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ギルド職員は小悪党に絡まれる

 黒蝶の噂は、広がるのが早かった。


 昨日までは、裏通りの酒場で酔っ払いが語る怪談だった。


 それが今朝になると、冒険者ギルドの食堂で、商業区の屋台で、衛兵詰所の前で、当たり前のように囁かれている。


 曰く、黒蝶は夜の悪党だけを狙う。


 曰く、黒蝶は人を殺さない。


 曰く、黒蝶に襲われた者は、黒い蝶を見たあと眠ってしまう。


 曰く、黒蝶は二階建ての屋根から屋根へ跳ぶ。


 曰く、黒蝶は魔王の密偵である。


 最後の一つは、どう考えても話が飛びすぎていた。


「魔王の密偵が、裏通りのチンピラを眠らせて衛兵に引き渡すんですか」


 リオは報告書の山に埋もれながら、ため息をついた。


 冒険者ギルド・ルネリア支部。


 今日も一階は朝から騒がしい。


 討伐依頼を受ける者。

 採取物の買い取りを待つ者。

 朝から酒を飲んで受付主任のマーレに怒られる者。

 そして、黒蝶の噂だけ聞きに来た野次馬。


 リオの机には、衛兵から届いた追加資料が重ねられていた。


「噂なんてそんなもんだ。尾ひれがつく」


 マーレがカウンター越しに言った。


「なら、せめてかっこいい尾ひれにしてほしいですね」


「魔王の密偵は十分かっこいいだろう」


「嫌ですよ。そんな大物感出されたら、こっちの処理が重くなります」


「こっち?」


「ギルド側です」


 危ない。


 リオは平然と訂正した。


 昨夜、黒蝶として――正確には、複製体の黒蝶として――西区画の違法魔道具取引を潰した。


 催涙玉、閃光石、煙玉。

 そして、衛兵の巡回路が記された紙。


 その右下には、黒い鳥のような印があった。


 夜鴉商会。


 表向きは運送と金融を扱う小さな商会。

 裏では冒険者崩れや借金持ちに仕事を流していると噂されている。


 噂は噂。


 証拠にはならない。


 だからリオは今、ギルド職員として過去資料を漁っている。


 自分が夜に拾ってきた証拠を、昼の自分が合法的に調べる。


 便利なのか、面倒なのか、もはやよく分からない。


「リオ、顔色悪いぞ」


 マーレが目を細めた。


「寝不足です」


「だろうな。昨日も遅くまで部屋にいたんだろう」


「帳簿が終わらなくて」


「お前が倒れたら本当に困るんだが」


「その心配、ギルドマスターと同じ方向ですね」


「人としても心配している」


「ついでに?」


「七割くらい」


「残り三割が業務ですか」


「いや、逆だ」


「正直すぎません?」


 リオは苦笑しながら、資料をめくった。


 商業登録簿。

 荷馬車の出入り記録。

 ギルドとの取引履歴。

 借金を抱えた冒険者の相談記録。

 失踪者一覧。


 夜鴉商会の名前は、表にはほとんど出てこない。


 だが、その周辺に名前がある。


 夜鴉商会から荷運びの仕事を受けていた冒険者。

 その後、ギルドに顔を出さなくなった者。

 借金を抱えていた者。

 突然、装備だけが質に流された者。


「……嫌な並びだな」


 リオは小さく呟いた。


「何か分かったか?」


「まだ噂の範囲です。ただ、夜鴉商会と関わったあと、活動記録が途切れている冒険者が何人かいます」


「失踪か?」


「断定はできません。遠征に出たまま戻らない人もいますし、町を離れただけかもしれません」


「だが、気になる」


「はい」


 マーレの顔から軽さが消えた。


 冒険者の失踪は珍しいことではない。


 魔物に襲われる。

 ダンジョンで迷う。

 依頼先で事故に遭う。

 借金から逃げる。

 犯罪に手を染めて姿を消す。


 理由はいくらでもある。


 だからこそ、見落とされる。


