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ギルド職員は夜に出ない

新作です。

昼はギルド職員、夜は仮面ヒーロー。ただし本体は部屋から出ません。

よろしくお願いします。

 ルネリア城下町には、最近ひとつの噂がある。


 夜更けの裏路地に、黒い仮面の男が現れる。


 そいつは剣を抜かない。

 魔法で焼き払うこともない。

 悪党を殺すこともない。


 ただ、黒い外套を翻し、蝶の羽を思わせる銀の仮面を月明かりに浮かべ、気づけば相手を眠らせている。


 目撃者は少ない。


 助けられた者の多くは、恐怖と混乱でほとんど何も覚えていない。

 捕まった悪党たちは、口を揃えてこう言う。


 黒い蝶を見た。

 それから先は、覚えていない。


 だから、誰からともなく呼び名がついた。


 黒蝶。


 ルネリアの夜にだけ現れる、正体不明の仮面の守護者。


     ◇


「それで、その黒蝶とやらがまた出たわけですね」


 翌朝。


 冒険者ギルド・ルネリア支部の一階は、朝からいつも通り騒がしかった。


 依頼票を奪い合う新人冒険者。

 討伐証明の魔物の耳を袋いっぱいに詰めてくる大男。

 報酬の計算が合わないと受付に食い下がる弓使い。

 昨日の酒場の喧嘩を引きずって、まだ睨み合っている二人組。


 その全部の隙間を縫うように、一人の少年が書類の束を抱えて歩いていた。


 少年の名は、リオ。


 年は十六。

 黒髪に近い濃茶の髪と、やや眠たげな目。

 体格は細身だが、ひ弱というほどではない。

 ただ、剣士や魔法使いのような派手さはまるでなかった。


 彼は冒険者ではない。


 表向きは、冒険者ギルドの見習い職員である。


「他人事みたいに言うな、リオ。お前が報告書をまとめるんだぞ」


 受付主任のマーレが、カウンターの向こうから紙束を差し出してきた。


「また僕ですか」


「またお前だ。字が読めて、話を整理できて、衛兵の報告書に文句を言わず目を通せる人間が他にいるなら紹介してくれ」


「このギルド、人材不足すぎません?」


「今さら気づいたのか?」


 マーレは疲れた顔で笑った。


 リオは苦笑しながら紙束を受け取る。


 表紙には、衛兵詰所の印が押されていた。


『西区画裏通りにおける暴行未遂および違法魔道具所持について』


 その横に、別紙として走り書きが添えられている。


『現場に黒蝶と思しき人物の関与あり』


 またか、とリオは思った。


 もちろん、顔には出さない。


「黒蝶って、本当に何者なんでしょうね」


「さあな。衛兵の間では、元騎士だとか、貴族の私兵だとか、魔王の手先だとか、好き勝手言われてるらしいぞ」


「魔王の手先にしては、やってることが地味ですね」


「悪党を眠らせて衛兵に引き渡す魔王軍。嫌すぎるな」


 マーレの冗談に、リオは小さく笑った。


 この世界には魔王がいる。


 けれど、城下町の人間にとって、それは遠い空の雷鳴のようなものだった。


 今、目の前で困るのは魔王ではない。


 報酬をごまかそうとする冒険者。

 薬草採取の依頼で毒草を混ぜてくる新人。

 借金で首が回らなくなった挙げ句、裏通りで弱い者から金を巻き上げる半端者。


 世界の危機より、今日の苦情処理の方が先に来る。


 リオは報告書をめくった。


「被害者は薬師見習いの少女。負傷なし。容疑者三名は眠った状態で発見。足元に粘性のある拘束痕。所持品から閃光石、刃物、無許可の催涙玉……うわ、普通に悪質ですね」


「そういう連中だから、黒蝶に狙われたんだろう」


「黒蝶が何を基準に動いてるか、まだ分かってないんですよね?」


「今のところはな。ただ、被害者側には手を出していない。捕まえた連中も死んでない。そこだけ見るなら、衛兵より丁寧だ」


 マーレは声を落とした。


「ただ、問題はそこじゃない」


「非合法な私刑行為、ですか」


「そうだ。悪人を捕まえているからといって、仮面の誰かが街で勝手に動いていい理由にはならない」


「正論ですね」


「お前、なぜそこで嫌そうな顔をする」


