ギルド職員は火を借りる
下水関連の依頼は、朝の時点で通常依頼から外された。
受付横の依頼板には、いつも通り採取や護衛、荷運びの紙が並んでいる。
だが、その隣に新しく、別枠の板が立てられていた。
――旧水路関連対応表。
リオが朝一番で書いた見出しだ。
その下には、場所ごとに色分けされた札が並んでいる。
市場東。
薬師街裏。
職人街共同洗い場。
古い井戸跡。
ギルド裏手側溝。
それぞれに、封鎖中、確認待ち、清掃禁止、住民注意喚起、衛兵連絡済み、といった札が付いていた。
「なんか、急に大ごとになってねぇか?」
依頼板の前で、若い鉄級冒険者がぼやいた。
「昨日まで下水掃除だっただろ」
「昨日までな」
隣の冒険者が肩をすくめる。
「今日からは、下水掃除っぽい何かだ」
「嫌な昇格だな……」
リオはその会話を聞きながら、手元の紙を整えた。
鉄級冒険者向けの注意事項。
水路へ降りないこと。
黒いぬめりを見つけても触れないこと。
棒や刃物でつつかないこと。
住民、特に子どもを側溝や排水口に近づけないこと。
異臭、黒い泡、動く汚れを見つけた場合は、場所を記録してすぐ報告すること。
書いているうちに、リオは少しだけ頭が痛くなった。
注意事項が多い。
だが、ひとつでも抜けると事故になる。
ギルドの仕事は、派手な討伐だけではない。
危ないものに、危ないと分かる札をつけること。
危ない場所に、知らない人を近づけないこと。
そういう地味な手順が、街を守る。
「リオ、そっちは?」
マーレ主任が声をかけてきた。
「鉄級向けの注意書きはできました。こちらが住民向け、こちらが衛兵詰所へ送る分です」
「早いな」
「昨日から書くことが増えていますので」
「嬉しくない慣れ方だな」
「はい」
リオが苦笑すると、マーレも小さく息を吐いた。
受付の奥では、ギルドマスターのオルドがグレン隊を前にしている。
グレン・ロックウェル。
ロッソ・バーナム。
バート・クライン。
ニナ・フォルク。
四人とも装備は整っているが、表情は明るくない。
原因は分かりきっている。
今日の仕事も臭いからだ。
「市場東は封鎖継続。職人街側は確認だけだ。奥まで入るな」
オルドが地図を指しながら言った。
「黒いぬめりが見つかった場合は、無理に剥がすな。凝固粉を試すなら、ニナの指示を受けろ」
「了解」
グレンが頷く。
「鉄級は?」
「水路には降ろさん。封鎖線と住民誘導だ」
「まあ、妥当だな」
ロッソが斧の柄に手を置きながら言った。
「下水掃除で命張るには、ちょっと話が臭すぎる」
「臭いは関係あるのか?」
バートが静かに聞く。
「あるだろ。命張るなら、せめてもうちょっといい匂いの場所がいい」
「贅沢ね」
ニナが淡々と言った。
「命を張らないようにするのが、今日の仕事よ」
「分かってるって」
「分かってない顔をしてる」
「俺の顔を悪く言うな」
「顔じゃなくて、手が斧に伸びてる」
ロッソは黙って手を離した。
グレンが笑う。
「今日は壊す前に聞くんだったな」
「昨日も言われた」
ロッソは不満そうに鼻を鳴らした。
「俺は斧を持った問題解決法じゃねぇ」
「自覚してるじゃない」
「うるせぇ」
リオはそのやり取りを聞きながら、机の上に置かれた木箱へ視線を落とした。
ミラ工房から届いた試作品だ。
凝固粉の小筒。
簡易防汚布。
防塵布付きの簡易面。
塩晶の欠片を混ぜた小袋。
どれも華やかな道具ではない。
むしろ見た目は地味だ。
しかし、昨日までの塩と火だけの対応よりはずっといい。
木箱の横には、リオが作った手順書が置いてある。
――凝固粉は黒いぬめりの周辺から撒くこと。
――水で流す前に流出先を確認すること。
――防汚布は付着物ごと包んで隔離すること。
――簡易面は臭気を完全に防ぐものではない。異臭が強い場合は撤退。
