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ギルド職員は黒い底を見る

 職人街と薬師街の境に張られた封鎖縄は、朝から何度も張り直された。


 最初は、黒い泡が噴いた排水口の周囲だけだった。


 次に、細道の入口。


 その次に、薬師街へ抜ける曲がり角。


 そして昼前には、古い井戸跡へ続く小道までが封鎖範囲に入った。


「……広がってますね」


 リオは水路図と現場記録を見比べながら言った。


 昨日、アッシュが熱で乾かした石畳には、まだ白っぽく乾いた跡が残っている。


 そこには黒い筋が少ない。


 一方で、壁際、木箱の裏、看板の影、古い排水溝の縁には、細い黒い跡が増えていた。


 汚泥は、明るく乾いた場所を避けている。


 人が通る場所を避けている。


 踏まれにくい場所を選んでいる。


 そんなふうに見えた。


「昨日より嫌な逃げ方してやがる」


 グレン・ロックウェルが、排水口の蓋に足を乗せながら顔をしかめた。


「嫌な逃げ方、ですか」


「逃げる時に、こっちの嫌がる場所を通ってる。木箱の裏、壁の割れ目、店の敷居の下。手ぇ突っ込みたくないとこばっかだ」


「……確かに」


 リオは記録に書き加えた。


 ――明所・乾燥箇所を避ける傾向あり。


 ――壁際、器物下、石畳の隙間へ移動。


 ――人の通路を避けている可能性。


「可能性、ねぇ」


 グレンが鼻を鳴らす。


「そんな遠慮深い泥なら、最初から出てくんなって話だ」


「遠慮ではないと思います」


「だろうな」


 グレンは蓋から足を離さず、周囲に視線を走らせた。


 ロッソ・バーナムは古い木箱をどかしている。


 斧を使おうとして、ニナ・フォルクに睨まれ、手でどかしていた。


「俺の斧、今日も飾りかよ」


「壊す前に聞けって言われたでしょ」


 ニナは防汚布を腰に差し、薬箱を足元に置いている。


 その隣では、黒い汚れのついた布や靴がまとめて隔離されていた。


「でもよ、これ腐ってるぞ。割った方が早い」


「割った隙間から黒いのが出たら、あなたが全部吸い込むの?」


「それは嫌だな」


「じゃあ聞いてから」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


 ロッソが不満そうに口を閉じた。


 少し離れた場所では、バート・クラインが盾を持ち、住民たちを封鎖縄の外へ下げている。


「通れないのかい?」


「申し訳ありません。ギルド作業中です」


「うちの店が向こうなんだけど」


「付き添います。足元を見て、壁際には触れないでください」


 バートの声は静かだが、断る時はきちんと断る。


 住民も、不安そうにしながら従っていた。


 ギルドの鉄級冒険者たちは、水路へ入らず、封鎖縄と注意書きの前に立っている。


 昨日までなら、下水掃除は彼らの仕事だった。


 だが今は違う。


 黒い汚泥は、もうただの掃除対象ではない。


「リオ」


 マーレ主任が近づいてきた。


 手には新しい依頼票がある。


「またですか」


「まただ」


 リオは受け取った。


 薬師街裏の排水桶に黒い泡。


 古い井戸跡の水面が濁った。


 倉庫街側の床下から異臭。


 ギルド裏手の側溝にも黒い筋。


 リオの指が、一瞬だけ止まった。


「ギルド裏手にも?」


「ああ。今は清掃係が近づかないよう止めている」


「……近いですね」


「だから嫌なんだ」


 マーレはいつも通り落ち着いている。


 だが、声の底に緊張があった。


「ギルドマスターは?」


「来る」


 答えるように、背後から低い声がした。


「状況は」


 オルドだった。


 大きな体に、普段より重い雰囲気をまとっている。


 リオはすぐに地図を広げた。


「昨日の小規模噴出以降、発生地点が増えています。市場東、職人街、薬師街裏、古い井戸跡、ギルド裏手。いずれも旧水路沿いです」


「水の流れは」