 誰かが意図的に冒険者を消していたとしても、表向きはただの未帰還で処理されてしまう。


「リオ、その資料はギルマスにも回せ」


「分かりました」


「あと、黒蝶関連とは分けろ。混ぜると面倒になる」


「もう十分面倒です」


「諦めろ」


 マーレはそう言って、次の依頼者の対応に戻った。


 リオは資料をまとめる。


 そのとき、ギルドの入口が乱暴に開いた。


 がらん、と鐘が鳴る。


 入ってきたのは、三人組の男だった。


 装備は安物。

 剣も鎧も手入れが悪い。

 ただし、態度だけは妙に大きい。


 先頭の男は赤茶けた髪を逆立て、口元に薄い笑みを浮かべていた。


 年は二十歳前後。

 冒険者としては若い。

 けれど新人らしい初々しさはない。


 その目には、弱い相手を探す獣のような嫌な光があった。


「おい、依頼を寄越せ」


 男はカウンターに肘を叩きつけた。


 マーレの眉が動く。


「依頼票は掲示板から選んでください。受注手続きはこちらで――」


「面倒くせえ。稼げるやつを出せって言ってんだよ」


「等級に応じた依頼しか紹介できません」


「ああ?」


 男が舌打ちする。


 周囲の冒険者がちらりと視線を向けるが、関わりたくないのか、すぐに目を逸らした。


 リオは資料から顔を上げた。


 男の名前には覚えがある。


 ガロ。


 銅級冒険者。

 素行不良。

 酒場での喧嘩、依頼品の横流し未遂、報酬トラブル多数。


 強くはない。


 けれど、しつこい。


 マーレが冷静に告げる。


「ガロさん。あなたは先週、護衛依頼で雇い主と揉めています。現在、危険度の高い依頼は紹介できません」


「揉めてねえよ。あの商人が俺を舐めたんだ」


「雇い主の荷を勝手に開けようとしたと報告が来ています」


「中身を確認しただけだ」


「依頼内容に含まれていません」


「融通が利かねえな、このギルドは」


 ガロは唾を吐き捨てるように言った。


 リオは立ち上がった。


「ガロさん」


「あ?」


「今紹介できる依頼なら、こちらにあります。西門外の排水路付近に出た魔鼠の駆除です。報酬は高くありませんが、討伐数に応じて追加があります」


「鼠退治だあ?」


 ガロはリオを見下ろした。


「俺にそんな雑用をやれってのか?」


「銅級依頼ですので、適正です」


「お前、ギルドの小間使いだろ。偉そうに」


「小間使いではなく、見習い職員です」


「同じだろ」


「給金が出る分、少し違います」


 周囲で何人かが小さく笑った。


 ガロのこめかみが引きつる。


「口が減らねえガキだな」


「必要事項をお伝えしているだけです」


「俺が本気で殴ったら、どうなるか分かってんのか」


 空気が少し重くなった。


 マーレがすぐに動こうとしたが、リオは片手で制した。


 ここで騒ぎを大きくすると、ガロは余計に引けなくなる。


 面倒な男だ。


 弱いが、面子にはうるさい。


 そして、自分より弱いと見た相手には強く出る。


「ギルド内で職員に暴力を振るった場合、登録停止処分の対象になります」


「処分、処分ってうるせえな」


「あと、僕を殴っても依頼の等級は上がりません」


 ガロはしばらくリオを睨んでいた。


 やがて、鼻で笑う。


「……気に食わねえ」


「それはよく言われます」


「お前みたいな、何もできねえくせに安全な場所で紙だけ触ってる奴が、一番むかつくんだよ」


 リオは返事をしなかった。


 安全な場所。


 確かに、本体の自分は夜もギルドの自室にいる。


 だが、膝にはまだ昨夜の痛みが残っている。

 喉にも催涙玉の刺激が残っている。


 安全かどうかは、少し判断に困る。


 ガロは依頼票を乱暴に奪い取った。


「魔鼠だろ。やってやるよ。だが、追加報酬をごまかしたら承知しねえからな」


「討伐証明部位の数で計算します」


