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ギルド職員は休日を装う

本日も3話分、17時・18時・19時に予約投稿しております。

続けてお読みいただけますと幸いです。

 『黒蝶(ファントム)、火中より少年を救出』


 翌朝。


 冒険者ギルド・ルネリア支部の食堂では、誰かが広げた新聞を中心に、朝から妙な熱気が生まれていた。


 机の上に置かれているのは、ルネリア新報。


 普段なら、商会の広告や依頼事故の記事、王都街道の補修予定、貴族の来訪予定などが載る、そこそこ真面目な地方紙である。


 その一面に、今日はやけに大きな文字が躍っていた。


 『黒蝶(ファントム)、火中より少年を救出』


「いや、俺は見た奴から聞いたんだよ。黒い仮面のやつが、燃えてる倉庫から子供を抱えて出てきたって」


「それ、本当に黒蝶か?」


「黒い仮面、黒い外套、銀の蝶紋。あと、ほとんど喋らなかったらしい」


「じゃあ黒蝶だな」


「判断基準が雑すぎるだろ」


 朝食を取る冒険者たちが、口々に噂を膨らませていく。


「黒蝶って火属性なのか?」


「いや、煙を操ったって話だぞ。風属性じゃねえの?」


「水属性が火を消したんじゃないのか?」


「でも火消し組が来る前に中に入ったらしいぞ」


「じゃあ、火にも煙にも強いってことか」


「仮面がすごいんじゃねえか?」


「仮面が本体説、出てきたな」


「それより、このファントムって何だよ」


 一人の冒険者が、新聞の見出しを指で叩いた。


「黒蝶って書いて、ファントムって読ませてるらしいぞ」


「新聞屋、盛りすぎだろ」


「でも、火の中から出てきて、誰も顔を知らなくて、気づいたら消えてるんだろ? 幻みたいなもんじゃねえか」


「黒い蝶より、幽霊っぽいな」


「いや、蝶でいいだろ。銀の蝶紋なんだし」


「仮面が本体なら、ファントム仮面だな」


「それはもう別物だろ」


 受付横で書類を整理していたリオは、内心で静かに訂正した。


 火属性ではない。

 水属性でもない。

 仮面は本体ではない。


 そして、火消しでもない。


 ついでに言えば、ファントムなどと名乗った覚えもない。


 新聞社が勝手に読ませただけだ。


 ただ、煙の中で動くための準備をしていただけである。


「リオ」


 受付主任のマーレが、いつもより多めの書類束を抱えてやって来た。


「はい」


「顔が眠そうだな」


「気のせいです」


「気のせいで目の下に隈はできない」


「では、乾燥です」


「隈は乾燥ではできない」


 マーレは呆れたようにため息をつき、書類束をリオの机へ置いた。


「昨夜の火災関係だ。南東区画の倉庫火災。火元の確認、被害届、救助された少年の保護記録、黒い腕輪の件、黒蝶の目撃証言。まとめて処理する」


「休日では?」


「誰の?」


「僕の」


「お前、今日は半休扱いだろう」


「つまり半分休日です」


「半分働けるな」


「言葉の暴力です」


「倒れられるよりはいい」


 マーレは、リオの顔をちらりと見る。


