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ギルド職員は足元を見られる

 東門外の採石場は、ルネリア城下町から馬車で半刻ほどの場所にある。


 古くから石材を切り出している場所で、王都へ続く街道の補修にも、城壁の修繕にも、職人街の炉の土台にも、そこの石が使われてきた。


 つまり、人が通る。


 荷馬車が通る。


 金も物も動く。


 そして、そういう場所には必ず、奪う側の人間も寄ってくる。


     ◇


 翌朝。


 冒険者ギルド・ルネリア支部の資料室で、リオは採石場周辺の地図を広げていた。


 机の上には、東門外の街道図。


 採石場の古い作業記録。


 土砂崩れの報告書。


 過去の荷馬車事故記録。


 そして昨夜届いた襲撃報告。


 ついでに、食堂から誰かが置いていったルネリア新報も端に寄せられていた。


 『黒蝶(ファントム)、火中より少年を救出』


 その見出しは、まだ妙に目に入る。


 リオは一度だけ新聞を裏返し、羽ペンで地図に印をつけた。


 襲撃地点は、採石場へ向かう旧道の途中。


 片側は低い崖。


 片側は石積みの擁壁。


 荷馬車が通るには十分だが、すれ違うには少し狭い。


 逃げ場は少ない。


 そして、足場は悪い。


「車輪だけが落ちるように道が沈む、か」


 リオは報告書の一文を読み返した。


 荷馬車の前輪だけが沈んだ。


 馬は無事。


 御者も軽傷。


 だが、車体が傾き、護衛は動きを制限された。


 逃げようとした一人は、地面から突き出た石杭に足を取られて転倒。


 もう一人は、土壁で視界を遮られたところを、背後から殴られた。


 殺されてはいない。


 積み荷のうち、黒い腕輪に関係する焼け残りの金属片と書類だけが奪われた。


 実に、無駄がない。


 荒くれ者の犯行ではない。


 計画があり、地形を読み、奪うものを決めていた者のやり方だ。


「……元工兵、ですか」


 リオは、ギルドマスターのオルドが口にしていた噂を思い出す。


 夜鴉商会には、元工兵崩れの土属性使いがいる。


 工兵。


 道を作り、壕を掘り、橋を落とし、壁を築き、敵の進路を塞ぐ者。


 剣で勝つ兵ではない。


 戦う前に、勝ちやすい地形を作る兵だ。


 黒蝶とは相性が悪い。


 たとえ新聞が、黒蝶をファントムなどと呼び始めたとしても。


 幻のように消えるためには、まず足場が要る。


 足場を奪われれば、幻も地面に落ちる。


 リオはギルド用の調査メモに書き込む。


『土属性使い。地形支配型。正面戦闘よりも、移動制限・視界遮断・足場破壊が主と推測』


 そこへ、資料室の扉が開いた。


「リオ」


 オルドだった。


 太い腕を組み、地図の上を覗き込む。


「早いな」


「昨日、明日の朝まででいいと言われたので」


「明日の朝とは言ったが、夜通しやれとは言っていない」


「寝ました」


「どのくらい」


「必要最低限」


「それは寝たとは言わん」


 オルドはため息をついた。


 リオは話を逸らすように、地図を指した。


「襲撃地点ですが、偶然ではないと思います。この場所なら荷馬車の動きが制限されます。擁壁と崖に挟まれていて、左右に逃げづらい。土属性で一部を沈ませれば、簡単に止められます」


「相手は地形を知っているか」


「採石場関係者か、過去にここで働いたことがある人物。あるいは、事前にかなり下見をしています」


「夜鴉なら、下見くらいするだろう」


「はい」


「で、ギルドとしてはどう動くべきだと思う」


 リオは地図を見た。


「衛兵と連携して、採石場へ続く道を一時的に警戒。荷の移動は複数台で行い、単独の馬車を出さない。土属性使いの可能性があるため、足場の異常確認を徹底。鳴響石か棒で地面を叩きながら進む。あと、崖沿いの旧坑道を確認するべきです」