「ちっ」


 ガロたちは乱暴にギルドを出ていった。


 扉の鐘が、またがらんと鳴る。


 マーレがため息をついた。


「すまないな、リオ」


「いえ。あの手の人は、受付で揉めるより依頼に出てもらった方が早いので」


「だが、気をつけろ。ガロは執念深い」


「でしょうね」


「軽く見るなよ。強くはないが、諦めが悪い。あいつの固有スキルは“不屈”だ」


 リオは動きを止めた。


「不屈?」


「精神的な衝撃に強いらしい。恐怖、屈辱、絶望。そういうものに折れにくい。何度痛い目を見ても懲りない」


「……厄介ですね」


「戦闘向きの強いスキルではない。だが、人としてはかなり面倒だ」


 それは、リオにも分かる。


 人は普通、痛い目を見ると避ける。


 負ければ恐れる。

 恥をかけば距離を取る。

 危険を知れば引き返す。


 だが、それが効かない相手は厄介だ。


 弱くても、何度でも来る。


 弱いからこそ、卑怯な手を使う。


 そして、懲りない。


「黒蝶に捕まった連中にも、ああいうのがいるかもしれませんね」


 リオは何気なく言った。


 マーレは頷く。


「いるだろうな。黒蝶が殺さないと分かれば、調子に乗る馬鹿も出る」


「殺さないことが弱点になる、ですか」


「弱点というより、相手にとっての計算材料だ」


 その言葉は、リオの中に残った。


 殺さないこと。


 それはリオが自分で決めた線だ。


 けれど、相手がそこを見てくるのなら。


 その線を守るための準備も必要になる。


     ◇


 その夜。


 リオは自室で木箱を開けていた。


 黒い外套。

 防毒仮面。

 眠り銃。

 粘糸弾。

 黒膜弾。

 鳴響弾。


 そして新たに、細い金属針の束。


 眠り弾が効きづらい相手への予備案だ。


 もちろん毒針ではない。

 先端に塗ってあるのは、強い痺れを起こす薬草由来の成分を薄めたもの。

 効果は短い。

 命にも関わらない。


 ただし、使いどころを間違えると普通に危ない。


「まだ試作品だな」


 リオは針束を戻した。


 今夜の目的は夜鴉商会の調査だ。


 昨夜回収した巡回路の紙。

 そこに記されていた衛兵の動き。

 抜けがある時間帯。


 その抜けに合わせて荷が動くなら、何か見えるかもしれない。


 右手を前に出す。


 胸の奥の輪郭を、もう一つ外へ押し出す。


 空気が揺れた。


 もう一人のリオが、部屋に立つ。


「今夜は東の倉庫街から南へ」


 本体が言う。


「西区画じゃないのか?」


 複製体が聞く。


「西は衛兵が警戒を強めてる。夜鴉が動くなら、逆側の可能性が高い」


「昨日の今日で動くかな」


「動かないなら、それでいい。ただし、黒蝶対策は出回り始めてる」


「口布、催涙玉、閃光石か」


「それに護符。眠り粉を弾く粗悪品くらいなら、裏でも買える」


「眠り銃だけで押し切るな、ってことだな」


「そう。今夜は調査優先。戦闘は避ける」


「いつもの三原則は?」


「死なない。捕まらない。装備を落とさない」


「了解」


 複製体は外套を羽織り、仮面をつける。


 黒蝶になる。


 リオは窓を開けた。


 夜風が入ってくる。


 黒蝶は窓枠に足をかけ、外へ出た。


 本体のリオは窓を閉める。


 鍵をかける。


 そして、机に向かった。


 いつも通りだ。


 黒蝶が夜へ出ている間、本体はここにいる。


 報告書を作る。

 資料を整理する。

 万一誰かが来たときのために、ギルド職員の顔を保つ。


 それが一番安全で、一番怪しまれない。


 夜に飛ぶ蝶は、一羽だけでいい。


     ◇


 東の倉庫街は、昼間は商人と荷馬車で溢れている。


 だが夜になれば、積み上げられた木箱と閉ざされた扉が、長い影を落とすだけの場所になる。


