表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/11

ギルド職員は私語を慎む

本日2回目の投稿です。

このあと19時にもう1話投稿予定です。

引き続きよろしくお願いいたします。

 黒蝶が喋らなくなった。


 その噂が流れ始めたのは、翌日の昼前だった。


 冒険者ギルド・ルネリア支部の食堂で、酔いの抜けきらない商人がそう言った。


「いや、本当だって。昨夜、南区画で見たんだよ。黒い仮面のやつを」


 商人は両手を大げさに広げる。


「こ、こくちょう!? って俺が叫んだらよ、こっちを見たんだ。間違いねえ。けど、何も言わねえの。助けてくれたんだぜ? 普通なんか言うだろ?」


 周囲の冒険者が笑った。


「仮面の怪人に礼儀を求めるなよ」


「いや、前は喋ったって聞いたぞ。西区画の奴が言ってた。低い声で『武器を捨てろ』って」


「それ本当に黒蝶か? 偽物じゃねえの?」


「黒い外套に銀の蝶紋。眠らせる弾。間違いねえよ」


 噂は、いつも勝手に育つ。


 黒蝶は悪党を眠らせる。

 黒蝶は殺さない。

 黒蝶は屋根を飛ぶ。

 黒蝶は喋る。

 黒蝶は喋らない。

 黒蝶は一人ではない。


 最後の噂を聞いた瞬間、受付横で書類を整理していたリオの手が止まった。


 まずい。


 そこへ行くのは早すぎる。


「リオ」


 受付主任のマーレが声をかけてきた。


「はい」


「その顔は、また黒蝶関連の報告が増えると思っている顔だな」


「実際、増えそうです」


「残念ながら、もう増えている」


 マーレは数枚の報告書をリオの机に置いた。


「南区画の恐喝未遂。容疑者二名。黒蝶と思しき人物の関与あり。被害者は商人。負傷なし」


「昨夜の件ですね」


「昨夜の件ですね、じゃない。なぜ知っている」


 リオは表情を変えずに紙を取った。


「さっき食堂で本人が騒いでいました」


「そうだったな」


 危ない。


 最近、会話の端々で自分から穴を掘っている気がする。


 リオは報告書に目を通す。


 被害者の証言。

 容疑者の所持品。

 簡易通報符。

 壁に刻まれた蝶の印。

 黒蝶は発声せず。


 最後の一文で、リオの目が細くなった。


 報告書にそこまで書かれている。


 つまり、商人が衛兵に話したのだ。


 黒蝶が喋らなかった、と。


 噂だけではない。

 記録にも残り始めている。


 顔を隠せば、声が残る。

 声を隠せば、沈黙が残る。


 ミラの言葉が、また頭に浮かんだ。


 ――本当に隠したいものが顔だけなら、それでいい。


 リオは小さく息を吐いた。


「黒蝶が喋らなかったことまで、記録されるんですね」


「現場証言だからな。些細なことでも残す。あとで重要になるかもしれない」


「そうですね」


 本当にそうだ。


 些細なことほど、あとで刺さる。


 マーレはリオの顔を覗き込んだ。


「ところで、お前の声も少し掠れているが」


「寝不足です」


「昨日もそう言っていた」


「今日も寝不足なので」


「原因は?」


「仕事です」


「それ以外は?」


「ありません」


 マーレは疑わしそうに見てきたが、それ以上は追及しなかった。


 代わりに、別の書類を差し出してくる。


「ガロの処分通知だ。掲示用と本人控え。本人はまだ衛兵詰所だが、午後には釈放されるらしい」


「釈放されるんですか」


「拘束を続けるには証拠が弱い。夜鴉商会の荷に関わっていた疑いはあるが、本人は荷の中身を知らなかったと言い張っている。黒蝶を捕まえれば金になると聞いただけだと」


「十分悪い気がしますが」


「衛兵もそう思っているだろうな。だが、法は思っただけでは動かない」


 マーレは苦い顔をした。


「ギルドとしては、一時資格停止。依頼受注禁止。倉庫立入禁止。報酬窓口の利用制限。追加関与が判明すれば登録抹消もあり得る」


「本人は荒れそうですね」


「荒れるだろうな」


「受付に来ますか?」


「来るだろうな」


「僕、席を外しても?」


