ギルド職員は足元を見られる
東門外の採石場は、ルネリア城下町から馬車で半刻ほどの場所にある。
古くから石材を切り出している場所で、王都へ続く街道の補修にも、城壁の修繕にも、職人街の炉の土台にも、そこの石が使われてきた。
つまり、人が通る。
荷馬車が通る。
金も物も動く。
そして、そういう場所には必ず、奪う側の人間も寄ってくる。
◇
翌朝。
冒険者ギルド・ルネリア支部の資料室で、リオは採石場周辺の地図を広げていた。
机の上には、東門外の街道図。
採石場の古い作業記録。
土砂崩れの報告書。
過去の荷馬車事故記録。
そして昨夜届いた襲撃報告。
ついでに、食堂から誰かが置いていったルネリア新報も端に寄せられていた。
『黒蝶、火中より少年を救出』
その見出しは、まだ妙に目に入る。
リオは一度だけ新聞を裏返し、羽ペンで地図に印をつけた。
襲撃地点は、採石場へ向かう旧道の途中。
片側は低い崖。
片側は石積みの擁壁。
荷馬車が通るには十分だが、すれ違うには少し狭い。
逃げ場は少ない。
そして、足場は悪い。
「車輪だけが落ちるように道が沈む、か」
リオは報告書の一文を読み返した。
荷馬車の前輪だけが沈んだ。
馬は無事。
御者も軽傷。
だが、車体が傾き、護衛は動きを制限された。
逃げようとした一人は、地面から突き出た石杭に足を取られて転倒。
もう一人は、土壁で視界を遮られたところを、背後から殴られた。
殺されてはいない。
積み荷のうち、黒い腕輪に関係する焼け残りの金属片と書類だけが奪われた。
実に、無駄がない。
荒くれ者の犯行ではない。
計画があり、地形を読み、奪うものを決めていた者のやり方だ。
「……元工兵、ですか」
リオは、ギルドマスターのオルドが口にしていた噂を思い出す。
夜鴉商会には、元工兵崩れの土属性使いがいる。
工兵。
道を作り、壕を掘り、橋を落とし、壁を築き、敵の進路を塞ぐ者。
剣で勝つ兵ではない。
戦う前に、勝ちやすい地形を作る兵だ。
黒蝶とは相性が悪い。
たとえ新聞が、黒蝶をファントムなどと呼び始めたとしても。
幻のように消えるためには、まず足場が要る。
足場を奪われれば、幻も地面に落ちる。
リオはギルド用の調査メモに書き込む。
『土属性使い。地形支配型。正面戦闘よりも、移動制限・視界遮断・足場破壊が主と推測』
そこへ、資料室の扉が開いた。
「リオ」
オルドだった。
太い腕を組み、地図の上を覗き込む。
「早いな」
「昨日、明日の朝まででいいと言われたので」
「明日の朝とは言ったが、夜通しやれとは言っていない」
「寝ました」
「どのくらい」
「必要最低限」
「それは寝たとは言わん」
オルドはため息をついた。
リオは話を逸らすように、地図を指した。
「襲撃地点ですが、偶然ではないと思います。この場所なら荷馬車の動きが制限されます。擁壁と崖に挟まれていて、左右に逃げづらい。土属性で一部を沈ませれば、簡単に止められます」
「相手は地形を知っているか」
「採石場関係者か、過去にここで働いたことがある人物。あるいは、事前にかなり下見をしています」
「夜鴉なら、下見くらいするだろう」
「はい」
「で、ギルドとしてはどう動くべきだと思う」
リオは地図を見た。
「衛兵と連携して、採石場へ続く道を一時的に警戒。荷の移動は複数台で行い、単独の馬車を出さない。土属性使いの可能性があるため、足場の異常確認を徹底。鳴響石か棒で地面を叩きながら進む。あと、崖沿いの旧坑道を確認するべきです」
「旧坑道?」
「ここです」
リオは地図の端を指した。
「今は使われていない採掘跡ですが、記録上はまだ完全に埋め戻されていません。人が隠れるには十分です。土属性使いなら、入口を塞いだり開けたりもできる」
「なるほどな」
オルドは顎を撫でた。
