ギルド職員は外面を繕う
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続けてお読みいただけますと幸いです。
翌朝。
リオは、冒険者ギルドの受付横で報告書を抱えたまま、完全に固まっていた。
「……一時資格停止、ですか」
「そうだ」
ギルドマスターのオルドは、いつも通り重い声で告げた。
場所はギルド二階の小会議室。
参加者は三人。
ギルドマスターのオルド。
受付主任のマーレ。
そして、なぜか見習い職員のリオ。
本来なら、銅級冒険者一人の処分に見習い職員が同席する必要はない。
ないはずなのだが。
「お前が昨日、受付で対応した相手だからな。記録整理も頼む」
「そういう理由でしたか」
「他に何かあると思ったか?」
「いえ、まったく」
リオは笑顔で答えた。
嘘である。
心臓には悪い。
昨夜、黒蝶としてガロを眠らせた。
正確には、複製体の黒蝶が眠らせ、その記憶と疲労と痛みが統合時に本体へ戻ってきた。
その翌朝、ギルドでガロの処分会議に同席している。
人生というものは、たまに嫌な形で帳尻を合わせてくる。
マーレが書類を読み上げた。
「銅級冒険者ガロ。東倉庫街における違法魔道具取引現場にて衛兵により拘束。夜鴉商会との関与については現在調査中。本人は『荷の中身は知らなかった』『黒蝶を捕まえれば金になると聞いただけ』と供述」
「供述、という言葉がもう完全に犯罪者の扱いですね」
「実際、犯罪現場にいたからな」
オルドが言った。
「ただし、現時点で夜鴉商会の構成員と断定はできない。違法魔道具の中身を把握していた証拠もない。殺人、誘拐、強盗の関与も確認されていない」
「そのため登録抹消ではなく、一時資格停止」
マーレが続ける。
「依頼の受注、報酬窓口の利用、ギルド倉庫への立ち入りを禁止。調査完了まで保留。追加の関与が判明した場合は、等級降格、登録抹消、または黒札指定を検討」
黒札指定。
ギルドが危険人物として正式に記録し、他都市にも共有する最重処分に近い扱いだ。
そうなれば、冒険者としては終わる。
少なくとも表の世界では。
「ガロは納得しているんですか?」
リオが聞くと、マーレは呆れたように肩をすくめた。
「するわけがないだろう」
「ですよね」
「衛兵詰所で暴れて、今朝も『黒蝶を先に捕まえろ』と騒いでいたそうだ」
「元気ですね」
「お前、なぜそこで嫌そうな顔をする」
「元気な問題児ほど、現場の負担になるので」
「その通りすぎて否定できない」
マーレは深くため息をついた。
オルドは腕を組み、リオを見た。
「ガロは弱い」
「はい」
「だが、しぶとい。ああいう手合いは、負けた相手に執着する」
リオの喉が、ほんの少しだけ痛んだ。
昨夜の催涙玉のせいか。
それとも、ガロの言葉を思い出したせいか。
――覚えたぞ。声も、やり方も。
リオは表情を変えずに頷いた。
「黒蝶に、ですか」
「おそらくな」
「黒蝶も大変ですね」
「お前、本当に他人事みたいに言うな」
「他人ですので」
マーレがじっと見てくる。
リオは笑顔を崩さなかった。
ギルド職員としては、黒蝶は正体不明の第三者。
自分とは無関係。
そういうことになっている。
たとえ、昨夜の肩の違和感がまだ残っていても。
たとえ、机の引き出しの奥に黒い腕輪が布に包まれて眠っていても。
たとえ、今朝の活動記録にこう書き残していても。
『声を聞かれた。年齢、性別、体格を推測されている。次回以降、発声は最小限。仮面への変声機構追加を検討』
関係ない。
少なくとも、表向きは。
「リオ」
オルドが言った。
「はい」
「夜鴉商会の資料整理は続けろ。ただし一人で調べすぎるな。必要なものは俺かマーレに回せ」
「分かりました」
「あと、黒い腕輪の件だが」
リオの心臓が、危うく跳ねた。
「腕輪、ですか」
「東倉庫街で押収された木箱の中に、黒い腕輪型の魔道具が複数あったらしい。衛兵から鑑定協力の照会が来ている」
「ああ、そちらの」
そちらも何も、リオの部屋にも一つある。
黒蝶が持ち帰ったものだ。
「ギルドで鑑定するんですか?」
