脚本家は舞台を降りる
旧巡業小屋の奥は、表の客席とは別の顔を持っていた。
そこは舞台裏だった。
古い楽屋。
使われなくなった道具置き場。
壁に残る、剥がれかけた興行札。
割れた鏡。
片方だけ残った化粧台。
埃を被った幕。
天井から垂れる縄。
かつて誰かがここで衣装を整え、誰かが出番を待ち、誰かが拍手を浴びるために息を潜めていた場所。
今は違う。
ここは逃げ道であり、罠であり、幕引き屋のための第二の舞台だった。
黒蝶は、細い足場板を蹴った。
その先で、白い仮面が闇へ滑る。
黒いシルクハットのつばが、わずかな灯りを拾って揺れた。
「しつこい方ですね」
カーテンコールの声が、幕の向こうから響く。
「褒め言葉として受け取っておく」
「ええ。舞台では、しつこさも美徳です。幕が下りるまで立っている役者は、嫌いではありません」
「俺は役者じゃない」
「では、何だと?」
「お前を止める者だ」
黒蝶は梁の上を走る。
ここまで来れば、客席は遠い。
下にいる人々を巻き込む危険は減った。
だが、その分だけカーテンコールの動きは鋭くなっている。
客席から見せるための大きな動きではない。
幕裏で仕留めるための、小さく、速い動き。
ステッキの先が、闇から伸びた。
突きではない。
押し込みだ。
黒蝶は肩を落とし、半歩ずらす。
ステッキが外套をかすめた。
直後、足元の板が沈む。
黒蝶は踏む前に風で読んでいた。
沈む板には体重を預けない。
沈む前提で、その先の梁へ跳ぶ。
カーテンコールの声が、少しだけ楽しげになる。
「慣れてきましたね」
「お前の癖が見えてきただけだ」
「癖?」
「逃げる場所を先に作る。踏ませる場所を先に置く。落ちる先を先に決める」
「よくご覧になっている」
カーテンコールはステッキを軽く回した。
「ですが、見えることと届くことは違います」
黒蝶は答えない。
眠り銃を構える。
白い仮面を狙う。
だが、指が止まった。
違う。
カーテンコールは、撃たれる場所にいない。
撃たれる瞬間には、もう別の場所へ移っている。
落ちる先を決めている。
逃げる先を作っている。
黒蝶の銃口が、わずかに揺れた。
白い仮面ではない。
その奥。
足場。
縄。
滑車。
答えは、あの男の体ではなく、あの男を運ぶものの中にある。
だが、黒蝶が撃つより早く、ステッキが縄を叩いた。
かん。
乾いた音。
足場板が半歩横へ逃げる。
黒蝶の弾は、板の端を掠めただけだった。
カーテンコールが、白い仮面をわずかに傾ける。
「惜しい」
声は穏やかだった。
「そこまで見えて、まだ届かない」
黒蝶は答えない。
まだ届かない。
だが、見え始めている。
カーテンコールは、手放したはずのステッキを細い紐で引いた。
ステッキが空中で回り、黒蝶の足元の縄を叩く。
足場が落ちる。
黒蝶は逆の梁へ跳ぶ。
着地の瞬間、肩に痛みが走った。
ステッキの鉤が外套の端を拾っている。
黒蝶は外套を引き抜くように体をひねった。
布が裂ける。
カーテンコールの声が近い。
「惜しい。もう半拍、迷ってくだされば」
「迷わない」
「いいえ。迷っていますよ」
白い仮面が、すっと梁の向こうへ滑る。
「撃つか、追うか。止めるか、助けるか。貴方はいつも、誰かの重さを背負って迷っている」
黒蝶は踏み込む。
通常の眠り弾を撃つ。
カーテンコールは身を反らし、弾を避けた。
だが、黒蝶の狙いはそこではない。
避けた先の幕へ、黒膜弾を撃ち込む。
黒い膜のような煙が幕に絡み、揺れを止める。
風の嘘が一つ消えた。
カーテンコールの輪郭が、わずかにはっきりする。
「幕を殺しましたか」
「見せ物は終わりだ」
黒蝶はさらに踏み込む。
カーテンコールが後退する。
その背後に、古い興行札が半分剥がれていた。
軽業。
綱渡り。
空中演目。
黒蝶の視線が、一瞬だけそこへ向く。
カーテンコールは、それに気づいた。
「ここは、よく覚えています」
白い仮面が、ゆっくりと傾いた。
「最初は、ただの軽業でした。けれど、拍手には慣れてしまう。昨日より高く、前回より細く、さきほどより危うく。そうして演目は、少しずつ死に近づいていった」