「では、職員としての仕事を頼む。今の内容をまとめて、衛兵宛の注意書きにしろ」
「分かりました」
「現場確認には、衛兵と冒険者を向かわせる。お前は資料をまとめるだけでいい」
「はい」
「返事はいいな」
「はい」
オルドは少しだけ目を細めた。
「……資料をまとめるだけでいい、と言ったぞ」
「分かっています」
「ならいい」
オルドはそれ以上、踏み込まなかった。
ただ、資料室を出る直前に言った。
「リオ」
「はい」
「土属性の相手は、足元を見てくる。こちらも足元を見ろ」
リオは地図を見下ろした。
「覚えておきます」
◇
昼過ぎ。
リオは衛兵向けの注意書きを作成し、マーレに確認してもらった。
内容は簡潔にした。
東門外旧道での単独輸送禁止。
採石場周辺の地面異常に注意。
馬車の車輪直下だけが沈む事例あり。
土壁・石杭・足場崩しを想定。
旧坑道および廃採掘路に隠れ場所の可能性。
夜鴉商会の関与が疑われるため、黒い羽根印に注意。
マーレは書類に目を通しながら言った。
「よくまとまっている」
「ありがとうございます」
「ただ、いつもより少し細かいな」
「現場確認用なので、具体的な方が役に立つかと思いまして」
「それはそうだ」
マーレは数か所に赤で印を入れた。
「ここは少し短く。衛兵が現場で読むなら、一文を長くしない方がいい。あと、旧坑道の位置は別紙地図に赤丸をつける。文章だけだと見落とす」
「なるほど」
「それと、注意書きの一枚目に要点をまとめる。忙しい現場で二枚目まで読ませるな」
「直します」
「うん」
マーレは書類を返した。
そこに妙な疑いはない。
ただ、仕事として、現場に伝わる資料に直しているだけだ。
「あと、昼は食べたか」
「まだです」
「食べてから直せ」
「先に直した方が早いです」
「食べてから直せ」
「はい」
リオは素直に頷いた。
マーレはもう一度、念押しする。
「リオ。事件の資料を作るのは大事だが、資料を作る人間が倒れたら意味がない。食事と休憩は仕事のうちだ」
「分かりました」
「分かっているなら、食堂へ行け」
「はい」
リオは資料を抱え、食堂へ向かった。
◇
夕方。
ミラ・グリム魔工房。
リオは受け取った包みを見つめていた。
「仮面、もう仮修理できたんですか」
「仮、だからね。完全じゃない」
ミラは作業台に肘をついた。
「濾過層は交換式にしておいた。予備は二つ。響膜は掃除したけど、煙を吸いすぎるとまた詰まる。外套は焦げた部分だけ応急補修。逃がし縫いも戻した」
「ありがとうございます」
「ただし、火事場には入らないこと」
「善処します」
「それ禁止って言ったよね」
「努力します」
「それも近い」
ミラは目を細めた。
「今日は何かあるの?」
「何もありません」
「嘘が下手」
「嘘ではありません。予定はありません」
「予定外に出る気はあるんだ」
リオは黙った。
ミラは軽くため息をつく。
「今度は何? 火? 煙? 腕輪?」
「土です」
「土?」
「土属性使いが関わっている可能性があります」
ミラの表情が少し変わった。
「土属性相手に、その装備で行くの?」
「行くとは言っていません」
「行かないとも言ってない」
「今日はそういう人が多いですね」
「君がそういう顔してるからでしょ」
ミラは棚から小さな金属筒を一つ取り出した。
「これ、持っていきな」
「これは?」
「低出力の鳴響弾。まだ試作品。大きな音で相手を崩すんじゃなくて、反響を見る用」
「……いいんですか」
「土属性相手なら、地面の下を見る道具がいるでしょ」
「なぜ分かるんですか」
「君がそういう顔してるから」
リオは少し自分の顔を疑った。
ミラは鳴響弾を指で叩く。
「ただし、過信しない。空洞の有無くらいは分かるけど、形までは無理。固い岩盤と締まった土の違いも、使い慣れてないと読み間違える」
「分かりました」
