合すべき記録があります」


「どれだ」


 リオは三枚の相談記録を並べた。


「この三件。依頼の仲介に夜鴉支部が入っています。あと、こちらの倉庫番号。帳簿と一致します」


 マーレの表情が硬くなった。


「衛兵へ回す」


「はい」


「それと、夜鴉支部への査察を要請する。こちらからも立ち会いを出す」


「支部長セヴランは、どう動くと思いますか」


「分からん」


 マーレは帳簿を閉じた。


「だが、これだけのものが出た以上、平然とはしていられないはずだ」


 リオは内心で、昨夜のセヴランの顔を思い出した。


 黒蝶に追い詰められた時より、老人が消えたことに気づいた時の方が、怯えていた。


 本部。


 老鴉。


 夜鴉商会の奥にいる何か。


 セヴランは、おそらくそれを恐れている。


「リオ」


「はい」


「お前、顔色が本当に悪い。無理なら下がれ」


「いえ、大丈夫です」


「大丈夫な者は、そういう顔をしない」


「では、少しだけ大丈夫ではないです」


「正直でよろしい」


 マーレは一枚の書類を差し出した。


「これも頼む」


「増えましたね」


「増える日だ」


 リオは受け取った。


 そこには、夜明け前に保護された少年についての簡単な報告が記されていた。


 赤茶けた髪。

 火属性。

 身元確認中。

 夜鴉支部近くで保護。

 本人は口が悪いが、負傷は軽微。


 アッシュ。


「その子どもだが」


 マーレが声を落とした。


「衛兵の事情聴取が済み次第、一時的にこちらで預かる可能性がある。孤児院の受け入れがすぐには難しいらしい」


「ギルドで、ですか」


「火属性持ちだ。暴走の危険も見る必要がある」


「……分かりました」


「お前、子どもの相手はできるか」


「得意ではありません」


「だろうな」


「でも、やります」


 マーレは一瞬だけリオを見た。


「無理に踏み込むな。ああいう子は、助けられたからといって、すぐ助けた相手を信じるわけではない」


「はい」


「それに、お前は弱そうに見える」


「実際、弱いので」


「そういう顔で言うな」


 その時、ギルドの入口が少し騒がしくなった。


 衛兵が二人。

 その後ろに、アッシュがいた。


 昨夜よりは顔色が戻っている。

 だが、目つきは荒い。


 少年はギルドの中を見回し、最後にリオを見た。


 リオは、いつもの見習い職員の顔を作った。


「ええと……こちらで一時保護、ということでよろしいですか」


 衛兵が頷く。


「事情聴取は一旦済ませた。詳しい話は後日だ。本人はあまり話したがらない」


「どこで保護されたんですか」


「夜鴉支部近くの荷車の陰だ。巡回が見つけた。そばに通報の紙片が置かれていた」


 リオは頷いた。


「本人は、何か」


 衛兵は肩をすくめた。


「『知らねぇ。気づいたら外にいた』の一点張りだ。助けた者がいたかと聞いても、見ていないと言う」


 アッシュが不機嫌そうに顔を背ける。


「見てねぇもんは見てねぇんだよ」


 明らかな嘘だった。


 だが、リオは何も言わなかった。


 衛兵も深く追及しなかった。

 おそらく、黒蝶の関与を疑ってはいる。けれど、今は支部摘発の方が先なのだろう。


 リオはしゃがみ、目線を合わせた。


「僕はリオ。ここの見習い職員。困ったことがあったら、マーレ主任か僕に言って」


 アッシュはリオをじっと見た。


 その視線が、わずかに探るように細くなる。


 リオの背筋が冷えた。


「……あんた、冒険者じゃねぇのか」


「違うよ。書類と雑用が主な仕事」


「弱そうだな」


「よく言われる」


 リオは、ついそう返した。


 昼のリオなら、このくらいは言う。


 アッシュは鼻を鳴らした。


「戦えねぇなら、意味ねぇだろ」


 マーレが口を開きかけたが、リオは小さく手で制した。


「戦えなくても、火事の時に水を運ぶ人は必要だよ」


 アッシュの表情がわずかに動いた。


「火は、水で消せばいいってもんじゃねぇ」


「うん。砂も布もいる。空気を遮る蓋もいる。燃えているものによっては、水で広がることもある」


 アッシュは黙った。


 火属性の子どもらしい沈黙だった。


 火を知っている。

 火が怖い。

 だから、水だけでは足りないことも分かる。