「お前が処分通知の写しを作ったんだ。いてくれ」


「そういう役回りばかりですね」


「便利だからな」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 リオは処分通知に目を落とした。


 銅級冒険者ガロ。

 一時資格停止。


 表のギルドから、半歩外へ押し出される処分。


 だが、登録抹消ではない。


 まだ戻れる。


 戻る気があれば、だが。


     ◇


 午後。


 ガロは予想通り、ギルドに来た。


 扉を蹴るように開けたため、入口の鐘がひどい音を立てた。


 食堂の冒険者たちが一斉に見る。


 ガロは頬に擦り傷を作り、赤茶けた髪を乱し、目だけをぎらつかせていた。


「おい」


 まっすぐ受付へ向かう。


 マーレが立っていた。


 隣には、リオ。


 できれば隣にいたくなかった。


「これはどういうことだ」


 ガロは一枚の紙を叩きつけた。


 処分通知だ。


 マーレは冷静に答える。


「書面の通りです。調査完了まで、あなたの冒険者資格は一時停止となります」


「俺は何もしてねえ」


「違法魔道具取引の現場にいました」


「荷の中身は知らねえって言っただろ」


「黒蝶を捕まえれば金になる、という話に乗ったことは認めていますね」


「黒蝶は犯罪者だろうが」


「その判断は衛兵とギルドが行います。少なくとも、あなたが私的に襲撃していい理由にはなりません」


「俺は襲撃してねえ。捕まえようとしただけだ」


「短剣を持って、催涙玉を使う仲間と一緒に?」


 ガロは舌打ちした。


 反論できないところは、声を荒げる。

 そういう男だ。


「じゃあ黒蝶はどうなんだよ。あいつは俺たちに眠り粉を使ってるだろ。武器も持ってる。仮面も被ってる。そっちはお咎めなしで、俺だけ停止か?」


「黒蝶はギルド所属者ではありません。処分権限がありません」


「逃げてんじゃねえぞ」


「逃げていません。制度の話です」


 マーレは一歩も引かない。


 ガロは苛立ちを隠さず、今度はリオを見た。


「お前も笑ってんのか、小間使い」


「笑っていません」


「目が笑ってる」


「寝不足で目つきが悪いだけです」


「昨日は鼠退治を寄越して、今日は資格停止か。ずいぶん偉くなったな」


「僕に処分権限はありません」


「どうだかな」


 ガロはリオに顔を近づけた。


「お前らギルドは、俺みたいな奴を切り捨てるのが好きだよな」


「今回の処分は、あなたの行動に対するものです」


「正論かよ。むかつくな」


「よく言われます」


 その瞬間、ガロの目がわずかに細くなった。


 リオは気づいた。


 まずい。


 また同じ返しをした。


 黒蝶としても、似たような受け答えをしている。


 丁寧すぎる。

 冷静すぎる。

 短く返しすぎる。


 癖だ。


 声を変えても、言葉の癖は残る。


 ガロは一瞬、何かを考えるような顔をした。


 だが、すぐに鼻で笑った。


「まあいい。資格停止だろうがなんだろうが、俺は止まらねえ」


「止まってください」


「嫌だね」


「せめて反省してください」


「それも嫌だ」


 ガロは処分通知をぐしゃりと握り潰した。


「黒蝶を倒せば、全部ひっくり返る。あいつの仮面と筒を持っていけば、夜鴉だろうが衛兵だろうが、俺を見る目が変わる」


 ギルド内の空気が冷えた。


 今、ガロは夜鴉の名を出した。


 本人は気づいていないのか。

 それとも、わざとなのか。


 マーレの声が低くなる。


「ガロさん。その発言も記録します」


「好きにしろ」


「夜鴉商会との関係を認める発言と見なされる可能性があります」


「関係なんてねえよ。仕事をくれるっていうから話を聞いただけだ」


「それを関係と言います」


「うるせえ」


 ガロは背を向けた。


「依頼が受けられねえなら、依頼じゃない仕事をするだけだ」


 リオは思わず口を開きかけた。


 止めるべきだ。


 だが、何と言う。


 ギルド職員として?

 黒蝶として?

 それとも、自分として?


