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ギルド職員は汚れ仕事を仕分ける

 翌朝のギルドは、いつもより少しだけ騒がしかった。


 理由は分かりきっている。


 旧荷車通り奥の見世物小屋で起きた騒ぎ。


 黒蝶と灰守が同時に現れたという噂。


 幕引き屋(カーテンコール)が逃げたのか、死んだのか、分からないまま消えたという尾ひれ。


 それらが朝のルネリア城下町を、妙に浮つかせていた。


「黒蝶と灰守って、やっぱり別人だったんだろ?」


「同時にいたって話だしな」


「じゃあ、どっちが強いんだ?」


「強い弱いじゃねぇだろ。黒蝶は悪人を追う方で、灰守は助ける方だ」


「見たのかよ」


「見てねぇけど、新聞にそう書いてあった」


「新聞に書いてあれば本当なのか?」


「じゃあお前は何を信じて生きてんだよ」


 依頼板の前で、冒険者たちがそんな話をしている。


 受付前に並ぶ者たちも、半分は依頼の話、半分は昨夜の話だった。


 リオは受付卓の端で、依頼票を束ねながら小さく息を吐いた。


 騒ぎになるのは予想していた。


 黒蝶と灰守が同時に出た。


 その事実は、正体隠しとしてはむしろありがたい。


 けれど、街が仮面の噂で浮つきすぎるのは困る。


 昨日までのカーテンコールが、まさにそれを利用した相手だったからだ。


「リオ」


 横から声がかかった。


 マーレ主任だった。


 いつも通り落ち着いた顔をしているが、手元の依頼票の束はいつもより厚い。


「はい」


「そっち、下水関連だけ分けてくれるか」


「下水ですか?」


「側溝、排水、異臭、スライム、小型害獣。文面が違っても、地下水路に関係しそうなものは全部」


「分かりました」


 リオはすぐに手を動かした。


 ギルドの仕事は魔物討伐だけではない。


 採取。


 護衛。


 荷運び。


 危険区域の確認。


 そして街中の細かな困りごと。


 下水掃除や側溝詰まりなど、華やかさの欠片もない依頼も、ギルドにとっては日常だった。


 ただ。


「……多いですね」


 リオは束ねた依頼票を見て、思わず呟いた。


 下水の詰まりが三件。


 側溝からの異臭が二件。


 水桶に小型スライムが湧いたという報告が一件。


 薬師街裏の排水溝に黒いぬめりが溜まっているという苦情。


 倉庫街の床下で鼠の死骸が急に増えたという相談。


 職人街の共同洗い場で、流した水が戻ってきたという依頼。


 どれも、ひとつひとつは珍しくない。


 だが、朝の時点でこの量は多い。


「昨日の騒ぎで人が集まったからな」


 マーレが言った。


「屋台も出た。見物人も増えた。排水が詰まる理由ならいくらでもある」


「そうですね」


 リオは頷きながらも、依頼票をさらに分ける。


 場所。


 内容。


 依頼主。


 発生時間。


 臭いの種類。


 スライムの有無。


 小さな違和感でも、並べると見えるものがある。


 これは黒蝶の仕事ではない。


 ギルド職員の仕事だ。


「リオ、地図を出せるか」


「はい」


 リオは棚からルネリア城下町の水路図を取り出した。


 広げた瞬間、近くにいた若い冒険者が顔をしかめる。


「うげ、水路図か。見てるだけで臭ってきそうだな」


「臭いのは地図じゃなくて、依頼先です」


「そういう冷静な返しやめろよ。余計に嫌だろ」


 軽口を流しながら、リオは依頼票の場所に印をつけていく。


 薬師街裏。


 職人街の共同洗い場。


 倉庫街の床下。


 ギルド裏手の側溝。


 市場東の排水口。


 古い井戸跡の近く。


 赤い印が、地図の上にぽつぽつと増えた。


 マーレが覗き込む。


「散ってるな」


「はい。ただ、完全にばらばらではないです」


「どう見る?」


「古い水路に沿っています。新しい排水路ではなく、旧水路側です」


 リオは指で線をなぞった。


「ここから、ここ。それと、こっちの枝道。表の道とは一致しませんが、地下で繋がっているはずです」