「旧坑道?」


「ここです」


 リオは地図の端を指した。


「今は使われていない採掘跡ですが、記録上はまだ完全に埋め戻されていません。人が隠れるには十分です。土属性使いなら、入口を塞いだり開けたりもできる」


「なるほどな」


 オルドは顎を撫でた。


「では、職員としての仕事を頼む。今の内容をまとめて、衛兵宛の注意書きにしろ」


「分かりました」


「現場確認には、衛兵と冒険者を向かわせる。お前は資料をまとめるだけでいい」


「はい」


「返事はいいな」


「はい」


 オルドは少しだけ目を細めた。


「……資料をまとめるだけでいい、と言ったぞ」


「分かっています」


「ならいい」


 オルドはそれ以上、踏み込まなかった。


 ただ、資料室を出る直前に言った。


「リオ」


「はい」


「土属性の相手は、足元を見てくる。こちらも足元を見ろ」


 リオは地図を見下ろした。


「覚えておきます」


     ◇


 昼過ぎ。


 リオは衛兵向けの注意書きを作成し、マーレに確認してもらった。


 内容は簡潔にした。


 東門外旧道での単独輸送禁止。


 採石場周辺の地面異常に注意。


 馬車の車輪直下だけが沈む事例あり。


 土壁・石杭・足場崩しを想定。


 旧坑道および廃採掘路に隠れ場所の可能性。


 夜鴉商会の関与が疑われるため、黒い羽根印に注意。


 マーレは書類に目を通しながら言った。


「よくまとまっている」


「ありがとうございます」


「ただ、いつもより少し細かいな」


「現場確認用なので、具体的な方が役に立つかと思いまして」


「それはそうだ」


 マーレは数か所に赤で印を入れた。


「ここは少し短く。衛兵が現場で読むなら、一文を長くしない方がいい。あと、旧坑道の位置は別紙地図に赤丸をつける。文章だけだと見落とす」


「なるほど」


「それと、注意書きの一枚目に要点をまとめる。忙しい現場で二枚目まで読ませるな」


「直します」


「うん」


 マーレは書類を返した。


 そこに妙な疑いはない。


 ただ、仕事として、現場に伝わる資料に直しているだけだ。


「あと、昼は食べたか」


「まだです」


「食べてから直せ」


「先に直した方が早いです」


「食べてから直せ」


「はい」


 リオは素直に頷いた。


 マーレはもう一度、念押しする。


「リオ。事件の資料を作るのは大事だが、資料を作る人間が倒れたら意味がない。食事と休憩は仕事のうちだ」


「分かりました」


「分かっているなら、食堂へ行け」


「はい」


 リオは資料を抱え、食堂へ向かった。


     ◇


 夕方。


 ミラ・グリム魔工房。


 リオは受け取った包みを見つめていた。


「仮面、もう仮修理できたんですか」


「仮、だからね。完全じゃない」


 ミラは作業台に肘をついた。


「濾過層は交換式にしておいた。予備は二つ。響膜は掃除したけど、煙を吸いすぎるとまた詰まる。外套は焦げた部分だけ応急補修。逃がし縫いも戻した」


「ありがとうございます」


「ただし、火事場には入らないこと」


「善処します」


「それ禁止って言ったよね」


「努力します」


「それも近い」


 ミラは目を細めた。


「今日は何かあるの?」


「何もありません」


「嘘が下手」


「嘘ではありません。予定はありません」


「予定外に出る気はあるんだ」


 リオは黙った。


 ミラは軽くため息をつく。


「今度は何? 火? 煙? 腕輪?」


「土です」


「土?」


「土属性使いが関わっている可能性があります」


 ミラの表情が少し変わった。


「土属性相手に、その装備で行くの?」


「行くとは言っていません」


「行かないとも言ってない」


「今日はそういう人が多いですね」


「君がそういう顔してるからでしょ」


 ミラは棚から小さな金属筒を一つ取り出した。


「これ、持っていきな」


「これは?」


「低出力の鳴響弾。まだ試作品。大きな音で相手を崩すんじゃなくて、反響を見る用」


「……いいんですか」


「土属性相手なら、地面の下を見る道具がいるでしょ」


「なぜ分かるんですか」


「君がそういう顔してるから」


 リオは少し自分の顔を疑った。


 ミラは鳴響弾を指で叩く。


「ただし、過信しない。空洞の有無くらいは分かるけど、形までは無理。固い岩盤と締まった土の違いも、使い慣れてないと読み間違える」