「簡易鑑定だけだ。詳しくは王都の魔道具管理局に送ることになるだろう。ただ、その前に危険性だけでも確認したい。お前、倉庫資料から類似品を探せ」
「分かりました」
「不用意に触るなよ」
「はい」
触りました、とは言えない。
手袋越しだが。
リオは書類を受け取り、小会議室を出た。
廊下に出た瞬間、息を吐く。
今日だけで、すでに疲れた。
まだ朝である。
◇
昼過ぎ。
リオは資料室の奥にいた。
ルネリア支部の資料室は、紙と埃と古い革表紙の匂いがする。
棚には、依頼記録、魔物報告、商会登録簿、処分台帳、魔道具事故報告書が雑に詰め込まれている。
この資料室の恐ろしいところは、雑に見えて、実際に雑なところだ。
分類はある。
しかし、歴代職員の癖が積み重なった結果、同じ魔道具事故でも「魔道具」「事故」「衛兵照会」「その他」の四か所に分かれていることがある。
そして、そういうときに呼ばれるのは大体リオだった。
「……腕輪型。黒色金属。魔力増幅。感覚鈍化。魔素汚染。違法改造。夜鴉商会」
リオは小声で呟きながら資料をめくる。
昨夜持ち帰った腕輪は、まだ自室の木箱に隠している。
本当はすぐにでも調べたい。
だが、危険物である可能性が高い。
下手に魔力を流すわけにはいかない。
触るにしても、隔離。換気。記録。洗浄。
前世でも、危険物は「とりあえず触ってみる」が一番危ない。
そういう人間から事故報告書に載る。
リオは棚の奥から一冊の薄い冊子を引き抜いた。
『違法魔道具事故例・簡易版』
表紙の端に、古い血のような染みがついている。
嫌な説得力があった。
「腕輪、腕輪……あった」
該当項目を開く。
『魔力補助具を偽装した感覚鈍化具。装着者の痛覚・恐怖反応を鈍らせ、短時間の戦闘継続能力を高める。副作用として判断力低下、興奮、攻撃衝動の増加あり』
リオは眉を寄せた。
ガロの“不屈”とは別系統だ。
不屈は精神が折れにくい。
腕輪は、痛みや恐怖の反応を鈍らせる。
組み合わせたら、最悪だ。
痛みで止まらない。
恐怖で引かない。
負けても折れない。
そのうえ判断力だけが落ちる。
「小悪党を災害にする道具か……」
呟いた瞬間、背後から声がした。
「何を災害にするって?」
「うわっ」
リオは冊子を閉じかけ、相手を見て止まった。
マーレだった。
「驚きすぎだ」
「資料室で背後から声をかけるのはやめてください。心臓に悪いです」
「悪いことでもしていたのか?」
「仕事です」
「なら堂々としていろ」
「仕事中でも驚くものは驚きます」
マーレはリオの手元を見た。
「腕輪か」
「はい。類似品がありました。魔力増幅というより、感覚鈍化の可能性があります」
「痛みを感じにくくする類か」
「それに近いです。副作用は攻撃性の増加、判断力の低下。もし夜鴉商会がこれを冒険者崩れに配っているなら、かなり危険です」
「ガロが装着していたら?」
リオは少し黙った。
想像したくない。
だが、考えなければならない。
「不屈と相性が悪すぎます。痛みで止まらず、恐怖でも止まらず、負けても折れない。さらに判断力が落ちるなら、周囲を巻き込みます」
「最悪だな」
「はい」
「黒蝶はよく止めたものだ」
「……そうですね」
リオは視線を資料に落とした。
マーレは何気なく言っただけだ。
けれど、リオには重かった。
黒蝶は止めた。
だが、声を聞かれた。
戦い方を見られた。
相手に学習された。
勝ったのに、情報を失った。
それは失敗だ。
「リオ」
「はい」
「顔色が本当に悪い。今日は早めに上がれ」
「資料整理が残っています」
「命令だ」
「見習い職員にそこまで強い命令権ありましたっけ」
「受付主任命令だ」
「横暴ですね」
「倒れられるよりましだ」
マーレは冊子を受け取り、付箋を挟んだ。
「腕輪の資料は私からギルマスに回す。お前は夕方まで通常業務。そのあと休め」
「分かりました」
「本当に分かっている顔をしろ」
「努力します」
「それは分かってない奴の返事だ」
最近、いろいろな人に同じようなことを言われている気がする。
◇
夕方。
リオは、言いつけ通りギルドを出た。
正確には、出たように見せた。
「少し職人街に寄ってから戻ります」