「いえ。報告書が増えるなと思って」


「実際増えている」


 リオは紙束を見下ろした。


 確かに増えている。


 黒蝶が動けば動くほど、衛兵は報告を上げる。

 衛兵からギルドへ照会が来る。

 ギルドは冒険者絡みの事件か確認する。

 そして、その整理は大体リオに回ってくる。


 自業自得。


 その言葉が頭をよぎったが、リオは全力で知らないふりをした。


「リオ!」


 奥の掲示板前から声が飛んできた。


 若い冒険者が、依頼票を片手に駆け寄ってくる。


「この依頼、採取場所が東の森って書いてあるけど、東門から出てまっすぐでいいのか?」


「まっすぐ行くと沼に落ちます。北東の旧街道を使ってください。あと、その依頼の薬草は根を切ると価値が落ちます。引き抜かないで、根元を少し残して採ること」


「お、おう。助かる」


「帰りに魔素だまりの跡地には近づかないでください。昨日から小型の魔鼠が出ています」


「なんでそんなことまで知ってんだ?」


「掲示板に貼ってあります」


「読んでなかった」


「読んでください」


 冒険者は気まずそうに笑って去っていった。


 マーレが呆れ半分に言う。


「お前、本当に冒険者より冒険者の依頼に詳しいな」


「毎日その書類を処理してますから」


「登録すればいいのに。風属性なんだから、斥候や伝令ならやれるだろ」


「僕は荒事に向いてませんよ」


「そうか? お前、妙に落ち着いているし、土壇場で判断が早い。剣を持てとは言わないが、後衛なら――」


「マーレさん」


 リオはにこりと笑った。


「僕が冒険者になったら、誰がこの書類を片付けるんですか?」


 マーレは即答しなかった。


 しばらく沈黙してから、視線を逸らす。


「……それは困るな」


「でしょう」


 リオは書類を抱え直し、二階へ向かった。


 ギルドの階段は古い。

 人が通るたびに、ぎしぎしと音を立てる。


 二階には会議室、資料室、ギルドマスターの部屋、そして職員用の小部屋が並んでいる。


 リオの自室は、その一番奥にあった。


 元は物置だった部屋だ。


 ベッドと机を置けば、もうほとんど足の踏み場がない。

 壁には古い地図。棚には書類と工具。机の下には、布で覆われた木箱が三つ。


 リオは扉を閉め、鍵をかけた。


 その瞬間、表情から人当たりの良い笑みが消える。


 机に報告書を置き、椅子に座る。


 まず、衛兵の記録を読む。

 次に、現場の位置を地図上で確認する。

 被害者の帰路。

 容疑者三名の出没範囲。

 逃走経路。

 目撃者の証言。


 すべてに目を通したあと、リオは小さく息を吐いた。


「閃光石を持ってたか。次から目潰し対策を優先。催涙玉もあるなら、仮面の密閉性も見直し。粘糸弾の拘束時間は十分。ただし、舗装路だと剥がれやすい」


 彼は紙の端に走り書きする。


 それは、ギルドに提出する報告書ではない。


 黒蝶の活動記録だった。


 リオには秘密がある。


 ひとつは、前世の記憶を持っていること。


 かつて彼は、魔法も魔物も存在しない世界で生きていた。

 英雄でも、天才でもなかった。


 ただ、人を倒す道具ではなく、人を死なせないための道具に少し詳しかった。


 そして、もうひとつの秘密。


 リオは、自分を複製できる。


 鑑定石には映らない。

 ギルドの記録にも残っていない。

 この世界のスキル体系にすら、存在が確認されていない能力。


 自分と同じ記憶、同じ判断力、同じ属性魔法を持つ、もう一人の自分を生み出す力。


 ただし、万能ではない。


 装備は増えない。

 複製体が使う道具は、実物を用意しなければならない。


 活動中の記憶は、本体と常に共有されるわけではない。

 複製体は独立して判断する。

 そして戻ったとき、経験と疲労と痛みが、まとめて本体に流れ込む。


 便利ではある。


 だが、便利という言葉で片付けるには、あまりにも危険な力だった。


 もし知られれば、どうなるか。


 貴族に囲われるか。

 騎士団に徴用されるか。

 裏組織に狙われるか。

 研究対象として拘束されるか。