「そのうち、そういう道具を作るかもしれない」


「道具?」


「火を止める道具」


「……何で俺に言うんだよ」


「火を知っている人がいた方が、失敗しにくいから」


 アッシュは答えなかった。


 ただ、さっきより少しだけ、リオを見る目が変わった。


     *


 昼前には、衛兵とギルドによる夜鴉支部への査察が正式に決まった。


 表向きは、帳簿の確認と行方不明者の照会。


 だが、リオは分かっていた。


 支部はもう、もたない。


 夜のうちに黒蝶が奪ったものは、急所だった。


 支部長印。

 帳簿。

 契約書。

 模造品の証拠。

 アッシュという生き証人。


 これだけあれば、支部は揺らぐ。


 けれど、それで本部まで届くかは別だった。


 マーレは、リオの照合結果を読みながら眉間を押さえた。


「セヴラン本人にも確認が入るだろうな」


「支部長室だけで済みますか」


「済まない可能性はある」


 マーレは帳簿の該当箇所を指で押さえた。


「ただし、まずは支部だ。自宅や私物にまで広げるには、支部内でさらに強い証拠が出る必要がある」


「出ますかね」


「出るだろう」


 マーレは低く言った。


「これが本物ならな」


 リオは頷いた。


 本物だ。


 少なくとも、昨夜黒蝶が見た地下倉庫は本物だった。


 ただ、本部まで続く線が残っているかは分からない。


 夜鴉商会は、荷を運ぶ商会だ。

 人も、金も、証拠も動かす。

 情報も同じだろう。


 早い。


 だからこそ、怖い。


 仕事は増える。


 支部の査察。

 アッシュの保護。

 押収品の照合。

 行方不明者記録の洗い直し。

 衛兵への回答。

 支部経由依頼の確認。


 そして、リオの頭の片隅には、ずっと別のものが引っかかっていた。


 ミラ工房。


 以前の襲撃で半壊した作業場は、まだ応急処置のままだ。

 壊れた作業台。歪んだ棚。焼けた素材。補強しただけの壁。


 ミラは笑っていた。

 「まあ、動くからいいよ」と言っていた。


 だが、動くことと、直っていることは違う。


 本格的に直すには金が要る。

 黒蝶の装備を修理するにも、灰色の装備を補強するにも、さらに金が要る。


 リオは帳簿の数字を見ながら、別の数字のことを考えていた。


 修繕費。

 素材代。

 加工費。

 失った試作品の作り直し。


 どれも、見たくない種類の数字だった。


「リオ」


「はい」


「目が遠い」


「すみません。少し、別の数字のことを考えていました」


「今はこっちの数字を見ろ」


「はい」


 リオは慌てて帳簿に目を戻した。


 マーレは呆れたように息を吐いたが、それ以上は追及しなかった。


     *


 その日の夕刻。


 夜鴉商会本部へ早馬が出た、という話がギルドにも届いた。


 ルネリア支部の査察。

 支部長印の所在不明。

 帳簿の流出。

 地下倉庫の疑惑。

 保護された火属性の少年。


 支部長を救うためか。

 支部を切るためか。


 それは、まだ分からない。


 ただ、リオには分かっていた。


 あの老人は、ただ逃げたのではない。


 戻ったのだ。


 夜鴉の奥へ。

 帳簿を閉じる者たちのもとへ。


 マーレは窓の外を見て、低く呟いた。


「明日、支部へ入る」


「はい」


「何が出るか分からん」


 リオは、机の上の帳簿を見た。


 黒い革表紙。

 夜に拾い、朝に開いたもの。


「出ると思います」


「何がだ」


「支部を潰すには、十分なものが」


 マーレはリオを見た。


「本部は?」


「……届かないかもしれません」


「そうだな」


 マーレは短く息を吐いた。


「だが、支部は終わる」


 リオは頷いた。


 セヴラン支部長の夜は終わった。


 だが、夜鴉商会の夜は、まだ終わっていない。


 そしてリオの机の上には、まだ処理されていない書類が山のように残っていた。


 黒蝶は夜に支部を壊した。


 ギルド職員は、昼にその後始末をする。


 それが、リオ・アルヴェルの二重生活だった。

本日も連続投稿となります。

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