「分かりました」


「あと、地面に撃ち込むと目立つ。相手が土属性なら、逆に気づかれるかも」


「はい」


「それでも持っていく?」


 リオは少し迷った。


 そして、受け取った。


「持っていきます」


「やっぱり行くんじゃん」


「知り合いに渡します」


「はいはい」


 ミラはもう追及しない。


 だが、作業台の端に置かれていた新聞へ視線を移し、少しだけ笑った。


「その知り合い、新聞に名前までつけられたんだから、少しは自重した方がいいよ」


「本人は名乗っていません」


「知ってる」


「知っているんですか」


「たぶんね」


 ミラは肩をすくめる。


「でも、名前が広がると、追う人も増える。悪党だけじゃない。衛兵、商人、新聞屋、物好きな冒険者。みんな、黒蝶さんを見たがるようになる」


「……厄介ですね」


「かなりね」


 ミラは最後に一つだけ言った。


「リオ君」


「はい」


「土属性の相手は、見えてる地面だけが地面じゃないよ」


 リオは鳴響弾を握りしめた。


「覚えておきます」


     ◇


 夜。


 ギルドの自室。


 机の上には、修理された仮面と外套、眠り銃、粘糸弾、黒膜弾、鳴響弾、低出力鳴響弾、簡易通報符が並んでいた。


 本体のリオは地図を見下ろす。


 昼に作った衛兵向け資料の控え。


 採石場周辺の道。


 旧坑道。


 襲撃地点。


 衛兵と冒険者が現場確認に向かっている。


 だから、本来なら黒蝶の出番ではない。


 ないはずだ。


 だが、夜鴉商会が奪ったものは黒い腕輪の証拠。


 それをそのまま移動させるなら、今夜だ。


 衛兵の警戒が強くなる前。


 証拠の行方を追われる前。


 黒蝶が昨夜の火事場で無理をしたと見られている今。


 そして、新聞に名前を飾られ、町中の視線が黒蝶に向き始めた今。


 動くなら、今夜。


 リオは右手を前に出した。


 空気が揺れる。


 もう一人のリオが現れる。


 複製体は、地図を見て言った。


「行くんだな」


「短時間。確認だけ」


「その言葉、信用できない」


「自分に言われるとつらい」


「相手は土属性。採石場。屋根は少ない。足場は全部向こうの領域かもしれない」


「分かってる」


「勝てる?」


「勝ちに行かない。見る。証拠を拾う。無理なら引く」


「それも信用できない」


 本体のリオは仮面を差し出した。


「三原則」


 複製体は仮面を受け取る。


「死なない。捕まらない。装備を落とさない」


「追加」


「地面を信じない。固定先を一つにしない。足を止めない。喋らない」


「よし」


 黒蝶(ファントム)は仮面をつける。


 低く、ざらついた声が落ちる。


「行ってくる」


 本体は一瞬だけ黙った。


 そして言った。


「足元を見て」


「上じゃなく?」


「今日は、下だ」


 黒蝶は頷き、窓から夜へ出た。


     ◇


 東門を越えると、町の明かりは一気に遠ざかる。


 黒蝶は街道脇の木々を伝い、低く移動した。


 いつものように屋根を走ることはできない。


 街道。


 畑。


 石垣。


 低い崖。


 ところどころに積まれた切り石。


 黒蝶の得意な高所は少ない。


 その代わり、影は多い。


 黒蝶は風を読んだ。


 夜風は東から西へ。


 土の匂い。


 湿った石の匂い。


 遠くに、馬の汗の匂い。


 人がいる。


 黒蝶は速度を落とした。


 採石場へ続く旧道の手前。


 昼間、襲撃地点として印をつけた場所より少し奥に、荷馬車が一台止まっていた。


 灯りはない。


 だが、馬がいる。


 人影が三つ。


 いや、四つ。


 積み荷を移している。


 黒蝶は岩陰に身を沈めた。


 黒い羽根の印が見えた。


 夜鴉商会。


 黒蝶は眠り銃に手を伸ばした。


 だが、撃たない。


 まず見る。


 地面。


 荷馬車の周囲の土が、わずかに不自然だ。


 踏み固められている場所と、柔らかい場所が混ざっている。


 黒蝶は低出力鳴響弾を取り出し、近くの石へ軽く当てた。


 コン、と小さな音。


 反響が足元から返る。


 硬い。


 硬い。


 少し鈍い。


 右前方に空洞。


 黒蝶はそこを避けた。


 次の足場を探す。


 その瞬間。


「ほう」


 低い声がした。


「地面を叩いたか」