 どれもごめんだった。


 だからリオは、ただの風属性のギルド職員として生きている。


 少なくとも、昼間は。


     ◇


 夜。


 ギルドの一階から、最後の酔っ払い冒険者が追い出された。


 食堂の灯りが落ち、受付の帳簿が閉じられ、扉に重い閂がかけられる。


 ルネリア城下町の表通りは、まだ少し明るい。

 酒場や宿屋には人がいる。

 だが、そこから数本路地を外れれば、夜は別の顔を見せる。


 リオは自室の机に座っていた。


 窓の外には、黒い屋根の連なりが見える。


 彼は机の下から木箱を引き出した。


 中には、黒い外套、革手袋、防毒仮面、数種類の弾丸、短い金属筒が収められている。


 金属筒は、銃に似ていた。


 ただし、火薬は使わない。

 風属性の圧縮空気で弾を撃ち出す、魔道具と工具の中間のような代物だ。


 弾丸の中身は、眠蝶粉。


 眠蝶という夜行性の魔物が持つ鱗粉を加工したもの。

 吸い込んだ相手を短時間眠らせる。


 殺さない。

 傷を残さない。

 ただし、吸わせ方を間違えると自分も眠る。


 だから仮面が必要だった。


 リオは深く息を吸った。


「さて」


 右手を前に出す。


 胸の奥にある、言葉にならない感覚へ触れる。


 水面に指を沈めるように。

 自分自身の輪郭を、もう一つ外へ押し出すように。


 部屋の空気が、わずかに揺れた。


 次の瞬間、リオの目の前に、もう一人のリオが立っていた。


 同じ顔。

 同じ髪。

 同じ背丈。

 同じ表情。


 複製体は、軽く肩を回した。


「今日も体調は最悪一歩手前」


 本体のリオが言う。


「昨日の疲れが抜けてないな」


 複製体が答える。


 声も同じだ。


 会話というより、思考の確認に近い。


 本体は椅子に座ったまま、木箱を足で押し出した。


「巡回は西区画から南へ。昨日の三人組が持っていた催涙玉の出どころを探る。無理はしない」


「無理の定義が毎回曖昧なんだよな」


「死なない。捕まらない。装備を落とさない」


「分かりやすい」


 複製体は黒い外套を羽織り、革手袋をはめた。


 眠り銃を腰に差す。

 粘糸弾を三つ。

 黒膜弾を二つ。

 鳴響弾を一つ。

 予備の眠り弾を六発。


 最後に、防毒仮面を手に取る。


 黒い仮面の片側には、銀色の蝶の紋が描かれていた。


 これを作った職人のミラは、妙に楽しそうな顔で言っていた。


『どうせ正体を隠すなら、怖がらせるより噂にした方がいいよ。人っていうのは、名前のある怪談を勝手に育てるからね』


 結果、黒蝶という呼び名がついた。


 ミラの言う通りだったのが、少し癪である。


 複製体は仮面をつけた。


 そこに立っているのは、もうギルド職員のリオではない。


 夜の裏路地に現れる、黒い蝶だった。


 本体は窓を開ける。


 夜風が部屋に流れ込んだ。


「いってらっしゃい」


「自分に言う台詞じゃないな」


「じゃあ、気をつけろ」


「それも自分に言う台詞じゃない」


 黒蝶は窓枠に足をかけ、外へ出た。


 風属性の魔力が足元に薄くまとわりつく。


 次の瞬間、その姿は屋根の上へ跳んでいた。


 本体のリオは窓を閉める。


 鍵をかける。


 そして椅子に戻った。


 机の上には、ギルドの仕事が残っている。


 黒蝶が夜の街へ出ている間、本体のリオはここにいる。


 自室に。

 ギルドの中に。

 誰かが訪ねてきても対応できる場所に。


 それが、リオの二重生活の基本だった。


 ヒーロー活動をするのは、複製体の自分。

 本体は決して外へ出ない。


 黒蝶は一人でいい。


 二人の黒蝶が同時に現れれば、噂は怪談では済まなくなる。

 誰かが組織的に調べ始める。

 複製という秘密に近づかれる。


 だから、黒蝶は一人。


 夜に飛ぶ蝶は、一羽だけでいい。


     ◇


 西区画の裏通りは、昼間とは匂いが違う。


 酒。

 汗。

 汚水。

 安い香油。

 焦げた肉。

 そして、わずかな魔素の臭い。


 黒蝶は屋根の上から路地を見下ろしていた。


