幕間 泥の底から何かが蠢く
雨は降っていなかった。
それでも、街の底には水が流れている。
石畳の隙間から落ちた泥。
荷車の車輪に削られた土。
魚屋の裏口から流された血の薄い水。
工房で冷やした金属を浸した灰色の水。
薬師の桶からこぼれた薬液。
洗濯場から流れた泡。
油。
煤。
粉。
欠片。
誰かが気にも留めなかったものが、細い溝を伝い、暗渠へ落ち、やがて街の下へと集まっていく。
ルネリア城下町は古い街だ。
王城を中心に広がり、外周へ向かって何度も増築され、修繕され、継ぎ足されてきた。
そのため、地下の水路もまた、ひとつの生き物の血管のように複雑だった。
古い石組みの水路。
新しく掘られた排水溝。
使われなくなった地下倉庫。
閉じられた井戸。
昔の防空壕。
崩れかけた避難道。
それらが、どこかで繋がっている。
地上に暮らす者たちは、普段そのことを忘れている。
臭いが上がれば蓋をする。
詰まれば掃除を頼む。
魔物が出れば冒険者を呼ぶ。
それで済むと思っている。
実際、大抵のことはそれで済んだ。
水路に湧くスライムなど、珍しい魔物ではない。
汚れた水と魔素が混じれば、小さな粘体は自然に生まれる。
泥を食い、腐肉を食い、虫を食い、少し大きくなれば鼠を呑む。
それでも、普通のスライムは弱い。
火で炙れば縮む。
塩を撒けば動きが鈍る。
核を潰せば崩れる。
下水掃除を請け負う鉄級冒険者にとっては、嫌な臭いがするだけの面倒な仕事だった。
だから、誰も気にしなかった。
街の底で、泥が少しずつ増えていることを。
汚れた水の流れが、ほんの少しだけ遅くなっていることを。
水路の壁にこびりついた黒い膜が、夜ごとに場所を変えていることを。
誰も、見ていなかった。
見ている者がいるとすれば。
それは、街の底を這う鼠くらいのものだった。
その鼠が、一匹。
細い鳴き声を上げた。
暗渠の壁際を走っていた鼠は、前足を止めた。
鼻をひくつかせる。
臭いがした。
腐った水の臭い。
古い油の臭い。
鉄錆の臭い。
それから、甘いような、苦いような、薬の臭い。
鼠は本能で進路を変えた。
だが、遅かった。
ぬるり、と。
壁に貼り付いていた黒い膜が、動いた。
膜だと思われていたものが、薄く伸びる。
泥のような、油のような、影のようなものが、石壁から剥がれた。
鼠は跳んだ。
小さな足が水を蹴る。
次の瞬間、その体は半ばまで黒い泥に沈んでいた。
鳴き声は短かった。
泡がひとつ、ふたつ浮かぶ。
それだけだった。
黒い泥はしばらく波打っていた。
やがて、鼠の骨の細い形が、一瞬だけ表面に浮かぶ。
だが、それもすぐに溶けた。
何もなかったように、水路は静かになった。
普通のスライムなら、獲物を呑んだ後はその場で丸くなる。
消化が終わるまで動かない。
だが、その泥は違った。
丸くならない。
核らしい核も見えない。
薄く広がり、石の隙間へ染み込み、また別の場所から滲み出す。
水に流されているようで、流されていない。
壁に貼り付いているようで、壁ではない。
泥は、ゆっくり這った。
鼠が来た方向へ。
そこには鼠の巣がある。
水路の壁が崩れた小さな穴。
乾いた藁と布切れ。
骨。
食べ残し。
そして、鼠が隠していた、街から落ちてきた小さな物。
木片。
硬貨。
割れた硝子。
黒い紐。
錆びた留め具。
泥はそれらを撫でるように覆った。
硝子は沈んだ。
木片は柔らかく崩れた。
紐は溶けなかった。
泥の中に沈んだまま、ゆっくり揺れる。
黒い紐の先には、小さな金具がついていた。
腕輪のような形をしている。
人間の手首に巻くには少し粗末で、飾りにしては薄気味悪い。
何かの紋章が刻まれていたが、泥に覆われ、よく見えない。
泥はそれを呑んだ。
けれど、消化はしなかった。
ただ、抱え込むように内側へ沈めた。
そのとき。
泥が、震えた。
水路の奥から、低い音が響いたのだ。
地上の音ではない。
荷車の車輪でも、馬の蹄でも、工房の槌音でもない。
もっと深いところから響く、鈍い軋み。
古い石組みが、わずかに鳴った。