 黒蝶は動きを止めた。


 荷馬車の陰から、男が一人出てきた。


 大柄ではない。


 むしろ中背。


 作業着に近い厚手の服。


 腰には短剣。


 背中には折り畳み式の小さな鍬のような道具。


 顔は無骨で、髭が薄く伸びている。


 ただ、目が冷静だった。


 荒くれ者の目ではない。


 現場を見る者の目だ。


「黒蝶だな」


 黒蝶は答えない。


 男は、少しだけ口元を動かした。


「新聞では、ファントムだったか」


 黒蝶はやはり答えない。


「幻にしては、足音がある」


 男は足元を軽く踏んだ。


 その瞬間、黒蝶の左足の下が沈んだ。


 浅い。


 だが、足首を取るには十分。


 黒蝶は即座に粘糸弾を横の岩へ撃ち、体を引いた。


 沈む地面から抜ける。


 着地。


 そこも危ない。


 黒蝶は足を置く直前、風を足元へ当て、体を半歩ずらした。


 直後、石杭が地面から突き出る。


 もし普通に着地していれば、足を貫かれていた。


 黒蝶は岩の上へ乗る。


 男は感心したように頷いた。


「軽いな」


 黒蝶は黙ったまま、男を見る。


 男は名乗らない。


 ただ、淡々と言った。


「風は上を取る。土は下を取る」


 地面が低く鳴った。


「ここに屋根はないぞ、黒蝶」


 黒蝶は眠り銃を抜いた。


 撃つ。


 男の前に、薄い土壁が立った。


 眠り弾が壁に当たり、砕ける。


 粉が舞う。


 男はすでに横へ動いていた。


 黒蝶は風で粉を押し流す。


 しかし、男の位置は変わっている。


 黒蝶は追撃しない。


 代わりに、黒膜弾を地面へ叩きつけた。


 黒い膜が広がり、視界を切る。


 いつもなら、ここで相手の動きを止められる。


 だが。


 男は止まらなかった。


 黒膜の向こうから、声がする。


「視界を奪う。悪くない」


 地面が震える。


「だが、足音は消えていない」


 黒蝶の足元が隆起した。


 黒蝶は跳ぶ。


 跳んだ先に土煙。


 視界が白く濁る。


 黒膜と土煙が混ざり、世界が曖昧になる。


 黒蝶は風で払った。


 その風の流れを、男が読んだ。


 石が飛んでくる。


 小さな礫。


 一つ一つは致命傷ではない。


 だが、当たれば体勢が崩れる。


 黒蝶は外套で受け、身を沈めた。


 肩に痛みが走る。


 燃える倉庫で受けた打撲が、まだ奥に残っていた。


 黒蝶は低く息を吐く。


 喋るな。


 止まるな。


 地面を信じるな。


 岩から岩へ。


 土の上ではなく、切り石の上へ。


 だが、その切り石が傾いた。


 下から土が抜かれている。


 黒蝶はバランスを崩す。


 そこへ石杭。


 黒蝶は粘糸弾を上へ撃った。


 固定先は、古い吊り上げ用の木柱。


 採石場で石を運ぶために使われていた支柱だ。


 糸が張る。


 黒蝶の体が宙へ逃げる。


 石杭が足元をかすめた。


 男が言った。


「地面を捨てるか」


 黒蝶は宙で体を回し、鳴響弾を男の足元へ投げる。


 鋭い音。


 男の姿勢がわずかに崩れる。


 その隙に眠り弾。


 しかし、男は膝をつきながらも、片手で土を跳ね上げた。


 小さな土壁。


 また防がれる。


 黒蝶は歯を食いしばった。


 当たらない。


 見られている。


 眠り銃を抜く動作。


 照準。


 撃つタイミング。


 何度も黒蝶を観察した者がいる。


 そして、その情報がこの男に渡っている。


 旧水路でこちらを見ていた、あの老人。


 黒蝶は頭の片隅でそう判断した。


 男は土壁の影から言う。


「殺さない戦い方か。悪くない」


 地面がまた沈む。


「だが、足を潰せば同じことだ」


 黒蝶は後ろへ跳んだ。


 だが、逃げ道に土壁が立つ。


 左。


 石杭。


 右。


 柔らかい泥穴。


 前。


 男。


 黒蝶は初めて、完全に足を止められた。


 男が一歩近づく。


「軽いな、黒蝶」


 土が黒蝶の足首に絡む。


「だから沈む」


 黒蝶は粘糸弾を撃とうとした。


 だが、土が腕へ跳ねた。


 照準がずれる。


 眠り銃も土で塞がれかける。


 まずい。


 このままでは捕まる。


 黒蝶は左手で低出力鳴響弾を握った。


 地面へ叩きつける。


 コン、ではない。


 強く。


 硬い音が響く。


 反響。