 そこにあるのは疑いではなく、単純な心配だった。


「午前だけ処理したら帰れ。最近、報告書を抱え込みすぎだ」


「ありがとうございます」


「礼を言うなら、ちゃんと休め」


「努力します」


「お前の努力は、だいたい仕事の方向へ向かう」


「善処します」


「それも信用ならない」


 マーレは淡々と言って、別の帳簿を開いた。


 そこへ、若い冒険者が受付にやって来た。


 年は十五、六。


 腰に短剣。背中にはまだ新しい革袋。


 登録したばかりの新人らしい。


「あの、すみません」


「はい」


 リオは営業用の笑顔を作った。


「冒険者登録のことでしょうか」


「はい。昨日登録だけは済ませたんですけど、属性の欄がよく分からなくて」


「属性適性ですね」


 新人は小さく頷いた。


「火って書かれてたんですけど、火属性だと、やっぱり前衛向きなんですか?」


「一概には言えません」


「そうなんですか?」


「はい。火属性だからといって、全員が攻撃魔法に向いているわけではありません。火力、熱操作、乾燥、着火、明かり、調理、鍛冶補助。使い方はいろいろあります」


 新人は目を瞬かせた。


「調理もですか」


「大事です。遠征中に温かい食事を作れる人は、かなり重宝されます」


「なんか、思っていた冒険者と違う……」


「思っていた冒険者だけで依頼に行くと、だいたい失敗します」


 隣でマーレが小さく頷いた。


 新人は少し困った顔をする。


「属性って、強さを決めるものじゃないんですか?」


「決めません」


 リオは登録用紙を一枚取り、裏に簡単な図を書いた。


「この世界で一般的に知られている基本属性は四つです。火、水、土、風。人は基本的に、このうち一つに適性を持ちます」


「一つだけ?」


「普通は一つです。生涯変わらないとされています。例外がないとは言いませんが、少なくとも冒険者登録で扱う範囲では、一人一属性と考えて問題ありません」


 リオは紙に四つの円を描く。


「火は熱、光、乾燥、燃焼。水は冷却、洗浄、湿度、流れ。土は防御、加工、地形、重さ。風は移動、音、拡散、圧力」


「風って、攻撃には弱そうですね」


「そう見られがちです」


 リオは少しだけ笑った。


「ですが、風は煙を流せます。音を運べます。矢や投擲の軌道を補助できます。足場が悪い場所で体勢を整えられます。粉や匂いを拡散させることも、逆に押し返すこともできます」


「へえ……」


「土属性も、ただ壁を作るだけではありません。足元を崩す。石畳を浮かせる。砂で視界を奪う。振動で位置を探る。使い方次第で、かなり厄介です」


「怖いですね」


「怖いです」


 リオははっきり言った。


「属性は、強さを決めるものではありません。どう使うかを決めるものです」


 新人は紙を見つめた。


「じゃあ、火属性でも、いろいろできるんですね」


「できます。ただし、火は便利なぶん、事故にもなりやすい。倉庫内や森では特に注意してください。火のついた魔法を撃つ前に、燃えるものがどこにあるか見る癖をつけるといいです」


