ギルド職員は小悪党に絡まれる
黒蝶の噂は、広がるのが早かった。
昨日までは、裏通りの酒場で酔っ払いが語る怪談だった。
それが今朝になると、冒険者ギルドの食堂で、商業区の屋台で、衛兵詰所の前で、当たり前のように囁かれている。
曰く、黒蝶は夜の悪党だけを狙う。
曰く、黒蝶は人を殺さない。
曰く、黒蝶に襲われた者は、黒い蝶を見たあと眠ってしまう。
曰く、黒蝶は二階建ての屋根から屋根へ跳ぶ。
曰く、黒蝶は魔王の密偵である。
最後の一つは、どう考えても話が飛びすぎていた。
「魔王の密偵が、裏通りのチンピラを眠らせて衛兵に引き渡すんですか」
リオは報告書の山に埋もれながら、ため息をついた。
冒険者ギルド・ルネリア支部。
今日も一階は朝から騒がしい。
討伐依頼を受ける者。
採取物の買い取りを待つ者。
朝から酒を飲んで受付主任のマーレに怒られる者。
そして、黒蝶の噂だけ聞きに来た野次馬。
リオの机には、衛兵から届いた追加資料が重ねられていた。
「噂なんてそんなもんだ。尾ひれがつく」
マーレがカウンター越しに言った。
「なら、せめてかっこいい尾ひれにしてほしいですね」
「魔王の密偵は十分かっこいいだろう」
「嫌ですよ。そんな大物感出されたら、こっちの処理が重くなります」
「こっち?」
「ギルド側です」
危ない。
リオは平然と訂正した。
昨夜、黒蝶として――正確には、複製体の黒蝶として――西区画の違法魔道具取引を潰した。
催涙玉、閃光石、煙玉。
そして、衛兵の巡回路が記された紙。
その右下には、黒い鳥のような印があった。
夜鴉商会。
表向きは運送と金融を扱う小さな商会。
裏では冒険者崩れや借金持ちに仕事を流していると噂されている。
噂は噂。
証拠にはならない。
だからリオは今、ギルド職員として過去資料を漁っている。
自分が夜に拾ってきた証拠を、昼の自分が合法的に調べる。
便利なのか、面倒なのか、もはやよく分からない。
「リオ、顔色悪いぞ」
マーレが目を細めた。
「寝不足です」
「だろうな。昨日も遅くまで部屋にいたんだろう」
「帳簿が終わらなくて」
「お前が倒れたら本当に困るんだが」
「その心配、ギルドマスターと同じ方向ですね」
「人としても心配している」
「ついでに?」
「七割くらい」
「残り三割が業務ですか」
「いや、逆だ」
「正直すぎません?」
リオは苦笑しながら、資料をめくった。
商業登録簿。
荷馬車の出入り記録。
ギルドとの取引履歴。
借金を抱えた冒険者の相談記録。
失踪者一覧。
夜鴉商会の名前は、表にはほとんど出てこない。
だが、その周辺に名前がある。
夜鴉商会から荷運びの仕事を受けていた冒険者。
その後、ギルドに顔を出さなくなった者。
借金を抱えていた者。
突然、装備だけが質に流された者。
「……嫌な並びだな」
リオは小さく呟いた。
「何か分かったか?」
「まだ噂の範囲です。ただ、夜鴉商会と関わったあと、活動記録が途切れている冒険者が何人かいます」
「失踪か?」
「断定はできません。遠征に出たまま戻らない人もいますし、町を離れただけかもしれません」
「だが、気になる」
「はい」
マーレの顔から軽さが消えた。
冒険者の失踪は珍しいことではない。
魔物に襲われる。
ダンジョンで迷う。
依頼先で事故に遭う。
借金から逃げる。
犯罪に手を染めて姿を消す。
理由はいくらでもある。
だからこそ、見落とされる。
誰かが意図的に冒険者を消していたとしても、表向きはただの未帰還で処理されてしまう。
「リオ、その資料はギルマスにも回せ」
「分かりました」
「あと、黒蝶関連とは分けろ。混ぜると面倒になる」
「もう十分面倒です」
「諦めろ」
マーレはそう言って、次の依頼者の対応に戻った。
リオは資料をまとめる。
そのとき、ギルドの入口が乱暴に開いた。
がらん、と鐘が鳴る。
入ってきたのは、三人組の男だった。
装備は安物。
剣も鎧も手入れが悪い。