 右下。空洞。


 左下。固い。


 前方。薄い土壁。


 背後。土の盛り上がり。


 黒蝶は背後の土壁へ黒膜弾を撃った。


 視界を奪うためではない。


 膜で土の表面を覆い、風を一点に当てる。


 土壁の乾いた部分が剥がれる。


 小さな穴。


 人が通るには狭い。


 だが、黒蝶一人が身を滑り込ませるには十分。


 黒蝶は外套の留め具を外し、体を細くして穴へ飛び込んだ。


 土が肩を擦る。


 痛み。


 だが抜けた。


 男が初めて、少し目を見開いた。


「そこを抜けるか」


 黒蝶は返事をしない。


 すぐに簡易通報符を荷馬車の車輪へ投げた。


 貼りつく。


 場所を知らせる符だ。


 次に、荷の一部へ粘糸弾を撃つ。


 証拠になりそうな小さな木箱。


 引く。


 だが、重い。


 男が足を踏み鳴らす。


 木箱の下の土が盛り上がり、糸が切れた。


 回収失敗。


 黒蝶は舌打ちしない。


 代わりに、糸の先に絡んだ布切れだけを掴んだ。


 黒い羽根印。


 夜鴉商会の荷印。


 完全な証拠ではない。


 だが、何もないよりはましだ。


 男は黒蝶を追わなかった。


 ただ、立っている。


「深追いはしない」


 黒蝶は距離を取る。


 男は言った。


「ここは俺の足場だ。お前を殺す必要はない。測れればいい」


 まただ。


 測る。


 黒蝶は仮面の奥で目を細めた。


 夜鴉は黒蝶を試している。


 火事場で。


 旧水路で。


 採石場で。


 どこまで対応できるか。


 何が通じて、何が通じないか。


 男は背を向けた。


「バルド・グレイン」


 初めて、名乗った。


「次は、もう少し足元を見て来い」


 黒蝶は答えない。


 バルドの背後で、荷馬車が動き出す。


 追うべきか。


 足が痛い。


 肩も痛い。


 眠り弾は残り少ない。


 粘糸弾も消耗した。


 地面は敵の領域。


 追えば、今度こそ捕まる。


 黒蝶は動かなかった。


 荷馬車は旧坑道の方へ消えていく。


 勝てなかった。


 止められなかった。


 証拠も、布切れ一枚。


 けれど、死んでいない。


 捕まっていない。


 装備も落としていない。


 最低限。


 最低限だけは、守った。


     ◇


 採石場の反対側。


 崩れた石垣の陰に、ガロがいた。


 赤茶けた髪を布で隠し、息を殺している。


 隣には、例の老人。


 老人は黒蝶とバルドの戦いを、最初から最後まで見ていた。


 ガロも見ていた。


 黒蝶が足場を奪われるところを。


 眠り弾を防がれるところを。


 粘糸弾の固定先を変えるところを。


 土壁を抜けるところを。


 勝てずに退くところを。


 ガロは笑わなかった。


 笑えるような戦いではなかった。


「どう見た」


 老人が聞いた。


 ガロはしばらく黙っていた。


 やがて、低く答える。


「黒蝶は強い」


「そうだな」


「新聞屋が何て読もうが、あいつはあいつだ」


「ファントム、だったか」


「知らねえよ。洒落た名前なんざ似合わねえ」


 ガロは吐き捨てるように言った。


 だが、視線は黒蝶の消えた方向から離れない。


「だが、場所を変えれば鈍る」


「そうだ」


「道具も、使う前に読まれたら止まる」


「そうだ」


「足場を奪えば、強い奴でも転ぶ」


 老人は満足そうに目を細めた。


「学んでいるな」


 ガロは老人を睨んだ。


「てめえに褒められても嬉しくねえ」


「なら、黒蝶に褒めてもらうか」


「殺すぞ」


「できるならな」


 ガロは舌打ちした。


 だが、殴りかからなかった。


 昔なら、殴っていた。


 少なくとも、殴ろうとしていた。


 だが、今は違う。


 殴れば、こいつの思うつぼだ。


 ガロはそれを学んでいた。


 老人は静かに言う。


「バルドは強い。だが、お前とは違う」


「分かってるよ」


「黒蝶も強い。だが、お前とは違う」


「それも分かってる」


「では、お前は何になる」


 ガロは答えなかった。


 ただ、黒蝶が消えた方向を見た。


 強い奴は、強い場所にいる。


 黒蝶は夜にいる。


 屋根にいる。


 風の中にいる。


 仮面の奥にいる。


 新聞の中では、幻にまでされている。


 バルドは地面にいる。


 石にいる。


 足場にいる。


