表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/11

ギルド職員は炎上案件に駆けつける

 火事は、音より先に匂いで分かる。


 焦げた木材。

 熱せられた油。

 煙に混じる獣脂の臭い。

 そして、人が焦って走るときの、汗と土埃の匂い。


 ルネリア城下町の夜に、その匂いが流れた。


 最初に気づいたのは、南区画の屋台番だった。


「……焦げ臭くねえか?」


 次に、酒場帰りの冒険者が空を見た。


「おい、あれ煙じゃないか?」


 そして三人目が叫ぶ。


「火事だ! 倉庫街の方だ!」


 鐘が鳴った。


 衛兵詰所の警鐘。

 火消し組の呼び笛。

 逃げ惑う人々の足音。


 夜の町が、一気に騒がしくなる。


     ◇


 冒険者ギルド・ルネリア支部の二階。


 リオは自室で、改良外套の縫い目を確認していた。


 黒蝶の外套は、少し重くなっている。


 肩の線をぼかすために布を増やした。

 首元に喉を隠す覆いを足した。

 裾には薄い芯材が入っている。


 正体を隠すには有効だ。


 ただし、動きづらい。


 屋根を飛ぶ者にとって、それは命取りになる。


「もう少し軽くしたいな……」


 リオが独り言を漏らした、そのとき。


 窓の外から、鐘の音が聞こえた。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 間隔が短い。


 火事の鐘だ。


 リオは立ち上がり、窓を開けた。


 南東の空に、赤い揺らめきが見えた。


 職人街ではない。

 商業区の外れ。

 倉庫街寄り。


 煙が上がっている。


 リオの顔から表情が消えた。


 火事。


 この世界では、火事はかなり危険だ。


 水属性魔法が使える者がいれば消火は早い。

 だが、都合よく熟練者が現場にいるとは限らない。


 木造倉庫。

 油。

 魔石灯。

 可燃性の薬品。

 風向きが悪ければ、隣の建物へ火が移る。


 そして何より、煙だ。


 炎より先に、人は煙で倒れる。


 リオは机の上を見た。


 黒い仮面。

 眠り銃。

 粘糸弾。

 黒膜弾。

 鳴響弾。


 戦闘用の装備。


 だが、今必要なのは戦うことではない。


 助けることだ。


 リオは木箱を引き寄せ、奥から別の袋を出した。


 耐熱布。

 簡易呼吸袋。

 湿気を含ませた布ではなく、濾過層を増やした防煙用の予備。

 夜間誘導用の小型魔石灯。

 粘糸弾の試作品。

 消火粉を詰めた小瓶。


 前世で知っていた。


 火災現場で、濡れ布を口に当てれば安心、というのは半分だけ正しい。

 煙の中には、熱と毒性のある気体が混じる。

 水で湿らせた布だけでは足りない。


 だから、防毒仮面がいる。


 黒蝶の仮面は、そのためのものでもあった。


 リオは右手を前に出した。


 胸の奥にある輪郭を、もう一つ外へ押し出す。


 空気が揺れる。


 もう一人のリオが現れた。


 複製体は、窓の外の赤い煙を見て言った。


「火事か」


「南東。倉庫街寄り」


「夜鴉?」


「分からない。でも、放っておけない」


「三原則は?」


 本体のリオは一瞬だけ黙った。


 いつもの三原則。


 死なない。

 捕まらない。

 装備を落とさない。


 だが、火事場では足りない。


「追加する」


 本体は言った。


「救助優先。煙を吸わない。炎と戦わない。人を外へ出す。無理なら撤退して情報を渡す」


「黒蝶らしくないな」


「黒蝶らしくなくていい」


 本体は仮面を差し出した。


「今日は怪談じゃなくて、防災要員だ」


 複製体は仮面を受け取った。


 低く、ざらついた声で答える。


「了解」


     ◇


 火元は、南東区画の古い倉庫だった。


 もともとは香油や布を扱う商会の倉庫。

 だが最近は、所有者が何度か変わっている。


 今の正式な借主は、小さな運送業者。


 ただし、裏で誰が使っているかは分からない。


