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ギルド職員は道具を洗う

 翌朝、リオはいつもより少し早く目を覚ました。


 正確には、眠りが浅かった。


 鼻の奥に、まだ臭いが残っている。


 腐った水。


 薬液。


 古い油。


 湿った石。


 それから、黒いぬめりが手袋の縫い目へ染み込もうとした感触。


 布団の中で、リオはそっと右手を握った。


 手袋は削って捨てた。


 黒蝶の外套も、汚染された部分を切り離して処分した。


 それでも、記憶は戻っている。


 当然だ。


 黒蝶が見たもの、触れたもの、嗅いだものは、戻ればリオの中に統合される。


 便利な力だ。


 けれど、時々ひどく不快でもある。


「……臭いまで戻らなくていいのに」


 リオは小さく呟いて、起き上がった。


 机の上には、昨夜のうちに書いたメモがある。


 市場東排水口。


 壁際を移動。


 粘糸弾、一時的に有効。ただし浸食される。


 黒膜弾、効果薄。


 眠り弾、使用価値低。


 鳴響弾、反響あり。奥に硬質反応。


 塩、一部有効。ただし損傷部を切り離す。


 隙間に逃げる。


 天井にも存在。


 最後の一行で、リオの手が止まった。


 ――人間用の制圧装備では足りない。


 それが昨夜の結論だった。


 黒蝶の装備は、悪人を殺さず止めるためのものだ。


 眠らせる。


 縛る。


 視界を奪う。


 音で崩す。


 相手が人間なら、それでいい。


 けれど、汚泥は眠らない。


 目がない。


 粘糸に絡め取られても、染み込んでくる。


 恐怖も痛みも読めない。


 相手が違えば、道具も違う。


 当たり前のことを、今さら突きつけられた気分だった。


     ◇


 ギルドに着くと、受付卓にはすでに依頼票が積まれていた。


 マーレ主任がそれを仕分けている。


 顔色は普段通りだが、目元にはわずかな疲れがある。


「おはようございます」


「おはよう。リオ、こっちを頼む」


「はい」


 渡されたのは、昨日から続く下水・側溝関連の依頼だった。


 ただし、昨日とは内容が変わっている。


 単なる清掃依頼ではない。


 側溝の黒いぬめりが、掃除しても戻ってくる。


 排水桶の黒い泡が、夜になると増える。


 職人街の裏路地で、石畳の隙間から黒い筋が伸びていた。


 市場東の排水口封鎖後、近くの別の排水口から異臭。


 薬師街の古い排水溝で、小型スライム討伐依頼が中断。


「……難しくなっていますね」


「そうだな」


 マーレは短く答えた。


「昨日までは、臭い仕事だった。今日は、危険かもしれない臭い仕事だ」


「嬉しくない昇格ですね」


「ギルドの依頼にはよくある」


 リオは水路図を広げた。


 赤い印は、昨日より増えている。


 ただし、無秩序に増えているわけではない。


 封鎖した市場東の周囲から、別の枝道へ広がっている。


 まるで、塞がれた道を避けているように。


「市場東を封鎖した後、こことここに出ています」


 リオは地図を指した。


「水路の流れだけなら、こちらへ出る方が自然です。でも、実際には壁沿いの旧枝道側に出ています」


「流れじゃなく、逃げ道か」


「その可能性があります」


 言ってから、リオは自分の声が少し硬いことに気づいた。


 昨夜、黒蝶が見たものを、そのまま口に出すわけにはいかない。


 だが、ギルド職員として推測できる範囲なら言える。


 壁際。


 隙間。


 封鎖後の移動。


 報告だけでも十分に怪しい。


「ギルドマスターには?」


「もう上げている」


 マーレが奥の扉を見た。


「朝一番で、下水関連は通常依頼から切り離すことになった。以後は一括管理だ」


「低ランク向けから外すんですね」


「完全に外すわけではない。鉄級には表側の封鎖補助、注意喚起、清掃済み区画の確認を任せる。水路へ降りるのは銅級以上をつける」


「妥当だと思います」


