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ギルド職員は泥人形に遊ばれる

 夜明け前。


 リオの部屋で、影が二つ戻った。


 先に戻ったのは、黒い影。


 黒蝶ファントムが膝をつくように崩れ、黒い外套が影へほどけた。


 続いて、灰色の影。


 灰守バスティオンの重い輪郭が沈み、灰色の外套と防汚布の感触がリオの中へ戻ってくる。


 瞬間。


 リオは机に手をついた。


「……っ」


 鼻の奥に、腐った水の臭いが戻る。


 手袋の上を這う黒い筋の感触。


 探響弾の低い震え。


 旧地下倉庫の扉の向こうで膨れ上がった汚泥。


 灰守の腕に伝わった封泥杭の軋み。


 土の奥から押し返してくる黒い圧力。


 そして、顔を作ろうとして失敗した、泥の人影。


 二体分の記憶が、一度に流れ込んだ。


 黒蝶が見たもの。


 灰守が支えたもの。


 どちらも、リオ本体はその場で見ていない。


 けれど、戻れば分かる。


 分かってしまう。


「中心が……ひとつじゃない」


 リオは荒い息を吐きながら、水路図を見た。


 市場東。


 職人街。


 薬師街裏。


 古い井戸跡。


 ギルド裏手。


 そして、閉鎖済みの旧地下倉庫。


 赤い印は、もう点ではなかった。


 街の底で、線になっている。


 いや、線というより根だ。


 黒い根が、旧水路を伝って街の下に広がっている。


「黒い腕輪の欠片……複数……」


 黒蝶が拾った反響。


 細く、丸い、輪のような硬い反応。


 それが一つではなかった。


 砕けて、散って、汚泥の中に沈んでいる。


 夜鴉が残したもの。


 街の底へ流れたもの。


 それを、汚泥が喰った。


 リオは記録帳を開き、震える手で書いた。


 ――旧地下倉庫方面、硬質反応複数。


 ――輪状反応あり。人工物の可能性。


 ――汚泥、人型に近い形を形成。


 ――封泥杭、一定効果あり。ただし圧力増大。


 ――地上複数地点への同時噴出リスク。


 最後の一行を書いた瞬間、外から鐘の音がした。


 ひとつ。


 ふたつ。


 三つ。


 朝の鐘ではない。


 衛兵詰所の警鐘だった。


 リオは顔を上げた。


 まだ夜明けには早い。


 それなのに、街のどこかで人が叫んでいる。


 リオは記録帳を掴み、部屋を飛び出した。


     ◇


 ギルドは、朝を待たずに叩き起こされた。


「薬師街裏で黒い泡!」


「古い井戸跡の水が盛り上がった!」


「倉庫街の床下から臭気!」


「ギルド裏手の側溝に、黒い腕みたいなのが!」


 受付前に、報告が重なった。


 普段なら、順番に聞く。


 依頼票に書き、場所を確認し、人員を割り振る。


 だが、今日は違った。


 報告が同時に来ている。


 しかも、すべて旧水路沿いだ。


「全員、声を分けろ!」


 マーレ主任が受付卓を叩いた。


「市場東、薬師街、職人街、井戸跡、倉庫街で分ける! 同じ場所の報告は一か所に集めろ! 負傷者の有無を先に言え!」


 リオは飛び込むように受付へ入り、水路図を広げた。


 昨夜書いた赤い印の上に、さらに札を置く。


 薬師街裏。


 古い井戸跡。


 倉庫街側。


 ギルド裏手。


 それぞれが、夜のうちに反応している。


「……同時です」


 リオが言うと、マーレの顔が硬くなった。


「ああ。もう一か所の事故じゃない」


 奥の扉が開いた。


 オルドが出てきた。


 寝起きには見えない。


 すでに事態を聞いていたのだろう。


「リオ、地図」


「はい」


 リオは地図を差し出した。


 オルドは一目見て、眉間に深い皺を刻んだ。


「全部、旧水路か」


「はい」


「旧地下倉庫の方は」


 低い声で聞かれ、リオは頷いた。


「断定はできません。ただ、発生地点の並びから見て、あの周辺が中心に近い可能性があります」


 黒い腕輪の欠片らしき反応。


 それが複数に散っていたことを、リオは知っている。


 だが、それをここで根拠にはできない。


 ギルド職員のリオが言えるのは、依頼票と報告と水路図から分かることだけだ。


 リオは地図上の赤い札を指した。


「ただ、旧地下倉庫だけを押さえても終わらない可能性があります」


「理由は」


「発生地点が多すぎます。市場東、職人街、薬師街裏、古い井戸跡、ギルド裏手。どれも旧水路沿いですが、一か所から溢れているというより、複数の出口から同時に出ようとしているように見えます」