そう告げて。
嘘ではない。
目的地は職人街だ。
ルネリア城下町の南東にある職人街は、いつも煙と金属音と木屑の匂いに包まれている。
鍛冶屋。
革細工師。
魔道具師。
荷車修理工。
薬瓶職人。
矢羽職人。
冒険者たちの装備は、ここで作られ、壊され、直され、また壊される。
その一角に、妙に雑然とした工房があった。
看板には、こう書かれている。
『ミラ・グリム魔工房
修理・改造・変な相談可』
最後の一文が信用できるようで、できない。
リオは扉を叩いた。
「開いてるよー。爆発してないものなら持ち込み可」
「爆発していたら?」
「外で燃え尽きるまで待って」
中から軽い声が返ってくる。
リオは扉を開けた。
工房の中は、相変わらず混沌としていた。
作業台には工具。
床には魔石の欠片。
壁には図面。
天井からは用途不明の部品。
隅には修理待ちの鎧。
その上に猫のような魔導清掃具が丸まっている。
作業台の向こうにいたのが、ミラ・グリムだった。
年は二十歳前後。
癖のある銀灰色の髪を後ろで雑に結び、片目に拡大鏡をかけている。
細い指には工具の跡が染みつき、袖は焦げていた。
「やあ、リオ君。今日は何を壊したの?」
「まだ何も」
「“まだ”って言った」
「相談です」
「もっと怪しい」
ミラはにやりと笑った。
リオは鞄から黒い防毒仮面を取り出した。
もちろん、黒蝶の銀の蝶紋は布で隠してある。
ミラは仮面を見た瞬間、目を輝かせた。
「お、例の防毒仮面。濾過層、もう詰まった?」
「濾過は問題ありません。改良したいのは、声です」
「声?」
「この仮面をつけた状態で喋ると、声の特徴が残りすぎます」
ミラはしばらく黙った。
それから、ゆっくり笑った。
「へえ」
「何ですか」
「いや、防毒仮面の依頼で“毒を防ぎたい”じゃなくて“声の特徴を消したい”が来るの、やっぱり君くらいだなって」
「必要になりまして」
「誰に声を聞かれたの?」
「仕事上、少し」
「何の仕事?」
「ギルドの」
「ギルド職員って、仮面越しに声を隠す仕事だっけ?」
「特殊な苦情対応です」
「苦情対応で仮面被るの?」
「たまに被りたくなります」
「それは分かる」
ミラは妙に納得した。
ありがたいが、そういう納得でいいのだろうか。
ミラは仮面を受け取り、内側を覗き込む。
「声を完全に別人にするのは難しいよ。声帯そのものを変えるわけじゃないから」
「完全でなくて構いません。年齢、性別、声質を即断されにくくしたい」
「なるほど。特徴を変えるというより、特徴をぼかす」
「はい」
「鳴響弾の応用が使えるかも」
ミラは作業台から小さな弾体を拾った。
リオが以前、黒蝶用に依頼した鳴響弾の試作品だ。
音を反響させ、狭い空間で相手の平衡感覚を乱す道具。
「これの中に入ってる共鳴板を、仮面の口元に小型化して仕込む。声が通る時に、響きを少しだけずらす」
「どのくらい変わりますか?」
「低く、ざらつく感じにはできる。ただ、長く喋ると違和感が出る。あと、濾過性能が少し落ちるかも」
「濾過は落としたくありません」
「だよね。じゃあ二層に分ける。外側が濾過。内側に響膜。息の流れを邪魔しないように隙間を作る」
ミラは紙にさらさらと図を描いていく。
手が早い。
そして、楽しそうだ。
「素材は?」
「薄い魔銀板だと高い。安く済ませるなら、音鳴り蜥蜴の喉膜を加工する」
「名前が嫌ですね」
「性能はいいよ。乾燥させると薄くて丈夫。声の震えを拾いやすい」
「入手できますか?」
「たぶん。乾物屋にある」
「乾物屋?」
「酒のつまみで売ってる」
「仮面に酒のつまみを入れるんですか」
「言い方」
ミラは笑った。
リオは頭を押さえた。
「応急処置なら今日中にできる?」
「できる。ただし完璧じゃない。声の輪郭をぼかす程度」
「十分です」
「君、最近急ぐ依頼が多いね」
「ギルドはいつも急ぎです」
「ギルドというより、君が急いでる気がする」
ミラの目が、拡大鏡越しにリオを見た。
リオは表情を崩さない。
「黒蝶の噂、聞いてる?」
ミラが唐突に言った。
リオの呼吸が止まりかける。
「……職人街でも話題ですか」