 黒蝶は屋根の上から、倉庫街を見下ろしていた。


 風を読む。


 人の気配は少ない。

 だが、ないわけではない。


 倉庫の裏手。

 荷車の陰。

 暗い水路沿い。


 何人かが、息を潜めている。


 黒蝶は低く移動した。


 声が聞こえる。


「おい、本当に来るのかよ」


「来る。あの商会の使いが言ってた」


「でもよ、黒蝶が出るかもしれねえんだろ」


「だからこそだ。黒蝶が出たら、装備を奪えば金になる」


「馬鹿言え、昨日の連中もやられたんだぞ」


「眠り粉だろ? 口を塞げばいい。あと、これだ」


 男が何かを掲げた。


 小さな銀色の札。


 魔力除けの護符か。


 粗悪品だが、粉や煙を弾く簡易結界を作るものだ。


 黒蝶は眉をひそめた。


 対策が早い。


 夜鴉商会は黒蝶の装備を欲しがっている。

 そのために、使い捨ての悪党へ対策道具を渡している。


 つまり、昨夜の取引は潰せたが、相手の動きは止まっていない。


「で、荷は?」


「水路沿いの小屋だ。中身は知らねえ。見るなって言われた」


「見るなって言われると見たくなるよな」


「やめとけ。夜鴉は冗談が通じねえ」


 黒蝶は音もなく屋根から降りた。


 今すぐ制圧してもいい。


 だが、荷の場所が分かった以上、先に中身を確認したい。


 黒蝶は水路沿いへ向かった。


 倉庫街の外れに、小さな作業小屋がある。


 鍵はかかっている。


 だが、鍵穴の周囲に魔力の気配はない。

 普通の錠前だ。


 黒蝶は工具を取り出し、短く息を止めた。


 数秒で鍵が開く。


 前世で身につけた技術ではない。

 ギルドの倉庫管理で嫌というほど覚えた技術である。


 冒険者ギルドの鍵は、なぜかよく壊れる。

 そして、なぜかリオが直す羽目になる。


 人生、何が役に立つか分からない。


 小屋の中は暗かった。


 黒蝶は小さな魔石灯を点ける。


 中には木箱が三つ。


 一つ目には催涙玉。

 二つ目には簡易護符。

 三つ目は、錠前が重い。


 黒蝶は慎重に開けた。


 中にあったのは、腕輪だった。


 黒い金属でできた、無骨な腕輪。


 内側に細かい刻印がある。

 魔道具だ。


「これは……」


 黒蝶は眉を寄せた。


 腕輪から、嫌な魔素の臭いがする。


 魔物の素材を無理やり練り込んだような、濁った気配。


 装着者の魔力を増幅する類か。

 あるいは、感覚を鈍らせるものか。


 どちらにせよ、まともな品ではない。


 そのとき。


 外で声が上がった。


「いたぞ!」


 黒蝶は振り返る。


 扉の外から、複数の足音。


 待ち伏せか。


 いや、違う。


 こちらが荷を調べることを読んでいたのか。


 黒蝶は木箱を閉め、魔石灯を消した。


 扉が蹴破られる。


 入ってきたのは三人。


 口元には布。

 手には短剣。

 腰には催涙玉。


 その後ろに、見覚えのある赤茶けた髪の男がいた。


 ガロだった。


 黒蝶は仮面の奥で、ほんのわずかに息を止めた。


 よりによって、こいつか。


 昼間、ギルドで揉めていた銅級冒険者。

 素行は悪い。

 腕は大したことがない。


 だが、受付主任のマーレが言っていた。


 ガロは執念深い。

 そして、固有スキルは“不屈”。


 負けても、折れない男。


「よう」


 ガロは歯を見せて笑った。


「会いたかったぜ、黒蝶」


 黒蝶は無言で眠り銃に手を伸ばす。


 ガロはすぐに片手を上げた。


「撃つか? いいぜ。でもな」


 彼は口元の布を引き下げた。


 首から、銀色の護符を下げている。


「これがあれば、粉は弾けるらしい」


「粗悪品だ。過信すると眠るぞ」


「へえ、喋るんだな」


 ガロの目が細くなる。


