表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/36

ギルド職員は泥の街を走る

 ギルドの床下から、黒い腕が伸びていた。


 一本ではない。


 二本。


 三本。


 床板の隙間から泡が弾け、そのたびに細い黒い筋が這い出してくる。


 黒い塊は、まだ人の形になりきれていない。


 だが、床板を掴み、引き、体を持ち上げようとしていた。


「全員、下がれ」


 オルドの声が響いた。


 低く、太く、よく通る声だった。


 その一言で、受付前にいた冒険者たちが一斉に動く。


 叫び声は上がらない。


 悲鳴も、まだない。


 ここは冒険者ギルドだ。


 目の前で魔物が出たなら、逃げる者だけではない。


 前へ出る者もいる。


「鉄級は受付から出ろ! 封鎖縄を表へ広げろ!」


 マーレ主任が叫んだ。


「銅級以上、床下を囲め! 水をかけるな! 切り散らすな!」


「リオ!」


 オルドが振り返る。


「地図を持ったまま下がれ。ここで潰されるな」


「はい!」


 リオは水路図と記録帳を抱え、受付卓の横へ下がった。


 足元では、黒い腕が床板を掴んでいる。


 ぎしり。


 木が鳴る。


 もう一本の腕が、内側から床板を押し上げる。


 グレンが前に出た。


「ロッソ、斧はまだ振るな!」


「分かってる!」


「本当か!」


「今は分かってるって言ってるだろ!」


 ロッソは斧を握ったまま、踏み込まずに横へ回る。


 バートが盾を構え、受付側と黒い腕の間に立つ。


 ニナは凝固粉の小筒を取り出した。


「リオ、粉!」


「はい!」


 リオは木箱を前へ寄せた。


 ニナが受け取り、床板の隙間ではなく、その周囲へ粉を撒く。


「中へ落としすぎない! 下で広がる!」


「はい!」


 白灰色の粉が床板の上に線を作る。


 黒い腕がその線に触れた瞬間、表面が鈍った。


 動きが遅くなる。


 だが、止まらない。


 黒い腕は、自分の鈍った指先を床板にこすりつけた。


 崩れた部分だけが、ぼとりと落ちる。


 そして、残った腕がまた伸びた。


「傷んだとこだけ捨てやがった!」


 ロッソが叫ぶ。


「見えてる!」


 ニナは歯を食いしばった。


 グレンは受付卓を掴み、床板の上へ倒した。


 黒い腕の上に重い卓が落ちる。


 どん、と鈍い音。


 黒い泥が潰れる。


 だが、潰れた泥は横へ広がろうとする。


「踏むな!」


 リオが叫んだ。


「潰すと広がります!」


「だろうな!」


 グレンは卓を押さえ込んだまま、足元を見た。


「でも、出てくる隙間は減った!」


「そのまま押さえて!」


 ニナが凝固粉を追加する。


 バートが盾で受付側を守る。


 ロッソは斧の柄を使い、床板の隙間に直接触れないよう黒い筋を押し返す。


「俺の斧、今日こそ工具じゃねぇか!」


「生きてる工具は貴重だ!」


 グレンが返す。


「慰めになってねぇ!」


 その横で、オルドが床下を見た。


 黒い泡は止まっていない。


 床板の下から、ぷつり、ぷつりと浮いてくる。


 ギルドの中にまで来た。


 それは、もう封鎖線の外の話ではないということだ。


「マーレ」


「はい」


「受付前を捨てる。表側へ人を逃がせ。重要書類だけ持て」


「分かりました」


「リオ」


「はい」


「地図を持って表へ出ろ。各地点の札を更新し続けろ。ここだけ見るな」


 リオは一瞬、床下の黒い腕を見た。


 ここを放っておけるのか。


 そんな考えが浮かぶ。


 だが、オルドの目は揺れていなかった。


「見失うな」


 短い言葉だった。


 リオは頷いた。


「はい」


 地図を抱え、受付から表へ出る。


 背後で、グレンが叫んだ。


「ここは俺たちが押さえる! 行け!」


 リオは振り返らなかった。


 振り返れば、足が止まる。