「水流だけなら、こちらへ流れるはずです」


 リオは地図の青い線を指した。


「ですが、黒い汚泥は壁際や古い枝道を伝っているようです。流されているというより、逃げ道を選んでいるように見えます」


「逃げ道か」


 オルドは眉を寄せた。


「追い詰めている、ということでもあるな」


「はい。ただ、その分、別の場所から出る可能性があります」


「やはり、下を見なければ終わらんか」


 オルドはグレン隊を見た。


「グレン」


「おう」


「入口側を押さえろ。今日も奥へ入るな」


「了解。蓋と人と荷物の番だな」


「そうだ。ロッソ」


「はいはい、壊す前に聞く」


「分かっているなら言わせるな」


「言われる前に言ったんだよ」


 ロッソは斧を肩に担ぎ直してから、ニナに睨まれ、そっと下ろした。


 オルドは続ける。


「バートは住民の動線。ニナは処置と凝固粉。鉄級は封鎖補助だ。水路に入るな。絶対にだ」


「了解」


 それぞれが返事をする。


 リオは封泥杭の入った束を見た。


 ミラ工房から届いた新しい試作品。


 表向きはギルド用の土属性補助具だ。


 だが、本格的に使うにはまだ難しい。


 土属性に適性があり、現場の流れを読める者でなければ、ただ水路を詰まらせるだけになる。


 灰守用。


 実際には、そう言った方が近い。


「リオ」


 オルドが視線を向けた。


「その杭は、今ここで使えるか」


「地上側で試す程度なら。ですが、水路内で本格的に使うのは危険です」


「理由は」


「完全に塞ぐと逆流します。水の逃げ道を残しながら、汚泥だけを鈍らせる必要があります」


「つまり、力任せに突っ込む道具ではない」


「はい」


 オルドは頷いた。


「なら、昼は使わん。下手に触れば広がる」


「はい」


「夜に、少数で試す」


 リオは一瞬だけ黙った。


 オルドは、その沈黙をどう受け取ったのか、少しだけ目を細めた。


「何か言いたそうだな」


「……水路の奥に、閉鎖済みの地下倉庫があります」


 リオは地図の古い印を示した。


「図面上では塞がれています。ただ、発生地点をつなぐと、この周辺に集まっているように見えます」


「地下倉庫か」


「はい。そこに何かある可能性があります」


 依頼票と水路図を重ねるほど、旧地下倉庫の周辺だけが妙に浮かび上がる。


 そこに何かがある。


 リオはそう感じていた。


 ただし、根拠として出せるのは依頼票と水路図だけだ。


 だから、リオは地図の上で旧地下倉庫の印を指した。


「ここです」


 オルドは地図をしばらく見つめた。


「夜に確認する」


「はい」


「ただし、ギルドの人員は入れない。今の段階で水路奥に人を入れるのは危険すぎる」


 リオは頷いた。


 その判断は正しい。


 そして、リオには別の手段がある。


 その時だった。


 排水口の奥から、低い音がした。


 ごぼり。


 黒い泡が、鉄格子の隙間から浮かび上がる。


「来たぞ!」


 グレンが蓋を踏み込む。


 ロッソが古い木箱を退け、バートが住民をさらに下げる。


 ニナは凝固粉の小筒を構えた。


「壁際から撒きます!」


 リオが叫んだ。


「昨日、そちらへ逃げています!」


「分かってる!」


 ニナが白灰色の粉を、排水口の周囲ではなく壁際へ先に撒いた。


 黒い泡は排水口から伸び、昨日と同じように壁の隙間へ向かう。


 だが、その先に凝固粉の線があった。


 黒いぬめりの動きが鈍る。


 止まらない。


 ただ、迷うように表面が波打つ。


「効いてる!」


 ロッソが言った。


「少しだけよ!」


 ニナが追加の粉を撒く。


 その瞬間、排水口の別の隙間から、細い黒い筋が伸びた。


 昨日より細い。


 糸のような黒い筋。


 それがロッソの斧の柄へ絡みついた。


「うおっ!」


 ロッソが斧を引こうとする。


 黒い筋は、ぬるりと柄にまとわりつく。


 引けば引くほど、細く伸びる。


「切れないのか!」