「あと、現場で使う道具も見直す」


 その言葉に、リオは顔を上げた。


「道具、ですか」


「塩と火だけで済ませるな、という話だ。ニナからも意見が出た」


 マーレは別の紙を出した。


 そこにはニナの字で、短く注意事項が書かれている。


 ――水で流す場合は流出先確認。


 ――火で炙る場合は臭気・煙・酸欠に注意。


 ――塩は小型には有効。ただし周辺水路へ流れると薄まる。


 ――汚染布・手袋は再利用禁止。


 ――付着時は洗浄より先に隔離。


 リオはそれを読み、静かに頷いた。


「かなり実務的ですね」


「現場の人間だからな」


「火で炙る場合は注意、ですか」


「普通のスライムなら、火で焼けばいいという話になりやすい。だが下水でそれをやると、人間の方が先に倒れる可能性がある」


「煙と臭気ですね」


「それと、地下の空気だ」


 マーレは依頼票を整えながら続けた。


「ギルドマスターが言っていた。今回必要なのは、討伐だけじゃない。封鎖、誘導、処置、隔離、記録。どれかを雑にすると広がる」


「……汚れを見えないところへ押し流すだけでは、解決にならない」


「そういうことだ」


 リオはニナのメモをもう一度見た。


 水で流すな。


 火で炙るな。


 触るな。


 だが、止めなければ広がる。


 では、どうするか。


 固める。


 分ける。


 探す。


 封じる。


 リオの頭の中で、昨夜の黒蝶の感覚がつながっていく。


 粘糸弾は絡め取れた。


 だが、吸われた。


 鳴響弾は反響を拾えた。


 ただし、探すための弾としては弱い。


 塩は効いた。


 だが、普通の塩では水で薄まる。


 必要なのは、汚泥を殺す大技ではない。


 現場で扱える道具だ。


「主任」


「何だ」


「少し、外部の職人に相談してもいいですか」


 マーレはリオを見た。


「ミラ工房か?」


「はい。水路作業用の道具として、対策できるものがないか聞いてみます」


「仮面の連中用じゃないだろうな」


 マーレは軽く言った。


 冗談めかしていた。


 けれど、リオの心臓は一瞬だけ変な跳ね方をした。


「ギルド用です」


「だろうな」


 マーレはすぐに依頼票へ視線を戻した。


「相談してこい。ただし、秘密兵器を作ってくるなよ。現場で使うのは冒険者だ。扱いが難しいものは事故になる」


「はい。扱える道具、ですね」


「それと、安く済むもの」


「そこも大事ですね」


「とても大事だ」


 マーレの声は真面目だった。


 ギルドは英雄の舞台ではない。


 高価すぎる道具は、数を揃えられない。


 扱いが難しすぎる道具は、現場で使えない。


 格好よくても、壊れやすければ意味がない。


 リオはうなずき、ニナのメモを写した紙を持ってギルドを出た。


     ◇


 ミラ工房は、朝から火と金属の音がしていた。


 ただし、以前のような荒れた空気ではない。


 半壊した工房はまだ完全復旧とはいかないが、作業台は整い、道具も少しずつ戻っている。


 入口近くでは、アッシュが木箱を運んでいた。


 まだ背は高くない。


 体も細い。


 けれど、以前より少しだけ動きが落ち着いている。


 逃げるような目ではなく、何か役に立とうとする目をしていた。


「あ、リオ」


「おはよう、アッシュ。手伝い?」


「荷物運び。あと、これ乾かせって」


 アッシュは木箱の横に置かれた布束を指した。


 水洗いした作業布らしい。


 火属性で一気に乾かそうとしたのかと思ったが、布は焦げていない。


 弱い熱で、ゆっくり乾かしているようだった。


「焦がしてないんだ」


「焦がしたらミラに怒られる」


 アッシュは真顔で言った。


「いや、怒られるっていうか、あの人は怒る前に無言になる。あれが怖い」


「分かる」


 リオが苦笑すると、奥から声が飛んできた。


「聞こえてるわよ」


 ミラ・グリムが作業台から顔を出した。


 煤のついた頬。


 束ねた髪。


