ギルド職員は泥を被る
市場東の古い排水口は、表通りから少し外れた場所にあった。
人通りの多い朝市の裏。
魚屋と乾物屋の間を抜け、古い石壁沿いに進んだ先。
そこに、丸い鉄格子の蓋がある。
普段なら誰も気に留めない場所だ。
だが、その日は違った。
「うわ」
ロッソ・バーナムが、鼻を押さえた。
「臭ぇ」
「下水だからな」
グレン・ロックウェルが答える。
「下水ってのは臭いもんだ」
「限度があるだろ。これは下水っていうか、腐った薬瓶を煮詰めた臭いだぞ」
「詩的な悪口ね」
ニナ・フォルクが薬箱を腰に下げ直しながら言った。
彼女は布で口元を覆っている。
その目は笑っていない。
「蓋を開ける前からこの臭いなら、下に降りるのはなし」
「まだ何も見てないぞ」
ロッソが言う。
「見に行って倒れたら意味がないでしょ」
「正論は臭いより鼻につくな」
「なら鼻を外しておきなさい」
「できるか!」
やり取りを聞きながら、バート・クラインは丸盾を片手に周囲を見回していた。
通行人。
屋台。
子ども。
店の裏口。
人が近づきすぎないよう、無言で立ち位置を調整する。
その動きは地味だが、慣れていた。
グレンは格子蓋の前にしゃがみ込む。
蓋の隙間には、黒い汚れがこびりついていた。
ただの泥にも見える。
だが、よく見れば石の隙間から上へ這い上がったような筋がある。
「……昨日の鉄級が言ってたやつか」
「触らないで」
ニナがすぐに言った。
「触る前から怒るなよ」
「あなた、触りそうな顔をしてた」
「俺の顔を何だと思ってんだ」
「何かあったらまず指で確かめる顔」
「反論しにくいな」
グレンは苦笑し、手を引っ込めた。
「バート」
「ああ」
バートが盾を立て、周囲の通行人をやんわり下がらせる。
「すまない。ここから先はギルド作業中だ。足元が滑る」
穏やかな声だが、体格と盾の説得力がある。
通行人たちは文句を言いながらも距離を取った。
グレンは蓋に縄をかける。
ロッソが斧の柄を差し込み、てこのように使った。
「斧をこう使うために冒険者になったわけじゃねぇんだけどな」
「便利ならいいだろ」
「俺は工具じゃねぇ」
「お前もか」
「も?」
「いや、こっちの話だ」
二人で力を込めると、格子蓋が重い音を立てて浮いた。
その瞬間、下から淀んだ空気が吹き上がった。
「閉めろ」
ニナが即座に言った。
グレンは何も聞き返さなかった。
蓋を完全に開けず、少しだけ隙間を残して止める。
ロッソが顔をそむけた。
「っ、きっつ……!」
「息を吸わない」
「無茶言うな!」
ニナは細い筒を取り出し、中に詰めた乾いた草を折った。
すっと、苦い薬草の匂いが広がる。
「鼻の下に少し塗って。気休めだけど、ないよりはまし」
「助かる」
グレンは薬草を受け取り、鼻の下に塗った。
臭いが消えるわけではない。
ただ、腐った水の臭いの奥に、薬草の苦みが一本混じる。
「下は?」
バートが聞く。
グレンは蓋の隙間から覗いた。
暗い。
古い石組み。
水面。
壁際に、黒いぬめり。
水路の中央ではなく、壁だ。
「壁にいる」
「流れてないのか?」
ロッソが眉をひそめる。
「水の流れは奥から手前だ。けど、ぬめりは壁を上がってる」
「セナのメモ通りね」
ニナが言った。
「流れより壁際注意、だったか」
「ええ。本人は来なかったけど」
「臭いの嫌だからな」
「気持ちは分かるわ」
ニナは膝をつき、蓋の隙間から下を見た。
その顔が少し険しくなる。
「グレン、鉄級を奥に行かせなかったのは正解」
「そんなにやばいか?」
「やばいかどうかを確かめるために、やばい場所へ入る必要はないわ」
「また正論か」
「正論で命が助かるなら安いでしょ」
その時、下の水面が揺れた。
小さな泡が浮かぶ。
ぷつり。
ぷつり。
黒いぬめりの端が、わずかに動いた。
「見えたか?」
グレンが低く言う。
「ああ」
バートが盾を構える。
ロッソも斧を握り直した。
だが、黒いぬめりは上へ飛び出してこない。
代わりに、壁を這うように横へ逃げた。
蓋の下、石の隙間へ。
「逃げた?」