 オルドの視線が地図の上を走る。


 市場東。


 職人街。


 薬師街。


 井戸跡。


 ギルド裏手。


 赤い札は、旧水路の枝に沿って散っていた。


「……つまり、一つ塞いで終わりではないな」


「はい」


「マーレ」


「はい」


「衛兵へ即時連絡。封鎖範囲を広げる。市場東、職人街、薬師街、古い井戸跡、倉庫街。ギルド裏手もだ」


「了解しました」


「鉄級は水路に近づけるな。住民誘導と封鎖縄。銅級以上は現場別に分ける」


「グレンたちは?」


「職人街とギルド裏手。昨日の噴出箇所と、ここの裏だ。あそこを抜かれると住民が多い」


「はい」


 マーレは登録表を引き寄せた。


「現在、金級は全員出払っています。銀級もすぐ動ける者は限られます」


「呼べる者は呼べ。だが、待つな」


「《水鏡の門》には伝令を出します。戻れば、水路側の制御に回せます」


「戻れば、だ」


 オルドはギルド内を見回した。


「金級も銀級も、汚泥が待ってくれるわけじゃない。今ここにいる人間で止める」


 その言葉で、受付前の空気が変わった。


 誰かが唾を飲む音がした。


 名前のある銀級パーティー。


 それが必要になるほどの事態。


 だが、その到着を待てないほどの事態。


 リオは、自分の指先が冷たくなっていることに気づいた。


 その時、ギルドの裏手から悲鳴が上がった。


 近い。


 受付前にいた全員の動きが止まる。


「裏だ!」


 グレンの声がした。


 いつの間にか来ていたらしい。


 大柄な体が、扉の方へ向かう。


 ロッソ、バート、ニナも続く。


 リオも地図を掴んで走った。


     ◇


 ギルド裏手の側溝は、細い石組みの溝だった。


 普段は雨水と洗い水が流れるだけの場所だ。


 今、その水が黒く濁っている。


 側溝の隙間から、黒い泡が浮かぶ。


 ぷつり。


 ぷつり。


 そして、泡の中から細いものが伸びた。


 黒い腕。


 いや、腕のようなもの。


 肘も指も曖昧だ。


 だが、石畳の端を掴む動きだけは、人のそれに似ていた。


「下がれ!」


 バートが盾を前に出す。


 清掃係の男が尻もちをついたまま後ずさる。


 ロッソが斧を抜きかけた。


「切るな!」


 ニナが叫ぶ。


「飛ぶわ!」


「分かってる!」


「本当に?」


「今は分かってる!」


 ロッソは斧を構えたまま、踏み込まずに止まった。


 グレンが側溝の蓋を足で押さえる。


「リオ、これ昨日のやつか!」


「同じ系統です! ただ、形が……!」


 リオは言葉を切った。


 黒い腕が、石畳を掴む。


 引く。


 側溝の中から、肩のような塊が盛り上がる。


 首のような細い部分が伸びる。


 顔はない。


 黒い泡が二つ、目のように浮かんで、すぐに潰れた。


 口のような裂け目が開く。


 声は出ない。


 代わりに、腐った水の臭いが濃くなる。


「……人の形をしてやがる」


 グレンが低く言った。


「人じゃない」


 ニナが即座に返す。


「分かってる。分かってるけどよ」


 黒い人影は、完全には立ち上がれなかった。


 腕のようなものを伸ばす。


 石畳へ乗ろうとする。


 だが、側溝の幅が狭く、体が崩れる。


 それでもまた盛り上がる。


 出ようとしている。


 地上へ。


 ギルドのすぐ裏へ。


「凝固粉!」


 リオが木箱へ走る。


 ニナが小筒を受け取り、側溝の周囲に粉を撒いた。


 黒い腕の表面が鈍る。


 動きが遅くなる。


 だが、止まらない。


「足りない!」


「塩晶も!」


 リオは塩晶欠片の袋を渡した。


 ニナが黒い腕の周囲に散らす。


 じゅ、と小さな音がした。


 黒い表面が縮む。


 腕の先が崩れる。


 その瞬間、黒い人影は自分の崩れた部分を切り離した。


 細い泥の塊が側溝へ落ちる。


 残った本体は、少し小さくなって、なおも這い上がろうとする。


「傷んだ部分を捨てるやつだ!」


 ロッソが叫ぶ。


「こいつ、まだやる気かよ!」


「やる気じゃない。たぶん、反応です」


 リオは言いながら、自分でも確信はなかった。


 反応。


 本能。


 学習。


 怒り。


 どれも当てはまるようで、どれも違う。


「灰守は……」


 誰かが呟いた。


 リオは一瞬だけ心臓が跳ねた。


 だが、ここでは何も言えない。


 代わりに、グレンが叫んだ。