「そりゃあね。悪党を眠らせる黒い仮面。しかも防毒面っぽい。そりゃ職人は気になるよ」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
ミラは仮面を軽く振った。
「で、これ。黒蝶の仮面に似てるらしいね」
「偶然ですね」
「偶然かあ」
「はい」
「偶然なら仕方ないね」
ミラはにこにこと笑った。
絶対に信じていない。
だが、追及はしてこない。
それがミラの厄介なところであり、ありがたいところだった。
「リオ君」
「はい」
「仮面っていうのは、顔を隠す道具だけどね」
ミラは作業台に仮面を置いた。
「本当に隠したいものが顔だけなら、それでいい。でも、声、癖、歩き方、道具の選び方、修理の跡。そういうものも全部、持ち主を語る」
リオは黙った。
「今回、声に気づいたのは良い判断だよ。でも、それ以外にも気をつけた方がいい」
「例えば?」
「背丈。利き手。間合い。使う弾の順番。壊れた外套の縫い目。仮面の傷。あと、妙に丁寧な言葉遣い」
「丁寧な言葉遣い」
「悪党相手に礼儀正しかったら、それだけで目立つよ」
リオは心当たりがありすぎて、何も言えなかった。
昨夜のガロとの会話を思い出す。
粗悪品だ。過信すると眠るぞ。
それがどうした。
では、終わってから聞く。
確かに、悪党相手に冷静すぎる。
そして、少し喋りすぎだ。
「……以後、気をつけます」
「以後?」
「今後です」
「ふうん」
ミラは笑ったまま、何も聞かなかった。
だが、最後に一言だけ付け加えた。
「黒蝶さんにも伝えてあげなよ」
「……知り合いではありません」
「じゃあ、偶然似た仮面を使ってる誰かに」
リオは負けを認めるように、小さく息を吐いた。
「お願いします」
「任された」
◇
夜。
リオはギルドの自室で、改造された仮面を机に置いていた。
見た目はほとんど変わらない。
黒い防毒仮面。
片側に銀の蝶紋。
濾過層の外殻もそのまま。
変わったのは内側だ。
口元に薄い響膜が仕込まれている。
ミラいわく、音鳴り蜥蜴の喉膜を魔銀糸で補強したもの。
説明を聞いても、やはり酒のつまみが頭をよぎる。
リオは仮面を装着した。
小さく息を吸う。
「……テスト」
声が変わった。
自分の声ではある。
だが、少し低い。
掠れている。
喉ではなく、仮面の奥で響いているような音。
若い男の声、と即断されるよりはずっといい。
「悪くない」
声にざらつきが混じる。
長く喋ると疲れそうだ。
だが、それでいい。
そもそも喋らないための対策でもある。
リオは仮面を外し、活動記録を開いた。
『黒蝶行動規則・改訂』
一、発声は最小限。
二、挑発に返答しない。
三、相手の名前を不用意に呼ばない。
四、内部情報を示唆しない。
五、会話で勝とうとしない。制圧で終わらせる。
六、黒蝶は一人。
最後の一文は、以前から変わらない。
黒蝶は一人。
夜に飛ぶ蝶は、一羽だけでいい。
リオは右手を前に出した。
胸の奥の輪郭を、もう一つ外へ押し出す。
空気が揺れる。
複製体が現れる。
「今日は出るのか?」
複製体が聞いた。
「短時間だけ。仮面のテストと巡回。夜鴉への接触は避ける」
「ガロは?」
「衛兵詰所にいるはず。少なくとも今夜は動けない」
「“はず”か」
「そこを疑い始めると何もできない」
リオは改造仮面を差し出した。
複製体が装着する。
「喋ってみて」
「……聞こえるか」
低く、ざらついた声が部屋に響く。
本体のリオは頷いた。
「本人確認しづらい」
「自分で聞いても変な感じだな」
「長く喋ると喉が疲れそう。だから喋らない」
「了解」
「三原則は?」
「死なない。捕まらない。装備を落とさない」
「追加で、喋りすぎない」
「それが一番難しいかもな」
「自分の性格を見誤るな」
「見誤ってないから言ってる」
二人は同じ顔で、同じように苦い顔をした。
黒蝶は外套を羽織り、装備を確認する。
眠り弾は少なめ。
粘糸弾を多め。
黒膜弾を一つ。
鳴響弾は試作品を除き二つ。
今夜は戦うためではない。
声と仮面のテスト。
そして、黒蝶が姿を消したと思わせないための短い巡回。
噂は放っておくと勝手に育つ。