――火を使用する場合は、必ず換気と避難路を確認。
マーレがそれを見て言った。
「秘密兵器ではないな」
「はい。秘密でも兵器でもないです」
「いいことだ」
オルドも木箱を覗き込んだ。
「使い方は?」
「簡単にしてあります。ですが、まだ試作品です。効くかどうかは現場次第です」
「試作品を現場に出すのは好きじゃないが、塩と根性だけよりはましだな」
「根性で下水は綺麗になりません」
「それを言うな。根性が売りの冒険者が泣く」
グレンが胸を張る。
「俺は泣かねぇぞ」
「お前は泣く前に叫ぶだろう」
オルドが言うと、周囲の冒険者たちが笑った。
空気が少しだけ軽くなる。
だが、その軽さはすぐに破られた。
ギルドの扉が勢いよく開いた。
「冒険者さん! 頼む、誰か来てくれ!」
飛び込んできたのは、職人街の若い男だった。
顔が青い。
息も上がっている。
「職人街と薬師街の境の排水口から、黒い泡が出てる! 子どもが滑って、婆さんが臭いで倒れかけた!」
笑い声が止まった。
オルドの声が即座に飛ぶ。
「場所は」
「曲がり硝子工房の裏手! 薬師街へ抜ける細道のとこだ!」
「衛兵に連絡。封鎖準備。グレン隊、出ろ」
「おう!」
グレンが木箱を担ぐ。
ロッソが斧を背負い直す。
バートが盾を持つ。
ニナは薬箱と簡易面の束を抱えた。
「リオ」
マーレが言った。
「現場記録に行けるか」
「はい」
「前に出るな。記録係が滑ったら笑えない」
「気をつけます」
「本当に気をつけろ」
マーレの声は冗談ではなかった。
リオは頷き、手順書と地図を抱えて走り出した。
◇
職人街と薬師街の境は、細い路地が入り組んでいる。
金属を打つ音。
薬草を煮る匂い。
洗浄水の流れる溝。
普段から雑多な場所だ。
だが、今日の臭いは明らかに違った。
「うっ……」
ロッソが顔をしかめる。
「昨日よりひでぇぞ」
「喋ると吸うわよ」
ニナが簡易面を渡す。
「全員つけて。完全には防げないけど、直接吸うよりまし」
「助かる」
グレンは簡易面をつけ、路地の奥を見た。
排水口の周りで、黒い泡が弾けている。
石畳は濡れ、ぬめっていた。
近くには人だかり。
倒れかけた老婆を、近所の職人が支えている。
子どもが一人、尻もちをついて泣いていた。
「バート!」
「ああ」
バートが盾を前に出し、人だかりを下げる。
「下がってください。足元が滑ります。走らず、壁沿いに」
声は大きくない。
だが、通る。
グレンが老婆の方へ向かった。
「大丈夫か、ばあさん」
「臭いが……少し、目が回って……」
「ニナ!」
「こっちへ。座らせて。水を飲ませるのは少し待って」
ニナは老婆の顔色を見て、簡易面を当てた。
「臭気を吸っただけなら、外気に出せば落ち着く。服に黒い汚れは?」
「裾に少し」
「触らないで。布ごと包む」
ニナは防汚布を取り出し、老婆の裾についた黒い汚れを布ごと包んだ。
水で流さない。
こすらない。
包んで、離す。
昨日から繰り返している手順だ。
「おい、水をかければいいだろ!」
近くの男が桶を持ち上げた。
「待ってください!」
リオが思わず声を上げた。
「流した先で広がるかもしれません。排水路へ流さないでください」
「でも、汚れてんだぞ!」
「見えなくなるだけです。消えるとは限りません」
男は戸惑った。
そこへニナがはっきり言った。
「桶を置いて。今は流さない。流すなら流出先を塞いでから」
「……分かった」
男は桶を下ろした。
リオは胸をなで下ろす。
その時、別の悲鳴が上がった。
「また泡が!」
排水口から、黒い泡がぷつぷつと増えていた。
石畳の隙間を伝って、黒い筋が伸びてくる。
ゆっくり。
だが確実に。
壁際へ。
人の足元へ。
「ロッソ、蓋は?」
「開けるか?」
「いや、押さえろ」
グレンが言った。