ただし、態度だけは妙に大きい。
先頭の男は赤茶けた髪を逆立て、口元に薄い笑みを浮かべていた。
年は二十歳前後。
冒険者としては若い。
けれど新人らしい初々しさはない。
その目には、弱い相手を探す獣のような嫌な光があった。
「おい、依頼を寄越せ」
男はカウンターに肘を叩きつけた。
マーレの眉が動く。
「依頼票は掲示板から選んでください。受注手続きはこちらで――」
「面倒くせえ。稼げるやつを出せって言ってんだよ」
「等級に応じた依頼しか紹介できません」
「ああ?」
男が舌打ちする。
周囲の冒険者がちらりと視線を向けるが、関わりたくないのか、すぐに目を逸らした。
リオは資料から顔を上げた。
男の名前には覚えがある。
ガロ。
銅級冒険者。
素行不良。
酒場での喧嘩、依頼品の横流し未遂、報酬トラブル多数。
強くはない。
けれど、しつこい。
マーレが冷静に告げる。
「ガロさん。あなたは先週、護衛依頼で雇い主と揉めています。現在、危険度の高い依頼は紹介できません」
「揉めてねえよ。あの商人が俺を舐めたんだ」
「雇い主の荷を勝手に開けようとしたと報告が来ています」
「中身を確認しただけだ」
「依頼内容に含まれていません」
「融通が利かねえな、このギルドは」
ガロは唾を吐き捨てるように言った。
リオは立ち上がった。
「ガロさん」
「あ?」
「今紹介できる依頼なら、こちらにあります。西門外の排水路付近に出た魔鼠の駆除です。報酬は高くありませんが、討伐数に応じて追加があります」
「鼠退治だあ?」
ガロはリオを見下ろした。
「俺にそんな雑用をやれってのか?」
「銅級依頼ですので、適正です」
「お前、ギルドの小間使いだろ。偉そうに」
「小間使いではなく、見習い職員です」
「同じだろ」
「給金が出る分、少し違います」
周囲で何人かが小さく笑った。
ガロのこめかみが引きつる。
「口が減らねえガキだな」
「必要事項をお伝えしているだけです」
「俺が本気で殴ったら、どうなるか分かってんのか」
空気が少し重くなった。
マーレがすぐに動こうとしたが、リオは片手で制した。
ここで騒ぎを大きくすると、ガロは余計に引けなくなる。
面倒な男だ。
弱いが、面子にはうるさい。
そして、自分より弱いと見た相手には強く出る。
「ギルド内で職員に暴力を振るった場合、登録停止処分の対象になります」
「処分、処分ってうるせえな」
「あと、僕を殴っても依頼の等級は上がりません」
ガロはしばらくリオを睨んでいた。
やがて、鼻で笑う。
「……気に食わねえ」
「それはよく言われます」
「お前みたいな、何もできねえくせに安全な場所で紙だけ触ってる奴が、一番むかつくんだよ」
リオは返事をしなかった。
安全な場所。
確かに、本体の自分は夜もギルドの自室にいる。
だが、膝にはまだ昨夜の痛みが残っている。
喉にも催涙玉の刺激が残っている。
安全かどうかは、少し判断に困る。
ガロは依頼票を乱暴に奪い取った。
「魔鼠だろ。やってやるよ。だが、追加報酬をごまかしたら承知しねえからな」
「討伐証明部位の数で計算します」
「ちっ」
ガロたちは乱暴にギルドを出ていった。
扉の鐘が、またがらんと鳴る。
マーレがため息をついた。
「すまないな、リオ」
「いえ。あの手の人は、受付で揉めるより依頼に出てもらった方が早いので」
「だが、気をつけろ。ガロは執念深い」
「でしょうね」
「軽く見るなよ。強くはないが、諦めが悪い。あいつの固有スキルは“不屈”だ」
リオは動きを止めた。
「不屈?」
「精神的な衝撃に強いらしい。恐怖、屈辱、絶望。そういうものに折れにくい。何度痛い目を見ても懲りない」
「……厄介ですね」
「戦闘向きの強いスキルではない。だが、人としてはかなり面倒だ」
それは、リオにも分かる。
人は普通、痛い目を見ると避ける。
負ければ恐れる。
恥をかけば距離を取る。
危険を知れば引き返す。