 迷った一瞬で、ガロは扉へ向かった。


 去り際、彼は振り返った。


 視線はリオではなく、ギルド全体へ向いていた。


「黒蝶に言っとけ。次は黙ってても分かるってな」


 リオの背筋が冷えた。


 ガロは笑い、ギルドを出ていった。


 鐘が鳴る。


 その音が妙に長く残った。


     ◇


 夕方。


 リオは職人街へ向かった。


 昨日に続いてミラの工房を訪ねるのは、少し気が重い。


 だが、行かないわけにはいかなかった。


 黒蝶の声は変えた。


 だが、沈黙も観察された。

 言葉の癖も危うい。

 そして、ガロがギルドで妙な反応をした。


 仮面の問題は、もう顔と声だけでは済まない。


『ミラ・グリム魔工房

 修理・改造・変な相談可』


 看板を見上げ、リオは扉を叩いた。


「爆発してないものならどうぞー」


「昨日も聞きました」


「じゃあ今日は爆発してる?」


「してません」


「ならどうぞ」


 扉を開けると、ミラは作業台で何かの部品を磨いていた。


 銀色の薄い板。

 昨日、仮面に仕込んだ響膜と似ている。


「やあ、リオ君。昨日の今日で再来店とは、仮面が爆発した?」


「してません」


「じゃあ喋ったら歌い出した?」


「それはそれで困ります」


「いい機能だと思うけどな。黒い仮面が突然歌うの」


「都市伝説の方向性が変わります」


「都市伝説?」


「いえ」


 リオは咳払いした。


 ミラはにやにやしている。


 完全に面白がっている顔だ。


「今日は何?」


「昨日の続きです」


「声は変わった?」


「変わりました。ただ、問題は声だけではありませんでした」


「やっとそこに気づいたか」


「昨日、ミラさんが言っていましたから」


「うん。顔、声、癖、歩き方、道具の順番、修理跡。全部持ち主を語る」


 ミラは作業台の上を片付け、リオに椅子を勧めた。


「で、どこまで見られた?」


「声。体格。戦い方。非殺傷方針。沈黙。それと、言葉の癖かもしれません」


「かなり見られてるね」


「はい」


「相手は一人?」


「少なくとも二人」


 ガロ。

 そして、昨夜南区画で見ていた老人。


 リオは名前を出さずに続けた。


「一人は小悪党ですが、観察力があります。もう一人は正体不明。浮浪者に見えましたが、ただの通行人ではなさそうでした」


「黒蝶さんも人気者だね」


「知り合いではありません」


「はいはい」


 ミラは雑に流した。


 もうこのやり取りは儀式みたいなものになっている。


「対策としては三つかな」


「三つ?」


「一つ、声を変える。これは昨日やった。二つ、行動の癖を変える。三つ、相手に偽情報を与える」


「偽情報」


「そう。隠すだけだと、観察され続けたらいつか絞られる。だから、わざと間違った特徴を見せる」


 リオは少し考えた。


「例えば、利き手を逆に見せる?」


「そう。たまに左手で撃つ。歩幅を変える。投げる順番を変える。いつも眠り弾から入るなら、粘糸弾から入る。丁寧な言葉遣いをやめる」


「最後が難しいです」


「そこが一番リオ君っぽいもんね」


「どういう意味ですか」


「そのままの意味」


 ミラは笑った。


「あと、外套に仕掛けを入れるのもあり」


「仕掛け?」


「肩幅をごまかす。背丈を少し高く見せる。動きにくくなるけど、体格の印象をずらせる」


「なるほど」


「ただし、動きやすさは落ちる。屋根を跳ぶなら邪魔になるかも」


「それは困ります」


「だよね。なら、姿勢と影でごまかす方がいい」


 ミラは紙に簡単な図を描いた。


 外套の裾に薄い芯材を入れ、動いた時の輪郭をぼかす。

 肩の線を消す。

 仮面の首元に布を足して、喉の動きを見せない。


 大掛かりな改造ではない。


 だが、効果はありそうだった。


「これ、すぐできますか?」


「応急ならできる。ちゃんとやるなら採寸が必要」


「採寸」


「黒蝶さんの」


「……僕と大体同じ体格の人なので」


「へえ」


 ミラの目が細くなる。


「大体同じなんだ」


「はい」


「どのくらい?」


「かなり」


「ふうん」


 ミラは笑った。


 リオは視線を逸らした。