「声は若い。男。背は俺より少し低い。動きは軽い。剣は使わねえ。殺しもしねえ」


 黒蝶の指が止まった。


 まずい。


 思ったより、よく見ている。


 ガロは続ける。


「昨日の奴らから聞いた。お前は眠らせる。絡め取る。目を潰す。音も使う。けど、殺さねえ。刃物を持ってても殺さねえ」


「それがどうした」


 返した瞬間、黒蝶は内心で舌打ちした。


 また声を聞かせた。


 この男に、余計な情報を与えている。


「怖くねえってことだ」


 ガロは笑った。


「殺さない奴は、最後の一線で踏み込めねえ。だったら、こっちは何回でも試せる」


 黒蝶は、ようやく理解した。


 この男は馬鹿ではない。


 粗暴で、短絡的で、三流だ。

 だが、観察している。


 黒蝶の噂から、戦い方を拾っている。

 昨日やられた者たちの証言から、弱点を組み立てている。


 そして何より。


 黒蝶が殺さないことを、安心材料にしている。


 厄介だ。


「俺の名前を知ってるか?」


 ガロが言った。


 黒蝶は、わずかに沈黙した。


 知っている。


 昼間、ギルドで見た。

 苦情記録も読んだ。

 マーレからスキルの話も聞いた。


 だが、それを黒蝶が口にする理由はない。


「知らないな」


「ガロだ。黒蝶を倒した男として覚えとけ」


「まだ倒していない」


「これからだ」


「では、終わってから聞く」


「……てめえ」


 ガロは短剣を抜いた。


 他の三人も動く。


 狭い小屋の中。


 眠り粉は使いにくい。

 護符もある。

 催涙玉を投げられれば、こちらの方が不利になる。


 黒蝶は一歩下がった。


 背後には木箱。


 その中には、黒い腕輪。


 持ち出したいが、今は無理だ。


 ガロが踏み込んだ。


 速くはない。


 だが、躊躇がない。


 黒蝶は横へ流れ、ガロの手首を打った。


 短剣がわずかに逸れる。


 次の瞬間、別の男が催涙玉を投げた。


 黒蝶は黒膜弾を床に叩きつける。


 黒い膜が広がり、催涙玉の煙を一部遮る。


 だが完全ではない。


 視界が狭い。


 男たちの怒声。

 足音。

 短剣が空を切る音。


 黒蝶は風を読む。


 一人目の足を払う。

 二人目の肘を弾く。

 三人目の膝に粘糸弾を撃つ。


 だが、ガロが来る。


 黒膜の中から、笑い声がした。


「見えてねえだろ!」


 ガロの短剣が外套を裂いた。


 浅い。


 皮膚までは届いていない。


 黒蝶は後ろに下がる。


 眠り銃を向ける。


 パシュ。


 粉が弾ける。


 ガロはまともに吸った。


 はずだった。


「……効くな、これ」


 ガロの膝が揺れる。


 だが、倒れない。


「でも、まだ動ける」


 護符の効果か。

 それとも単に吸い込みが浅かったのか。


 ガロは笑ったまま突っ込んできた。


 黒蝶は銃口を下げる。


 足元へ粘糸弾。


 白い糸がガロの足を絡める。


「うおっ!?」


 ガロが転ぶ。


 黒蝶は即座に近づき、首元へ眠り弾を押し当てるように撃った。


 至近距離。


 さすがに耐えきれない。


 ガロの目が揺れた。


「くそ……」


 倒れる直前、ガロは笑った。


「やっぱり、殺さねえんだな」


 黒蝶は返事をしなかった。


 これ以上、声を聞かせる必要はない。


 ガロは床に倒れた。


 残る男たちは、黒膜の外へ逃げようとしていた。


 黒蝶は鳴響弾を投げる。


 甲高い音が響き、男たちが耳を押さえる。


 そこへ粘糸弾。

 さらに眠り弾。


 全員が倒れた。


 小屋の中に静寂が戻る。


 黒蝶は呼吸を整えた。


 膝が痛い。

 喉が焼ける。

 外套が裂かれた。


 また本体に請求が来る。


 最悪だ。


 だが、それよりも問題はガロだった。