泥は動きを止めた。
何かを聞くように。
何かを待つように。
やがて、黒い表面に小さな泡が浮かんだ。
泡は弾けた。
そこから、白い粉のようなものが少しだけ漂った。
眠蝶粉ではない。
黒膜胞子でもない。
薬師が扱う毒でもない。
工房の灰でもない。
それらすべてが、水と魔素と腐敗の中で混じり、形を失ったものだった。
泥は、それを食べた。
食べて。
覚えた。
水の流れ。
臭いの強い場所。
熱の残る場所。
鼠の通る道。
人間が蓋を開ける場所。
光が落ちる場所。
足音が響く場所。
そして。
地上へ出る道。
泥は、這った。
遅い。
あまりにも遅い。
人の目で見れば、ただの汚れが広がっているだけに見えただろう。
だが、確かに進んでいた。
水路の角を曲がる。
崩れた石の隙間を抜ける。
古い鉄格子の下を染み出す。
途中で、小さなスライムとぶつかった。
半透明の、緑がかった普通の個体だった。
それは水路の汚れを食べていた。
黒い泥に触れた瞬間、小さなスライムは震えた。
逃げようとした。
逃げられなかった。
黒い泥は、半透明の粘体をゆっくり包み込んだ。
食う、というより。
混ぜた。
透明だった粘体に、黒い筋が走る。
核が浮く。
小さな核は、黒い泥の中でしばらく光った。
そして、消えた。
泥の動きが、少しだけ速くなった。
それでも、人間の歩みに比べれば遅い。
だが、街の底に急ぐ者はいない。
急がなくても、道はある。
流れはある。
餌はある。
泥は進む。
その先に、光が落ちていた。
丸い格子蓋の隙間から、地上の朝が細く差し込んでいる。
上から声が聞こえた。
「こっちの排水も詰まり気味だな」
「昨日の騒ぎの後始末で、どこもかしこも汚れ放題だ。職人街も倉庫街も、人が集まりゃこうなる」
「ギルドに頼むか?」
「鉄級の掃除依頼でいいだろ。スライムがいたらついでに潰してもらえ」
「最近、多くないか?」
「何が」
「スライムだよ。裏通りの水桶にも出たって聞いたぞ」
「春先は増えるんだよ。魔素だまりが緩むからな」
「そういうもんか」
「そういうもんだ」
足音が遠ざかる。
泥は、格子の下で止まっていた。
光に触れた端が、じゅ、と小さく鳴る。
黒い表面がわずかに縮んだ。
泥は光を嫌った。
熱も嫌った。
乾いた空気も嫌った。
だから、上には出なかった。
今は。
出なかった。
代わりに、格子蓋の裏へ薄く張り付いた。
そこに落ちていたものを舐める。
人間の靴底についた泥。
馬車の油。
焦げた木屑。
灰。
昨日の小屋から流れてきた、古い幕の繊維。
それから。
人の血が、ほんの一滴。
泥は震えた。
血を覚える。
熱を覚える。
人間の臭いを覚える。
足音を覚える。
声を覚える。
複数の声が、上から降ってくる。
怒鳴り声。
笑い声。
泣き声。
安堵の声。
噂話。
「黒蝶と灰守、同時に出たんだろ?」
「らしいな」
「じゃあ、やっぱり別人か」
「そりゃそうだろ。黒と灰で属性も違うって話だしな」
「でも、どっちも仮面だぞ」
「仮面をつけりゃ同一人物になるなら、仮面職人は全員黒蝶だ」
「違いねぇ」
笑い声が過ぎる。
泥は声の意味を理解しない。
だが、振動は覚えた。
仮面。
黒。
灰。
人が集まる音。
人が恐れる音。
人が逃げる音。
それらを、泥は覚えた。
また、別の足音が近づいた。
軽い足音だった。
子どもだ。
「おい、こっち来んなって。臭いぞ」
「なんかいる」
「え?」
「ほら、蓋のとこ。黒いの」
「ただの汚れだろ」
「動いた」
「動く汚れなんかあるかよ」
「あるよ。スライムとか」
「だったら棒でつついてみようぜ」
細い木の棒が、格子の隙間から差し込まれた。
泥は動かなかった。
棒の先が、黒い表面に触れる。
ぬるりと沈む。
「うわ、柔らけぇ」
「やめとけよ。怒られるぞ」
「平気だって」
棒が少しだけ動いた。
次の瞬間、黒い泥が棒の先を伝った。
這い上がる。
水ではありえない動きだった。
「うわっ!」
子どもが棒を放した。
棒は格子の中へ落ちた。
泥はそれを包み込む。
上から、慌てた足音が遠ざかった。