「切るな! 飛ぶ!」


 ニナが叫んだ。


 リオの背筋が冷たくなる。


 粘糸。


 黒蝶の粘糸弾。


 汚泥は、絡め取る形を覚えている。


「ロッソ、手を離せ!」


 グレンが叫ぶ。


「斧だぞ!」


「命より高い斧なら、抱いて寝ろ!」


「くそっ!」


 ロッソは斧から手を離し、後ろへ跳んだ。


 黒い筋は斧に絡みついたまま、石畳の隙間へ引き込もうとする。


「させるか!」


 グレンが古い木箱を投げ、その上から斧ごと押さえ込んだ。


「ニナ!」


「今!」


 凝固粉が撒かれる。


 黒い筋は鈍り、斧の柄に絡みついたまま動きを止めた。


 完全ではない。


 じわじわと震えている。


 だが、逃げる速度は落ちた。


「……昨日より賢くなってねぇか」


 ロッソが汗を拭った。


「賢いかどうかは分からない」


 リオは小さく言った。


「でも、昨日のことを使っています」


 グレンが顔をしかめる。


「泥が、か?」


「そう見えます」


「嫌な見え方だな」


 オルドの声が飛ぶ。


「全員、無理に倒そうとするな! 広げるな、踏むな、流すな! ここは止めるだけでいい!」


 冒険者たちが応じる。


 鉄級は封鎖縄の外で住民を下げる。


 バートは盾で通路を作る。


 ニナは粉を使いすぎないよう調整する。


 ロッソは斧を回収しようとして、ニナに止められた。


「まだ触らない」


「俺の斧……」


「生きてるだけまし」


「慰め下手かよ」


「事実よ」


 グレンは排水口を押さえながら、黒い泡を睨んでいた。


 やがて、泡の勢いは弱まった。


 引いていく。


 排水口の奥へ。


 壁の隙間へ。


 古い水路の下へ。


「……引いた?」


 バートが言った。


 オルドは首を振る。


「違う。場所を変える」


 リオも同じことを思った。


 逃げたのではない。


 別の道を探しに行った。


 いや。


 もしかすると、こちらの対応を見るだけ見て、引いたのかもしれない。


 泥が覚える。


 その言葉が、リオの頭から離れなかった。


     ◇


 その夜。


 リオは自室で、机の上に水路図を広げていた。


 市場東。


 職人街。


 薬師街裏。


 古い井戸跡。


 ギルド裏手。


 赤い印は増え続けている。


 そして、その中心に近い場所に、図面上では閉鎖済みと記された旧地下倉庫があった。


 リオは深く息を吸った。


 今日の目的は二つ。


 灰守で、地上側の流れを押さえる。


 黒蝶で、旧地下倉庫方面を探る。


 ただし、どちらも無理はしない。


 倒すためではない。


 情報を得るため。


 広げないため。


 リオは足元の影を見た。


 影が揺れる。


 黒い影から、黒蝶ファントムが立ち上がった。


 同時に、もう一つの影が重く膨らむ。


 灰色の外套。


 厚い防護具。


 灰守バスティオン


 二体同時展開は、まだ体の奥が軋む。


 だが、今日は必要だ。


 黒蝶は探れ。


 灰守は止めろ。


 本体は待て。


 出す前に、役割を決める。


 それだけで、ほんの少しだけ負担が違う気がした。


「行って」


 リオが小さく言う。


 黒蝶と灰守は、別々の夜へ消えた。


     ◇


 灰守は職人街の裏手に立っていた。


 昼間、黒い泡が上がった排水口の近く。


 人通りはない。


 封鎖縄の外には、ギルドの注意札が揺れている。


 灰守はミラの試作した防汚外套をまとっていた。


 厚手で、少し重い。


 黒蝶の外套のように夜へ溶けるものではない。


 汚れを弾き、飛沫を防ぎ、救助対象に見つけてもらうための灰色だ。


 ただし、まだ完成品ではない。


 あくまで試作。


 灰守は封泥杭を取り出した。


 短い杭に刻まれた細い溝へ、土属性の魔力を流す。


 地面に打ち込む。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 完全に塞がない。