「あと、地面に撃ち込むと目立つ。相手が土属性なら、逆に気づかれるかも」
「はい」
「それでも持っていく?」
リオは少し迷った。
そして、受け取った。
「持っていきます」
「やっぱり行くんじゃん」
「知り合いに渡します」
「はいはい」
ミラはもう追及しない。
だが、作業台の端に置かれていた新聞へ視線を移し、少しだけ笑った。
「その知り合い、新聞に名前までつけられたんだから、少しは自重した方がいいよ」
「本人は名乗っていません」
「知ってる」
「知っているんですか」
「たぶんね」
ミラは肩をすくめる。
「でも、名前が広がると、追う人も増える。悪党だけじゃない。衛兵、商人、新聞屋、物好きな冒険者。みんな、黒蝶さんを見たがるようになる」
「……厄介ですね」
「かなりね」
ミラは最後に一つだけ言った。
「リオ君」
「はい」
「土属性の相手は、見えてる地面だけが地面じゃないよ」
リオは鳴響弾を握りしめた。
「覚えておきます」
◇
夜。
ギルドの自室。
机の上には、修理された仮面と外套、眠り銃、粘糸弾、黒膜弾、鳴響弾、低出力鳴響弾、簡易通報符が並んでいた。
本体のリオは地図を見下ろす。
昼に作った衛兵向け資料の控え。
採石場周辺の道。
旧坑道。
襲撃地点。
衛兵と冒険者が現場確認に向かっている。
だから、本来なら黒蝶の出番ではない。
ないはずだ。
だが、夜鴉商会が奪ったものは黒い腕輪の証拠。
それをそのまま移動させるなら、今夜だ。
衛兵の警戒が強くなる前。
証拠の行方を追われる前。
黒蝶が昨夜の火事場で無理をしたと見られている今。
そして、新聞に名前を飾られ、町中の視線が黒蝶に向き始めた今。
動くなら、今夜。
リオは右手を前に出した。
空気が揺れる。
もう一人のリオが現れる。
複製体は、地図を見て言った。
「行くんだな」
「短時間。確認だけ」
「その言葉、信用できない」
「自分に言われるとつらい」
「相手は土属性。採石場。屋根は少ない。足場は全部向こうの領域かもしれない」
「分かってる」
「勝てる?」
「勝ちに行かない。見る。証拠を拾う。無理なら引く」
「それも信用できない」
本体のリオは仮面を差し出した。
「三原則」
複製体は仮面を受け取る。
「死なない。捕まらない。装備を落とさない」
「追加」
「地面を信じない。固定先を一つにしない。足を止めない。喋らない」
「よし」
黒蝶は仮面をつける。
低く、ざらついた声が落ちる。
「行ってくる」
本体は一瞬だけ黙った。
そして言った。
「足元を見て」
「上じゃなく?」
「今日は、下だ」
黒蝶は頷き、窓から夜へ出た。
◇
東門を越えると、町の明かりは一気に遠ざかる。
黒蝶は街道脇の木々を伝い、低く移動した。
いつものように屋根を走ることはできない。
街道。
畑。
石垣。
低い崖。
ところどころに積まれた切り石。
黒蝶の得意な高所は少ない。
その代わり、影は多い。
黒蝶は風を読んだ。
夜風は東から西へ。
土の匂い。
湿った石の匂い。
遠くに、馬の汗の匂い。
人がいる。
黒蝶は速度を落とした。
採石場へ続く旧道の手前。
昼間、襲撃地点として印をつけた場所より少し奥に、荷馬車が一台止まっていた。
灯りはない。
だが、馬がいる。
人影が三つ。
いや、四つ。
積み荷を移している。
黒蝶は岩陰に身を沈めた。
黒い羽根の印が見えた。
夜鴉商会。
黒蝶は眠り銃に手を伸ばした。
だが、撃たない。
まず見る。
地面。
荷馬車の周囲の土が、わずかに不自然だ。
踏み固められている場所と、柔らかい場所が混ざっている。
黒蝶は低出力鳴響弾を取り出し、近くの石へ軽く当てた。
コン、と小さな音。
反響が足元から返る。
硬い。
硬い。
少し鈍い。
右前方に空洞。
黒蝶はそこを避けた。
次の足場を探す。
その瞬間。
「ほう」
低い声がした。
「地面を叩いたか」