「昨日の火事みたいに?」


 リオの手が一瞬止まった。


 ただ、すぐに頷く。


「はい。火は、使う者の意図より広がることがあります」


「分かりました。ありがとうございます」


「初回依頼は無理をせず、同行者をつけてください。火属性なら、最初は街道沿いの灯り石交換や、野営補助の依頼もおすすめです」


「地味ですね」


「地味な依頼で帰ってこられる人が、長く続きます」


 新人は少し考えてから、用紙を大事そうに持った。


「じゃあ、それにします」


「では、こちらで受付します」


 リオは手続きを進める。


 新人が去ったあと、マーレが言った。


「お前、説明はうまいよな」


「褒め言葉として受け取ります」


「ただ、説明が丁寧すぎて、後ろの列が伸びることがある」


「褒め言葉ではありませんでした」


「半分は褒めている」


「もう半分は?」


「業務改善要求だ」


 リオは苦笑し、次の書類に手を伸ばした。


     ◇


 午前の仕事を終えるころには、火災関係の報告書が山になっていた。


 火元は倉庫一階奥。


 燃えた荷は、布、香油、木箱、用途不明の金属部品。


 倉庫の正式な借主は小さな運送業者。


 ただし、書類上の代表者はすでに行方不明。


 救助された少年は孤児。


 盗みに入ったわけではなく、倉庫の近くで黒い腕輪の男に追われ、逃げ込んだらしい。


 腕輪の男は意識を取り戻したが、錯乱状態。


 痛みを感じなかった間の記憶が曖昧。


 黒蝶を捕まえれば報酬が出ると聞かされていた。


 そして、黒蝶の目撃証言。


 黒蝶は屋根から入った。

 煙を逃がした。

 子供を出した。

 腕輪の男も助けた。

 ほとんど喋らなかった。


 リオは最後の一文を見て、小さく息を吐いた。


 また記録に残っている。


 沈黙も、行動も、選択も。


 黒蝶は情報を残さないように動いている。


 だが、何かをすれば、それ自体が情報になる。


 人を助ければ、助けたという情報が残る。


 それは隠しようがない。


 まして、新聞に一面で書かれればなおさらだ。


「リオ」


 マーレが机を軽く叩いた。


「はい」


「午前は終わりだ。帰れ」


「まだ少し残っています」


「明日でいい」


「珍しいですね」


「珍しくない。お前が放っておくと昼を抜くからだ」


「昼食は取ります」


「資料室でパンをかじるのは昼食に含めない」


「厳しいですね」


「普通だ」


 マーレはリオの手元から書類を抜き取った。


「午後は休め。これは命令」


「分かりました」


「職人街でも資料室でも倉庫でもなく、できればちゃんと休め」


「職人街は駄目ですか」


「駄目とは言っていない。ただ、お前の場合、職人街へ行くとだいたい何かを増やして帰ってくる」


「荷物ですか」


「仕事だ」


 リオは反論できなかった。


     ◇


 職人街は、昼でも騒がしい。


 金槌の音。


 炉の熱。


 薬液の匂い。


 歯車の回る音。


 売り子の声。


 怒鳴り合う職人。


 納期に追われる弟子。


 この混沌とした通りを、リオは嫌いではなかった。


 むしろ、少し落ち着く。


 ギルドの書類は、問題が起きた後に増える。


 職人街の道具は、問題が起きる前に備えるためにある。


 少なくとも、リオはそう思っている。


 やがて、見慣れた看板が見えた。


『ミラ・グリム魔工房


 修理・改造・変な相談可』


 リオは扉を叩いた。


「爆発していないものならどうぞー」


「今日は焦げています」


「なら半分くらい爆発と同じだね。どうぞ」


 扉を開けると、ミラは作業台の上に肘をついていた。


 寝不足らしく、髪が少し跳ねている。


「やあ、リオ君。今回は燃やしたんだ」


「燃やしたのではなく、燃えている場所に入りました」


「だいぶ悪化してるね」


「装備の修理をお願いします」


「見せて」


 リオは鞄から、焦げた外套、煤けた仮面、濾過層の残骸、熱で歪んだ粘糸弾の筒、空になった消火粉の小瓶を出した。


 ミラの顔から、いつもの軽い笑みが消える。


「……火事場に入ったの?」


「入ったのは、知り合いです」


「君とだいたい同じ体格の?」


「そうです」


「だいたい同じ肩を痛めてる?」


「そこは関係ありません」


「へえ」


 ミラは仮面を手に取り、濾過層を外した。


「限界まで使ってる。煙、かなり濃かったでしょ」


「そう聞いています」


「聞いたんだ」


「はい」


「便利な知り合いだね」


 リオは黙った。


 ミラはそれ以上追及せず、仮面の内側を覗き込む。


「濾過層は全部交換。口元の響膜は無事だけど、煤が詰まってる。声は少し歪むかも」


「変声機能は維持できますか」