だが、それが効かない相手は厄介だ。
弱くても、何度でも来る。
弱いからこそ、卑怯な手を使う。
そして、懲りない。
「黒蝶に捕まった連中にも、ああいうのがいるかもしれませんね」
リオは何気なく言った。
マーレは頷く。
「いるだろうな。黒蝶が殺さないと分かれば、調子に乗る馬鹿も出る」
「殺さないことが弱点になる、ですか」
「弱点というより、相手にとっての計算材料だ」
その言葉は、リオの中に残った。
殺さないこと。
それはリオが自分で決めた線だ。
けれど、相手がそこを見てくるのなら。
その線を守るための準備も必要になる。
◇
その夜。
リオは自室で木箱を開けていた。
黒い外套。
防毒仮面。
眠り銃。
粘糸弾。
黒膜弾。
鳴響弾。
そして新たに、細い金属針の束。
眠り弾が効きづらい相手への予備案だ。
もちろん毒針ではない。
先端に塗ってあるのは、強い痺れを起こす薬草由来の成分を薄めたもの。
効果は短い。
命にも関わらない。
ただし、使いどころを間違えると普通に危ない。
「まだ試作品だな」
リオは針束を戻した。
今夜の目的は夜鴉商会の調査だ。
昨夜回収した巡回路の紙。
そこに記されていた衛兵の動き。
抜けがある時間帯。
その抜けに合わせて荷が動くなら、何か見えるかもしれない。
右手を前に出す。
胸の奥の輪郭を、もう一つ外へ押し出す。
空気が揺れた。
もう一人のリオが、部屋に立つ。
「今夜は東の倉庫街から南へ」
本体が言う。
「西区画じゃないのか?」
複製体が聞く。
「西は衛兵が警戒を強めてる。夜鴉が動くなら、逆側の可能性が高い」
「昨日の今日で動くかな」
「動かないなら、それでいい。ただし、黒蝶対策は出回り始めてる」
「口布、催涙玉、閃光石か」
「それに護符。眠り粉を弾く粗悪品くらいなら、裏でも買える」
「眠り銃だけで押し切るな、ってことだな」
「そう。今夜は調査優先。戦闘は避ける」
「いつもの三原則は?」
「死なない。捕まらない。装備を落とさない」
「了解」
複製体は外套を羽織り、仮面をつける。
黒蝶になる。
リオは窓を開けた。
夜風が入ってくる。
黒蝶は窓枠に足をかけ、外へ出た。
本体のリオは窓を閉める。
鍵をかける。
そして、机に向かった。
いつも通りだ。
黒蝶が夜へ出ている間、本体はここにいる。
報告書を作る。
資料を整理する。
万一誰かが来たときのために、ギルド職員の顔を保つ。
それが一番安全で、一番怪しまれない。
夜に飛ぶ蝶は、一羽だけでいい。
◇
東の倉庫街は、昼間は商人と荷馬車で溢れている。
だが夜になれば、積み上げられた木箱と閉ざされた扉が、長い影を落とすだけの場所になる。
黒蝶は屋根の上から、倉庫街を見下ろしていた。
風を読む。
人の気配は少ない。
だが、ないわけではない。
倉庫の裏手。
荷車の陰。
暗い水路沿い。
何人かが、息を潜めている。
黒蝶は低く移動した。
声が聞こえる。
「おい、本当に来るのかよ」
「来る。あの商会の使いが言ってた」
「でもよ、黒蝶が出るかもしれねえんだろ」
「だからこそだ。黒蝶が出たら、装備を奪えば金になる」
「馬鹿言え、昨日の連中もやられたんだぞ」
「眠り粉だろ? 口を塞げばいい。あと、これだ」
男が何かを掲げた。
小さな銀色の札。
魔力除けの護符か。
粗悪品だが、粉や煙を弾く簡易結界を作るものだ。
黒蝶は眉をひそめた。
対策が早い。
夜鴉商会は黒蝶の装備を欲しがっている。
そのために、使い捨ての悪党へ対策道具を渡している。
つまり、昨夜の取引は潰せたが、相手の動きは止まっていない。
「で、荷は?」
「水路沿いの小屋だ。中身は知らねえ。見るなって言われた」
「見るなって言われると見たくなるよな」
「やめとけ。夜鴉は冗談が通じねえ」
黒蝶は音もなく屋根から降りた。
今すぐ制圧してもいい。
だが、荷の場所が分かった以上、先に中身を確認したい。
黒蝶は水路沿いへ向かった。