黒蝶は動きを止めた。
荷馬車の陰から、男が一人出てきた。
大柄ではない。
むしろ中背。
作業着に近い厚手の服。
腰には短剣。
背中には折り畳み式の小さな鍬のような道具。
顔は無骨で、髭が薄く伸びている。
ただ、目が冷静だった。
荒くれ者の目ではない。
現場を見る者の目だ。
「黒蝶だな」
黒蝶は答えない。
男は、少しだけ口元を動かした。
「新聞では、ファントムだったか」
黒蝶はやはり答えない。
「幻にしては、足音がある」
男は足元を軽く踏んだ。
その瞬間、黒蝶の左足の下が沈んだ。
浅い。
だが、足首を取るには十分。
黒蝶は即座に粘糸弾を横の岩へ撃ち、体を引いた。
沈む地面から抜ける。
着地。
そこも危ない。
黒蝶は足を置く直前、風を足元へ当て、体を半歩ずらした。
直後、石杭が地面から突き出る。
もし普通に着地していれば、足を貫かれていた。
黒蝶は岩の上へ乗る。
男は感心したように頷いた。
「軽いな」
黒蝶は黙ったまま、男を見る。
男は名乗らない。
ただ、淡々と言った。
「風は上を取る。土は下を取る」
地面が低く鳴った。
「ここに屋根はないぞ、黒蝶」
黒蝶は眠り銃を抜いた。
撃つ。
男の前に、薄い土壁が立った。
眠り弾が壁に当たり、砕ける。
粉が舞う。
男はすでに横へ動いていた。
黒蝶は風で粉を押し流す。
しかし、男の位置は変わっている。
黒蝶は追撃しない。
代わりに、黒膜弾を地面へ叩きつけた。
黒い膜が広がり、視界を切る。
いつもなら、ここで相手の動きを止められる。
だが。
男は止まらなかった。
黒膜の向こうから、声がする。
「視界を奪う。悪くない」
地面が震える。
「だが、足音は消えていない」
黒蝶の足元が隆起した。
黒蝶は跳ぶ。
跳んだ先に土煙。
視界が白く濁る。
黒膜と土煙が混ざり、世界が曖昧になる。
黒蝶は風で払った。
その風の流れを、男が読んだ。
石が飛んでくる。
小さな礫。
一つ一つは致命傷ではない。
だが、当たれば体勢が崩れる。
黒蝶は外套で受け、身を沈めた。
肩に痛みが走る。
燃える倉庫で受けた打撲が、まだ奥に残っていた。
黒蝶は低く息を吐く。
喋るな。
止まるな。
地面を信じるな。
岩から岩へ。
土の上ではなく、切り石の上へ。
だが、その切り石が傾いた。
下から土が抜かれている。
黒蝶はバランスを崩す。
そこへ石杭。
黒蝶は粘糸弾を上へ撃った。
固定先は、古い吊り上げ用の木柱。
採石場で石を運ぶために使われていた支柱だ。
糸が張る。
黒蝶の体が宙へ逃げる。
石杭が足元をかすめた。
男が言った。
「地面を捨てるか」
黒蝶は宙で体を回し、鳴響弾を男の足元へ投げる。
鋭い音。
男の姿勢がわずかに崩れる。
その隙に眠り弾。
しかし、男は膝をつきながらも、片手で土を跳ね上げた。
小さな土壁。
また防がれる。
黒蝶は歯を食いしばった。
当たらない。
見られている。
眠り銃を抜く動作。
照準。
撃つタイミング。
何度も黒蝶を観察した者がいる。
そして、その情報がこの男に渡っている。
旧水路でこちらを見ていた、あの老人。
黒蝶は頭の片隅でそう判断した。
男は土壁の影から言う。
「殺さない戦い方か。悪くない」
地面がまた沈む。
「だが、足を潰せば同じことだ」
黒蝶は後ろへ跳んだ。
だが、逃げ道に土壁が立つ。
左。
石杭。
右。
柔らかい泥穴。
前。
男。
黒蝶は初めて、完全に足を止められた。
男が一歩近づく。
「軽いな、黒蝶」
土が黒蝶の足首に絡む。
「だから沈む」
黒蝶は粘糸弾を撃とうとした。
だが、土が腕へ跳ねた。
照準がずれる。
眠り銃も土で塞がれかける。
まずい。
このままでは捕まる。
黒蝶は左手で低出力鳴響弾を握った。
地面へ叩きつける。
コン、ではない。
強く。
硬い音が響く。
反響。
右下。空洞。
左下。固い。