 目は眠そうだが、手元の工具は正確に並んでいる。


「リオ、朝から何? また面倒事?」


「はい」


「否定しないのね」


「今回は否定しにくいです」


「でしょうね。街が臭いもの」


 ミラは工具を置き、リオを奥へ招いた。


 アッシュもついてこようとしたが、ミラが振り返る。


「アッシュ、外の布を見てて。焦がさない。飛ばさない。燃やさない」


「三つも言わなくても分かってるって」


「一つで済んだ実績を作ってから言いなさい」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


 アッシュは不満そうにしながらも、外へ戻った。


 リオはその背中を見てから、小さく息を吐く。


 ミラはそれを見逃さなかった。


「大丈夫。聞かせないわよ」


「すみません」


「謝るところじゃないでしょ。あの子はまだ、守られる側から片足を出したくらいよ。秘密の会議に引きずり込むには早い」


「はい」


「それで、今日は黒い方? 灰色の方? それともギルド職員として?」


「全部です」


「最悪の返事ね」


 ミラは椅子を引いた。


「座って。短く説明して」


 リオは昨夜の調査を、言える範囲と隠す範囲を分けながら説明した。


 黒蝶として入ったことは、ぼかす。


 だが、汚泥の性質は詳しく伝える。


 壁際を這うこと。


 塩で傷んだ部分を切り離すこと。


 粘糸に絡めても染み込むこと。


 天井にも張り付くこと。


 鳴響弾で硬い反応があったこと。


 ミラは途中から真顔になった。


「普通のスライムじゃないわね」


「やっぱりそう思いますか」


「普通のスライムも嫌だけど、分かりやすい嫌さなのよ。丸い。核がある。溶ける。燃える。乾く。塩で縮む。でもそれは、話を聞く限り、汚れに近い」


「汚れ、ですか」


「そう。魔物というより、魔物になりかけた汚れ。あるいは、汚れをまとった魔物」


 ミラは作業台の上に、リオが持ってきた密閉容器を置いた。


 昨夜、黒蝶が粘糸ごと採取した汚泥だ。


 もちろん、リオとしては「ギルド経由で預かったサンプル」という形にしている。


 ミラは手袋をつけ、容器を揺らした。


 中で黒い泥が動く。


 粘糸に絡んでいるはずなのに、完全には止まっていない。


「……嫌な動き」


「開けない方がいいです」


「開けないわよ。こういうものを興味で開ける職人は、早死にする」


「よかったです」


「その言い方、私が開けると思ってた?」


「少しだけ」


「正直でよろしい」


 ミラは容器を光に透かした。


 しばらく見て、眉を寄せる。


「何か混じってる」


「何か?」


「粘糸じゃない。砂でもない。もっと硬い……金属粉?」


 リオの背中がわずかに強張った。


 昨夜の鳴響弾。


 奥から返った硬い反応。


 黒い汚泥の中に、何か硬いものがある。


「取り出せますか」


「開けずに?」


「できれば」


「無茶言うわね」


 ミラは少し考え、細い磁針のような道具を取り出した。


「これは?」


「金属片を探す針。細工品を作る時に、削り粉が混ざっていないか見る道具。強い魔道具じゃないから、期待しないで」


 ミラは容器の外側から針を近づけた。


 針の先が、わずかに震える。


 黒い泥の中で、小さな粒が動いた。


 肉眼ではほとんど見えない。


 だが、確かに何かがある。


「反応した」


「金属ですか?」


「金属。けど、ただの鉄じゃない」


 ミラは針を離し、別の角度からもう一度近づけた。


 針がまた震える。


 今度は、かすかに黒い泥の表面が盛り上がった。


 まるで、針へ寄ろうとしているように。


 ミラはすぐに手を引いた。


「やっぱり開けない」


「ですね」


「この金属粉、たぶん魔道具の削れかすよ。普通の工具や鍋の欠片じゃない。魔力を通した跡がある」


「属性は分かりますか」


「うーん」


 ミラは難しい顔をした。