倉庫街の外れに、小さな作業小屋がある。
鍵はかかっている。
だが、鍵穴の周囲に魔力の気配はない。
普通の錠前だ。
黒蝶は工具を取り出し、短く息を止めた。
数秒で鍵が開く。
前世で身につけた技術ではない。
ギルドの倉庫管理で嫌というほど覚えた技術である。
冒険者ギルドの鍵は、なぜかよく壊れる。
そして、なぜかリオが直す羽目になる。
人生、何が役に立つか分からない。
小屋の中は暗かった。
黒蝶は小さな魔石灯を点ける。
中には木箱が三つ。
一つ目には催涙玉。
二つ目には簡易護符。
三つ目は、錠前が重い。
黒蝶は慎重に開けた。
中にあったのは、腕輪だった。
黒い金属でできた、無骨な腕輪。
内側に細かい刻印がある。
魔道具だ。
「これは……」
黒蝶は眉を寄せた。
腕輪から、嫌な魔素の臭いがする。
魔物の素材を無理やり練り込んだような、濁った気配。
装着者の魔力を増幅する類か。
あるいは、感覚を鈍らせるものか。
どちらにせよ、まともな品ではない。
そのとき。
外で声が上がった。
「いたぞ!」
黒蝶は振り返る。
扉の外から、複数の足音。
待ち伏せか。
いや、違う。
こちらが荷を調べることを読んでいたのか。
黒蝶は木箱を閉め、魔石灯を消した。
扉が蹴破られる。
入ってきたのは三人。
口元には布。
手には短剣。
腰には催涙玉。
その後ろに、見覚えのある赤茶けた髪の男がいた。
ガロだった。
黒蝶は仮面の奥で、ほんのわずかに息を止めた。
よりによって、こいつか。
昼間、ギルドで揉めていた銅級冒険者。
素行は悪い。
腕は大したことがない。
だが、受付主任のマーレが言っていた。
ガロは執念深い。
そして、固有スキルは“不屈”。
負けても、折れない男。
「よう」
ガロは歯を見せて笑った。
「会いたかったぜ、黒蝶」
黒蝶は無言で眠り銃に手を伸ばす。
ガロはすぐに片手を上げた。
「撃つか? いいぜ。でもな」
彼は口元の布を引き下げた。
首から、銀色の護符を下げている。
「これがあれば、粉は弾けるらしい」
「粗悪品だ。過信すると眠るぞ」
「へえ、喋るんだな」
ガロの目が細くなる。
「声は若い。男。背は俺より少し低い。動きは軽い。剣は使わねえ。殺しもしねえ」
黒蝶の指が止まった。
まずい。
思ったより、よく見ている。
ガロは続ける。
「昨日の奴らから聞いた。お前は眠らせる。絡め取る。目を潰す。音も使う。けど、殺さねえ。刃物を持ってても殺さねえ」
「それがどうした」
返した瞬間、黒蝶は内心で舌打ちした。
また声を聞かせた。
この男に、余計な情報を与えている。
「怖くねえってことだ」
ガロは笑った。
「殺さない奴は、最後の一線で踏み込めねえ。だったら、こっちは何回でも試せる」
黒蝶は、ようやく理解した。
この男は馬鹿ではない。
粗暴で、短絡的で、三流だ。
だが、観察している。
黒蝶の噂から、戦い方を拾っている。
昨日やられた者たちの証言から、弱点を組み立てている。
そして何より。
黒蝶が殺さないことを、安心材料にしている。
厄介だ。
「俺の名前を知ってるか?」
ガロが言った。
黒蝶は、わずかに沈黙した。
知っている。
昼間、ギルドで見た。
苦情記録も読んだ。
マーレからスキルの話も聞いた。
だが、それを黒蝶が口にする理由はない。
「知らないな」
「ガロだ。黒蝶を倒した男として覚えとけ」
「まだ倒していない」
「これからだ」
「では、終わってから聞く」
「……てめえ」
ガロは短剣を抜いた。
他の三人も動く。
狭い小屋の中。
眠り粉は使いにくい。
護符もある。
催涙玉を投げられれば、こちらの方が不利になる。
黒蝶は一歩下がった。
背後には木箱。
その中には、黒い腕輪。
持ち出したいが、今は無理だ。
ガロが踏み込んだ。
速くはない。
だが、躊躇がない。
黒蝶は横へ流れ、ガロの手首を打った。
短剣がわずかに逸れる。
次の瞬間、別の男が催涙玉を投げた。
黒蝶は黒膜弾を床に叩きつける。