 今、自分が見るべきなのは、街全体だ。


     ◇


 ギルド前の広場には、すでに人が集まり始めていた。


 冒険者。


 職人。


 衛兵。


 不安そうな住民。


 泣きそうな子ども。


 朝日が差し始めているのに、空気は夜より重かった。


 旧水路関連対応表は、外へ運び出されていた。


 リオはそこへ地図を広げる。


 赤い札。


 黒い札。


 封鎖済み。


 噴出確認。


 人型化確認。


 避難路確保。


 次々に置いていく。


「薬師街から追加! 黒い泡、店裏へ拡大!」


「古い井戸跡、衛兵が封鎖! 腕状のものが二本!」


「倉庫街、人型二体目!」


「職人街、再噴出抑制中!」


「ギルド床下、まだ動いてます!」


 報告が飛び交う。


 リオは聞きながら、札を置く。


 頭の中で、旧水路の線をなぞる。


 水の流れ。


 旧枝道。


 塞いだ場所。


 乾いた場所。


 光を置いた場所。


 汚泥が避けた場所。


 汚泥が出た場所。


 広がっている。


 だが、無秩序ではない。


 避けている。


 押されている。


 出られる場所を探している。


 そして、人の多い場所へ近づいている。


「リオ!」


 マーレが隣に来る。


「各地点、どう見る?」


「旧水路の低い場所から出ているわけではありません。むしろ、封鎖された場所を避けて、古い枝道から上がっています」


「なら、次は」


 リオは地図を見た。


「職人街から倉庫街へ向かう古い排水路。あと、薬師街裏から井戸跡へつながる枝道です」


「そこを止めればいい?」


「完全に止めると逆流します」


「またそれか」


「はい。流す水と止める汚泥を分ける必要があります」


 マーレは息を吐いた。


「それができる人員は?」


 リオは答えかけて、言葉を飲み込む。


 灰守。


 そう言えれば簡単だ。


 だが、言えない。


「土属性に適性がある冒険者と、封泥杭を扱える者が必要です。あと、水の流れを読む人が」


「水の流れ……」


 その時、広場の外から声が上がった。


「道を開けてくれ!」


 封鎖縄の向こうから、濡れた外套の三人組が入ってきた。


 先頭の男は、背が高く細身だった。


 短く整えた薄い金髪。


 静かな青い目。


 胸元には、銀の認識票。


 その後ろに、灰色の短髪の女性と、大柄な土色の鎧を着た男が続く。


 鉄級冒険者たちが少しだけ道を開けた。


 銅級の何人かが、ほっとしたように息を吐く。


 銀級パーティー。


 名のある者たちが来た。


 だが、それで武器を下ろす者はいない。


 この汚泥は、銀級が来たからといって一息で片付く相手ではない。


 それを、ここにいる者たちはもう知っていた。


 マーレが顔を上げた。


「エルン!」


 先頭の男が頷く。


「銀級パーティー《水鏡の門》、到着しました」


 エルン・ヴァイス。


 水属性の銀級冒険者で、《水鏡の門》のまとめ役。


 リオも受付では何度か顔を合わせている。


 ただ、こうして緊急依頼の現場で動く姿を見るのは初めてだった。


「旧水路絡みの依頼が増えているとは聞いていましたが……ここまでとは」


 エルンは地図へ視線を落とし、すぐに眉を寄せた。


「状況を聞かせてください」


 マーレがリオを見た。


 リオは地図を指した。


「旧水路沿いで複数地点同時発生。薬師街裏、古い井戸跡、倉庫街、ギルド裏手、職人街。黒い汚泥状の魔物が地上へ出ようとしています」


「普通のスライムではなさそうですね」


「はい。腕や肩のような形を作ります。完全な人型ではありませんが、地上へ這い出ようとしています」


 エルンの表情がわずかに変わった。


「人型……」


「それと、水で押し流すのは危険です。流した先で広がります」


 エルンはすぐには答えなかった。


 地図の赤い札を見て、旧水路の枝を目で追う。