 黒蝶は屋根の上から現場を見た。


 倉庫の一階部分から煙が噴き出している。

 火はまだ建物全体を飲み込んではいない。

 だが、内部で何かが燃えている。


 厄介なのは、倉庫の扉が内側から塞がれていることだった。


 衛兵が数人、扉をこじ開けようとしている。

 火消し組は水桶を運んでいる。

 周囲の住民は避難を始めているが、混乱していた。


「下がれ! 倉庫に近づくな!」


「中に人がいるぞ!」


「子供が入ったって聞いた!」


「誰か水属性を呼んでこい!」


 子供。


 その言葉で、黒蝶の意識が切り替わった。


 黒蝶は風向きを読む。


 煙は南から北へ流れている。

 火の勢いは一階奥。

 屋根にはまだ回っていない。


 なら、正面から入るより屋根を使う。


 黒蝶は隣の建物から跳んだ。


 屋根瓦に着地する。


 熱い。


 だが、まだ耐えられる。


 腰から鳴響弾を取り出す。


 ただし、いつものように敵へ投げるのではない。


 床へ向けて落とす。


 カン、と鳴る。


 反響が返ってきた。


 空洞。

 梁。

 壁。

 積み荷。

 そして、かすかな物音。


 黒蝶は仮面の奥で目を細める。


 奥にいる。


 倉庫の北側、積み荷の影。


 小さい。

 子供か。


 黒蝶は短い工具を取り出し、屋根板の継ぎ目に差し込んだ。


 無理に破ると崩れる。

 煙の抜け道を作るだけなら、小さく開ければいい。


 前世の知識が告げていた。


 煙を抜く。

 ただし、酸素を入れすぎると火勢が増す。


 開けすぎるな。


 風を読み、流す方向を決めろ。


 黒蝶は屋根の一部を小さく外した。


 黒い煙が噴き出す。


 すぐに身を低くする。


 熱気が頬を撫でた。


 仮面がなければ、一息で喉を焼いていた。


 黒蝶は風属性の魔力を薄く流す。


 煙を上へ逃がす。

 倉庫の奥から入口側へ流さない。

 子供がいると思われる場所の煙を少しでも薄くする。


 細い制御。


 派手な魔法ではない。


 だが、火災現場では、この程度の差が命を分ける。


「屋根の上だ!」


 下から衛兵が叫んだ。


「黒蝶だ!」


「何してるんだ、あいつ!」


 黒蝶は答えない。


 答えている暇はない。


 屋根穴から中へ滑り込む。


     ◇


 倉庫の中は、煙で満ちていた。


 視界は悪い。

 熱い。

 木材が爆ぜる音がする。

 どこかで油が燃えている。


 黒蝶は即座に姿勢を低くした。


 煙は上に溜まる。

 まだ床付近の方がましだ。


 ただし、倉庫内には木箱が散乱している。


 足を取られれば終わる。


 黒蝶は小型魔石灯を取り出した。


 強い光ではなく、足元だけを見る灯り。


 強い光は煙で乱反射して、かえって見えなくなる。


 低く。

 速く。

 呼吸を浅く。


 鳴響弾の反響で聞いた位置へ向かう。


 奥から咳が聞こえた。


「……だれか……」


 子供の声。


 黒蝶はそちらへ向かう。


 積み荷の影に、小さな少年が倒れていた。


 年は十歳前後。


 手に布袋を抱えている。

 中には焦げたパンらしきものが見えた。


 盗みに入ったのか。

 逃げ込んだのか。

 今はどうでもいい。


 生きている。


 それが全てだ。


 黒蝶は少年の口元に簡易呼吸袋を当てた。


 袋の中には、短時間だけ煙を濾すための簡易層が仕込んである。


「吸え」


 低く、ざらついた声。


 少年は意識が朦朧としていたが、何とか息を吸った。


 黒蝶は少年を抱え上げる。


 その瞬間。


 倉庫の奥で、何かが動いた。


 大きな影。


 人だ。


 男が一人、燃える木箱を蹴り飛ばしながら現れた。


 腕に、黒い腕輪をつけている。


 肌は赤く腫れ、服の袖は焦げている。


 普通なら痛みで動けない。


 だが、男は笑っていた。


「どこだ……黒蝶……」


 黒蝶は足を止めた。


 腕輪。