黒い膜が広がり、催涙玉の煙を一部遮る。
だが完全ではない。
視界が狭い。
男たちの怒声。
足音。
短剣が空を切る音。
黒蝶は風を読む。
一人目の足を払う。
二人目の肘を弾く。
三人目の膝に粘糸弾を撃つ。
だが、ガロが来る。
黒膜の中から、笑い声がした。
「見えてねえだろ!」
ガロの短剣が外套を裂いた。
浅い。
皮膚までは届いていない。
黒蝶は後ろに下がる。
眠り銃を向ける。
パシュ。
粉が弾ける。
ガロはまともに吸った。
はずだった。
「……効くな、これ」
ガロの膝が揺れる。
だが、倒れない。
「でも、まだ動ける」
護符の効果か。
それとも単に吸い込みが浅かったのか。
ガロは笑ったまま突っ込んできた。
黒蝶は銃口を下げる。
足元へ粘糸弾。
白い糸がガロの足を絡める。
「うおっ!?」
ガロが転ぶ。
黒蝶は即座に近づき、首元へ眠り弾を押し当てるように撃った。
至近距離。
さすがに耐えきれない。
ガロの目が揺れた。
「くそ……」
倒れる直前、ガロは笑った。
「やっぱり、殺さねえんだな」
黒蝶は返事をしなかった。
これ以上、声を聞かせる必要はない。
ガロは床に倒れた。
残る男たちは、黒膜の外へ逃げようとしていた。
黒蝶は鳴響弾を投げる。
甲高い音が響き、男たちが耳を押さえる。
そこへ粘糸弾。
さらに眠り弾。
全員が倒れた。
小屋の中に静寂が戻る。
黒蝶は呼吸を整えた。
膝が痛い。
喉が焼ける。
外套が裂かれた。
また本体に請求が来る。
最悪だ。
だが、それよりも問題はガロだった。
黒蝶は眠っているガロを見下ろす。
不屈。
精神が折れないスキル。
眠り粉は効く。
身体には効く。
だが、敗北への恐怖が残らない。
痛い目を見ても、心が折れない。
つまり、この男はまた来る。
たぶん、何度でも。
黒蝶は木箱から黒い腕輪を一つだけ抜き取った。
残りは証拠として残す。
簡易通報符を起動し、壁に蝶の印を刻む。
衛兵が来るまで、時間は短い。
黒蝶は小屋を出た。
屋根へ上がる直前、背後から声がした。
「……黒、蝶……」
振り返る。
ガロが、薄く目を開けていた。
まだ眠りきっていない。
驚くべきしぶとさだった。
「次は……勝つ」
黒蝶は答えなかった。
「へっ……だんまりかよ」
ガロは笑った。
「お前、強いな。魔法が強いわけでも、剣が強いわけでもねえのに」
黒蝶は黙った。
「道具か。準備か。読みか。そういうのでも、強くなれるんだな」
その言葉に、黒蝶はわずかに目を細めた。
ガロは、完全に眠りへ落ちる直前、低く呟いた。
「覚えたぞ。声も、やり方も」
今度こそ、ガロの意識は落ちた。
黒蝶はしばらくその場に立っていた。
嫌な予感がした。
ガロは三流だ。
弱い。
卑怯。
小物。
どうしようもない悪党。
だが、バカではない。
しかも、折れない。
黒蝶は屋根へ跳んだ。
夜風が外套の裂け目を揺らす。
懐には、黒い腕輪。
背後には、眠る悪党たち。
そして、また一人。
面倒な相手が増えた。
◇
本体のリオは、自室で待っていた。
机の上には、ギルドの帳簿。
横には、夜鴉商会の資料。
窓が小さく鳴る。
リオは開けた。
黒蝶が戻ってくる。
外套が裂けていた。
本体のリオは、頭を抱えた。
「装備を落とさない、とは言ったけど」
黒蝶は仮面を外した。
「裂かれた場合の規定はなかった」
「屁理屈が自分と同じで腹が立つ」
「自分だからな」
黒蝶は机に黒い腕輪を置いた。
嫌な魔素の気配が、部屋に広がる。
本体のリオは顔をしかめた。
「何これ」
「夜鴉の荷。たぶん違法魔道具。魔力増幅か、感覚鈍化か、そのあたり」
「持って帰ってきたの?」
「一つだけ。残りは衛兵に渡る」
「触った?」
「手袋越しに」
「あとで洗浄」
「分かってる」
本体は腕輪を布で包み、木箱の奥にしまった。
「それで、外套は?」
「ガロに裂かれた」
リオの動きが止まる。
「ガロ?」
「いた。黒蝶狙いで待ち伏せしてた」