だが、完全に姿を消すと、別の噂が育つ。
黒蝶は逃げた。
黒蝶は負けた。
黒蝶はもう出ない。
それは困る。
夜鴉商会にも、ガロにも。
「いってらっしゃい」
本体が言った。
黒蝶は窓枠に足をかける。
「自分に言う台詞じゃないな」
変わった声で返ってきた。
本体は少し笑った。
「今の声なら、まあ別人に聞こえる」
「なら成功だ」
黒蝶は夜へ出た。
◇
その夜の巡回は、短かった。
黒蝶は南区画の屋根を伝い、商業区の外れを回り、裏通りの二人組の恐喝を止めた。
恐喝と言っても、相手は酔った商人から財布を奪おうとしていた小悪党だ。
黒蝶は屋根から降り、無言で粘糸弾を撃った。
足を絡め取られた二人組が転ぶ。
「こ、黒蝶!?」
「出た!」
二人が悲鳴を上げる。
黒蝶は何も言わない。
近づいて、短く手を振る。
眠り弾。
二人はその場に崩れ落ちた。
助けられた商人は腰を抜かしたまま、がたがた震えている。
「あ、あんた、黒蝶……なのか?」
黒蝶は返事をしなかった。
ただ、壁に簡易通報符を貼りつける。
そして、立ち去ろうとする。
「あ、ありがとう!」
商人が叫んだ。
黒蝶は一瞬だけ足を止めた。
本当なら「気をつけて帰れ」くらい言いたい。
だが、言わない。
声は情報だ。
沈黙もまた、仮面の一部になる。
黒蝶は外套を翻し、屋根へ跳んだ。
その姿を、遠くの路地の影から見ている者がいた。
ガロではない。
夜鴉商会の連絡役でもない。
ただの浮浪者に見える老人。
だが、その目は妙に鋭かった。
「……喋らなくなったか」
老人は小さく呟いた。
「対応が早いな、黒蝶」
そして、闇の奥へ消えた。
◇
黒蝶が戻ったのは、深夜前だった。
自室の窓から滑り込み、仮面を外す。
本体のリオは机で待っていた。
「どうだった?」
「声は使ってない」
「テストになってない」
「使わない訓練にはなった」
「それは大事」
黒蝶は仮面を机に置いた。
「濾過は問題なし。息苦しさも許容範囲。長く喋ると多分疲れる」
「なら、改良は成功かな」
「ただ」
「ただ?」
「見られていた」
本体のリオの表情が変わる。
「誰に」
「分からない。老人。浮浪者風。目が違った」
「夜鴉?」
「可能性はある」
リオは頭を押さえた。
「問題が増える速度が本当におかしい」
「今日は増やさない予定だったんだけどな」
「予定はよく裏切る」
黒蝶は小さく笑った。
リオは活動記録を開く。
『仮面改良後、南区画にて短時間巡回。発声なし。濾過問題なし。響膜の装着感は許容範囲。第三者による観察の可能性あり』
そこまで書いて、手を止める。
「統合する?」
「する。今日は軽い。肩も膝も悪化なし」
「素晴らしい」
「ただ、喋らないのは少し疲れる」
「それは精神的な方だな」
「そうだな」
二人は向かい合う。
指先が触れる。
黒蝶の輪郭が揺らぎ、消える。
疲労と記憶が流れ込む。
昨日ほどではない。
だが、黒い屋根の冷たさ。
助けられた商人の震えた声。
路地の影から見ていた老人の目。
それらが本体のリオの中に沈んでいく。
「……見られてたな」
統合後、リオは呟いた。
老人の目が、妙に残っている。
あれは、ただの通行人ではない。
黒蝶が喋らなくなったことに気づいていた。
つまり、前の黒蝶も知っている。
「声を変えたら終わり、じゃないか」
リオは仮面を見た。
顔を隠しても、声を隠しても、まだ足りない。
癖。
手順。
道具。
判断。
沈黙の仕方。
すべてが情報になる。
ミラの言葉が頭に残る。
――仮面っていうのは、顔を隠す道具だけどね。
――本当に隠したいものが顔だけなら、それでいい。
「黒蝶は、まだ雑だな」
リオは自分でそう認めた。
黒蝶は噂になった。
悪党は恐れ始めた。
夜鴉商会は装備を狙っている。
ガロは声と戦い方を覚えた。
そして、誰かが沈黙まで観察している。
リオは活動記録の最後に、一行を書き加えた。
『黒蝶の行動様式そのものを見直す必要あり』
ペンを置く。
窓の外では、ルネリアの夜が静かに続いている。
黒蝶は一人。
夜に飛ぶ蝶は、一羽だけ。
だが、その羽ばたきはもう、闇の中の誰かに数えられ始めていた。