 風の流れに意識を乗せる。


 風属性は、派手な攻撃には向かない。

 火のように焼けない。

 土のように壁を作れない。

 水のように傷を癒せない。


 だが、気配を拾うには向いている。


 空気の乱れ。

 音の反響。

 人の呼吸。

 粉の流れ。


 それらを読めば、暗い路地でも人の動きは追える。


 黒蝶は屋根から屋根へ移った。


 目的は、昨日の三人組が持っていた催涙玉の出どころ。


 この町で、あの手の違法魔道具が自然に出回ることは少ない。

 誰かが流している。


 それが単なる小悪党か。

 もっと大きな組織か。


 まだ分からない。


 角を曲がった路地の奥から、低い声が聞こえた。


「だから、昨日の連中はしくじったって言ってんだろ」


「黒蝶だろ? 馬鹿らしい。仮面野郎ひとりに何をびびってる」


「実際に三人とも眠らされて衛兵行きだ。笑えねえよ」


「対策すりゃいい。布で口を覆えばいいんだろ?」


 黒蝶は屋根の縁で止まった。


 下に四人。


 冒険者崩れが二人。

 商人風の男が一人。

 見張りが一人。


 木箱がある。

 小さい。片手で持てる程度。

 だが、魔力の気配がある。


 商人風の男が箱を開けた。


 中には、薄黄色の玉がいくつも詰められている。


「催涙玉、閃光石、煙玉。衛兵の巡回路も一枚つける。値は張るが、役には立つ」


「黒蝶にも?」


「使い方次第だ。奴は眠らせる粉を使うらしい。なら、先に視界と呼吸を潰せ」


 黒蝶は内心でため息をついた。


 やはり対策され始めている。


 早い。


 噂が広がるということは、弱点も広がるということだ。


 商人風の男が言った。


「それと、上からの伝言だ。黒蝶を見つけたら、無理に殺すな。装備を奪え。特に仮面と筒だ」


 黒蝶の指が、腰の眠り銃に触れた。


 装備を狙っている。


 つまり、黒蝶を単なる怪談として見ていない者がいる。


 情報を集めている相手がいる。


 厄介だ。


 見張りの男が、ふと顔を上げた。


「……今、音がしなかったか?」


 反応は悪くない。


 黒蝶は屋根の上を低く移動する。


 先に見張り。

 次に冒険者崩れ。

 商人風の男は逃がさない。

 箱は回収できれば回収。無理なら証拠として残す。


 殺さない。


 それが前提。


 黒蝶は粘糸弾をひとつ指で挟んだ。


 小さく息を吐く。


 屋根から飛び降りた。


「誰だ!」


 見張りが叫ぶより早く、黒蝶は手首を振った。


 粘糸弾が石畳に当たり、弾ける。


 白く濁った糸状の膜が、見張りの足に絡みついた。


「うわっ!?」


 男が転ぶ。


 同時に、黒蝶は眠り銃を抜いた。


 パシュ、と乾いた音。


 冒険者崩れの一人の顔の前で、紫がかった粉が弾ける。


「なっ――」


 男の膝が落ちた。


 残る二人が動く。


 一人は口元に布を巻いた。

 もう一人は腰から閃光石を取り出した。


 対策済み。


 黒蝶は迷わず黒膜弾を投げた。


 黒い膜が空中で広がり、路地の一角を覆う。


「見えねえ!」


「くそっ、どこだ!」


 視界を奪うだけではない。


 黒膜は煙と違って、風で流れにくい。

 薄い粘性を持つ膜が、空気中に広がって光を遮る。


 黒蝶は膜の外側を回り込む。


 布で口を覆った男の背後に入り、膝裏を蹴る。


 崩れたところに、首筋へ眠り弾を近距離で撃つ。


 布で口を覆っていても、完全密閉ではない。

 隙間から粉が入れば十分だ。


 男が倒れる。


 商人風の男は、すでに逃げ出していた。


「逃がすか」


 黒蝶は追おうとした。


 その瞬間、足元で何かが転がった。


 催涙玉。


 しまった、と思ったときには遅い。


 薄黄色の煙が弾ける。


 黒蝶は即座に息を止めた。

 仮面の濾過層は昨日改良したばかりだ。

 だが、完全ではない。


 目がわずかに痛む。


 視界が滲む。


 逃げる商人風の男の背中が、路地の角へ消えかけた。


 黒蝶は腰の鳴響弾を抜き、壁に向かって投げた。