「……よりによって、あの人か」
「昼間に揉めた奴だろ」
「そう。銅級冒険者。素行不良。固有スキルは不屈」
「聞いていた通り、かなり面倒だった」
「眠り粉は?」
「効く。ただし、護符と口布で少し遅れた。あと、意識が落ちる寸前まで喋ってた」
「何を?」
黒蝶は少しだけ黙った。
「強力な魔法や剣がなくても、道具と準備と読みで強くなれるんだな、と」
本体のリオは、嫌そうな顔をした。
「学習してる」
「学習してる」
「最悪だ」
「かなり」
二人は同じ顔で、同じようにため息をついた。
リオは机の端にある資料束から、ガロの苦情記録を引き寄せた。
銅級冒険者、ガロ。
素行不良。
酒場での喧嘩。
依頼主との報酬トラブル。
横流し未遂。
登録停止処分の一歩手前。
昼に読んだときは、よくいる問題冒険者だと思っていた。
だが今は違う。
黒蝶の戦い方を見て、学習し始めている。
しかも、自分が殺されないと踏んでいる。
「また来るな」
本体が言った。
「来る」
黒蝶は即答した。
「しかも次は、もっと準備してくる」
「不屈って、精神が折れないだけじゃなくて、反省もしにくいのかな」
「それはスキルじゃなくて性格だと思う」
「嫌な組み合わせだな」
本体は水差しを差し出す。
黒蝶が水を飲む。
「それと、もう一つ」
「まだあるの?」
「声を聞かれた」
本体のリオは沈黙した。
「若い男。背はガロより少し低い。動きが軽い。剣を使わない。殺さない。そう言われた」
「……かなり拾われてる」
「喋りすぎた」
「いや、最初に喋った時点で情報だった」
「次からは?」
「原則、喋らない」
本体のリオは、机の上の鳴響弾を見た。
音で相手の注意を逸らし、平衡感覚を乱すための道具。
あれの仕組みを、仮面に応用できないだろうか。
声の高さをずらす。
響きを濁らせる。
少なくとも、若い男と即断されない程度に。
「仮面を改造する」
「自作で?」
「応急処置はする。ちゃんとしたものは……ミラに相談するしかない」
「正体は?」
「まだ言わない。防毒仮面の改良という名目でいく」
「無理がある」
「分かってる」
二人はまた同じ顔でため息をついた。
「統合する?」
本体が言った。
「する。喉と膝と、外套裂かれたときに肩を少し捻った」
「嫌な情報を足すな」
「共有前に言っておいた方が親切かと」
「自分への親切が雑」
二人は向かい合った。
指先が触れる。
黒蝶の輪郭が揺らぎ、消える。
次の瞬間、痛みと疲労と記憶が本体へ流れ込んだ。
「――っ、ああ……!」
リオは椅子に崩れ落ちた。
喉の痛み。
膝の鈍痛。
肩の違和感。
黒膜の中の戦闘。
ガロの笑み。
殺さないんだな、という声。
覚えたぞ、という呟き。
そして。
声は若い。男。
その一言が、妙に耳に残った。
リオは額を押さえた。
「……嫌な相手に目をつけられた」
黒蝶としてではない。
リオとしてでもない。
戦い方そのものに、だ。
強い魔法がなくても、強者になれる。
その考えを、ガロが学び始めている。
それは危険だった。
三流の悪党が、少し賢くなる。
それだけで、救えない誰かが出るかもしれない。
リオは机の上のガロの記録を見た。
素行不良。
喧嘩。
横流し未遂。
報酬トラブル。
登録停止寸前。
だが、殺人歴はない。
最悪ではない。
けれど、放っておけば悪くなる。
「……面倒だな、本当に」
リオは椅子の背にもたれた。
そのとき、扉が叩かれた。
コン、コン。
リオは跳ね起きた。
「リオ。まだ起きてるか」
ギルドマスター、オルドの声。
このタイミングは心臓に悪すぎる。
「は、はい」
リオは慌てて外套を木箱に押し込み、鍵を開けた。
オルドは部屋の前に立っていた。
片手に小さな包みを持っている。
「夜食だ」
「え?」
「マーレが、お前はどうせ寝てないだろうと言っていた」
「信用がない」
「実績がある」
オルドは包みを渡した。