「読みにくい。土っぽい重さはある。水っぽい粘りもある。風を当てると妙に鳴りそうな感じもする」


「複数属性?」


「そう言うには、混ざり方が汚いのよ。属性を混ぜたというより、属性になる前の泥を固めたみたい」


「属性になる前?」


「たとえ話。真に受けないで」


 ミラはそう言ったが、リオの中にその言葉だけが残った。


 属性になる前の泥。


 火でも水でも土でも風でもない。


 そのどれかになる前の、何か。


 リオは一瞬だけ、自分の足元を見た。


 影がある。


 工房の火に揺れている。


 ただの影だ。


 そう思った瞬間、外からアッシュの声がした。


「あっぶね!」


 リオとミラが同時に振り返る。


 外へ出ると、アッシュが布束の前で慌てて手を振っていた。


 布は焦げていない。


 ただ、少しだけ煙が出ている。


 ミラの目が細くなった。


「アッシュ」


「焦がしてない!」


「煙が出た」


「焦げる前に止めた!」


「それは焦がしかけたって言うの」


「……はい」


 アッシュはしゅんとした。


 リオは布を見た。


 確かに焦げてはいない。


 ただ、急に熱を入れたせいで、湿った布の中から蒸気が強く出たようだった。


 アッシュは鼻をこすりながら言う。


「濡れてるやつってさ、強く火を当てると臭いんだよ。煙も出るし。乾いてからなら、まだましなんだけど」


 リオの目が少しだけ動いた。


「乾いてから?」


「うん。濡れたまま燃やそうとすると、じゅうじゅう言って変な臭いが出る。煙も重いし、目にくる。でも、先に水を飛ばしてからなら、ぱきって割れることもある」


「割れる?」


「泥とか、粘ったやつとか。表だけでも乾くと、動きにくくなるだろ。たぶん」


 アッシュは自分で言ってから、少し気まずそうにした。


「いや、適当だけど」


 ミラは腕を組んだ。


 怒るでもなく、黙ってアッシュを見る。


「アッシュ」


「はい」


「今の、もう一回言って」


「え、怒るため?」


「違う。使えそうだから」


 アッシュは目をぱちぱちさせた。


「使えそう?」


「濡れたものは、いきなり燃やすと煙が出る。先に水を飛ばす。表面を乾かす。乾けば割れる。合ってる?」


「たぶん」


「たぶんで十分」


 ミラはリオを見た。


 リオも頷く。


「燃やすんじゃなくて、乾かす」


「そう」


 ミラの目が職人の目に変わった。


「火で焼く道具じゃない。熱と風で表面の水分を奪う道具。粉を乗せればさらに固められるかもしれない」


「乾燥粉ですか」


「灰、石粉、吸水性のある鉱石粉。問題は粉塵と吸い込みね。使う側に防護具が要る」


「黒い防毒面なら……」


 リオは言いかけて止まった。


 ミラが目だけで笑う。


「ギルド用なら、防塵布付きの簡易面を作る。黒い誰か用なら、別口で考える」


「……お願いします」


 アッシュは二人を見比べた。


「なんの話?」


「臭い泥をどうにかする話」


 ミラが即答した。


「燃やすの?」


「燃やさない」


「じゃあ?」


「乾かす」


 アッシュは少しだけ得意そうな顔をした。


「だろ」


 その顔を見て、リオは不意に思った。


 この子は火を怖がっている。


 けれど、火を使うことから逃げているわけではない。


 燃やす火ではなく。


 熱。


 光。


 乾かす力。


 人が逃げるための道を作る力。


 アッシュ自身は、まだそれに気づいていないかもしれない。


 けれど、確かにそこへ向かっている。


「アッシュ、ありがとう」


 リオが言うと、アッシュはむずがゆそうに目をそらした。


「別に。布焦がしかけただけだし」


「でも、役に立った」


「……ならいいけど」


 ミラが手を叩いた。


「よし。アッシュは布を焦がさず乾かす練習。リオは中へ。作るものを決めるわ」


「はい」


 工房の中へ戻ると、ミラは紙を広げた。


「まず、黒い方」


「はい」