 失敗した。


 今日は失敗が多い。


「まあいいよ。じゃあ、リオ君の寸法で作っておこうか」


「なぜ僕の」


「大体同じなんでしょ?」


「……お願いします」


 負けた。


 完全に。


     ◇


 その頃。


 ガロは西区画の裏路地を歩いていた。


 冒険者資格は一時停止。


 ギルドの依頼は受けられない。

 報酬窓口も使えない。

 倉庫にも入れない。


 つまり、表の仕事はしばらくできない。


 それでもガロの足取りは止まらなかった。


 腹は立っている。


 ギルドにも。

 マーレにも。

 リオにも。

 そして、黒蝶にも。


 特に黒蝶。


 あの仮面野郎は、強い。


 だが、強さの種類が気に食わない。


 剣が強いわけじゃない。

 魔法が派手なわけじゃない。

 体格がいいわけでもない。


 道具。

 準備。

 読み。

 そして、殺さないという線引き。


 ガロは舌打ちした。


「ふざけやがって」


 だが、同時に思う。


 あれで強くなれるなら。


 自分も、強くなれるのではないか。


 強力なスキルがなくても。

 強い魔法がなくても。

 剣の腕が中途半端でも。


 相手の弱点を見ればいい。

 道具を用意すればいい。

 怖がらず、何度でも試せばいい。


 ガロには、不屈がある。


 折れない。


 それだけは、自分のものだ。


「ガロ」


 路地の奥から声がした。


 ガロは足を止める。


 暗がりに、老人が立っていた。


 ぼろ布をまとい、杖をつき、浮浪者のような姿。


 だが、目が違う。


 まるでこちらの骨の数まで数えているような目だった。


「誰だ、てめえ」


「黒蝶に二度負けた男に、仕事の話を持ってきた」


 ガロのこめかみが跳ねた。


「殺すぞ」


「殺せない。お前は今、短剣を取り上げられている」


「素手でもやれる」


「やれるなら、黒蝶にも勝っている」


 ガロは一歩踏み出した。


 老人はまったく怯えない。


「怒るな。お前は馬鹿ではない」


「……何だと?」


「弱いが、馬鹿ではない。黒蝶の強さを見た。道具と準備と読みで、強者になれると気づいた」


 ガロの表情が変わった。


「なぜ知ってる」


「見ていたからだ」


「昨日の倉庫にいたのか」


「近くにいた」


 老人は懐から、小さな布包みを出した。


 中には、銀色の札が三枚。

 そして黒い腕輪が一つ。


 ガロは腕輪を見て、目を細める。


「それは」


「痛みを遠ざける道具だ。恐怖を鈍らせる。少しだけ強くなれる」


「少しだけ?」


「使う者次第だ」


「副作用は?」


 老人が初めて、少し笑った。


「聞くのか」


「黒蝶なら聞くだろ」


「なるほど。学んでいる」


 ガロは腕輪を睨んだ。


 以前の自分なら、すぐ飛びついていたかもしれない。


 だが今は違う。


 黒蝶は道具を使う。

 だが、道具に使われてはいない。


 そこが違う。


「これをつけたら、俺はどうなる」


「痛みを感じにくくなる。怖さも薄れる。戦い続けられる」


「で?」


「判断は少し荒くなる。怒りやすくなる。使いすぎると、戻りにくくなる」


「戻りにくくなる?」


「人として、だ」


 ガロは黙った。


 老人は腕輪を差し出す。


「黒蝶に勝ちたいなら、使え」


 ガロは手を伸ばしかけた。


 だが、途中で止めた。


 老人の目を見る。


「なんで俺に渡す」


「黒蝶を測りたい」


「俺は物差しかよ」


「今のところは」


 ガロの顔に怒りが浮かぶ。


 だが、すぐには殴らない。


 殴れば、老人の思うつぼだと分かったからだ。


「俺を使い捨てにする気か」


「使い方次第だ」


「答えになってねえな」


「お前はどうしたい?」


 ガロは腕輪を見た。


 欲しい。


 黒蝶に勝ちたい。


 ギルドの連中を見返したい。


 リオのすました顔を歪ませたい。


 だが、目の前の老人は危険だ。


 黒蝶とは違う。


 黒蝶は殺さない。

 こいつはたぶん、使い捨てる。


 ガロは笑った。


「いいぜ。もらってやる」


 老人の目が細くなる。