中には、硬めのパンと干し肉、薬草茶の包み。
「ありがとうございます」
「あと、東の倉庫街でまた騒ぎがあった」
リオの心臓が、また嫌な音を立てた。
「……黒蝶ですか?」
「らしい」
「最近、本当によく出ますね」
「そうだな」
オルドはリオを見た。
その視線が、部屋の奥へ一瞬流れる。
木箱。
リオは笑顔を保つ。
喉が痛い。
肩も痛い。
だが、表に出さない。
「リオ」
「はい」
「お前、何か困っていることはないか」
予想外の問いだった。
リオは返事に詰まった。
オルドは続ける。
「仕事でも、仕事以外でもいい」
「……急にどうしたんですか」
「育ての親らしいことをしてみようと思ってな」
「それ、自分で言うと台無しですよ」
「そうか」
オルドは少し笑った。
だが、やはり目は笑っていない。
「何かあるなら、言え。全部でなくていい。一部でもいい」
リオは、ほんの一瞬だけ迷った。
複製のこと。
黒蝶のこと。
夜鴉商会のこと。
ガロのこと。
言えないことばかりだった。
だから、言えることだけを選んだ。
「夜鴉商会について、少し調べています」
「理由は?」
「失踪者の資料に、関係している可能性がありそうなので」
「黒蝶絡みか?」
「……衛兵から照会が来たので、ギルドとしても無視できません」
嘘ではない。
全部ではないだけだ。
オルドはしばらく黙っていた。
「夜鴉には深入りするな」
「危険ですか」
「危険だ。あそこはただの小悪党の集まりじゃない」
「何か知っているんですか?」
「確証はない。だからまだ言えん」
リオは眉をひそめた。
ギルドマスターも、何か掴んでいる。
だが、それを今は明かせない。
黒蝶と同じだ。
皆、言えないものを抱えている。
「分かりました。無理はしません」
「お前の“努力します”と“無理はしません”は信用ならん」
「ひどい」
「実績がある」
二度目だ。
リオは苦笑した。
オルドは踵を返す。
去り際に、一言だけ残した。
「ガロにも気をつけろ」
リオは息を止めた。
「……なぜガロの名前が?」
「東の倉庫街で捕まった連中の中にいたらしい。衛兵から先に連絡が来た」
「そう、ですか」
「あいつは弱いが、しぶとい。負けた相手に執着する」
「でしょうね」
「知っているような言い方だな」
オルドが振り返る。
リオは笑った。
「今日、受付で絡まれましたから」
「そうだったな」
オルドはそれ以上聞かなかった。
「早く寝ろ」
「努力します」
「だからそれは寝ない奴の返事だ」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
リオは鍵をかけ、その場でずるずると座り込んだ。
「……危ない」
いろいろな意味で。
オルドは気づいている。
少なくとも、リオが何かを隠していることには。
そして夜鴉商会について、リオより多く知っている可能性がある。
ガロは黒蝶の戦い方を学び始めた。
夜鴉商会は黒蝶の装備を狙っている。
そして黒蝶は、声を聞かれた。
問題が増える速度が、処理速度を上回っている。
「本当に、ギルドの人員不足どころじゃないな……」
リオは立ち上がり、机に戻った。
ガロの記録。
夜鴉商会の資料。
黒い腕輪。
黒蝶の仮面。
鳴響弾。
そして、白紙の活動記録。
リオはペンを取った。
『黒蝶活動記録。東倉庫街。夜鴉商会関係と思われる違法魔道具を確認。ガロと接触。黒蝶の非殺傷方針を認識されている。今後、対策必須』
そこまで書いて、手が止まる。
少し考えたあと、さらに書き加えた。
『声を聞かれた。年齢、性別、体格を推測されている。次回以降、発声は最小限。仮面への変声機構追加を検討』
最後に、もう一行。
『ガロは弱いが、馬鹿ではない』
その一文を見つめ、リオは小さく息を吐いた。
ルネリアの夜は、また少し深くなった。
そしてその闇の中で、黒蝶を見上げた三流悪党が一人。
次の悪知恵を、眠りの底で育て始めていた。