「灰色がいなくても、ここは俺たちで止める! 蓋を押さえろ! 踏むな、流すな、広げるな!」


「昨日からそればっかりだな!」


 ロッソが叫び返す。


「効くんだからいいだろ!」


 グレンの声に、鉄級冒険者たちも動いた。


 封鎖縄を広げる。


 住民を下げる。


 水桶を持った者を止める。


 ニナは汚染された石畳の周囲へ防汚布を広げた。


 バートは盾で黒い腕と人の間に立つ。


 その光景を、リオは記録しようとして、手を止めた。


 記録している場合ではない。


 だが、記録しなければ全体が見えない。


 リオは歯を食いしばり、短く書いた。


 ――ギルド裏手側溝、人型化。小型。


 ――凝固粉有効、完全停止せず。


 ――塩晶有効、損傷部切離し。


 ――地上化開始。


 書いた文字が、少し歪んでいた。


     ◇


 同じ頃、薬師街裏では、黒い泡が桶から溢れていた。


 ただの桶ではない。


 薬草を洗った後の廃水を一時的に溜めるためのものだ。


 そこから、黒い泥が這い出している。


「水で流すな!」


 ミラ工房から駆けつけたアッシュは、思わず叫んでいた。


 薬師街の男が桶を傾けようとして止まる。


「でも、溢れるぞ!」


「流したら広がるって言ってただろ!」


「お前、誰だ!」


「知らねぇよ! でも流すな!」


 自分でも雑な言い方だと思った。


 けれど、今はそれでよかった。


 アッシュは小さな火を指先に灯し、地面を見た。


 濡れた石。


 黒い泡。


 逃げる人。


 昨日と同じだ。


 ただし、今日は泡の動きが早い。


 光を避けるように、暗い棚の下へ伸びる。


「そっち行くな!」


 アッシュは棚の前に小さな灯りを置いた。


 泥が止まる。


 ほんの一瞬。


 その隙に、薬師街の男が桶から離れる。


「こっち! 火の列から外れるな!」


 アッシュは昨日より大きな声で叫んだ。


「走るな! 足元見ろ!」


 自分の声が震えているのが分かった。


 怖い。


 当たり前だ。


 黒い泥が、人の腕みたいなものを作っている。


 火で焼けば楽なのかもしれない。


 でも、燃やせば煙が出る。


 薬師街だ。


 何が混じっているか分からない。


 人が先に倒れる。


 だから、燃やさない。


 熱だけ。


 灯りだけ。


 アッシュは濡れた石畳へ手をかざした。


 弱い熱で、足元を乾かす。


 白い湯気が上がる。


 黒い泥が少し動きを鈍らせる。


「……できる」


 アッシュは小さく呟いた。


 そして、すぐに声を張った。


「こっちだ! ここ通れる!」


     ◇


 古い井戸跡では、水面が内側から盛り上がっていた。


 井戸はすでに使われていない。


 だが、地下水路と古い排水路がどこかで繋がっている。


 その水面が黒く濁り、丸く膨らむ。


 ぷくり。


 ぷくり。


 泡が弾けるたび、黒い泥が井戸の石組みに貼り付いた。


 見回りの衛兵が槍を構える。


「何だ、これは……」


 返事はない。


 井戸の中から、細い黒い指のようなものが伸びる。


 石を掴む。


 滑る。


 また掴む。


 地上へ出ようとしていた。


     ◇


 ギルドでは、報告が次々に入っていた。


「薬師街、黒い泡! 火属性の少年が避難誘導!」


「古い井戸跡、黒い腕状のもの!」


「倉庫街、床下から異臭と黒い筋!」


「職人街側、再噴出!」


 マーレは声を張る。


「場所ごとに分けろ! 同じ報告を重ねるな! 負傷者の有無を先に言え!」


 受付前には、地図が広げられていた。


 リオは走って戻り、息を整える間もなく赤い札を置く。


 ギルド裏手。


 薬師街。


 古い井戸跡。


 倉庫街。


 職人街。


 五か所。


 同時。


「……これ、もう依頼じゃないですね」


 マーレが低く言った。


 リオは頷いた。


「災害対応です」


 オルドが地図を見下ろした。


 そして、受付卓に拳を落とした。


 どん、と重い音が響く。


「通常依頼を停止する」


 その一言で、ギルド内の空気が変わった。


 採取依頼も、護衛依頼も、荷運びも。


 今この瞬間だけは、後回しになる。


「旧水路関連を緊急依頼に切り替える。鉄級は住民誘導と封鎖補助。銅級以上は各地点の押さえに回せ。治療費、危険手当、装備損耗はギルドで仮受けする」


 マーレが即座に書類を引き寄せた。