「逃げたというより……避けた」
ニナが言った。
「蓋が開いたのに気づいたのか?」
「振動か、光か、空気の流れか。分からないけど、反応はした」
グレンはしばらく下を睨んでいたが、やがて蓋から手を離した。
「降りない」
ロッソが目を丸くする。
「いいのか?」
「ギルドマスターに奥まで入るなって言われてる。俺は工具じゃねぇし、馬鹿でもねぇ」
「馬鹿じゃなかったのか」
「お前、帰ったら訓練場な」
「冗談だよ」
グレンは蓋を戻し、縄で仮止めする。
「市場東は封鎖継続。黒いぬめりは壁際を移動。蓋を開けると反応あり。異臭強め。水で流すの禁止。こんなとこか」
「あと、石の隙間に入り込む」
ニナが付け加える。
「表面を洗っただけだと残るわ」
「嫌な追加だな」
「嫌なものを見に来たんでしょ」
「違いねぇ」
グレンは周囲を見回した。
近くの店主が不安そうにこちらを見ている。
子どもが覗き込もうとして、バートに静かに止められていた。
「おい、坊主」
グレンが声をかける。
「ここは遊び場じゃねぇぞ。動く汚れを見つけても棒でつつくな」
「なんで?」
「つついた棒が、あとでお前をつつき返すかもしれねぇからだ」
子どもは目を丸くした。
「嘘だろ?」
「半分くらいな」
「半分!?」
ニナがため息をつく。
「怖がらせすぎ」
「近づかなくなるならいいだろ」
「正しいけど雑」
「雑でも生きてりゃいい」
グレン隊は現場を封鎖し、ギルドへ戻る準備を始めた。
その時、バートがふと壁の下を見た。
細い黒い筋が、石畳の隙間に残っている。
水路から上がってきた跡。
いや。
下へ戻った跡かもしれない。
「グレン」
「何だ」
「これ、上にも来ている」
全員の視線が、その黒い筋に集まった。
細く、短い。
踏めば消えそうな汚れ。
だが、汚れならば、なぜ石畳の高い方へ伸びているのか。
ニナが布を取り出し、直接触れないようにその周囲を覆った。
「持ち帰る?」
「いや」
グレンは首を振った。
「瓶のやつだけで十分だ。増やしても困る」
「珍しく慎重ね」
「馬鹿じゃねぇからな」
ロッソが小さく笑った。
「帰って報告だ。臭い仕事は、臭いうちに片づける」
◇
その報告がギルドへ戻ったのは、昼過ぎだった。
リオは受付卓の端で、グレンの話を記録していた。
市場東排水口。
異臭強。
壁際に黒いぬめり。
蓋を開けると反応。
水路中央ではなく壁沿いを移動。
石畳の隙間にも黒い筋。
奥へは入らず封鎖継続。
ニナの注意事項。
洗浄時は排水先を確認すること。
素手で触れないこと。
子どもの接近注意。
「……やっぱり、流れているだけじゃないですね」
リオが言うと、マーレは静かに頷いた。
「旧水路沿いに移動している可能性が高くなったな」
「はい。あと、蓋を開けると反応するなら、空気の流れか光か振動を感じている可能性があります」
「普通のスライムも刺激には反応するが」
「ここまで壁際へ逃げるのは、少し気になります」
リオは地図に線を引いた。
赤い点。
黒い線。
依頼の増えた場所。
封鎖した場所。
そして、水路図に残された古い枝道。
見れば見るほど、街の下に別の街があるようだった。
「リオ」
オルドが低い声で呼んだ。
ギルドマスターは地図を見下ろしている。
「はい」
「今夜、無理に調査員を入れるな」
「分かりました」
「明日の朝、銅級以上を二組に増やす。鉄級は表の清掃と封鎖補助に回す。水路へ降ろすな」
「はい」
「衛兵には、子どもと野次馬を近づけるなと強めに言え」
「承知しました」
リオは返事をしながら、内心で考えていた。
昼間のギルドとしては、それが正しい。
無理に地下へ入らない。
現場を封鎖する。
被害を増やさない。
ただ。
このまま朝まで待てば、黒いぬめりがどこまで広がるのか。
それも分からない。
黒蝶なら、夜に動ける。
正規の調査ではない。
だが、誰にも気づかれずに旧水路へ入り、奥を確認することはできる。
リオは地図を見た。
市場東の排水口。
薬師街裏。
職人街の共同洗い場。
ギルド裏手の側溝。