 黒蝶は眠っているガロを見下ろす。


 不屈。


 精神が折れないスキル。


 眠り粉は効く。

 身体には効く。


 だが、敗北への恐怖が残らない。


 痛い目を見ても、心が折れない。


 つまり、この男はまた来る。


 たぶん、何度でも。


 黒蝶は木箱から黒い腕輪を一つだけ抜き取った。


 残りは証拠として残す。


 簡易通報符を起動し、壁に蝶の印を刻む。


 衛兵が来るまで、時間は短い。


 黒蝶は小屋を出た。


 屋根へ上がる直前、背後から声がした。


「……黒、蝶……」


 振り返る。


 ガロが、薄く目を開けていた。


 まだ眠りきっていない。


 驚くべきしぶとさだった。


「次は……勝つ」


 黒蝶は答えなかった。


「へっ……だんまりかよ」


 ガロは笑った。


「お前、強いな。魔法が強いわけでも、剣が強いわけでもねえのに」


 黒蝶は黙った。


「道具か。準備か。読みか。そういうのでも、強くなれるんだな」


 その言葉に、黒蝶はわずかに目を細めた。


 ガロは、完全に眠りへ落ちる直前、低く呟いた。


「覚えたぞ。声も、やり方も」


 今度こそ、ガロの意識は落ちた。


 黒蝶はしばらくその場に立っていた。


 嫌な予感がした。


 ガロは三流だ。


 弱い。

 卑怯。

 小物。

 どうしようもない悪党。


 だが、バカではない。


 しかも、折れない。


 黒蝶は屋根へ跳んだ。


 夜風が外套の裂け目を揺らす。


 懐には、黒い腕輪。


 背後には、眠る悪党たち。


 そして、また一人。


 面倒な相手が増えた。


     ◇


 本体のリオは、自室で待っていた。


 机の上には、ギルドの帳簿。

 横には、夜鴉商会の資料。


 窓が小さく鳴る。


 リオは開けた。


 黒蝶が戻ってくる。


 外套が裂けていた。


 本体のリオは、頭を抱えた。


「装備を落とさない、とは言ったけど」


 黒蝶は仮面を外した。


「裂かれた場合の規定はなかった」


「屁理屈が自分と同じで腹が立つ」


「自分だからな」


 黒蝶は机に黒い腕輪を置いた。


 嫌な魔素の気配が、部屋に広がる。


 本体のリオは顔をしかめた。


「何これ」


「夜鴉の荷。たぶん違法魔道具。魔力増幅か、感覚鈍化か、そのあたり」


「持って帰ってきたの?」


「一つだけ。残りは衛兵に渡る」


「触った?」


「手袋越しに」


「あとで洗浄」


「分かってる」


 本体は腕輪を布で包み、木箱の奥にしまった。


「それで、外套は?」


「ガロに裂かれた」


 リオの動きが止まる。


「ガロ?」


「いた。黒蝶狙いで待ち伏せしてた」


「……よりによって、あの人か」


「昼間に揉めた奴だろ」


「そう。銅級冒険者。素行不良。固有スキルは不屈」


「聞いていた通り、かなり面倒だった」


「眠り粉は?」


「効く。ただし、護符と口布で少し遅れた。あと、意識が落ちる寸前まで喋ってた」


「何を?」


 黒蝶は少しだけ黙った。


「強力な魔法や剣がなくても、道具と準備と読みで強くなれるんだな、と」


 本体のリオは、嫌そうな顔をした。


「学習してる」


「学習してる」


「最悪だ」


「かなり」


 二人は同じ顔で、同じようにため息をついた。


 リオは机の端にある資料束から、ガロの苦情記録を引き寄せた。


 銅級冒険者、ガロ。

 素行不良。

 酒場での喧嘩。

 依頼主との報酬トラブル。

 横流し未遂。

 登録停止処分の一歩手前。


 昼に読んだときは、よくいる問題冒険者だと思っていた。


 だが今は違う。


 黒蝶の戦い方を見て、学習し始めている。


 しかも、自分が殺されないと踏んでいる。


「また来るな」


 本体が言った。


「来る」