「確認済みですか」


「はい。封鎖した場所を避けて、別の枝道から出ています。水流そのものより、壁際や隙間を選んで動いています」


 ニナもギルドの中から声を飛ばした。


「汚れたものを水で流すと、見えなくなるだけです! 消えません! 別の場所で出ます!」


 エルンはその声を聞き、頷いた。


「分かりました。押し流さない。囲って、逃げ道を絞る。できる範囲でやります」


 その切り替えの速さに、リオは息を呑んだ。


 強いからではない。


 自分たちの得意なやり方を、現場の報告ひとつで変えられる。


 それが銀級なのだと思った。


 後ろの女性が鼻を押さえながら言う。


「臭いは最悪。でも、空気の流れは読めるわ。右奥、少し逆流してる」


 ラウラ・フェン。


 風属性寄りの斥候。


 臭気や空気の流れを読む冒険者だ。


 その横で、大柄な男が封泥杭を見た。


 ドルム・ガント。


 土属性の盾役。


 彼は封泥杭を一本手に取り、溝を指でなぞった。


「この杭、完全に塞ぐためのものじゃないな」


「はい。水は逃がして、汚泥だけを鈍らせるためのものです」


 リオが答えると、ドルムは頷いた。


「いい考えだ。水路で全部塞ぐと、別の場所が死ぬ」


「使えますか」


「使える。ただ、長くは持たない。補強しながらだ」


 エルンが地図を見る。


「水は俺が囲います。ドルムは逃げ道を作る。ラウラは臭気と空気の逆流を見てください」


「了解」


「分かった」


 リオは地図の二か所を指した。


「薬師街裏から井戸跡へ向かう枝道。職人街から倉庫街へ向かう古い排水路。ここを完全に塞がず、汚泥だけを鈍らせたいです」


「分かりました」


 エルンは一度だけギルドの床下へ視線を向けた。


 中ではまだ、グレンたちが黒い腕を押さえている。


「ギルド内は?」


「グレンさんたちが押さえています」


「では、こちらは薬師街と井戸跡へ回ります」


 命令ではない。


 だが、場の冒険者たちが自然に動いた。


 パーティー名が持つ重み。


 銀級の判断。


 それが、混乱しかけていた場に一本の線を通した。


     ◇


 薬師街裏では、アッシュが息を切らしていた。


 小さな灯りを並べ、石畳を乾かし、人を逃がす。


 昨日と同じことをしている。


 だが、昨日より範囲が広い。


 昨日より、泥の動きが早い。


 昨日より、人が多い。


「こっち! 火の列から外れるな!」


 アッシュは叫ぶ。


 喉が痛い。


 腕が熱い。


 火を出しすぎれば危ない。


 でも、弱すぎれば足元が乾かない。


 黒い泥は、灯りの間の暗い場所を選んで伸びてくる。


 昨日、光を避けることを覚えたせいだ。


「くそっ、そこ通るな!」


 アッシュは暗い棚の下へ小さな火を置く。


 泥が止まる。


 だが、今度は逆側の陰へ伸びる。


 追いつかない。


 その時、背後から声がした。


「火の少年、昨日ここを乾かしたのは君か」


 アッシュが振り返る。


「アッシュだ」


「分かった、アッシュ。《水鏡の門》のエルンです。火を点で置くと、泥は隙間を選ぶ。道の縁に置けますか」


「道の縁?」


「人が歩く場所の外側です。こちらで水を外へ逃がします。君は人の道を作ってください」


 命令ではなかった。


 子ども扱いでもなかった。


 役目を渡されたのだ。


 アッシュは一瞬だけ目を見開き、それから頷いた。


「……たぶん」


「十分です」


 エルンは水を動かした。


 ただし、押し流さない。


 薬師街の石畳に溜まった水を、細く持ち上げる。


 黒い泡を含んだ水ではない。


 まだ汚れていない浅い水だけを掬い、道の外側へ薄い膜のように広げる。


 その水膜が、黒い泥の進路をわずかに逸らした。


「ラウラ」


「空気、右から来る。臭いの元は桶の裏。暗い棚下に流れてる」


「ドルム」


「棚の下を半分塞ぐ。水は逃がす」