「下から出てきてる。開けたら増えるかもしれねぇ」
「了解」
ロッソは斧ではなく、柄と足を使って鉄格子の蓋を押さえた。
バートが盾で人の流れを作る。
「こちらへ。石の乾いている場所を通ってください」
「乾いてる場所なんか少ねぇぞ!」
誰かが叫んだ。
その通りだった。
細い路地の石畳は、洗浄水と黒い泡で濡れている。
逃げようとした人が足を滑らせ、別の人が支える。
人が集まりすぎれば、転倒が連鎖する。
リオは地図と現場を見比べた。
この路地から出る道は三つ。
正面は排水口に近い。
右は薬師街側で、臭気が流れている。
左は職人街の広場へ続くが、足元が濡れている。
「左へ誘導してください! ただし、走らせないで!」
リオが叫ぶ。
バートが即座に盾を向ける。
「左へ。走るな。壁に手をつけて進め」
グレンも声を張った。
「聞こえたな! 走るやつは俺が担いで戻すぞ!」
「なんで戻すんだよ!」
ロッソが突っ込む。
「脅しだ!」
「雑!」
その時、ミラ工房の方から、木箱を抱えた少年が走ってきた。
アッシュだった。
「ミラが追加の布と面、持ってけって!」
息を切らしながら、アッシュは木箱を差し出す。
リオは驚いた。
「アッシュ、ここは危ない」
「分かってる! 置いたら戻る!」
そう言いながらも、アッシュの目は現場を見ていた。
黒い泡。
濡れた石畳。
逃げようとして滑る人。
臭気で顔をしかめる老人。
火属性の少年は、一瞬だけ唇を噛んだ。
「……水で流すなって言ってたよな」
「うん」
「燃やすのも駄目だよな」
「煙が出る。地下の空気も悪くなる」
「じゃあ、足元だけなら?」
リオはアッシュを見た。
「足元?」
「濡れてるから滑るんだろ。燃やさない。熱だけ。表面だけ乾かす」
「できるの?」
「たぶん」
その返事は、頼もしいとは言いがたかった。
けれど、アッシュの目は逃げていなかった。
リオは一瞬迷い、すぐに言った。
「左の通路。人が通る幅だけ。火は出さない。煙が出たらすぐ止める」
「分かった」
「無理はしないで」
「それ、リオに言われたくない」
アッシュは短く返し、濡れた石畳へ向かった。
右手を低くかざす。
炎は出ない。
ただ、空気がわずかに揺れた。
濡れて黒っぽくなっていた石畳の表面から、薄い湯気が上がる。
じゅう、という音ではない。
焦げる臭いもない。
ゆっくり。
じわりと。
石の表面だけが乾いていく。
「こっち!」
アッシュが叫んだ。
「ここ、通れる! 走るな! 滑るぞ!」
子どもが泣きながら立ち上がる。
その手を近くの職人が引く。
老婆を支えた男が、乾いた石の上を慎重に進む。
バートが盾で人の流れを守る。
ニナが汚れた裾を包む。
グレンが重い荷箱をどかす。
ロッソが蓋を押さえながら叫ぶ。
「おい小僧! もうちょい先も乾かせるか!」
「小僧じゃねぇ!」
「じゃあ火の小僧!」
「もっと嫌だ!」
言い返しながら、アッシュはさらに先の石畳へ熱を通した。
リオはその様子を見ていた。
炎ではない。
火柱でもない。
敵を焼く力でもない。
人が足を置ける場所を作る熱。
人が進む方向を示す、小さな力。
「……火で追い払っているんじゃない」
リオは小さく呟いた。
マーレに渡す現場記録の紙に、手が勝手に動く。
――火属性少年、熱による石畳乾燥。避難路確保に有効。
書いてから、リオは少しだけ苦笑した。
まるで正式な報告書だ。
けれど、間違ってはいない。
「アッシュ!」
リオが声を上げる。
「そこから左の壁際に、小さい灯りを出せる?」
「灯り?」
「煙が出ないくらい小さく。人が進む目印になるように」
「やってみる!」
アッシュは指先に小さな火を灯した。
ろうそくほどの火。
それを壁際にある古い鉄の飾り、壊れた看板の金具、石のくぼみへ、ひとつずつ移す。
燃やすためではない。
照らすための火。