「できる。けど、防煙用と変声用を同じ場所に詰め込みすぎ。そろそろ仮面自体を作り直した方がいい」


「費用は」


「聞きたい?」


「聞きたくありません」


「じゃあ高い」


「分かりました」


 ミラは作業台の端に置かれていた新聞へ目をやった。


 例の見出しが、こちらにも載っている。


 『黒蝶(ファントム)、火中より少年を救出』


「それと、黒蝶さん」


「知り合いです」


「はいはい。君の知り合いの黒蝶さん、ずいぶん派手に書かれてるね」


「本人は迷惑していると思います」


「本人に聞いたんだ?」


「……たぶん」


「ふうん」


 ミラは新聞の見出しを指で軽く叩いた。


「ファントムだって」


「名乗っていないはずです」


「名乗ってなくても、新聞は勝手に名前を飾るよ。売れるから」


「迷惑な話ですね」


「でも、名前がつくってことは、覚えられたってことでもある」


「それは、良いことですか」


「場合によるね」


 ミラは仮面を作業台へ置いた。


「少なくとも、もうただの怪談じゃない。誰かを助けた黒い仮面として、町に残り始めてる」


 リオは何も答えなかった。


 ミラは次に外套を広げた。


 肩の一部が焦げ、離脱縫いが切れている。


「あ、外套の逃がし縫い、使ったんだ」


「掴まれたので」


「掴まれた?」


「知り合いが」


「はいはい」


 ミラは針先で焦げた部分をつつく。


「この外套、正体隠し用としては悪くないけど、救助には向いてないね。熱を持つし、水を吸うと重くなる。煙の中で動くなら、裏地を変えたい」


「耐熱性を上げられますか」


「上げられる。ただし重くなる」


「軽くする方法は?」


「高い素材を使う」


「聞きたくないです」


「じゃあ高い」


「さっきも聞きました」


「大事なことだからね」


 ミラは焦げた粘糸弾の筒を持ち上げた。


「これは熱で歪んでる。中身の糸も、一部が炭化してる」


「火災現場で梁の一時固定に使いました」


「武器じゃなくて救助道具になってるじゃない」


「人を殺さない道具は、人を助ける道具にもなります」


 ミラの手が止まった。


 彼女は少しだけ目を細め、リオを見た。


「それ、君らしいね」


「そうですか」


「うん」


 ミラは焦げた筒を指で軽く叩いた。


「最初に来たときも、そんな感じだった」


 リオは一瞬、黙った。


 最初に来たとき。


 ミラ・グリムと出会った日のことだ。


     ◇


 ミラと出会ったのは、黒蝶になる少し前のことだった。


 きっかけは、ギルド倉庫の奥から出てきた古い魔石灯だ。


 誰のものかも分からない。


 記録も残っていない。


 ただ、捨てるには惜しい程度には部品が良かった。


 リオはそれを抱えて、職人街の小さな工房を訪ねた。


『ミラ・グリム魔工房


 修理・改造・変な相談可』


 今思えば、最後の一文を見た時点で、もう少し警戒すべきだったのかもしれない。


「修理?」


 作業台の向こうから顔を上げた少女は、リオとそう年が変わらないように見えた。


 灰色の作業着。


 短くまとめた髪。


 手袋についた油汚れ。


 そして、やけに楽しそうな目。


「はい。ギルドの備品です。点くかどうかだけでも確認していただければ」


「点くだけでいいの?」


「できれば爆発しない方向で」


「要望が低くて助かる」


 それが、ミラ・グリムとの最初の会話だった。


 魔石灯は、半刻もしないうちに直った。


 リオが思っていたより、ずっと腕が良かった。


「はい。点く。爆発もしない。たぶん」


「たぶん?」


「世の中に絶対はないから」


「職人の言葉としては少し怖いですね」


「じゃあ言い直す。普通に使う分には爆発しない」


「安心しました」


「普通じゃない使い方をしたら?」


「ギルド備品なので、普通に使います」


「本当に?」


「たぶん」


「人のこと言えないじゃん」


 ミラは笑った。


 その時点では、ただの腕の良い若手職人。


 少し変わった看板を出している、変わった職人。


 リオにとっても、それ以上ではなかった。


 だからこそ、ついでのように紙を出した。


「もう一つ、技術的な相談をしてもいいですか」


「内容による。あと別料金」


「分かっています」


 紙には、細長い筒と、小さな袋のようなものが描いてあった。


 ミラはそれを見て、片眉を上げる。


「笛?」


「違います」


「煙突?」


「違います」


「じゃあ何?」


「筒型の散布具です」


「散布具?」


「離れた場所へ、小さな袋や容器を飛ばすための道具です」


「投げれば?」


「投げると距離と方向にばらつきます。倉庫の奥や棚の隙間に入った害獣を追い払うには、もう少し狙いを安定させたいんです」