 弾が壁で跳ね、男の進行方向の先で破裂する。


 甲高い音が、狭い路地に反響した。


「ぐあっ!?」


 商人風の男が耳を押さえてよろめく。


 黒蝶は風を足元に集め、低く跳んだ。


 一気に距離を詰める。


 男が懐から短剣を抜いた。


「来るな!」


 震えている。

 だが、目はまだ死んでいない。


 この手の男は、追い詰められると何をするか分からない。


 黒蝶は眠り銃を向けた。


「武器を捨てろ」


「嫌だね」


 男が笑った。


「お前、殺さないんだろ?」


 黒蝶は動きを止めた。


 男の笑みが深くなる。


「噂通りだ。悪党を捕まえるが殺しはしない。なら怖くねえよなあ。こっちは失うもんが――」


 最後まで言わせなかった。


 黒蝶は撃った。


 男の足元に。


 眠り弾ではない。


 粘糸弾だ。


 白い糸が男の足を絡め取り、膝まで固める。


「なっ、てめ――」


 次弾。


 眠り弾。


 紫の粉が男の顔に広がる。


「殺さないのと、何もしないのは違う」


 男は何かを言おうとしたが、舌が回らなかった。


 そのまま、前のめりに倒れる。


 黒蝶は数秒待った。


 呼吸を確認。

 全員生きている。


 次に木箱を確認する。


 催涙玉、閃光石、煙玉。

 そして衛兵の巡回路が記された紙。


 紙の右下に、小さな黒い印があった。


 羽を広げた鳥のようにも見える。

 あるいは、帳簿の隅に押された記号にも。


「夜鴉……?」


 噂で聞いたことはある。


 夜鴉商会。


 表向きは運送と金融を扱う小さな商会。

 裏では、冒険者崩れや借金持ちに仕事を流しているという噂がある。


 確証はない。


 だから今は、証拠がいる。


 黒蝶は巡回路の紙を畳み、懐に入れた。


 そのとき、遠くから鐘の音が聞こえた。


 衛兵詰所の巡回鐘。


 予定より早い。


 黒蝶は眉をひそめた。


 誰かが通報したのか。

 それとも、最初から巡回を誘導されていたのか。


 ここで衛兵に見つかるわけにはいかない。


 黒蝶は壁に小さな蝶の印を刻み、簡易通報符を起動した。


 あとは衛兵が来る。


 悪党は眠っている。

 証拠もある。

 被害者はいない。


 十分だ。


 黒蝶は屋根へ跳んだ。


 だが、足に力が入りきらなかった。


 催涙玉の煙をわずかに吸ったせいか。

 昨日の疲労が残っているせいか。


 屋根の縁を掴み損ねる。


 一瞬、体が落ちた。


「っ……!」


 風を叩きつけ、無理やり体勢を戻す。


 膝が屋根瓦に当たった。


 痛みが走る。


 黒蝶は歯を食いしばった。


「これは、戻ったらきついな」


 誰に言うでもなく呟く。


 そして夜の屋根を駆けた。


     ◇


 一方その頃。


 ギルド二階の自室で、本体のリオは机に向かっていた。


 目の前には、ギルドの帳簿。


 右手にはペン。


 左手には冷めた茶。


 部屋は静かだった。


 静かすぎて、外の物音が妙に大きく聞こえる。


 階下で誰かが椅子を引く音。

 遠くの酒場から聞こえる笑い声。

 夜風が窓を叩く音。


 本体は、複製体が今どこで何をしているか、正確には分からない。


 同じ自分だ。

 判断を間違えるとは思っていない。


 だが、それは安心とは違う。


 自分が危険な場所にいるのに、自分では何も見えない。


 奇妙な感覚だった。


 リオは帳簿の数字を追いながら、小さく呟いた。


「戻りが遅い」


 予定時刻を少し過ぎている。


 焦るほどではない。

 だが、気持ちのいい遅れでもない。


 そのとき、扉が叩かれた。


 コン、コン。


 リオの背筋が伸びる。


「リオ。起きてるか」


 ギルドマスターの声だった。


 低く、少し掠れた声。


 リオは一瞬で机の上を確認する。


 黒蝶の記録はない。

 装備の箱は閉じている。

 窓も閉まっている。


「はい、起きてます」


 リオは鍵を開けた。


 扉の前には、ギルドマスターのオルドが立っていた。


 大柄な中年男だ。