 ドルムが床へ杭を打ち込む。


 土が低く盛り上がり、棚下の暗い隙間を半分だけ塞いだ。


 完全ではない。


 水が通る隙間は残す。


 黒い泥だけが引っかかる。


 アッシュはそれを見て、少しだけ目を見開いた。


 灰守の封泥杭に似ている。


 だが違う。


 灰守の方が静かで、細かい。


 ドルムのものは力強く、太い。


 それでも、効果はある。


「火の線、作れますか」


 エルンが言う。


 アッシュは頷いた。


 指先に小さな火を灯す。


 ひとつ。


 ふたつ。


 三つ。


 点ではなく、道の縁に沿って並べる。


 そこへ弱い熱を通す。


 濡れた石畳が乾き、道の輪郭が浮かぶ。


「こっちだ!」


 アッシュは叫んだ。


「火の内側を歩け! 外へ出るな!」


 逃げていた人たちが、その線を見て動いた。


 昨日より迷いが少ない。


 光が道になったからだ。


 アッシュは、息を切らしながら思った。


 火は、燃やすだけじゃない。


 光は、照らすだけじゃない。


 線を引けば、人はそこを道だと分かる。


 熱を置けば、足を滑らせずに進める。


「いい道です」


 エルンが言った。


 アッシュは顔をしかめる。


「褒めんな。調子狂う」


「では、続けてください」


「それは分かってる!」


 アッシュはまた火を置いた。


     ◇


 ギルド内では、グレンたちがまだ床下を押さえていた。


 受付卓は横倒しにされ、重しにされている。


 その下で、黒い泥が震えていた。


 ニナの凝固粉で鈍っている。


 塩晶で縮んだ部分もある。


 だが、完全には止まらない。


 じわじわと床板の隙間を探っている。


「いい加減しつこいな!」


 ロッソが叫ぶ。


「お前が言うな」


 グレンが卓を押さえながら返す。


「俺はここまでぬるぬるしてねぇ!」


「似たようなもんだ」


「どこがだ!」


 バートが盾を構えたまま言う。


「口数だ」


「盾に言われたくねぇ!」


「盾ではない」


「今それ大事か!?」


 ニナは二人を無視して、黒い泥の動きを見ていた。


「粉が効いてるのは表面だけ。奥から押してる」


「床下を全部固めるか?」


 グレンが聞く。


「駄目。下で水が逃げられなくなる。別の場所から上がる」


「じゃあどうする」


「ここで出す分だけ鈍らせる。全部止めるのは外の仕事」


 ニナの声は冷静だった。


 その冷静さが、周囲を落ち着かせる。


「リオの言ってた通りだな」


 グレンが低く言った。


「止めすぎても駄目、流しても駄目。面倒くせぇ」


「面倒な仕事ほど、誰かがやらないと街が困るのよ」


「それもリオが言いそうだ」


「本人は今、地図を抱えて走ってるわ」


 グレンは少しだけ笑った。


「なら、ここは俺らで持たせるか」


 床下から、また黒い腕が伸びた。


 グレンが受付卓を押し込む。


 バートが盾の縁で腕を受け流す。


 ロッソが斧の柄で黒い筋を払い、ニナが粉を撒く。


 派手な一撃はない。


 だが、崩れない。


 グレン、ロッソ、バート、ニナ。


 四人は、街の中心に開いた穴を、泥臭く、確実に押さえていた。


     ◇


 リオは広場の地図を更新し続けていた。


 薬師街、避難路確保。


 井戸跡、衛兵と《水鏡の門》の一部が封鎖。


 倉庫街、人型二体。


 職人街、再噴出抑制中。


 ギルド床下、継続。


 そして、旧地下倉庫。


 まだ誰もそこへは入っていない。


 いや。


 黒蝶は、入る。


 灰守も、動く。


 だが、それをこの場で口にするわけにはいかない。


 リオは自分の指先を見た。


 震えている。


 二体を戻したばかりだ。


 疲労はある。


 頭も重い。


 だが、行かなければならない。


 黒い腕輪の欠片。


 複数に散った硬い反応。