 夜鴉商会の違法魔道具。


 痛みと恐怖を鈍らせる道具。


 火災現場で使えば、最悪だ。


 逃げるべき場面で逃げない。

 痛みを感じず、火の中で暴れる。

 自分も周囲も巻き込む。


 男の視線が黒蝶を捉えた。


「いたなあ……!」


 男が突進してくる。


 少年を抱えたままでは避けにくい。


 黒蝶は粘糸弾を撃った。


 白い糸が男の足元へ広がる。


 だが、床が熱い。


 粘糸が一部焼け、拘束が甘くなる。


「邪魔だあ!」


 男は力任せに引きちぎった。


 黒蝶は舌打ちしない。


 声を出さない。


 少年を抱え直し、横へ跳ぶ。


 男の腕が空を切り、燃える棚に叩きつけられた。


 火の粉が舞う。


 少年が震えた。


 黒蝶は短く言った。


「目を閉じろ」


 これ以上喋るな。


 そう思いながらも、必要な指示だけは出す。


 黒蝶は黒膜弾を床に叩きつけた。


 黒い膜が広がる。


 煙と火の粉を完全には止められない。

 だが、視界を区切る壁にはなる。


 男が膜の向こうで叫ぶ。


「逃げんなあ!」


 黒蝶は少年を抱えて走った。


 出口は正面ではない。


 正面扉は塞がれている。

 人も多い。

 煙も濃い。


 屋根から戻るのは、少年を抱えたままでは危険。


 なら、側面。


 古い倉庫には、荷下ろし用の小窓があるはずだ。


 リオは昼に資料室で倉庫の構造を見たことがある。


 南東区画の古い倉庫群。

 同型の建物は、小窓が北側にある。


 黒蝶は壁際へ向かった。


 あった。


 腰より少し高い位置に、小さな木窓。


 外からは閉じられている。


 黒蝶は少年を床に下ろし、粘糸弾を梁へ撃った。


 糸を支点にする。


 次に短い金属筒を取り出し、風圧で窓の留め具を吹き飛ばした。


 小窓が開く。


 外の空気が入った。


 同時に、炎が揺れる。


 入れすぎるな。


 黒蝶は風を細く制御し、煙だけを押し出す。


 外から声が聞こえた。


「こっちだ! 北側に穴が開いたぞ!」


「誰かいる!」


 黒蝶は少年を抱え、小窓へ押し上げた。


 外の衛兵が少年を受け取る。


「子供だ!」


「生きてる!」


 まず一人。


 黒蝶は息を吐く。


 次の瞬間、背後から熱が迫った。


 腕輪の男が黒膜を突き破って来た。


 火のついた木片を手にしている。


「黒蝶おおお!」


 黒蝶は避けた。


 木片が壁を叩く。


 火が散る。


 男の腕輪が黒く光っていた。


 魔素が濁っている。


 このまま暴れれば、倉庫が崩れる。


 そして、外にいる衛兵や子供にも火が回る。


 黒蝶は眠り銃を抜いた。


 だが、煙の中で眠り粉は使いづらい。


 自分は仮面がある。

 男にも効くかもしれない。


 しかし、煙の流れが読みにくい。

 外にいる人間へ流れる危険がある。


 駄目だ。


 黒蝶は眠り銃を戻す。


 代わりに、鳴響弾を取り出した。


 男が突っ込んでくる。


 黒蝶は床へ鳴響弾を投げた。


 甲高い音が、倉庫内で反響した。


 密閉気味の空間。

 木箱。

 壁。

 梁。


 音が跳ねる。


 男は耳を押さえた。


「ぐあっ!?」


 痛みに鈍くなっていても、平衡感覚は揺らせる。


 黒蝶は踏み込んだ。


 男の腕を取り、体勢を崩す。


 だが、力が強い。


 腕輪のせいか。

 痛みを感じないせいか。


 男は黒蝶を掴もうとする。


 黒蝶は外套をわざと掴ませた。


 改良外套の肩布が外れる。


 ミラが仕込んだ応急の離脱縫い。


 引っ張られれば一部が外れ、拘束から抜けられる。


 黒蝶は身を沈め、男の懐に入った。


 粘糸弾を直接、男の両足へ撃つ。


 さらに梁へもう一発。


 男の体と梁をつなぐように、糸が張る。


 だが熱で保たない。


 数秒。


 それで十分。


 黒蝶は男の腕輪を見た。


 外せるか。


 無理やり外すには時間がかかる。


 なら、冷やす。