薄暗い路地に、小さな灯りが点々と並ぶ。
「火の列から外れるな!」
アッシュが叫ぶ。
「足元見ろ! 走るな!」
その声に、人々が動いた。
明るい方へ。
乾いた方へ。
安全な方へ。
リオは、その光景を見ていた。
黒蝶なら、悪人を眠らせる。
灰守なら、崩れるものを支える。
では、アッシュは。
この少年は、何をするのか。
答えはまだ早い。
けれど、その片鱗は今、路地に並んだ小さな火の中にあった。
人を焼く火ではない。
人を導く火だ。
「リオ!」
ニナの声で、リオは我に返った。
「凝固粉、試すわ!」
「はい!」
リオは木箱から小筒を取り出し、ニナへ渡した。
ニナは排水口の周囲、黒い泡が広がる手前に、慎重に粉を撒く。
白灰色の粉が黒いぬめりに触れる。
ぬめりの表面が、少しだけ鈍くなった。
動きが遅くなる。
「効いてる!」
ロッソが叫んだ。
「少しだけね。完全には止まらない!」
ニナが返す。
「グレン、蓋を押さえたまま! ロッソ、周りの木箱をどかして。水を流すな!」
「はいはい!」
ロッソが今度は斧を使わず、手で木箱をどかす。
「壊さない俺、偉い!」
「普通よ!」
グレンは排水口の蓋を足で押さえながら、肩で笑った。
「よし、全員聞け! 今日は勝つ必要はねぇ! 広げず、転ばせず、吸わせずに済ませりゃ俺たちの勝ちだ!」
その声に、冒険者たちが応じる。
鉄級たちも動いていた。
水路には入らない。
だが、住民を下げる。
注意書きを配る。
濡れた場所に縄を張る。
役目はある。
リオはそれを見て、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
黒蝶だけでは、この場は回らない。
灰守だけでも、人は誘導できない。
ギルドが動いている。
街を動かしている。
それが、今この場を支えている。
やがて、黒い泡の勢いは弱まった。
完全に消えたわけではない。
排水口の奥には、まだ黒いぬめりが残っている。
だが、地上へ広がる勢いは抑えられた。
避難者に重傷者はない。
臭気でふらついた者も、ニナの処置で落ち着いた。
子どもは泣き疲れて、母親に抱えられている。
アッシュは壁に手をつき、肩で息をしていた。
「アッシュ」
リオが近づくと、アッシュは顔を上げた。
「倒れてねぇぞ」
「まだ何も言ってない」
「言いそうだった」
「……ありがとう。助かった」
アッシュは目をそらした。
「別に。火、出しただけだし」
「火で道を作った」
「……そういう言い方、むずがゆい」
「本当のことだから」
アッシュは少し黙った。
それから、まだ灯っている小さな火の列を見た。
自分が作った光。
人がそこを見て、そこへ向かって、逃げていった道。
「……燃やさなくても、役に立つんだな」
ぽつりと、アッシュが言った。
リオはすぐには返さなかった。
その言葉は、アッシュ自身が聞くべきものだと思ったからだ。
少ししてから、リオは頷いた。
「うん。役に立った」
アッシュはまた目をそらした。
「なら、いい」
◇
その夜。
職人街と薬師街の境にある古い水路の奥で、黒い泥は小さく震えていた。
凝固粉に触れた部分は重い。
塩晶の欠片に触れた部分は縮む。
乾いた石の上では、進みが遅い。
小さな火の近くでは、表面がひりつく。
泥は火を嫌った。
強い火ではない。
小さな火だ。
壁際に並んだ、頼りない灯り。
だが、人間はそこへ向かった。
暗い場所から、明るい場所へ。
濡れた場所から、乾いた場所へ。
狭い場所から、開けた場所へ。
黒い泥は、光へ近づかなかった。
けれど、見ていた。
明るい場所には、人が集まる。
乾いた場所には、足が乗る。
灯りが並べば、人は道だと思う。
泥は、明るい場所を避けることを覚えた。
そして。
人間が、明るい場所へ集まることも覚えた。