 あれをどうにかしなければ、汚泥は止まらない。


 ギルドが街を押さえている今しかない。


「マーレ主任」


「何だ」


「旧地下倉庫方面に、黒蝶か灰守が向かう可能性があります」


 マーレは一瞬、リオを見た。


「可能性?」


「はい。噂の彼らが、この騒ぎを見逃すとは思えません」


 苦しい言い方だった。


 だが、嘘ではない。


 マーレは少しだけ目を細めた。


「……そうだな。現れたら、どう合わせる」


「ギルド側は地上の避難と封鎖を優先。仮面の二人が地下へ向かうなら、地上からの水流を不用意に動かさない方がいいです」


「分かった。オルドさんへ伝える」


「お願いします」


 リオは地図を見た。


 黒蝶は探る。


 灰守は止める。


 アッシュは導く。


 ギルドは守る。


 なら、本体の自分は。


 繋ぐ。


 リオは、息を吸った。


「各地点へ伝達! 水を流さないでください! 汚泥を追い込む方向を揃えます!」


 声を張る。


「薬師街から井戸跡へ流さない! 職人街から倉庫街へ押し出さない! 地上の人員は避難路を優先! 地下への追い込みは仮面の二人が出た場合に合わせます!」


 鉄級冒険者が走る。


 衛兵が頷く。


 マーレが指示を書き換える。


 オルドが遠くからリオを見た。


 何かを言いかけたように見えたが、すぐに別の報告へ向き直る。


 今は、それでいい。


     ◇


 その夜を待たず、黒蝶は動いた。


 正確には、夕暮れ前だった。


 人目が多い。


 危険も多い。


 だが、街全体が混乱している今、黒い影が屋根を渡っても、誰も細かく見てはいられない。


 黒蝶は旧地下倉庫へ向かう。


 灰守はその少し後、別の路地から封泥杭を持って降りる。


 リオ本体はギルド前にいる。


 地図を持ち、報告を受け、指示をつなぐ。


 黒蝶が何を見ているかは分からない。


 灰守がどれだけ押されているかも分からない。


 だが、役割は決めた。


 黒蝶は、腕輪の欠片を探れ。


 灰守は、逃げ道を絞れ。


 地上は、ギルドが守る。


     ◇


 旧地下倉庫の入口は、昨日より濃い臭気を吐いていた。


 黒蝶は防毒面を確認し、眠り銃を構えた。


 弾倉を確かめる。


 眠り弾は入っていない。


 入っているのは、探響弾、凝固弾、塩晶弾。


 人を眠らせるための弾ではなく、泥の奥を探り、動きを鈍らせ、逃げ道を作るための弾だ。


 ミラが急いで仕立てた対汚泥用の試作品。


 どれも完成品ではない。


 だが、今の黒蝶には、それしかない。


 扉の向こうで、黒い泥が蠢いている。


 昨日は扉の向こうで立ち上がろうとしていた。


 今日は、扉の隙間から黒い筋が伸びている。


 待っていた。


 そう思えるほどに。


「待つなよ」


 黒蝶は小さく呟いた。


「こっちも忙しい」


 探響弾を撃つ。


 低い音が沈む。


 反響。


 硬い反応。


 複数。


 だが、昨日よりさらに散っている。


 黒い腕輪の欠片らしきものが、泥の中で移動している。


 水路の奥。


 床下。


 壁の向こう。


 一つではない。


 中心ではない。


 釘だ。


 黒蝶はそう感じた。


 核ではない。


 汚泥そのものの命ではない。


 ただ、散った核や泥を繋ぐ目印。


 命令の残り香。


 夜鴉が残した、壊れた釘。


「核じゃない。繋ぎ目か」


 黒蝶は凝固弾を撃つ。


 汚泥の一部が鈍る。


 その奥にある硬い反応が一瞬だけ止まる。


 黒蝶は踏み込む。


 黒い筋が足元へ絡む。


 風で払い、壁を蹴る。


 眠り銃は、人を眠らせる道具だった。


 今は、泥の動きを鈍らせる道具に変わっている。


 道具は変わる。


 相手が変われば、使い方も変わる。


 黒蝶は、硬い反応のひとつへ凝固弾を撃ち込んだ。


 白灰色の粉が広がる。


 黒い泥が固まりかける。