 黒蝶は腰の小瓶を取り出した。


 水属性ではない。


 冷却用の薬剤でもない。


 ただの消火粉だ。


 前世の知識と、この世界の鉱物粉を混ぜた試作品。


 炎を消すというより、火の勢いを一瞬だけ殺すもの。


 黒蝶は腕輪の周囲へ粉を叩きつけた。


 白い粉が散る。


 腕輪の熱がわずかに落ちる。


 男が叫ぶ。


「何しやがる!」


 黒蝶は答えない。


 工具を差し込み、腕輪の留め具を壊した。


 金属音。


 腕輪が外れた。


 男の目が見開かれる。


 次の瞬間、痛みと恐怖が戻ったのだろう。


 男は絶叫した。


「あ、熱い! 熱い熱い熱い!」


 膝から崩れる。


 黒蝶は男の首元に眠り弾を撃った。


 至近距離。


 男は倒れた。


 今度は眠った。


 黒蝶は腕輪を布で包み、腰袋へ入れる。


 その直後。


 天井の梁が大きく鳴った。


 まずい。


 黒蝶は男を引きずる。


 重い。


 だが、置いていくわけにはいかない。


 殺さない。


 助けられるなら、悪党でも助ける。


 それが黒蝶の線だ。


 小窓までは数歩。


 だが、梁が落ちる方が早い。


 黒蝶は残りの粘糸弾をすべて撃った。


 梁へ。

 壁へ。

 床へ。


 糸が網のように張る。


 崩落を止めるほどの強度はない。


 だが、一瞬遅らせることはできる。


 黒蝶は男を小窓へ押し込んだ。


「引け」


 外の衛兵が反応する。


「引け! 引っ張れ!」


 数人が男を外へ引きずり出す。


 その瞬間、梁が落ちた。


 黒蝶は風を足元へ叩きつけ、横へ跳んだ。


 熱。

 煙。

 木片。


 肩に何かが当たる。


 痛み。


 だが止まらない。


 屋根へ戻るのは無理。


 小窓も塞がりかけている。


 黒蝶は壁を見た。


 古い倉庫。

 板壁。

 火で脆くなっている。


 黒蝶は黒膜弾の空容器を握り潰し、風を一点に集めた。


 拳ではなく、圧力。


 壁の脆い部分へ叩き込む。


 一度。

 二度。

 三度。


 板が割れた。


 外の夜気が見えた。


 黒蝶はそこへ身を滑り込ませた。


 背後で倉庫の一部が崩れた。


     ◇


 外へ出た瞬間、歓声ではなく悲鳴が上がった。


「出たぞ!」


「黒蝶だ!」


「下がれ! まだ崩れる!」


 黒蝶は膝をついた。


 肩が痛い。

 喉が熱い。

 仮面の濾過層が限界に近い。


 だが、動ける。


 少年は外で衛兵に抱えられていた。


 生きている。


 腕輪の男も、煙を吸ってはいるが息がある。


 火消し組が水をかけ始めた。

 水属性の魔法使いも到着したらしい。

 炎の勢いが少しずつ落ちていく。


 黒蝶は立ち上がった。


 このまま現場にいるわけにはいかない。


 衛兵の一人が叫んだ。


「待て! 黒蝶!」


 黒蝶は振り返らない。


「中の奴を助けたのはお前か!」


 答えない。


 沈黙を守る。


 だが、少年の声がした。


「あ……ありがとう……」


 黒蝶は一瞬だけ足を止めた。


 言葉はいらない。


 黒蝶は小さく頷いた。


 そして屋根へ跳ぼうとした。


 そのとき、視線を感じた。


 路地の奥。


 老人がいた。


 ぼろ布をまとった、浮浪者風の老人。


 旧水路で感じた、あの視線と同じ目をしている。


 黒蝶は仮面の奥で目を細める。


 老人は拍手をしなかった。

 笑いもしなかった。


 ただ、こちらを見ていた。


 その横に、赤茶けた髪の男が立っていた。


 ガロ。


 黒蝶はわずかに体勢を変えた。


 ガロの腕に、黒い腕輪はない。


 少なくとも、今はつけていない。


 ガロは燃える倉庫と、救出された少年と、黒蝶を順番に見た。


 その顔には、いつもの薄笑いがない。


 黒蝶は動かなかった。


 ガロも動かなかった。


 老人が何かを呟く。


 ガロはそれに答えず、黒蝶を睨んだ。


 そして、口だけを動かした。