前方。薄い土壁。
背後。土の盛り上がり。
黒蝶は背後の土壁へ黒膜弾を撃った。
視界を奪うためではない。
膜で土の表面を覆い、風を一点に当てる。
土壁の乾いた部分が剥がれる。
小さな穴。
人が通るには狭い。
だが、黒蝶一人が身を滑り込ませるには十分。
黒蝶は外套の留め具を外し、体を細くして穴へ飛び込んだ。
土が肩を擦る。
痛み。
だが抜けた。
男が初めて、少し目を見開いた。
「そこを抜けるか」
黒蝶は返事をしない。
すぐに簡易通報符を荷馬車の車輪へ投げた。
貼りつく。
場所を知らせる符だ。
次に、荷の一部へ粘糸弾を撃つ。
証拠になりそうな小さな木箱。
引く。
だが、重い。
男が足を踏み鳴らす。
木箱の下の土が盛り上がり、糸が切れた。
回収失敗。
黒蝶は舌打ちしない。
代わりに、糸の先に絡んだ布切れだけを掴んだ。
黒い羽根印。
夜鴉商会の荷印。
完全な証拠ではない。
だが、何もないよりはましだ。
男は黒蝶を追わなかった。
ただ、立っている。
「深追いはしない」
黒蝶は距離を取る。
男は言った。
「ここは俺の足場だ。お前を殺す必要はない。測れればいい」
まただ。
測る。
黒蝶は仮面の奥で目を細めた。
夜鴉は黒蝶を試している。
火事場で。
旧水路で。
採石場で。
どこまで対応できるか。
何が通じて、何が通じないか。
男は背を向けた。
「バルド・グレイン」
初めて、名乗った。
「次は、もう少し足元を見て来い」
黒蝶は答えない。
バルドの背後で、荷馬車が動き出す。
追うべきか。
足が痛い。
肩も痛い。
眠り弾は残り少ない。
粘糸弾も消耗した。
地面は敵の領域。
追えば、今度こそ捕まる。
黒蝶は動かなかった。
荷馬車は旧坑道の方へ消えていく。
勝てなかった。
止められなかった。
証拠も、布切れ一枚。
けれど、死んでいない。
捕まっていない。
装備も落としていない。
最低限。
最低限だけは、守った。
◇
採石場の反対側。
崩れた石垣の陰に、ガロがいた。
赤茶けた髪を布で隠し、息を殺している。
隣には、例の老人。
老人は黒蝶とバルドの戦いを、最初から最後まで見ていた。
ガロも見ていた。
黒蝶が足場を奪われるところを。
眠り弾を防がれるところを。
粘糸弾の固定先を変えるところを。
土壁を抜けるところを。
勝てずに退くところを。
ガロは笑わなかった。
笑えるような戦いではなかった。
「どう見た」
老人が聞いた。
ガロはしばらく黙っていた。
やがて、低く答える。
「黒蝶は強い」
「そうだな」
「新聞屋が何て読もうが、あいつはあいつだ」
「ファントム、だったか」
「知らねえよ。洒落た名前なんざ似合わねえ」
ガロは吐き捨てるように言った。
だが、視線は黒蝶の消えた方向から離れない。
「だが、場所を変えれば鈍る」
「そうだ」
「道具も、使う前に読まれたら止まる」
「そうだ」
「足場を奪えば、強い奴でも転ぶ」
老人は満足そうに目を細めた。
「学んでいるな」
ガロは老人を睨んだ。
「てめえに褒められても嬉しくねえ」
「なら、黒蝶に褒めてもらうか」
「殺すぞ」
「できるならな」
ガロは舌打ちした。
だが、殴りかからなかった。
昔なら、殴っていた。
少なくとも、殴ろうとしていた。
だが、今は違う。
殴れば、こいつの思うつぼだ。
ガロはそれを学んでいた。
老人は静かに言う。
「バルドは強い。だが、お前とは違う」
「分かってるよ」
「黒蝶も強い。だが、お前とは違う」
「それも分かってる」
「では、お前は何になる」
ガロは答えなかった。
ただ、黒蝶が消えた方向を見た。
強い奴は、強い場所にいる。
黒蝶は夜にいる。
屋根にいる。
風の中にいる。
仮面の奥にいる。
新聞の中では、幻にまでされている。
バルドは地面にいる。
石にいる。
足場にいる。
準備した場所にいる。
なら。