 その奥で、細い輪の欠片が一瞬だけ見えた。


 黒い。


 割れている。


 汚泥に半分沈んでいる。


 黒蝶が手を伸ばした瞬間、泥が膨れた。


 怒りに似た圧力。


 地下倉庫全体が、黒い波になって押し寄せる。


「っ!」


 黒蝶は後退する。


 その時、背後の床が沈んだ。


 別の黒い泥が、退路へ回り込んでいる。


 見つけたことを、相手も覚えている。


 探す者の足元を狙う。


 黒蝶は鳴響弾を一発、床へ撃った。


 音が跳ねる。


 足場の空洞が分かる。


 右。


 黒蝶は右へ跳んだ。


 直後、さっきまでいた床から黒い腕が三本伸びた。


「本当に、嫌な学習をする」


 黒蝶は息を吐いた。


     ◇


 地上側。


 灰守は封泥杭を打ち続けていた。


 旧地下倉庫から地上へ向かう流れを、完全には塞がない。


 塞げば、薬師街へ逃げる。


 押せば、井戸跡へ出る。


 なら、逃げ道を細くする。


 水は逃がす。


 汚泥は鈍らせる。


 黒蝶が探る場所へ、ほんの少しだけ押し戻す。


 力任せではできない。


 土の感触を読む。


 水の流れを感じる。


 汚泥の圧力を受け止める。


 封泥杭が軋む。


 一本。


 二本。


 三本。


 腕が重い。


 肩が痛い。


 だが、灰守は動かない。


「……ここは、通さない」


 灰色の仮面の奥で、低い声が漏れた。


 その時、横の水路から黒い人影が這い上がった。


 小さい。


 まだ完全ではない。


 だが、腕がある。


 肩がある。


 顔はない。


 灰守は封泥杭を握ったまま、そちらを見る。


 追えば、杭が緩む。


 無視すれば、地上へ出る。


 その瞬間、路地の向こうから声がした。


「そっちは任せろ!」


 グレンだった。


 ロッソ、バート、ニナもいる。


 ギルド内を押さえた後、こちらへ回ってきたのだ。


 灰守は一瞬だけ、その声の方向を見た。


「任せます」


「任された!」


 グレンが黒い人影の前へ出る。


「ロッソ、切るな!」


「分かってる!」


「バート、押さえろ!」


「ああ」


「ニナ、粉!」


「もう構えてる!」


 四人が動く。


 名前はなくても、動きは噛み合っていた。


 グレンが黒い人影の進路を塞ぐ。


 バートが盾で受ける。


 ロッソが斧の柄で絡む腕を払う。


 ニナが凝固粉を散らす。


 倒しきれなくてもいい。


 地上へ出さなければいい。


 灰守は、それを見て封泥杭へ意識を戻した。


 ここは任せられる。


 だから、流れを止められる。


     ◇


 薬師街と井戸跡の間では、《水鏡の門》が流れを囲っていた。


 エルンの水は、汚泥を押し流さない。


 薄い水膜で縁を作り、黒い泥が進む方向を狭める。


 ラウラが臭気の流れを読む。


「左の路地、臭いが逆流。そっちに抜ける」


 ドルムが杭を打つ。


「なら、そこを半分塞ぐ」


「半分?」


「全部塞ぐと別から出る」


「面倒ね」


「面倒だから呼ばれたんだろう」


 ラウラが鼻で笑う。


 エルンは二人のやり取りを聞きながら、アッシュの火の線を見た。


「アッシュ、火の線を右へ伸ばせますか。人の流れを井戸跡から離したい」


「分かった!」


 アッシュは走る。


 足元を乾かし、火の線を伸ばす。


 住民がその内側を進む。


 泥が外側で止まる。


 完全ではない。


 だが、時間を稼げる。


 その時間が、人を逃がす。


「こっち! 走るな! 足元見ろ!」


 アッシュの声は、もう震えていなかった。


 怖くないわけではない。


 だが、震えている暇がない。


 火は、道になる。


 それを知ってしまったからだ。


     ◇


 黒蝶は、地下倉庫の奥で黒い腕輪の欠片を見ていた。


 近い。


 手を伸ばせば届く。