 ガロは腕輪を掴んだ。


 だが、すぐにはつけなかった。


 懐にしまう。


「ただし、俺は俺のやり方で使う。てめえの言いなりにはならねえ」


「それでいい」


「何が目的だ」


「黒蝶の仮面の下を知ること」


「顔か?」


「顔だけではない」


 老人は言った。


「声。癖。道具。判断。沈黙。全部だ」


 ガロは、にやりと笑った。


「同じこと考えてんじゃねえか」


「お前は観察できる。だから声をかけた」


「俺を馬鹿にしてるのか、買ってるのか、どっちだ」


「両方だ」


「むかつく爺だな」


 ガロは背を向けた。


 老人は最後に言った。


「次の黒蝶は、前と違うかもしれん」


「声を変えたからか」


「それだけではない。黒蝶は対応が早い。なら、お前も変われ」


「言われなくても」


 ガロは薄暗い路地を歩き出した。


 懐には黒い腕輪。


 つけるかどうかは、まだ決めていない。


 だが、使い方は考える。


 黒蝶のように。


 道具に使われるのではなく、道具を使う。


「覚えたぞ、黒蝶」


 ガロは低く呟いた。


「今度は俺が準備する番だ」


     ◇


 夜。


 リオはギルドの自室で、改良された外套を広げていた。


 ミラの応急改造は見事だった。


 肩の線が少しぼやける。

 首元に布が増え、喉の動きが隠れる。

 裾に薄い芯材が入り、動いた時の影が読みづらくなる。


 ただし、少し重い。


「屋根移動には慣れが必要だな」


 リオは外套を持ち上げながら呟いた。


 机には、改訂版の活動規則。


『黒蝶行動規則・再改訂』


 一、発声は最小限。

 二、同じ返答を繰り返さない。

 三、相手の挑発に返さない。

 四、利き手、弾順、移動経路を固定しない。

 五、目撃者には必要以上に印象を残さない。

 六、黒蝶は一人。


 リオは二番を見て、少し顔をしかめた。


 同じ返答を繰り返さない。


 自分ではあまり意識していなかったが、言葉にも癖がある。


 よく言われます。

 それはそうですね。

 努力します。


 言われてみれば、確かに多い。


「黒蝶以前に、リオとしても気をつけた方がいいな……」


 右手を前に出す。


 胸の奥の輪郭を押し出す。


 もう一人のリオが現れた。


「今日は出る?」


 複製体が聞く。


「短時間。外套の動作確認だけ。夜鴉とは接触しない。ガロとも接触しない」


「接触しない予定ほど、よく外れる」


「言わないで」


 複製体は改良外套を羽織った。


 少し肩を回す。


「重いな」


「影はぼける」


「屋根で足を取られたら?」


「すぐ帰る」


「了解」


 仮面をつける。


 声を出す。


「……確認」


 低く、ざらついた声。


 本体は頷いた。


「問題なし」


「今日は喋らない」


「できるだけ」


「できるだけじゃない。喋らない」


「努力する」


 本体のリオは眉をひそめた。


「その言い方は禁止候補に入れよう」


「自分の口癖を禁止すると不便だな」


「正体を隠す方が優先」


 黒蝶は窓枠に足をかけた。


 本体が言う。


「三原則」


「死なない。捕まらない。装備を落とさない」


「追加」


「喋らない。同じ手順を繰り返さない。見られている前提で動く」


「よし」


 黒蝶は夜へ出た。


 屋根に降りる。


 外套の重みが、いつもよりわずかに遅れを生む。


 だが、動けないほどではない。


 黒蝶は南区画には行かなかった。


 昨日と同じ場所に出れば、観察者の思うつぼだ。


 今日は北の旧水路沿い。


 灯りが少なく、人通りも少ない。

 その分、悪党も少ない。


 戦闘ではなく、動作確認。


 黒蝶は屋根を跳ぶ。


 右手ではなく左手で粘糸弾を抜く。

 いつもの路地ではなく、一本隣を通る。

 高い屋根ではなく、低い塀を使う。

 足音の間隔を変える。


 自分の癖を崩す。


 難しい。


 思った以上に、体はいつもの動きを選びたがる。


 黒蝶は小さく息を吐いた。


 そのとき。


 旧水路の暗がりで、何かが光った。


 小さな銀の札。


 護符。


 黒蝶は即座に止まった。