 声は届かない。


 だが、言葉は読めた。


 ――倒すだけじゃねえのかよ。


 黒蝶は答えない。


 屋根へ跳んだ。


 夜風が、焦げた外套を揺らす。


     ◇


 ギルドの自室へ戻った黒蝶は、窓枠に手をかけたところで少しよろけた。


 本体のリオがすぐに支える。


「ひどい匂い」


「火事場だからな」


「肩は?」


「打った。あと煙。濾過層は限界」


「腕輪は?」


 黒蝶は腰袋から布包みを出した。


 二つ。


 一つは昨夜から保管していたもの。

 もう一つは、火災現場で男から外したもの。


「使用済み。装着者が痛みを感じにくくなって、火の中で暴れていた」


 本体のリオは顔をしかめた。


「予想通り最悪」


「それと、子供がいた」


「助けた?」


「助けた」


「なら、よかった」


 短いやり取り。


 だが、それだけで十分だった。


 黒蝶は椅子に座った。


「ガロが見ていた」


 本体の手が止まる。


「現場に?」


「老人と一緒にいた。旧水路でこちらを見ていた、あの老人だと思う。腕輪はつけていなかった」


「つけなかったのか」


「少なくとも、今夜は」


 リオは少しだけ考えた。


 ガロは悪党だ。


 だが、馬鹿ではない。


 黒い腕輪を渡されても、すぐには使わなかった。

 それは大きい。


 自分が使い捨てにされるかもしれないと気づいたのか。

 それとも、単に警戒しただけか。


 どちらにせよ、まだ完全には夜鴉側に落ちていない。


「統合する」


 黒蝶が言った。


「待って。水」


「助かる」


 本体は水を渡す。


 黒蝶が飲む。


 そして二人は向かい合った。


「今回、重いよ」


「だろうな」


「煙、熱、肩、魔力消費、あと精神的にも」


「分かった」


 指先が触れる。


 黒蝶の輪郭が揺らぎ、消える。


 次の瞬間、すべてが戻った。


「――っ、ぐ……!」


 リオは椅子から転げ落ちそうになった。


 熱。

 煙。

 焦げた匂い。

 少年の軽さ。

 腕輪の男の暴力。

 梁が落ちる音。

 肩に走った痛み。

 仮面の内側にこもった息苦しさ。


 そして、助けられた少年の声。


 ありがとう。


 リオは床に膝をついた。


 咳が出る。


 喉が痛い。


 目の奥が熱い。


 だが、死んでいない。


 戻ってきた。


「……火消しじゃ、ないんだけどな」


 リオは掠れた声で呟いた。


 ただ、火を消すために入ったわけではない。


 人を連れ戻すために入った。


 それだけだ。


 机に手を伸ばし、活動記録を引き寄せる。


 手が震えていた。


 それでも書く。


『南東区画倉庫火災。黒い腕輪装着者が内部で暴走。子供一名を救助。装着者も拘束・救出。腕輪を回収。火災現場において、腕輪は極めて危険。痛覚・恐怖反応の鈍化により避難行動を阻害する』


 そこまで書いて、少し止まる。


 さらに書く。


『ガロが現場を目撃。黒い腕輪は未装着。夜鴉側の老人と接触している可能性あり』


 最後に、もう一行。


『黒蝶は戦闘だけでは足りない。救助装備の拡充が必要』


 リオはペンを置いた。


 窓の外では、まだ遠くに煙が上がっている。


 ルネリアの夜は赤く揺れていた。


 黒蝶は一人。


 夜に飛ぶ蝶は、一羽だけ。


 だが今夜、その蝶は悪党を眠らせただけではなかった。


 煙の中で息をし、炎の中から人を連れ戻した。


 その噂は、きっとまた勝手に育つ。


 黒蝶は殺さない。

 黒蝶は喋らない。

 黒蝶は火の中から子供を助けた。


 そして、闇のどこかで。


 三流の小悪党が、その意味を考え始めていた。

本日3回目の投稿でした。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

よろしければ、ブックマーク・評価等いただけますと励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