「害獣?」


「魔鼠や小型の虫型魔物です。食料庫や薬草庫に入り込むと厄介なので」


「罠じゃ駄目なの?」


「罠は回収が必要です。毒餌は食料庫では使いづらい。火や水を使うと、保管物まで駄目になります」


「なるほどね」


 ミラは紙を覗き込んだ。


「この後ろの部品は?」


「風を送り込む部分です。人の息ではなく、風魔石か、風属性の魔力を使います」


「吹き矢の親戚みたいなもの?」


「近いです。ただ、息よりも力を一定にしたい」


「この握るところは?」


「筒を安定させるためです」


「この押し具は?」


「風を一瞬だけ出すためです。長く吹くと、中の袋が壊れます」


「……害獣相手にしては、ずいぶん本気だね」


「倉庫を荒らされると、書類が増えます」


「それは大問題だ」


「大問題です」


 ミラは笑った。


 だが、その目は図面から離れなかった。


 リオは、少しだけ警戒した。


 この職人は、軽く見える。


 けれど、見ているところは鋭い。


「一つ確認」


「はい」


「これ、害獣を殺す道具?」


「いいえ」


「毒を入れる?」


「入れません。食料庫で使えなくなります」


「じゃあ何を入れるの?」


「嫌がる匂いの粉、煙、粘り気のある樹脂などを想定しています」


「人に向ける予定は?」


 そこで、リオは少しだけ黙った。


 完全に否定するのは、嘘になる。


「通常の用途ではありません」


「答え方が怪しい」


「怪しい相談なのは否定しません」


「否定しないんだ」


「嘘をつくと、後で面倒なので」


「それ、口癖?」


「たぶん」


 ミラは数秒、リオを見た。


「じゃあ、条件。人を殺す用途にはしないこと」


「それは約束できます」


「そこは即答なんだ」


「そこだけは」


 その答えを聞いて、ミラはようやく紙を作業台に置いた。


「いいよ。面白そうだから考える」


「ありがとうございます」


「ただし、何に使うかは、いつか話すこと」


「いつか、ですか」


「そう。私が君を信用できたら。君が私を信用できたら」


 その時のリオは、すぐには答えられなかった。


 ただ、少し考えてから頷いた。


「では、いつか」


「うん。いつか」


 それが、始まりだった。


 筒型散布具。


 害獣対策という名目の、奇妙な道具。


 その最初の試作品は、狙いがぶれ、袋が筒の中で破れ、ミラの工房を刺激臭で満たした。


 ミラは涙目で言った。


「これ、本当に害獣用?」


 リオは目を押さえながら答えた。


「少なくとも、人間にも効くことは分かりました」


「分かりたくなかったなあ!」


 改良は、そこから始まった。


 袋を弾に変えた。


 弾殻を薄くした。


 風圧を一定にした。


 安全装置をつけた。


 使用者が吸い込まないよう、仮面を作った。


 粉が暴発しないよう、筒内を滑らかにした。


 最初は害獣避けの散布具。


 やがてそれは、黒蝶の眠り銃になった。


     ◇


「……懐かしいですね」


 リオが言うと、ミラは焦げた眠り銃の筒を持ったまま笑った。


「最初は、何に使うかも言わないで“技術的な相談です”とか言ってたのにね」


「初対面の職人に、正直に話せる内容ではありませんでした」


「今は正直に話せる?」


「内容によります」


「まだそれか」


「信用していないわけではありません」


「知ってる」


 ミラはそう言って、仮面を作業台に置いた。


「でも、殺す道具じゃないってところだけは、最初から変わらなかった」


「そこは変えません」


「だから、まだ直してる」


 ミラの声は、いつもより少しだけ静かだった。


 リオは返す言葉を探したが、うまく見つからなかった。


 代わりに、机の上の装備を見た。


 防毒仮面。


 眠り銃。


 粘糸弾。


 黒膜弾。


 鳴響弾。


 消火粉。


 どれも、最初から完成していたわけではない。


 失敗して、直して、また失敗して、また直した。


 リオ一人では作れなかった。


 黒蝶は一人。


 夜に飛ぶ蝶は、一羽だけ。


 だが、その羽を支える手は、一人分ではない。


「追加で相談があります」


「嫌な予感がする」


「救助用の装備を増やしたいです」


「ほら来た」


 ミラは椅子に座り直した。


「具体的には?」


「防煙用の濾過層を交換式にしたい。簡易呼吸袋の数を増やしたい。粘糸弾は熱に弱かったので、梁の一時固定用に耐熱型が欲しい。黒膜弾は煙を完全には止められないので、火の粉を防ぐ膜に改良できるか確認したい。鳴響弾は室内探索に有効でしたが、反響が強すぎると救助対象にも負担が出るので、低出力型を作りたいです」