「だから言っただろ!」
「今の見たか!?」
「見てねぇ!」
「嘘つけ!」
声は遠ざかる。
泥は、落ちた棒を食べた。
乾いた木は食べにくい。
だが、子どもの手の汗が染みていた。
泥はそれを舐めるように吸った。
地上は遠い。
光は嫌いだ。
乾きは嫌いだ。
けれど、地上には餌が多い。
熱が多い。
声が多い。
泥はしばらく、格子の裏に貼り付いていた。
やがて、また下へ戻る。
今はまだ、上には出ない。
暗い方がいい。
湿った方がいい。
狭い方がいい。
誰にも見られない方がいい。
水路の奥へ戻る途中、泥は分かれた。
ほんの指先ほどの黒い欠片が、本体から離れる。
欠片は水に乗って流れた。
本体とは違う方へ。
また別の欠片が、壁の隙間へ染みた。
さらに別の欠片が、古い排水管を這い上がった。
ひとつは薬師街へ。
ひとつは職人街へ。
ひとつは倉庫街へ。
ひとつは、冒険者ギルドの裏手にある古い側溝へ。
どれも小さい。
踏まれれば潰れる。
火で炙れば乾く。
塩を撒けば縮む。
普通の掃除人でも、気づけば掻き落とせる程度の汚れだ。
だが。
気づかれなければ、汚れは汚れのままそこにある。
泥は這う。
石の隙間を。
木箱の底を。
桶の裏を。
壁の影を。
夜が来れば少し進む。
水が流れれば広がる。
誰かが洗えば薄まる。
誰かが捨てれば濃くなる。
街の営みそのものが、泥に道を与えていた。
やがて、冒険者ギルドの裏手。
古い側溝の蓋の下で、小さな黒い欠片が止まった。
上では、朝のギルドが動き始めている。
扉が開く音。
依頼板の前で立ち止まる足音。
受付に並ぶ声。
紙をめくる音。
誰かが大きく欠伸をした。
誰かが笑った。
誰かが、疲れた声で言った。
「下水掃除の依頼、また増えてるな」
「昨日の騒ぎで人が集まったからだろ。屋台も出たし、そりゃ汚れる」
「スライム討伐付きか。鉄級向けだな」
「銅級でも暇な連中なら受けるんじゃないか? 臭いけど報酬は悪くない」
「臭い仕事を悪くない報酬で出すなよ。悪い報酬なら誰も受けねぇだろ」
「それもそうだ」
紙が板に貼られる音がした。
側溝の下で、黒い欠片が震える。
依頼。
討伐。
スライム。
人間の言葉は分からない。
けれど、声の高さは覚えた。
近づいてくる足音を覚えた。
棒でつつく手を覚えた。
火の熱を覚えた。
塩の痛みを覚えた。
そして、逃げ道を覚えた。
黒い欠片は、ゆっくり奥へ沈んだ。
ギルドの裏手から、地下へ。
地下から、さらに古い水路へ。
そこには本体がいる。
大きくなった泥がいる。
小さなスライムを呑み、鼠を呑み、廃液を呑み、魔素を呑み、捨てられた何かを抱え込んだ泥がいる。
黒い紐。
粗末な金具。
腕輪のような形をしたもの。
それは泥の奥で、かすかに沈んでいた。
ぬるり、と。
泥の表面が盛り上がる。
形になりかける。
鼠ではない。
小さなスライムでもない。
人の手のようなものが、一瞬だけ水面から出た。
指の形を作ろうとして。
崩れた。
泥はまた、平らになる。
失敗した。
だが、失敗を覚えた。
次は、もう少し長く形を保てる。
その次は、もう少し高く伸びられる。
その次は。
水路の奥で、泡が弾けた。
それは声ではない。
意思でもない。
ただ、腐った水と魔素が混ざった音にすぎない。
それでも。
暗い地下では、それが笑い声のように響いた。
地上では、今日も人が歩いている。
黒蝶の噂をする者がいる。
灰守の名を語る者がいる。
幕引き屋の行方を面白がる者がいる。
ギルド職員が掲示板を直し、受付が依頼票を整理し、冒険者が臭い仕事を嫌がりながら引き受ける。
誰も知らない。
舞台の幕が下りた後。
観客が帰った後。
拍手も悲鳴も消えた後。
街の底では、別のものが動き始めている。
派手な声明はない。
白い仮面もない。
名乗りもない。
ただ、汚れが溜まる。
泥が増える。
水が淀む。
そして。
汚泥は這いよる。
少し長くなってきたので、章を追加しました。
そしてこの話から新章突入となります。評価、ブックマーク、感想などお寄せください。