点が線になり、その線の先には、使われていない古い地下倉庫の印があった。
図面上では閉鎖済み。
だが、ルネリアの地下は継ぎ足しだらけだ。
本当に閉じているかは分からない。
「リオ」
マーレが声をかけた。
「はい」
「顔が仕事を増やす顔になってる」
「そんな顔あります?」
「ある。特に君は分かりやすい」
「気をつけます」
「気をつけるだけじゃなく、今日は早めに休め。昨日までの騒ぎもある」
「はい」
リオは素直に頷いた。
嘘ではない。
休む必要があるのは本当だ。
ただ、休むのは本体で。
夜に動くのは、別の自分だ。
◇
その夜。
ルネリア城下町の表通りから人の気配が薄れた頃、黒い影が屋根の上を渡った。
黒蝶。
黒い防毒面。
薄型の防護ゴーグル。
夜に紛れる外套。
腰には眠り銃。
持ち込んだ弾はいつものものだ。
通常眠り弾。
粘糸弾。
黒膜弾。
鳴響弾。
ただし、今夜は相手が人間ではない。
眠り弾が効くとは思えない。
黒膜弾で視界を奪う意味も薄い。
それでも、何も持たずに行くよりはいい。
黒蝶は市場東の排水口へ向かった。
昼間、グレン隊が仮封鎖した場所だ。
人はいない。
衛兵の見回りが遠くを通った後、黒蝶は格子蓋の前に膝をついた。
臭いはまだ強い。
防毒面越しでも、湿った腐敗臭が鼻の奥にまとわりつくようだった。
「……これは、嫌だな」
黒蝶は小さく呟いた。
悪人の相手は嫌ではない。
刃物を持った相手も、罠を仕掛ける相手も、まだいい。
相手が何を考え、どこを狙い、どう動くか。
そこに読み合いがある。
だが、これは違う。
臭い。
ぬめる。
喋らない。
目もない。
どこが本体なのかも分からない。
黒蝶は蓋を少しだけずらした。
昼間と同じように、淀んだ空気が上がってくる。
風属性で流れを薄く作り、臭気を横へ逃がす。
完全には消せない。
だが、少しはましになった。
下を覗く。
暗い水路。
壁際。
黒いぬめり。
昼間より、少し広がっているように見えた。
黒蝶は縄を使って水路へ降りた。
足場は狭い。
水面は暗い。
石の壁は湿っている。
黒いぬめりは、壁に薄く張り付いていた。
スライムなら、普通は丸みがある。
小さくても、粘体としての塊がある。
だが、これは膜に近い。
汚れと見分けがつきにくい。
「……人が見落とすわけだ」
黒蝶は眠り銃を構えた。
まずは粘糸弾。
人間相手なら、足や腕を絡めて動きを止める弾だ。
相手が汚泥なら、絡め取って引き剥がせるかもしれない。
軽く息を吐く。
引き金を引く。
低い音。
粘糸弾が壁へ着弾し、白い糸が黒いぬめりを覆った。
瞬間。
黒いぬめりが震えた。
逃げようとする。
だが、粘糸が絡む。
表面が引き剥がされる。
「よし」
黒蝶は糸を引いた。
ぬめりの一部が壁から剥がれる。
だが、次の瞬間。
黒い汚泥が、粘糸へ染み込んだ。
糸を伝う。
巻きつく。
絡め取られたはずのものが、逆に糸を呑み込もうとしている。
「……っ」
黒蝶は即座に糸を切った。
切り離された粘糸が、壁際の水へ落ちる。
黒い汚泥はしばらくその糸にまとわりつき、やがて水路の奥へ流れるように消えた。
いや。
流れたのではない。
壁の隙間へ、逃げた。
「粘糸は、効く。でも長くは持たない」
黒蝶は小声で記録するように呟いた。
戻った時、リオ本体が覚えていればいい。
いや、覚えている。
戻れば全部戻る。
臭いも。
ぬめりも。
この嫌な感触も。
黒蝶は次に黒膜弾を構えたが、すぐに下ろした。
相手は目を持たない。
視界を塞いでも意味がない。
眠り弾も同じだ。
なら、鳴響弾。
音と振動で相手の動きを乱すための補助弾。
黒蝶は水路の壁へ向けて撃った。
乾いた音が、狭い水路に反響する。
石壁。
水面。
鉄格子。
黒いぬめり。
それぞれが違う響きを返す。
黒蝶の耳が、その差を拾った。
「……奥に、硬いものがある?」
小さな反響。
ぬめりの奥ではない。
もっと先。
水路の曲がり角の向こう。
金属か、石か。
普通の泥とは違うものが、何か沈んでいる。
黒蝶は水路の奥へ進んだ。
壁際注意。
セナのメモが頭をよぎる。