「多い」


「はい」


「予算は?」


「相談で」


「それは予算がない人の言葉だよ」


「否定できません」


 ミラは頭を抱えた。


「リオ君さ、黒蝶さんに伝えて」


「何をですか」


「装備はただじゃない」


「伝えておきます」


「あと、火事場に入るなら専用装備がいる。仮面も外套も、今のままだと長時間は無理。あれは本来、粉と催涙対策用。煙と熱は別物」


「分かっています」


「分かってる顔して、また入るでしょ」


「必要なら」


「そこが問題」


 ミラはため息をついた。


「火事を消すのは火消し組の仕事。水属性の魔法使いもいる。衛兵もいる。黒蝶さんが全部やる必要はない」


「そうですね」


「分かってる?」


「分かっています」


「じゃあ何でそんな顔してるの」


 リオは少し黙った。


 そして、答えた。


「間に合わないことがあるので」


 ミラは何も言わなかった。


「火消し組が来るまで。水属性の使い手が来るまで。衛兵が扉を開けるまで。その間に、煙を吸った人は倒れます」


「……」


「だから、火を消すためではなく、人を外へ出すための装備が欲しいです」


 ミラは、しばらくリオを見た。


 それから、作業台の下から白紙を取り出した。


「分かった。救助用の追加装備。考える」


「ありがとうございます」


「ただし、条件」


「はい」


「一人で全部背負わないこと」


 リオは答えに詰まった。


 ミラは続ける。


「道具は便利だけど、道具が増えるほど、できることも増える。できることが増えると、やらなきゃいけない気になる。でも、できることと、全部やることは違う」


「……はい」


「今の、ちゃんと黒蝶さんにも伝えて」


「伝えます」


「自分にもね」


 リオは少しだけ目を逸らした。


「善処します」


「それ禁止」


「なぜ」


「口癖だから」


 ミラは笑った。


 リオは肩を落とした。


「最近、口癖を禁止されることが増えました」


「正体隠しって大変だね」


「何の話ですか」


「さあ?」


 ミラはもう追及しない。


 その距離感が、リオにはありがたかった。


     ◇


 工房を出るころには、空が少し赤くなっていた。


 休日、というにはずいぶん疲れる一日だった。


 装備を預け、追加の見積もりを受け取り、支払い予定に頭を痛め、ついでに魔石灯の替え芯を買った。


 公園を散歩する時間はなかった。


 マーレには怒られるかもしれない。


 リオがギルドへ戻ると、入口前に衛兵が一人立っていた。


「リオさん」


「はい。何かありましたか」


「ギルドマスターに至急の報告です。東門外の採石場で襲撃がありました」


 リオの表情が変わる。


「襲撃?」


「荷馬車が一台、道を塞がれて動けなくなりました。護衛に負傷者あり。死者は出ていません」


「魔物ですか」


「いいえ。人間です」


 衛兵は手帳を開いた。


「現場に、土属性魔法の痕跡がありました」


 土属性。


 リオは午前中、新人冒険者に説明した言葉を思い出した。


 足元を崩す。


 石畳を浮かせる。


 砂で視界を奪う。


 振動で位置を探る。


「具体的には?」


「道の一部が沈んでいました。車輪だけが落ちるように。逃げようとした護衛は、足元から石の杭が出て転倒。荷馬車の周囲だけ、壁のように土が盛り上がっていたそうです」


「積み荷は?」


「一部が奪われています」


「何を?」


 衛兵は少し声を落とした。


「火災現場から運び出された、黒い腕輪の関連物品です」


 リオは、息を止めた。


「腕輪そのものですか」


「いえ、火災倉庫の焼け跡から回収された金属片と書類の一部です。衛兵詰所へ運ぶ途中でした」


「……夜鴉商会」


「可能性はあります」


 衛兵は周囲を見回し、さらに低く言った。


「それと、現場に黒い羽根の印が残されていました」


 夜鴉。


 リオは拳を握りそうになり、途中で止めた。


 ここはギルドの入口だ。


 自分はただの見習い職員。