 昔は名のある冒険者だったらしいが、今は腹回りに少し貫禄が出ている。

 ただ、目だけはまったく鈍っていない。


「こんな時間まで仕事か」


「明日の朝に回すと、明日の僕が怒るので」


「明日の自分に気を使えるのはいいことだ」


「今日の自分には優しくないですけどね」


 オルドは部屋の中をちらりと見た。


 ほんの一瞬。


 しかしリオは、その視線に気づいた。


「何かありましたか?」


「西区画で騒ぎがあったらしい」


 心臓が、嫌な音を立てた。


 リオは表情を変えない。


「また黒蝶ですか?」


「まだ分からん。衛兵の巡回鐘が鳴った。最近は黒蝶絡みが多いからな」


「物騒ですね」


「そうだな」


 オルドは、じっとリオを見た。


 長い沈黙が落ちる。


 リオは笑顔を保った。


 疲れる。


 戦闘より、こういう時間の方がよほど神経を使う。


「リオ」


「はい」


「お前、最近寝不足じゃないか」


「仕事が多いので」


「誰のせいだ?」


「ギルドの人員配置のせいです」


「言うようになったな」


 オルドは苦笑した。


 だが、目は笑っていなかった。


「無茶はするなよ」


 その言葉に、リオはほんの少しだけ返事が遅れた。


「……はい」


「お前が倒れると、ここの仕事が回らん」


「心配の方向性が業務ですね」


「育ての親としても心配している」


「ついでみたいに言わないでください」


 オルドは大きな手でリオの頭を軽く叩いた。


「早く寝ろ」


「この帳簿が終わったら」


「それは早く寝ない奴の言い方だ」


 そう言って、オルドは廊下を戻っていった。


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 リオは鍵をかけ、椅子に座り直した。


 手のひらに汗をかいている。


「……あの人、絶対ちょっと疑ってるよな」


 ギルドマスターが複製のことを知っているわけではない。


 少なくとも、リオはそう思っている。


 だが、何かを隠していることには気づかれている。


 それは仕方ない。


 拾われた頃からずっと見られているのだ。

 嘘をつくには、相手が悪すぎる。


 リオは窓の外を見た。


 まだ戻らない。


 胸の奥が、少しざわつく。


 その瞬間。


 窓の外で、小さな音がした。


 リオは立ち上がり、窓を開ける。


 黒い影が滑り込んできた。


 黒蝶だった。


 外套には埃。

 膝のあたりに擦れた跡。

 仮面の縁に、薄黄色の粉がわずかに付着している。


 本体のリオは顔をしかめた。


「催涙玉か」


 黒蝶は仮面を外した。


 同じ顔が、苦笑する。


「ちょっと吸った」


「ちょっとで済んだ顔じゃない」


「戻ったら分かる」


「嫌な予告をするな」


 黒蝶は懐から紙を取り出した。


 衛兵の巡回路。

 右下に、黒い鳥のような印。


 本体のリオは受け取る。


「夜鴉商会か」


「たぶん。まだ確証はない」


「装備を狙われてる?」


「仮面と眠り銃。対策も出回り始めてる。布で口を覆う、催涙玉、閃光石」


「早いな」


「噂は便利だけど、敵にも情報を渡す」


 本体は紙を机に置いた。


「統合する」


「その前に水」


「そんなにきつい?」


「膝と目と喉。あと、たぶん魔力切れ気味」


 本体は無言で水差しを渡した。


 黒蝶は水を飲む。


 そして、本体の前に立った。


 同じ顔の二人が向かい合う。


 片方はギルド職員。

 片方は仮面を外した黒蝶。


 リオは右手を伸ばした。


 黒蝶も右手を伸ばす。


 指先が触れる。


 次の瞬間、黒蝶の輪郭が揺らいだ。


 黒い外套だけが床に落ちる。


 複製体の姿は消えた。


 そして、すべてが本体へ戻ってきた。


「――っ!」


 リオは椅子に倒れ込んだ。


 目の奥に痛みが走る。

 喉が焼けるように熱い。

 膝に鈍い痛み。

 屋根を駆けた疲労。

 戦闘の緊張。

 催涙玉の刺激。

 商人風の男の笑み。

 夜鴉の印。