 水は逃がす。


 汚泥だけを鈍らせる。


 土の中の流れを、指先で探るように読む。


 地面の下には、水がある。


 石がある。


 古い管がある。


 その隙間を、黒いものが動いている。


 灰守は膝を沈めた。


 押し潰すのではない。


 押し返しすぎても駄目だ。


 力任せに土を盛れば、水が逆流する。


 汚泥だけを引っかけ、人のいる方へ出さない。


 水は細く逃がす。


 泥だけを止める。


「……ここだ」


 灰守は四本目の杭を、少し離れた場所へ打ち込んだ。


 排水口の奥で、黒い泡の勢いが鈍る。


 成功。


 だが、すぐに黒い筋が伸びた。


 杭へ絡みつく。


 溝へ入り込もうとする。


 昼間、斧に絡んだものと同じ動き。


 灰守は一本の杭を諦めた。


 絡ませる。


 そこへ汚泥を誘う。


 その間に、別の杭で本命の流れを押さえる。


 囮。


 流路。


 逃げ道。


 現場の地図を頭に描きながら、灰守は土を動かした。


 じわり、と地面の下から圧力が返ってくる。


 水ではない。


 ただの泥でもない。


 何かが、こちらの作った流れを嫌がっている。


 避けようとしている。


 通れないと分かると、別の隙間へ向かう。


 灰守は杭を打ち直す。


 汗がにじむ。


 重い。


 だが、まだ止められる。


「……止める」


 灰守は低く呟いた。


 その声は、夜の路地に吸い込まれた。


     ◇


 黒蝶は、旧水路の奥へ降りていた。


 防毒面越しにも、臭気は強い。


 湿った空気。


 腐敗した水。


 薬液。


 古い木材。


 そして、黒い汚泥の生臭い気配。


 手には、ミラが調整した試作の探響弾。


 鳴響弾を改良し、低く深い振動を出すようにした弾だ。


 人を崩すためではない。


 見えないものを探るための弾。


 黒蝶は分岐点で足を止めた。


 壁際に黒い筋。


 天井に薄い膜。


 だが、すぐには襲ってこない。


 隠れている。


 待っている。


「……気持ち悪いな」


 黒蝶は小さく呟き、探響弾を撃った。


 どん、と低い音が水路を震わせる。


 石。


 水。


 木材。


 鉄。


 泥。


 反響が返る。


 黒蝶は風属性で、空気の震えを拾った。


 硬い反応がある。


 ひとつ。


 いや、二つ。


 三つ。


 もっと。


 壁の裏。


 床下。


 水路の奥。


 旧地下倉庫の方。


「……核が複数?」


 普通のスライムなら、核はひとつ。


 大きくなっても、中心はある。


 だが、この汚泥の反応は違った。


 硬いものが散っている。


 核なのか。


 石なのか。


 金属片なのか。


 それとも、取り込んだ別の何かか。


 黒蝶は二発目の探響弾を撃った。


 反響が深く沈む。


 その中に、明らかに違う音が混じった。


 細い。


 丸い。


 輪のような硬質反応。


 黒蝶の背筋が冷えた。


「……輪?」


 脳裏に、夜鴉の黒い装具がよぎる。


 黒い腕輪。


 人を縛り、力を歪め、命令のようなものを刻み込んだ嫌な魔道具。


 まさか。


 そう思った瞬間だった。


 水路の奥が、波打った。


 黒い泥が、壁から剥がれる。


 天井から落ちる。


 床から盛り上がる。


 逃げるためではない。


 隠れるためでもない。


 押し返すために。


「……見つけられたのが、嫌か」


 黒蝶は眠り銃を構えた。


 凝固弾はまだ完全ではない。


 塩晶弾も数が少ない。


 それでも、撃つしかない。


 黒い泥が細く伸びる。


 糸のように。


 黒蝶の足元へ。


 壁の側面へ。


 天井の隙間へ。


 逃げ道を塞ぐように。


 黒蝶は凝固弾を撃った。


 白灰色の粉が広がる。


 黒い泥の表面が鈍る。


 その隙に後退する。