 準備した場所にいる。


 なら。


 そこから引きずり下ろせばいい。


 ガロは、初めてそう考えた。


     ◇


 黒蝶は追跡を諦め、遠回りしてルネリアへ戻った。


 足首が痛む。


 土に取られた時、ひねったらしい。


 肩も痛い。


 外套の中に土が入り込んでいる。


 仮面の隙間にも粉塵が詰まっている。


 採石場は火事場とは違う苦しさがあった。


 煙ではなく土。


 熱ではなく足場。


 炎ではなく地面そのもの。


 ギルドの自室へ戻るころには、夜はかなり更けていた。


 窓から入った黒蝶を、本体のリオが支える。


「遅い」


「ごめん」


「足は?」


「ひねった。たぶん軽い」


「肩は?」


「悪化」


「装備は?」


「眠り弾、半分以下。粘糸弾ほぼ消費。黒膜弾一つ。低出力鳴響弾は有効。ただし相手に気づかれる」


「証拠は?」


 黒蝶は布切れを出した。


 黒い羽根印。


「これだけ」


 本体のリオは受け取った。


「荷は?」


「逃げられた」


「相手は?」


「バルド・グレイン。土属性。元工兵か、それに近い。地形支配型。黒蝶の装備をかなり読んでいた」


 本体は唇を噛んだ。


「勝てなかった?」


「勝てなかった」


 黒蝶は短く答えた。


「でも、逃げた」


 本体は頷いた。


「それでいい」


「よくはない」


「死なない。捕まらない。装備を落とさない。三原則は守った」


「荷は止められなかった」


「次に止める」


 黒蝶は少し黙った。


 そして、椅子に座った。


「統合する」


「待って。水」


「今回は火事ほどじゃない」


「足と肩と土煙。あと悔しさ」


「最後のが一番重いかも」


「分かってる」


 本体は水を渡す。


 黒蝶が飲む。


 二人は向かい合った。


「地面を信じるな」


「分かった」


「土属性相手に、足場は全部敵の手のひらだ」


「分かった」


「あと、バルドは黒蝶を測ってる」


「旧水路の老人と同じ」


「たぶん」


 指先が触れる。


 黒蝶の輪郭が揺れ、消えた。


 次の瞬間。


「――っ」


 リオの足首に痛みが走った。


 肩が重い。


 口の中に土の味。


 耳の奥に鳴響弾の反響。


 足元が沈む感覚。


 石杭が皮膚をかすめる恐怖。


 土壁に閉じ込められる圧迫感。


 そして、逃がした荷馬車の後ろ姿。


 リオは机に手をついた。


 悔しい。


 思った以上に、悔しい。


 勝てなかったことではない。


 助けられなかったわけでもない。


 だが、止めるべきものを止められなかった。


 奪われた証拠は、夜鴉商会の手に戻った。


 黒い腕輪の正体へ近づく手がかりを失った。


 リオは震える手で活動記録を開いた。


 書く。


『土属性使い。バルド・グレイン。元工兵と思われる。地形支配型』


 さらに書く。


『黒蝶の機動力と相性が悪い。屋根のない場所では不利。地面を沈める、石杭、土壁、土煙、足場傾斜。眠り弾は土壁で防がれる。粘糸弾は地面固定不可。黒膜弾による視界遮断は、振動感知により効果薄』


 ペン先が紙を削る。


『低出力鳴響弾による空洞確認は有効。ただし使用を察知される。風で土煙を払うと位置を読まれる』


 最後に、強く書いた。


『対策:地面を信じない』


 リオはペンを置いた。


 窓の外は静かだった。


 燃える倉庫の赤さはない。


 煙もない。


 ただ、夜の底に沈むような土の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。


 風は、地面があって初めて走れる。


 その当たり前を、黒蝶は初めて敵に教えられた。


 リオは布切れを見た。


 黒い羽根の印。


 完全な敗北ではない。


 だが、勝利でもない。


 だからこそ、次がいる。


 次に備える。


 道具を見直す。


 足場を見直す。


 戦い方を見直す。


 黒蝶は一人。


 夜に飛ぶ蝶は、一羽だけ。


 だが、その蝶は今夜、初めて地面に足を取られた。


 そして地面の下では、夜鴉の次の罠が、もう静かに形を変え始めていた。

本日2回目の投稿です。

このあと19時に幕間を投稿予定です。

引き続きよろしくお願いいたします。

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