そこから引きずり下ろせばいい。
ガロは、初めてそう考えた。
◇
黒蝶は追跡を諦め、遠回りしてルネリアへ戻った。
足首が痛む。
土に取られた時、ひねったらしい。
肩も痛い。
外套の中に土が入り込んでいる。
仮面の隙間にも粉塵が詰まっている。
採石場は火事場とは違う苦しさがあった。
煙ではなく土。
熱ではなく足場。
炎ではなく地面そのもの。
ギルドの自室へ戻るころには、夜はかなり更けていた。
窓から入った黒蝶を、本体のリオが支える。
「遅い」
「ごめん」
「足は?」
「ひねった。たぶん軽い」
「肩は?」
「悪化」
「装備は?」
「眠り弾、半分以下。粘糸弾ほぼ消費。黒膜弾一つ。低出力鳴響弾は有効。ただし相手に気づかれる」
「証拠は?」
黒蝶は布切れを出した。
黒い羽根印。
「これだけ」
本体のリオは受け取った。
「荷は?」
「逃げられた」
「相手は?」
「バルド・グレイン。土属性。元工兵か、それに近い。地形支配型。黒蝶の装備をかなり読んでいた」
本体は唇を噛んだ。
「勝てなかった?」
「勝てなかった」
黒蝶は短く答えた。
「でも、逃げた」
本体は頷いた。
「それでいい」
「よくはない」
「死なない。捕まらない。装備を落とさない。三原則は守った」
「荷は止められなかった」
「次に止める」
黒蝶は少し黙った。
そして、椅子に座った。
「統合する」
「待って。水」
「今回は火事ほどじゃない」
「足と肩と土煙。あと悔しさ」
「最後のが一番重いかも」
「分かってる」
本体は水を渡す。
黒蝶が飲む。
二人は向かい合った。
「地面を信じるな」
「分かった」
「土属性相手に、足場は全部敵の手のひらだ」
「分かった」
「あと、バルドは黒蝶を測ってる」
「旧水路の老人と同じ」
「たぶん」
指先が触れる。
黒蝶の輪郭が揺れ、消えた。
次の瞬間。
「――っ」
リオの足首に痛みが走った。
肩が重い。
口の中に土の味。
耳の奥に鳴響弾の反響。
足元が沈む感覚。
石杭が皮膚をかすめる恐怖。
土壁に閉じ込められる圧迫感。
そして、逃がした荷馬車の後ろ姿。
リオは机に手をついた。
悔しい。
思った以上に、悔しい。
勝てなかったことではない。
助けられなかったわけでもない。
だが、止めるべきものを止められなかった。
奪われた証拠は、夜鴉商会の手に戻った。
黒い腕輪の正体へ近づく手がかりを失った。
リオは震える手で活動記録を開いた。
書く。
『土属性使い。バルド・グレイン。元工兵と思われる。地形支配型』
さらに書く。
『黒蝶の機動力と相性が悪い。屋根のない場所では不利。地面を沈める、石杭、土壁、土煙、足場傾斜。眠り弾は土壁で防がれる。粘糸弾は地面固定不可。黒膜弾による視界遮断は、振動感知により効果薄』
ペン先が紙を削る。
『低出力鳴響弾による空洞確認は有効。ただし使用を察知される。風で土煙を払うと位置を読まれる』
最後に、強く書いた。
『対策:地面を信じない』
リオはペンを置いた。
窓の外は静かだった。
燃える倉庫の赤さはない。
煙もない。
ただ、夜の底に沈むような土の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
風は、地面があって初めて走れる。
その当たり前を、黒蝶は初めて敵に教えられた。
リオは布切れを見た。
黒い羽根の印。
完全な敗北ではない。
だが、勝利でもない。
だからこそ、次がいる。
次に備える。
道具を見直す。
足場を見直す。
戦い方を見直す。
黒蝶は一人。
夜に飛ぶ蝶は、一羽だけ。
だが、その蝶は今夜、初めて地面に足を取られた。
そして地面の下では、夜鴉の次の罠が、もう静かに形を変え始めていた。
本日2回目の投稿です。
このあと19時に幕間を投稿予定です。
引き続きよろしくお願いいたします。