 倒すためではない。


 見るためだ。


 持ち帰るためだ。


 黒蝶はもう一度、探響弾を撃った。


 低い音が、旧地下倉庫の扉の向こうへ沈む。


 返ってきた。


 複数の硬い反応。


 その中に、輪の反応がいくつもある。


 ひとつではない。


 欠片だ。


 黒い腕輪のようなものが、砕け、散り、泥の中に沈んでいる。


「夜鴉の残骸を、喰ったのか……?」


 黒蝶の言葉に答えるものはいない。


 だが、汚泥は反応した。


 水路の奥全体が、低く震える。


 まるで、怒ったように。


 黒蝶はその言葉を心の中で否定しようとした。


 泥が怒るはずがない。


 汚れに感情があるはずがない。


 だが、足元の黒い水面は確かに膨れ上がり、石壁を叩き、扉を軋ませた。


 隠れ場所を照らされ。


 逃げ道を塞がれ。


 硬いものを探られ。


 ようやく、こちらを敵だと認識したように。


     ◇


 同じ頃。


 地上で、灰守の打ち込んだ封泥杭が軋んだ。


 一本。


 二本。


 三本。


 土の奥から、黒い圧力が返ってくる。


 押している。


 水ではない。


 ただ流れているのでもない。


 押し返している。


 灰守は杭に手を添え、膝を沈めた。


「……止められて、怒ったか」


 冗談のような言葉だった。


 だが、声は笑っていなかった。


 封泥杭の一本に、黒い筋が絡みついた。


 囮にした杭ではない。


 本命の流れを押さえている杭だ。


 汚泥は、そこを選んだ。


 灰守は歯を食いしばる。


 地面の下で、何かが広がる。


 広がるだけではない。


 押し上げてくる。


 職人街の排水口が泡立つ。


 薬師街裏の古い桶が、内側から黒く濁る。


 古い井戸跡の水面が、ぷくりと膨らむ。


 ギルド裏手の側溝でも、小さな泡が弾けた。


 夜の街はまだ眠っている。


 誰も、それを見ていない。


 だが、街の底では、確かに何かが動いていた。


     ◇


 旧地下倉庫の扉の向こうで、黒い泥が盛り上がった。


 黒蝶は後退しながら、眠り銃を構え続ける。


 効かないと分かっている。


 それでも、構えずにはいられなかった。


 泥は、隙間を覚えた。


 絡むことを覚えた。


 傷んだものを捨てることを覚えた。


 光を避けることを覚えた。


 硬いものを散らすことを覚えた。


 そして今。


 見つけられたことを、覚えた。


 塞がれたことを、覚えた。


 追われたことを、覚えた。


 黒い汚泥が、地下倉庫の床いっぱいに膨れ上がる。


 逃げるためではない。


 隠れるためでもない。


 押し返すために。


 泥が、立ち上がる。


 腕。


 肩。


 首。


 顔はない。


 それでも、泥は顔を作ろうとした。


 黒い表面が泡立つ。


 目のようなくぼみが二つ浮かび、すぐに潰れた。


 口のような裂け目が開き、声にならない泡を吐いた。


 人の形を真似ている。


 だが、人ではない。


 人になろうとしているわけでもない。


 人のいる場所へ出るために、人の形を選んだだけだった。


 黒蝶には、それが分かった。


 これは、逃げているのではない。


 怒っている。


 探響弾の余韻が、さらに奥から返ってきた。


 地下倉庫の奥。


 市場東の水路。


 薬師街裏。


 古い井戸跡。


 ギルド裏手の側溝。


 街の底のあちこちで、硬いものが震えている。


 ひとつではない。


 中心は、もうひとつではない。


 そして、地上へ出ていないだけだった。


 地上で、封泥杭がまた一本、軋んだ。


 ぎしり、と。


 夜明けまで、あと少し。


 街の底で、汚泥が一斉に立ち上がろうとしていた。

本日の連続投稿は以上となります。

ここまで読んでいただいてありがとうございます。

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