「昨日の人出だけが原因なら、もっと表通り沿いに寄るか」


「はい。屋台や見物人が原因なら、旧荷車通り周辺に集中するはずです」


 マーレの眉がわずかに動いた。


「下から来てる、と?」


「まだ分かりません。ただ、流れ込んだというより、広がっているように見えます」


 言ってから、リオは自分の言葉に少し引っかかった。


 広がっている。


 這っている。


 その二つは、似ているようで違う。


 水なら流れる。


 泥なら溜まる。


 だが、這うものは意思があるように見える。


「リオ?」


「あ、すみません。続けます」


 リオは依頼票の束をもう一度見直した。


 その時、受付口の方から大きな声がした。


「だからよ、普通じゃねぇんだって!」


 見ると、鉄級冒険者が二人、受付に詰め寄っていた。


 片方はまだ十代後半の少年。もう片方は三十手前ほどの痩せた男。


 どちらも服に泥が跳ねている。


 臭いも強い。


 受付担当が少しだけ顔を引きつらせながら対応していた。


「落ち着いてください。順番に確認します」


「落ち着いてられるかよ! 塩を撒いたんだぞ? 普通なら縮むだろ!」


「縮んだんですか?」


「縮んだよ! 縮んだけど、そこだけ捨てて逃げたんだ!」


 リオの手が止まった。


 マーレも顔を上げる。


「捨てた?」


「そうだよ! 白くなったとこだけ、べちゃって落として、黒いとこだけ壁に逃げたんだ!」


 痩せた男が補足する。


「核を潰したと思ったんだ。小さいやつだったからな。けど、潰れた核の周りの泥が、別の黒いぬめりに混ざった。そしたら、そっちが動いた」


「場所は?」


 マーレがすぐに声をかけた。


 冒険者たちがこちらを見る。


「あ、マーレ主任」


「場所だ」


「市場東の古い排水口です。依頼は小型スライム三匹の処理。最初は普通でした」


「負傷は?」


「足を滑らせたくらいです。噛まれてはいません」


「臭気は?」


「きついです。腐った水と、薬みたいな臭いが混じってました」


 マーレは頷き、リオへ目を向ける。


 リオはすでに市場東の排水口に印をつけていた。


 赤丸が、旧水路の枝に重なる。


「サンプルは?」


「え?」


「変なスライムだと言うなら、持ち帰ったものはあるか」


 鉄級冒険者は顔を見合わせた。


 少年の方が腰の袋から小さな瓶を取り出す。


「一応、これ。受付に見せろって先輩が」


 瓶の底には、黒い泥が少しだけ入っていた。


 ただの汚れに見える。


 だが、瓶を傾けても泥はあまり動かない。


 底に貼り付いたまま、わずかに脈打っているように見えた。


 リオは瓶を受け取らず、まず布を出した。


「机に直接置かないでください。念のため」


「そんな危ないのか?」


「分からないので、危ないものとして扱います」


「分からないから危ない扱い、か」


 少年冒険者が小さく笑った。


「ギルド職員って面倒くせぇな」


「面倒くさがる人がいるので、面倒な手順があります」


「ごもっともで」


 軽口に返しながら、リオは瓶を布の上に置かせた。


 マーレが受付担当に指示を出す。


「この二人は洗い場へ。服と靴を流してから休ませろ。報告はあとで改めて取る」


「はい」


「あと、同じ依頼に出ている鉄級がいないか確認。いるなら戻すか、銅級以上をつける」


「分かりました」


 受付が動き出す。


 リオは瓶を見た。


 黒い泥は、静かだった。


 静かすぎた。


「ただのスライムではないと思います」


 リオが言うと、マーレは短く頷いた。


「だろうな。ギルドマスターに上げる」


「はい」


 その時、ギルドの扉が開いた。


 入ってきたのは、グレン・ロックウェルだった。


 大柄な体に、いつものように頑丈そうな装備。


 後ろには仲間らしい冒険者が三人続いている。


 斧を背負った赤髪の男、ロッソ・バーナム。


 丸盾を抱えた寡黙な盾役、バート・クライン。