 罠か。


 屋根の上で伏せる。


 下には誰もいない。


 ただ、水路の縁に銀の札が一枚置かれている。


 近づくべきではない。


 だが、放置もできない。


 黒蝶は小石を拾い、札へ投げた。


 小石が当たった瞬間、札が薄く光り、周囲に白い粉が舞った。


 眠蝶粉ではない。


 別の粉。


 吸えば咳き込みそうな、刺激臭。


 やはり罠。


 黒蝶は動かなかった。


 発声もしない。


 ただ、屋根の上から粉の広がりを見た。


 風向き。

 拡散範囲。

 起動条件。


 黒蝶対策だ。


 眠り粉を使う黒蝶に、粉の罠を置く。


 悪くない。


 だが、雑だ。


 置き方が見えすぎている。


 ガロではない。


 あの老人か。

 夜鴉商会か。


 黒蝶は簡易通報符を遠くの壁に貼りつけ、銀の札の位置を示す印だけ残した。


 それ以上近づかず、離脱する。


 その背後。


 水路のさらに奥で、老人が見ていた。


「近づかないか」


 老人は笑った。


「慎重だな。いや、昨日より慎重になった」


 隣にいた若い男が囁く。


「追いますか」


「追うな。見ればいい」


「何をです」


「変化を」


 老人は黒蝶が消えた屋根を見上げた。


「声を変え、沈黙し、外套を変え、動線を変えた。いい。とてもいい」


「何がいいんです?」


「対応が早い者は、追い詰め甲斐がある」


     ◇


 深夜。


 黒蝶は自室へ戻った。


 窓から入り、仮面を外す。


 本体のリオは待っていた。


「早かった」


「罠があった」


「やっぱり問題が増えた」


「銀の護符。粉を撒く罠。吸引妨害か、咳を誘発するものだと思う」


「触った?」


「触ってない。小石で起動した」


「よし」


「見られていた可能性が高い」


「どこで?」


「旧水路。老人か夜鴉側」


 本体のリオは、活動記録を開いた。


「罠に近づかず、通報符で処理。これは正解」


「だと思う」


「ただ、相手は黒蝶が対応を変えたことを見ている」


「たぶん」


「つまり、こちらが対策するたびに、相手も情報を得る」


「やりづらいな」


「かなり」


 リオはペンを走らせる。


『旧水路にて黒蝶対策と思われる粉散布型護符を確認。直接接触せず。遠隔起動後、通報符で処理。第三者による観察の可能性高』


 そこまで書いて、手を止める。


 さらに一行。


『対策そのものも観察対象になる』


 黒蝶は静かに言った。


「統合する」


「疲労は?」


「軽い。外套が少し重い。足首に負担あり」


「明日ミラに調整依頼」


「また行くのか」


「行くしかない」


 二人は向かい合った。


 指先が触れる。


 黒蝶が消える。


 記憶が戻る。


 旧水路の湿った空気。

 銀の札の光。

 白い粉の広がり。

 遠くから見られているような感覚。


 リオは目を閉じた。


「……見られている前提で動く、か」


 それは簡単なようで、難しい。


 見られていると意識すれば、動きが不自然になる。

 不自然さもまた、情報になる。


 隠す。

 変える。

 偽る。

 それでも、残るものがある。


 黒蝶の正体ではなく、黒蝶の考え方。


 相手はそこを見ている。


 リオは活動記録の最後に、こう書いた。


『敵は黒蝶の正体ではなく、黒蝶の更新速度を測っている可能性あり』


 ペンを置く。


 机の上には、改造仮面。

 重くなった外套。

 黒い腕輪の包み。

 ガロの処分通知の写し。

 夜鴉商会の資料。


 問題は山積みだ。


 けれど、ひとつだけ分かったことがある。


 夜鴉商会は、黒蝶をただ捕まえたいわけではない。


 調べている。


 試している。


 成長させているようにすら見える。


 リオは窓の外を見た。


 ルネリアの夜は静かだった。


 静かすぎた。


 その静けさのどこかで、老人が笑っている気がした。


 黒蝶は一人。


 夜に飛ぶ蝶は、一羽だけ。


 だが、その羽音を聞いている者は、もう一人ではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