 黒蝶は即答した。


「しかも次は、もっと準備してくる」


「不屈って、精神が折れないだけじゃなくて、反省もしにくいのかな」


「それはスキルじゃなくて性格だと思う」


「嫌な組み合わせだな」


 本体は水差しを差し出す。


 黒蝶が水を飲む。


「それと、もう一つ」


「まだあるの?」


「声を聞かれた」


 本体のリオは沈黙した。


「若い男。背はガロより少し低い。動きが軽い。剣を使わない。殺さない。そう言われた」


「……かなり拾われてる」


「喋りすぎた」


「いや、最初に喋った時点で情報だった」


「次からは?」


「原則、喋らない」


 本体のリオは、机の上の鳴響弾を見た。


 音で相手の注意を逸らし、平衡感覚を乱すための道具。


 あれの仕組みを、仮面に応用できないだろうか。


 声の高さをずらす。

 響きを濁らせる。

 少なくとも、若い男と即断されない程度に。


「仮面を改造する」


「自作で?」


「応急処置はする。ちゃんとしたものは……ミラに相談するしかない」


「正体は?」


「まだ言わない。防毒仮面の改良という名目でいく」


「無理がある」


「分かってる」


 二人はまた同じ顔でため息をついた。


「統合する?」


 本体が言った。


「する。喉と膝と、外套裂かれたときに肩を少し捻った」


「嫌な情報を足すな」


「共有前に言っておいた方が親切かと」


「自分への親切が雑」


 二人は向かい合った。


 指先が触れる。


 黒蝶の輪郭が揺らぎ、消える。


 次の瞬間、痛みと疲労と記憶が本体へ流れ込んだ。


「――っ、ああ……!」


 リオは椅子に崩れ落ちた。


 喉の痛み。

 膝の鈍痛。

 肩の違和感。

 黒膜の中の戦闘。

 ガロの笑み。

 殺さないんだな、という声。

 覚えたぞ、という呟き。


 そして。


 声は若い。男。


 その一言が、妙に耳に残った。


 リオは額を押さえた。


「……嫌な相手に目をつけられた」


 黒蝶としてではない。


 リオとしてでもない。


 戦い方そのものに、だ。


 強い魔法がなくても、強者になれる。


 その考えを、ガロが学び始めている。


 それは危険だった。


 三流の悪党が、少し賢くなる。


 それだけで、救えない誰かが出るかもしれない。


 リオは机の上のガロの記録を見た。


 素行不良。

 喧嘩。

 横流し未遂。

 報酬トラブル。

 登録停止寸前。


 だが、殺人歴はない。


 最悪ではない。


 けれど、放っておけば悪くなる。


「……面倒だな、本当に」


 リオは椅子の背にもたれた。


 そのとき、扉が叩かれた。


 コン、コン。


 リオは跳ね起きた。


「リオ。まだ起きてるか」


 ギルドマスター、オルドの声。


 このタイミングは心臓に悪すぎる。


「は、はい」


 リオは慌てて外套を木箱に押し込み、鍵を開けた。


 オルドは部屋の前に立っていた。


 片手に小さな包みを持っている。


「夜食だ」


「え?」


「マーレが、お前はどうせ寝てないだろうと言っていた」


「信用がない」


「実績がある」


 オルドは包みを渡した。


 中には、硬めのパンと干し肉、薬草茶の包み。


「ありがとうございます」


「あと、東の倉庫街でまた騒ぎがあった」


 リオの心臓が、また嫌な音を立てた。


「……黒蝶ですか?」


「らしい」


「最近、本当によく出ますね」


「そうだな」


 オルドはリオを見た。


 その視線が、部屋の奥へ一瞬流れる。


 木箱。


 リオは笑顔を保つ。


 喉が痛い。


 肩も痛い。


 だが、表に出さない。


「リオ」


「はい」


「お前、何か困っていることはないか」


 予想外の問いだった。