 腰に薬箱を下げた女性冒険者、ニナ・フォルク。


 ルネリア支部では、それなりに知られた銅級上位の現場組だ。


 討伐専門というより、瓦礫撤去、護衛、危険区域の確認、力仕事の多い依頼をよく受ける。


 要するに、街中の面倒な仕事に強い。


「おう、朝から臭いな!」


 グレンの開口一番がそれだった。


 近くの冒険者が笑う。


「お前の声の方が臭い」


「声は臭わねぇだろ!」


「たまにするぞ」


「どういう意味だ!」


 グレンが大声で笑いながら受付へ向かう。


 ロッソは鼻を押さえ、バートは無言で周囲を見回し、ニナは瓶の黒い泥に目を留めた。


「……何、その嫌な色」


「小型スライム討伐依頼の現場から持ち帰られたものです」


 リオが答える。


「普通のスライム?」


「ではないかもしれません」


「でしょうね」


 ニナは薬箱の紐を締め直した。


「普通のスライムなら、瓶の底でそんなに気持ち悪く落ち着かないわ」


「落ち着いてるのか落ち着いてねぇのか、どっちだよ」


 ロッソが顔をしかめる。


「どっちも嫌って意味よ」


 マーレが説明を引き取る。


「下水、側溝、異臭、小型スライムの依頼が増えている。場所は旧水路沿い。今のところ原因は不明だ」


「つまり?」


 グレンが地図を覗き込んだ。


「臭い依頼が、面倒な依頼に変わったということです」


 リオが答える。


「最悪だな」


 ロッソが言った。


「まだ最悪じゃないわ」


 ニナが瓶から視線を外さずに言う。


「最悪は、面倒だと気づかないまま奥まで入ること。あと、臭いからって適当に水で流すこと」


「流しちゃ駄目なのか?」


「流した先で広がったらどうするの」


「……なるほど。臭いまま置いとくしかねぇのか」


「臭いまま、正しく隔離するの」


 バートが短く言った。


 ロッソが肩をすくめる。


「嫌な正しさだな」


「嫌でも正しいならやるしかないでしょ」


 ニナは瓶の周りを確認し、布の端を少しだけ折った。


「机に直接置いてないのは正解。蓋も縛った方がいい。あと、瓶の外側を触った人は手を洗って。目をこすらない。食べ物に触らない」


「そこまでか?」


 グレンが聞く。


「分からないものは、分かるまで汚いものとして扱うの」


「うちの職員みたいなこと言うな」


 グレンがリオを見る。


 リオは苦笑した。


「僕も似たようなことを言いました」


「じゃあ正しいな。面倒くさい奴らが二人同じこと言う時は、だいたい正しい」


「褒められている気がしません」


「褒めてる褒めてる」


 その時、マーレが一枚の小さな紙片をリオに渡した。


「そういえば、セナからだ」


「セナさんから?」


「水路図だけ見て帰った」


 グレンが顔を上げる。


「あいつは?」


「臭いのは嫌、だそうだ」


「斥候だろ」


「斥候だからこそ、鼻が死ぬ場所には行きたくないんだってさ」


 リオは紙片を開いた。


 短い文字が並んでいる。


 ――旧水路沿い。


 ――流れより壁際注意。


 ――足跡は期待しないこと。


 ――あと、私は行かない。


 リオは思わず小さく笑った。


 セナらしい。


 現場には来ない。


 でも仕事はしている。


「壁際注意、か」


 バートが言った。


「流れるんじゃなく、這う可能性があるということですね」


 リオが紙片を地図の横に置く。


 マーレの顔が少しだけ渋くなった。


「下水掃除で壁際まで警戒するのは面倒だな」


「面倒だらけですね」


「だからギルドに来る」


 奥の扉が開いた。


 オルドが出てきた。


 いつものように大きな体をしているが、目は眠そうではない。


 話を途中から聞いていたのだろう。


「鉄級だけで下水に入れるな」


 低い声が、ギルド内に通った。


 ざわめきが止まる。


「本日出ている下水、側溝、スライム関連依頼は一度すべて確認する。鉄級向けと出していたものも、銅級以上を一組つけろ。異臭が強い場所は無理に入るな。蓋を開けたらまず風を通せ」