「眠り弾は捨てる。黒膜も今回は後回し。粘糸は補助にはなるけど、汚泥に食われるなら危険。だから、撃つなら切り離し前提」


「はい」


「鳴響弾は伸ばせる」


 ミラは紙に丸を書いた。


「探す弾にしましょう」


「探す弾」


「今の鳴響弾は、相手の動きを崩すための音。でも今回は、泥の中の硬いものを探す。低い振動を出して、反響の違いを見る」


「探響弾、ですね」


「名前は好きにして」


 ミラはさらに線を引く。


「次、固める弾。汚泥の表面を一時的に固める。完全に石にするのは無理。でも、動きを鈍らせるだけならできるかもしれない」


「凝固弾」


「それ。材料は要る。たぶん安物でいける。問題は水場で薄まること」


「塩は?」


「ただの塩じゃ流れる。だから、魔素を少し通す塩晶を混ぜる。高価なものじゃなくて、割れた塩晶の欠片でいい。普段なら屑扱いのやつ」


「また微妙素材ですね」


「あなた、そういうの好きでしょ」


「好きというか、予算が」


「知ってる」


 ミラは今度は灰色の紙を引き寄せた。


「灰色の方は、防汚外套。汚泥が染み込みにくい表面処理。あと、滑り止め靴底。ぬめりで転んだ救助者なんて笑えないから」


「笑えませんね」


「それと、封泥杭」


「杭ですか」


「土属性を通しやすい杭。水路の流れを完全に塞ぐんじゃなく、流路を変えるために使う。土壁だけで止めると逆流するでしょ」


「はい」


「だから、止める場所と逃がす場所を作る。灰守向き」


 ミラはさらさらと図を描いた。


 杭。


 小さな土壁。


 水の抜け道。


 汚泥だけを引っかける粗い格子。


 リオはそれを見ながら、思わず感心した。


 派手ではない。


 だが、現場で使える。


 黒蝶は探す。


 灰守は止める。


 ギルドは動かす。


 アッシュは、まだ自覚もなく、乾かすという発想をくれた。


「ミラさん」


「何?」


「これ、全部すぐ作れますか」


「無理」


「ですよね」


「試作品なら一部。今日中にいけるのは、探響弾の調整、凝固粉の小筒、簡易防汚布。封泥杭は明日以降」


「十分です」


「十分じゃないでしょ。でも、今あるものよりはまし」


 ミラは容器の黒い泥を見た。


「向こうも待ってくれなさそうだし」


 その言葉に、リオは黙った。


 黒い泥は、容器の中で静かにしている。


 だが、本当に静かなのかどうかは分からない。


 閉じ込められたことを覚える相手だ。


 粘糸を覚える相手だ。


 こちらが対策を考えている間にも、向こうは何かを覚えている。


「リオ」


「はい」


「焦らないこと。焦ると、汚れは広がる」


「はい」


「でも、遅れないこと。遅れると、汚れは染み込む」


「難しいですね」


「現場はだいたい難しいのよ」


 ミラは笑わなかった。


 だからリオも笑わなかった。


     ◇


 その夜。


 市場東の水路よりさらに奥。


 黒い汚泥は、白く濁った塊を引きずっていた。


 昼間、鉄級冒険者が撒いた塩。


 黒蝶が試した塩。


 それらに触れた部分は、重くなっていた。


 動きが鈍い。


 水を吸えない。


 伸びない。


 這えない。


 黒い泥はしばらく、その白い部分を連れて進もうとした。


 だが、進みは遅かった。


 隙間に入れない。


 壁を上がれない。


 細く伸びようとしても、白い塊が引っかかる。


 やがて、泥は止まった。


 黒い表面が、ゆっくり波打つ。


 白く濁った部分だけが、ぶつりと離れた。


 水路の底へ落ちる。


 重く。


 動かず。


 残った黒い部分は、少し小さくなった。


 だが、軽くなった。


 壁へ伸びる。


 石の隙間へ染みる。


 さっきより細く。


 さっきより速く。


 傷んだものを、泥は捨てた。


 重いものを、泥は置いていった。


 失うことを、泥は覚えた。


 そして。


 軽くなることを、覚えた。

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