 黒蝶ではない。


「分かりました。ギルドマスターに取り次ぎます」


「お願いします」


 衛兵を中へ案内しながら、リオは考える。


 次は土属性。


 火事場のように、煙を読んで動けばいい相手ではない。


 地面そのものを支配する敵。


 黒蝶は屋根を使う。


 風で動く。


 軽さと機動力で戦う。


 だが、足場を奪われたら。


 壁を作られたら。


 逃げ道を塞がれたら。


 粘糸弾を土砂で潰されたら。


 厄介だ。


 非常に厄介だ。


 ギルドの奥から、オルドの太い声が聞こえた。


「リオ、何があった」


「東門外の採石場付近で襲撃です。土属性魔法の痕跡あり。夜鴉の印も」


 オルドの顔が険しくなる。


「……来たか」


「心当たりが?」


「夜鴉商会には、元工兵崩れがいるという噂がある。土属性使いだ」


「工兵」


 戦場で道を作り、壕を掘り、橋を落とし、壁を崩す者。


 正面から派手に戦う兵ではない。


 足場を作り、壊し、相手の動きを奪う兵。


 黒蝶とは、別の意味で準備と地形を使う相手だ。


 オルドは低く言った。


「今日はもう半休だったな」


「はい」


「休めと言いたいところだが、資料だけ頼めるか」


「採石場周辺ですか」


「そうだ。東門外の採石場、周辺地図、過去の土砂崩れ記録、夜鴉商会が使いそうな抜け道。明日の朝まででいい」


「分かりました」


「今夜中に仕上げろとは言っていない」


「……分かりました」


「返事が遅い」


「すみません」


 オルドはため息をついた。


「休め。半分くらいはな」


 リオは頷いた。


 だが、頭の中ではすでに地図を広げ始めていた。


     ◇


 夜。


 自室の机の上には、採石場周辺の地図が広がっていた。


 休むつもりだった。


 少なくとも、表向きは。


 リオは羽ペンを持ち、採石場へ向かう街道に印をつける。


 狭い道。


 崖沿い。


 古い石橋。


 廃棄された坑道。


 荷馬車が通れる幅。


 待ち伏せに向いた曲がり角。


 風で逃げるだけでは足りない。


 相手が土なら、地面を見る必要がある。


 地面の色。


 湿り気。


 石の配置。


 不自然な盛り上がり。


 足音の響き。


 リオは活動記録を開いた。


『次回想定:土属性使い。足場支配型。黒蝶の機動力を制限される可能性あり』


 さらに書く。


『対策案。屋根や壁面だけに頼らない。粘糸弾の固定先を複数確保。粉塵対策。地面からの突起に注意。鳴響弾による地中空洞確認を検討』


 ペン先が止まる。


 昼間、ミラに言われた言葉が浮かんだ。


 ――できることと、全部やることは違う。


 分かっている。


 分かっているが、放っておけないことはある。


 リオは椅子にもたれた。


 窓の外、ルネリアの夜は久しぶりに静かだった。


 火の鐘も鳴っていない。


 悲鳴もない。


 屋根を走る黒い影も、今夜は出ない。


 黒蝶は一人。


 夜に飛ぶ蝶は、一羽だけ。


 だからこそ、その羽を休める日も必要だ。


 リオは仮面のない机を見た。


 仮面はミラの工房。


 外套も修理中。


 眠り銃も調整中。


 今夜、黒蝶は飛べない。


 飛ばないのではなく、飛べない。


「……休日を装うどころか、本当に休むしかないな」


 リオは苦笑した。


 その時、窓の外を風が通った。


 机の上の地図が少しめくれる。


 めくれた先には、東門外の採石場。


 土属性の敵。


 夜鴉商会。


 黒い腕輪。


 そして、まだ名前も知らない次の相手。


 平和な一日は、どうやら長くは続かない。


 リオは灯りを落とした。


 今日は休む。


 明日からまた、書類と噂と、夜の準備が待っている。


 ギルド職員は休日を装う。


 だが、その休日の終わりに、次の事件はもう地面の下で息を潜めていた。

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