「緊急依頼として発令します」


「リオ、赤札を貼れ」


「はい」


 リオは受付横の引き出しを開けた。


 赤い札。


 普段は滅多に使わない。


 魔物の群れ。


 建物崩落。


 火災。


 広域捜索。


 街全体に危険が及ぶ時だけ使う札だ。


 リオはそれを、旧水路関連対応表の一番上に貼った。


 ――緊急依頼。


 冒険者の誰かが、低く呟いた。


「緊急クエストかよ……」


「そうだ」


 オルドが言った。


「これはもう下水掃除じゃない。街の底から来た災害だ」


 誰も笑わなかった。


 その時、別の報告が飛び込んだ。


「倉庫街の床下から、人みたいな黒いのが出た!」


 空気が凍った。


「人みたいな?」


 マーレが聞き返す。


 報告に来た男は、青い顔で頷いた。


「顔はない。でも、腕があって、肩があって……立とうとしてた」


 リオの脳裏に、つい先ほどギルド裏手で見たものが蘇る。


 側溝から伸びた黒い腕。


 石畳を掴む、曖昧な指。


 盛り上がる肩。


 顔のない首。


 泡立っては潰れる、目のようなくぼみ。


 あれが、倉庫街にも出た。


 ギルド裏手だけではない。


 旧水路の複数地点で、同じことが起きている。


「ギルドマスター」


 リオは言った。


「旧水路の複数地点で、人型化が始まっています」


「だろうな」


 オルドの声は重い。


「リオ、地図を持て。マーレ、衛兵詰所へ追加連絡。全域封鎖まではしない。だが、旧水路沿いの路地は止める」


「了解しました」


「鉄級は住民誘導だ。水路には絶対近づけるな」


「はい」


「銅級以上を三組、現場へ分ける。グレンたちは職人街とギルド裏手。ほかは井戸跡と倉庫街だ」


 オルドは一瞬だけ言葉を切った。


 そして、低く言う。


「死者を出すな」


 誰も笑わなかった。


     ◇


 倉庫街の床下から出た黒いものは、まだ人とは呼べなかった。


 板の隙間から腕のようなものを伸ばし、床板を掴む。


 引く。


 ぬるりと、肩のような塊が上がる。


 首。


 顔のない頭。


 黒い表面が泡立ち、目のようなくぼみが浮かんでは潰れる。


 倉庫番の男が、腰を抜かしていた。


「何なんだよ、これ……!」


 黒い人影は答えない。


 ただ、床へ這い出そうとする。


 その背後、床下の暗がりには、同じ黒い泡がいくつも浮かんでいた。


 ひとつではない。


 板の下で、いくつもの黒い塊が蠢いている。


     ◇


 リオはギルドの地図へ、黒い印を置いた。


 人型化確認。


 ギルド裏手。


 倉庫街。


 古い井戸跡、腕状。


 薬師街、泡と黒い筋。


 職人街、再噴出。


 印が増える。


 増えすぎる。


 地図の上で、旧水路の線が見えなくなりそうだった。


 その時、リオの足元で小さな音がした。


 ぷつり。


 リオはゆっくりと視線を下げた。


 ギルドの床板の隙間。


 そこから、小さな黒い泡が浮かんでいた。


 ありえない。


 ここは受付の内側だ。


 地下水路とは直接繋がっていないはずだ。


 けれど、床板の隙間から、黒い泡がもう一つ弾ける。


 ぷつり。


 ぷつり。


 黒い筋が、床板の影から細く伸びた。


 リオは一歩下がる。


「主任」


 声が少し掠れた。


 マーレが振り返る。


 オルドも見る。


 受付の床下から、細い黒い腕が伸びた。


 小さい。


 まだ、子どもの腕ほどもない。


 だが、床板の端を掴んだ。


 ぎしり、と木が鳴る。


 ギルドの中にいた全員が、息を止めた。


 黒い腕は、ゆっくりと体を持ち上げようとした。


 リオは、地図を見た。


 市場東。


 薬師街裏。


 職人街。


 古い井戸跡。


 倉庫街。


 ギルド裏手。


 そして、ギルドの床下。


 赤い印が、旧水路の線上で繋がっている。


 ひとつではない。


 もう外だけではない。


 街の底で、汚泥は一斉に立ち上がっている。


 オルドが低く言った。


「全員、下がれ」


 黒い腕が、もう一本、床板の隙間から伸びた。


 顔のない黒い塊が、受付の床下から盛り上がる。


 夜ではない。


 地下でもない。


 ギルドの中だ。


 リオは息を呑んだ。


 汚泥は、ついに街の中心へ手をかけた。

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