 記憶と感覚が、一気に流れ込む。


 何度やっても慣れない。


 自分が経験したことなのに、自分ではなかった時間。

 それが一瞬で自分になる。


 リオは机に突っ伏した。


「……二人分働ける能力って」


 声が掠れる。


「結局、二人分疲れるんだよな……」


 床に落ちた黒い外套を見ながら、リオは苦笑した。


 複製は強い。


 それは間違いない。


 けれど、無敵ではない。


 便利な力には、便利なりの請求書が来る。


 しかも支払うのは、いつも本体だ。


     ◇


 翌朝。


 冒険者ギルドは、また騒がしかった。


「リオ! 西区画の件、衛兵から追加報告!」


「リオ君、黒蝶の報告書ってこっちの棚でいい?」


「リオ、夜鴉商会って知ってるか? 衛兵が照会してきたぞ」


 リオは目の下に薄い隈を作ったまま、受付横の机に座っていた。


 喉が痛い。

 膝も痛い。

 眠い。


 だが、表情はいつも通り。


 人当たりの良い、便利な若手職員の顔だ。


「順番にください。西区画の報告書は僕がまとめます。黒蝶関連は別綴じで。夜鴉商会の過去資料は資料室の奥、商業登録簿の棚にあるはずです」


 マーレが報告書を置きながら、目を細めた。


「お前、夜鴉商会なんてよく知ってるな」


「噂程度です。裏仕事を斡旋しているとか、冒険者崩れに金を貸しているとか」


「本当に噂程度か?」


「ギルド職員は噂に詳しいんです」


「便利な言葉だな」


 リオは笑って誤魔化した。


 報告書に目を落とす。


『昨夜、西区画裏通りにて違法魔道具の取引現場を摘発。容疑者四名を確保。現場に黒蝶と思しき人物の関与あり』


 また、黒蝶。


 また、自分の仕事が増える。


 マーレがぼやいた。


「黒蝶も、悪党を捕まえるなら報告書まで書いて置いていってくれればいいのに」


 リオはペンを止めた。


「それは……なかなか嫌な黒蝶ですね」


「こっちは助かる」


「正体不明の仮面男が、妙に整った報告書を添付してくるんですよ。怖くないですか」


「今でも十分怖いだろ」


「それはそうですね」


 リオは報告書の余白に必要事項を書き込んでいく。


 被害なし。

 死亡者なし。

 違法魔道具あり。

 夜鴉商会との関連疑い。

 黒蝶の関与あり。


 そして、最後に小さく息を吐いた。


 昼の自分が、夜の自分の後始末をする。


 これが、リオの日常になりつつある。


 表向きはギルド職員。

 裏では黒蝶。


 ただし、夜の街に出ているのは本体ではない。

 本体はいつも、ギルドの自室にいる。


 それがリオの秘密だった。


 自分自身を夜へ送り出し、朝になれば何食わぬ顔で報告書を書く。


 英雄譚と呼ぶには、あまりにも地味だ。

 仮面の守護者と呼ぶには、あまりにも事務仕事が多い。


 それでも。


 昨夜、違法魔道具が少しだけ街から減った。

 次に襲われるはずだった誰かが、襲われずに済んだかもしれない。


 それだけで、続ける理由には十分だった。


 リオは新しい紙を取り出し、題名を書いた。


『西区画違法魔道具取引に関する報告』


 その手元を、ギルドマスターのオルドが二階の廊下から見下ろしていた。


 リオは気づかないふりをした。


 オルドも、何も言わなかった。


 ただ一言、階段の上から声をかける。


「リオ」


「はい」


「今日は早く寝ろ」


 リオは報告書の山を見た。


 それから、にこりと笑った。


「努力します」


「それは寝ない奴の返事だ」


 ギルド中に、少しだけ笑いが起こった。


 リオも笑った。


 喉の痛みを隠しながら。


 膝の痛みを無視しながら。


 そして机の引き出しの奥にしまった、夜鴉の印が入った紙のことを考えながら。


 ルネリアの夜は、まだ深い。


 黒蝶の噂は、まだ始まったばかりだった。

お読みいただきありがとうございます。

異世界転生×仮面ヒーロー×二重生活ものです。

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