 リオは返事に詰まった。


 オルドは続ける。


「仕事でも、仕事以外でもいい」


「……急にどうしたんですか」


「育ての親らしいことをしてみようと思ってな」


「それ、自分で言うと台無しですよ」


「そうか」


 オルドは少し笑った。


 だが、やはり目は笑っていない。


「何かあるなら、言え。全部でなくていい。一部でもいい」


 リオは、ほんの一瞬だけ迷った。


 複製のこと。

 黒蝶のこと。

 夜鴉商会のこと。

 ガロのこと。


 言えないことばかりだった。


 だから、言えることだけを選んだ。


「夜鴉商会について、少し調べています」


「理由は?」


「失踪者の資料に、関係している可能性がありそうなので」


「黒蝶絡みか?」


「……衛兵から照会が来たので、ギルドとしても無視できません」


 嘘ではない。


 全部ではないだけだ。


 オルドはしばらく黙っていた。


「夜鴉には深入りするな」


「危険ですか」


「危険だ。あそこはただの小悪党の集まりじゃない」


「何か知っているんですか?」


「確証はない。だからまだ言えん」


 リオは眉をひそめた。


 ギルドマスターも、何か掴んでいる。


 だが、それを今は明かせない。


 黒蝶と同じだ。


 皆、言えないものを抱えている。


「分かりました。無理はしません」


「お前の“努力します”と“無理はしません”は信用ならん」


「ひどい」


「実績がある」


 二度目だ。


 リオは苦笑した。


 オルドは踵を返す。


 去り際に、一言だけ残した。


「ガロにも気をつけろ」


 リオは息を止めた。


「……なぜガロの名前が?」


「東の倉庫街で捕まった連中の中にいたらしい。衛兵から先に連絡が来た」


「そう、ですか」


「あいつは弱いが、しぶとい。負けた相手に執着する」


「でしょうね」


「知っているような言い方だな」


 オルドが振り返る。


 リオは笑った。


「今日、受付で絡まれましたから」


「そうだったな」


 オルドはそれ以上聞かなかった。


「早く寝ろ」


「努力します」


「だからそれは寝ない奴の返事だ」


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 リオは鍵をかけ、その場でずるずると座り込んだ。


「……危ない」


 いろいろな意味で。


 オルドは気づいている。


 少なくとも、リオが何かを隠していることには。


 そして夜鴉商会について、リオより多く知っている可能性がある。


 ガロは黒蝶の戦い方を学び始めた。


 夜鴉商会は黒蝶の装備を狙っている。


 そして黒蝶は、声を聞かれた。


 問題が増える速度が、処理速度を上回っている。


「本当に、ギルドの人員不足どころじゃないな……」


 リオは立ち上がり、机に戻った。


 ガロの記録。

 夜鴉商会の資料。

 黒い腕輪。

 黒蝶の仮面。

 鳴響弾。


 そして、白紙の活動記録。


 リオはペンを取った。


『黒蝶活動記録。東倉庫街。夜鴉商会関係と思われる違法魔道具を確認。ガロと接触。黒蝶の非殺傷方針を認識されている。今後、対策必須』


 そこまで書いて、手が止まる。


 少し考えたあと、さらに書き加えた。


『声を聞かれた。年齢、性別、体格を推測されている。次回以降、発声は最小限。仮面への変声機構追加を検討』


 最後に、もう一行。


『ガロは弱いが、馬鹿ではない』


 その一文を見つめ、リオは小さく息を吐いた。


 ルネリアの夜は、また少し深くなった。


 そしてその闇の中で、黒蝶を見上げた三流悪党が一人。


 次の悪知恵を、眠りの底で育て始めていた。

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