「はい」


 マーレがすぐに返事をする。


「衛兵への連絡は?」


「こちらで文面を作ります」


 リオが言った。


 オルドが頷く。


「封鎖準備だけ先に伝えろ。大ごとだと騒ぐな。ただし、子どもが側溝を覗き込まないよう注意も出せ」


「分かりました」


「薬師街と職人街には、排水を一気に流すなと伝えろ。詰まりを押し流そうとして逆流したら面倒だ」


「はい」


 指示が早い。


 迷いがない。


 こういう時、オルドはやはりギルドマスターだった。


 いつもは豪快で雑に見えるが、街中の危険対応では判断が早い。


「グレン」


「おう」


「お前の組は市場東へ行け。鉄級の回収と現場確認だ。無理に奥まで入るな」


「了解。臭い仕事ほど俺に回ってくる気がするぜ」


「体がでかいからな。蓋を開けるのに向いてる」


「俺は便利な工具じゃねぇぞ」


「似たようなもんだ」


「ギルドマスターまでそれかよ!」


 少し笑いが戻る。


 だが、緊張は消えない。


 オルドは続けた。


「ロッソ」


「あいよ」


「壊す前に聞け。詰まりだからといって、何でも割るな」


「俺を何だと思ってんだ」


「斧を持った問題解決法」


「だいたい合ってるけどよ」


 ロッソが不満そうに鼻を鳴らす。


「バート」


「はい」


「狭い場所では前に出ろ。ただし、盾で押し込むな。相手が水か泥なら、押した分だけどこかへ逃げる」


「了解」


「ニナ」


「はい」


「洗浄と応急処置を任せる。だが、流す場所には気をつけろ」


「分かっています。汚れを消すのと、汚れを見えない場所へ流すのは違いますから」


 オルドは満足げに頷いた。


「そういうことだ」


 グレンが首を回す。


「よし。臭い、面倒、触るな、流すな、壊すな、奥まで行くな。注文の多い依頼だな」


「ひとつ増やせ」


 オルドが言った。


「死ぬな」


「そいつは最初から入ってる」


 グレンは笑って、仲間たちへ振り返った。


「行くぞ。蓋開けて、臭かったら閉める」


「確認になってねぇだろ」


 ロッソがぼやく。


「臭くても確認はする」


 バートが淡々と言う。


「臭い前提で話を進めないで」


 ニナが嫌そうに言った。


「無理だろ。下水だぞ」


 グレン隊が受付を離れていく。


 その背中を見送りながら、リオは地図に新しい印を書き込んだ。


 市場東。


 旧水路。


 壁際注意。


 黒い泥。


 塩で縮んだ部分を捨てる。


 核を潰した後、別のぬめりが動く。


 書けば書くほど、ただのスライム討伐から遠ざかっていく。


「リオ」


 マーレが追加の依頼票を三枚置いた。


「追加だ」


「……またですか」


「まただ」


 リオは受け取った。


 ひとつは、古い井戸跡からの異臭。


 ひとつは、薬師街の排水桶に湧いた黒い泡。


 ひとつは、職人街の裏路地で子どもが「動く汚れ」を棒でつついたという報告。


 子ども。


 棒。


 黒い汚れ。


 リオの背筋に、薄い冷たさが走った。


 だが、手は止めない。


 赤い印がまた増える。


 地図の上で、点は線になり始めていた。


 その線は、街の表通りではなく。


 誰も普段見ない、街の底をなぞっていた。


 リオは新しい紙を取り出し、見出しを書いた。


 ――下水・側溝・小型スライム関連依頼一覧。


 その下に、場所、時刻、依頼内容、臭気、魔物の有無、負傷者、対応者の欄を作る。


 隣でマーレがそれを見て、少しだけ口元を緩めた。


「仕事が早いな」


「臭い仕事ほど、記録を省くと揉めるんですよね?」


「誰の真似だ」


「主任の真似です」


「よし。嫌なところを覚えたな」


 リオは苦笑しながら、ペンを走らせた。


 ここにいる自分は黒蝶ではない。


 灰守でもない。


 ギルド職員のリオだ。


 なら、やるべきことは派手に飛び出すことではない。


 情報を集めること。


 危険な依頼を仕分けること。


 人を正しい場所へ送ること。


 それが、今のリオにできる一番確かな仕事だった。


     ◇


 その日の夕方。


 ギルドの裏手にある保管棚の一角には、問題の黒い泥が入った小瓶が置かれていた。


 もちろん、ただ置かれているわけではない。


 布を敷いた木箱の中。


 蓋は革紐で縛られ、瓶の周りには薄く塩が撒かれている。


 ニナの指示で、瓶に触れた者の名前も記録された。


 リオがさらに札を添えた。


 ――素手で触れないこと。


 ――開封禁止。


 ――異変があればマーレ主任またはギルドマスターへ報告。


 マーレは「少し大げさでは」と言いかけたが、オルドが「分からないものは大げさに扱え」と言ったので、そのままになった。


 夜が近づき、ギルドの喧騒が少しずつ薄れていく。


 外では冒険者たちが戻り始めていた。


 市場東の排水口は封鎖。


 薬師街裏は一時清掃中止。


 職人街の共同洗い場も使用制限。


 依頼は増えた。


 だが、ギルドは動いている。


 だから、まだ大丈夫。


 誰もがそう思っていた。


 保管棚の小瓶の中で、黒い泥がわずかに震えた。


 瓶の底から、ゆっくりと持ち上がる。


 水気のある粘体なら、瓶を傾けなければ動かない。


 だが、黒い泥は傾いていない瓶の内側を這った。


 薄く。


 平たく。


 音もなく。


 蓋へ向かって。


 蓋は閉まっている。


 革紐もある。


 外には塩もある。


 出られない。


 黒い泥は蓋の裏に触れた。


 そこで止まった。


 蓋の金具に、小さな傷があった。


 冒険者が慌てて瓶を閉めた時に、留め具がこすれた傷だった。


 泥はそこへ集まる。


 押さない。


 叩かない。


 こじ開けない。


 ただ、染みる。


 黒い泥は、金属の傷に薄く入り込んだ。


 じわり、と。


 ほんのわずかに、金具が黒ずむ。


 瓶の中で、泡がひとつ弾けた。


 閉じ込められたことを、泥は覚えた。


 傷があることを、泥は覚えた。


 そして。


 外へ出るには、隙間がいることを覚えた。

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