 だが、取り出そうとするたび、汚泥が欠片を別の泥へ送る。


 硬いものを散らす。


 見つからないために。


 壊されないために。


「なら」


 黒蝶は眠り銃を構え直した。


「散らせない場所へ追い込む」


 探響弾。


 凝固弾。


 塩晶弾。


 使える数は少ない。


 だが、地上では灰守が逃げ道を絞っている。


 ギルドが人を逃がしている。


 アッシュが光の道を作っている。


 《水鏡の門》が水を囲っている。


 グレンたちが地上の人影を押さえている。


 全部が、ここへ繋がっている。


 黒蝶は探響弾を撃った。


 低い音。


 硬い反応。


 一番近い欠片。


 黒蝶は凝固弾を続けて撃つ。


 黒い泥が鈍る。


 欠片が動きを止める。


 その瞬間、黒い泥の奥で何かが震えた。


 ひとつの欠片を止められたことで、ほかの欠片が一斉に反応する。


 地下倉庫全体が軋んだ。


 地上のどこかで、誰かが叫ぶ声が聞こえた気がした。


 まずい。


 黒蝶は直感する。


 一つ止めた。


 だが、全部が反応した。


 欠片は核ではない。


 だが、繋がっている。


 一本の糸を引けば、網全体が震える。


 黒蝶は欠片を回収しようとして、手を止めた。


 今ここで一つ引き抜けば、汚泥全体が暴れるかもしれない。


 なら、どうする。


 壊すか。


 封じるか。


 分断するか。


 その答えを出す前に、地上から大きな音が響いた。


     ◇


 ギルド前の広場で、リオは地図を見ていた。


 赤い札。


 黒い札。


 白い札。


 避難路。


 封鎖。


 噴出。


 人型。


 そのすべてが、少しずつ旧地下倉庫の方へ向いている。


 灰守が押し戻している。


 黒蝶が探っている。


 《水鏡の門》が囲っている。


 アッシュが人を逃がしている。


 グレンたちが地上を支えている。


 噛み合っている。


 今なら、いける。


 そう思った瞬間。


 地面が揺れた。


 小さな揺れではなかった。


 広場の石畳が、下から突き上げられるように震える。


「何だ!?」


 誰かが叫ぶ。


 リオは地図を見る。


 旧地下倉庫。


 職人街。


 薬師街。


 井戸跡。


 倉庫街。


 ギルド床下。


 すべての札が、同時に揺れた気がした。


 地下から、低い音が響く。


 怒りにも似た、圧力。


 黒蝶が何かを掴んだ。


 あるいは、掴みかけた。


 その反応が、街の底全体へ伝わっている。


「全員、下がれ!」


 オルドが叫ぶ。


 直後。


 広場の端にある古い排水口の蓋が、内側から跳ね上がった。


 黒い泥が噴き出す。


 水柱ではない。


 泥の柱。


 その中から、腕が伸びる。


 肩が出る。


 首が伸びる。


 顔のない人影が、広場の朝日の中へ立ち上がろうとしていた。


 ひとつ。


 ふたつ。


 三つ。


 同じように、離れた路地から悲鳴が上がる。


「井戸跡にも!」


「倉庫街、増えた!」


「薬師街側、二体!」


 リオは地図を握りしめた。


 止めきれていない。


 いや、違う。


 追い込んだことで、汚泥が一斉に表へ出ようとしている。


 ここからが本番だ。


 オルドが剣を抜いた。


 グレンが戻ってくる。


 《水鏡の門》が水の膜を張る。


 アッシュが火の線を引く。


 遠くで灰守の封泥杭が軋む。


 地下では黒蝶が欠片を見ている。


 リオは息を吸った。


 指示を出さなければならない。


 全員を繋がなければならない。


 街の底から、泥の人影が次々と立ち上がる。


 その中で、リオは地図の上に手を置いた。


「……ここで、止める」


 声は小さかった。


 だが、震えてはいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