本人はいない。
だが、言葉は役に立っている。
水路の中央ではなく、壁を見る。
足元ではなく、膝より上を見る。
すると、見えた。
黒い汚れが、石壁の継ぎ目を伝っている。
水面より上。
普通なら水に流されない場所。
そこを、薄い黒が這っていた。
「やっぱり、流れてない」
黒蝶は腰の小瓶から少量の塩を取り出し、壁際へ撒いた。
黒いぬめりの端が白く濁る。
縮む。
だが、次の瞬間、白く濁った部分だけが壁から落ちた。
本体らしき黒い部分は、すでにその奥へ逃げている。
鉄級冒険者の報告通りだ。
傷んだところを捨てる。
普通のスライムに、そんな動きはない。
黒蝶は眉をひそめた。
「厄介だな」
その時、足元がぬるりと滑った。
黒蝶は反射的に壁へ手をつく。
だが、その壁にも黒いぬめりがあった。
手袋の表面に、薄い黒がまとわりつく。
「っ」
風を巻き、即座に手を払う。
ぬめりが飛んだ。
だが、完全には落ちない。
手袋の縫い目に、細く入り込もうとしている。
黒蝶は短剣を抜き、手袋の表面ごと薄く削った。
黒い汚れが床へ落ちる。
それは小さく震え、水路の隙間へ逃げようとした。
黒蝶は粘糸弾の残りで床へ押さえつける。
今度はすぐに引かない。
観察する。
黒い泥は糸に絡まれたまま、じわじわと形を変えていた。
丸まるのではない。
薄くなる。
糸の隙間を探す。
そして、もっと細い線になろうとしていた。
「……隙間を探してる」
瓶の蓋。
石壁の継ぎ目。
手袋の縫い目。
粘糸の目。
こいつは、隙間へ逃げる。
黒蝶は床の汚泥を踏み潰さなかった。
潰したところで、広がるだけかもしれない。
代わりに、小さな金属容器を取り出す。
ミラが以前、薬品素材を運ぶために用意してくれた密閉容器だ。
そこへ、粘糸ごと汚泥を押し込む。
蓋を閉める。
念のため、外側を布で巻く。
今夜の収穫はこれでいい。
無理をする場面ではない。
そう判断した瞬間。
水路の奥から、低い音がした。
こつん。
石が鳴るような音。
黒蝶は顔を上げた。
鳴響弾で聞いた硬い反応の方向。
暗い曲がり角の向こう。
そこに何かがある。
行くべきか。
戻るべきか。
少し迷い、黒蝶は一歩だけ奥へ進んだ。
その時、天井から黒い滴が落ちた。
肩に当たる。
防護外套の上で、じわりと広がる。
黒蝶は即座に外套を払った。
滴は落ちた。
だが、天井を見上げた瞬間、背筋が冷えた。
黒いぬめりは、壁だけではなかった。
天井にもいた。
薄く。
広く。
まるで、水路の上から見下ろしているように。
「……今日はここまで」
黒蝶は即断した。
奥に何かがある。
それは間違いない。
だが、この装備で進むのは危険だ。
眠り弾は効かない。
黒膜弾も意味が薄い。
粘糸弾は逆に取り込まれる。
鳴響弾だけが、使えるかもしれない。
それも、今のままでは足りない。
黒蝶は水路から上がり、蓋を戻した。
夜風が、わずかに臭いを薄める。
防毒面の奥で、リオは小さく息を吐いた。
「人を止める道具じゃ、足りない」
黒蝶の道具は、殺さず止めるためのものだ。
眠らせる。
縛る。
視界を奪う。
動きを遅らせる。
相手が人間だからこそ、意味がある。
だが、相手が汚泥なら。
眠らない。
縛られても染みる。
目がない。
痛みも恐怖も分からない。
「……ミラさんに、相談だな」
黒蝶は闇に紛れ、屋根へ跳んだ。
その背中から、かすかに黒い臭気が尾を引いた。
◇
水路の奥に、切れた粘糸が残っていた。
黒蝶が撃ち、汚泥に絡み、引き剥がされ、切り離されたものだ。
白い糸は、水を吸って重くなっていた。
そこへ、黒い泥が寄った。
ゆっくりと。
薄く広がりながら。
糸を覆う。
溶かす。
混ぜる。
伸ばす。
黒い泥の端が、少しだけ細くなった。
糸のように。
それはすぐに千切れた。
だが、泥はまた伸びた。
今度は、さっきより長く。
水路の壁から、細い黒い筋が垂れる。
風もないのに、揺れる。
絡め取られたことを、泥は覚えた。
切り離されたことを、泥は覚えた。
そして。
絡め取る形を、覚え始めた。