「それで、誰かが落ちたのか」
「ええ」
「仲間か」
「そうかもしれません」
「お前自身か」
白い仮面が、少しだけ沈黙した。
「そうだったかもしれません」
「死亡事故だったんだろう」
「そのようですね」
黒蝶は、白い仮面を見据えた。
「なら、目の前のお前は何だ」
「幕が下りた後に、もう一度出てくる者を」
カーテンコールは、優雅に一礼した。
「人は、何と呼ぶのでしょうね」
黒蝶の指が、眠り銃にかかる。
「ふざけるな」
「ふざけてなどおりません」
白い仮面の口元に描かれた線が、薄く笑っているように見えた。
黒蝶は、それ以上聞かなかった。
この男の言葉に付き合えば、怒りも迷いも、すべて舞台の一部にされる。
だから、踏み込む。
カーテンコールも動く。
白い仮面が、足場の上を滑る。
だが、さっきまでとは違う。
足場が完全には従わない。
下で灰守が支点を作り替えたことで、舞台の荷重が乱れている。
カーテンコールが用意した道が、少しずつずれている。
それでも彼は速い。
ステッキの鉤が、黒蝶の外套を拾う。
黒蝶は外套の留め具を外した。
黒布だけが引かれる。
カーテンコールのステッキが、空の外套を引っかける。
その一瞬。
黒蝶は外套を捨てて前へ出た。
黒い軽装。
防毒面。
薄い防護ゴーグル。
眠り銃。
闇に紛れるための黒から、動くための黒へ。
カーテンコールの仮面が揺れる。
「衣装を捨てますか」
「道具だ」
「舞台では衣装も役の一部です」
「俺は舞台にいない」
黒蝶の掌底が、カーテンコールの肩をかすめた。
浅い。
まだ足りない。
カーテンコールは衝撃を逃がすように後ろへ跳んだ。
白い仮面の端に、細い亀裂が入る。
しかし、倒れない。
カーテンコールは、その亀裂を指先でなぞり、楽しげに笑った。
「良いですね」
「何がだ」
「ようやく、私自身にも危険が近づいてきた」
黒蝶は追う。
カーテンコールは、さらに高い梁へ逃げた。
*
下では、灰守が粉塵の中で片膝をついていた。
梁は落ちた。
客席の一部は崩れた。
だが、落ちた場所に人はいない。
誰も潰していない。
グレンの声が、粉塵の向こうから響いていた。
「全員出た!」
その声は、旧巡業小屋の外へ抜けた。
衛兵たちが歓声を上げかける。
だが、マーレの声がそれを止めた。
「立ち止まるな! 小屋から離れろ! 左へ流せ!」
リオも叫んでいた。
「左へ進んでください! その場で止まらないでください!」
外へ出た人々が、振り返る。
助かったと思った者が、足を止める。
泣きながら家族を探す者がいる。
小屋を見上げる者がいる。
その時だった。
出口の外側で、何かが鳴った。
かちり。
セナが顔を上げる。
「上!」
小屋の入口に掲げられていた、古い看板枠が揺れていた。
かつて興行名を吊っていたのだろう、太い木枠。
今は白い張り紙と黒い幕布で飾られ、見世物小屋の入口らしく仕立てられている。
その支えが、外れかけていた。
客席の真上ではない。
舞台の上でもない。
小屋から出た者たちが、ようやく足を止めようとする場所。
出口から数歩先。
そこへ落ちる。
中の人間を潰すためではない。
外へ出た人間を、もう一度、舞台に引き戻すための罠だった。
グレンが舌打ちした。
「ふざけんな!」
人の流れが乱れる。
音に怯えて戻ろうとする者がいる。
押されて転びかける者がいる。
出口の前で、人の列が詰まりかけていた。
灰守は顔を上げた。
客席に人はいない。
だが、人はまだ、完全には安全な場所に出ていない。
頭上で、看板枠を吊る縄が軋む。
同時に、崩れた客席の残りが低く鳴った。
また、二つ。
また、選ばせる。
カーテンコールの笑い声が、遠くから響いた気がした。
灰守は、仮面の内側で息を吐く。
支える場所を、誰が決める。
落ちる場所を、誰が決める。
カーテンコールが決めた道を、なぞる必要はない。
灰守はアンカーステークに繋いだ縄を掴んだ。
一本目。
二本目。
外側へ逃がした支点。
支えるために張った縄を、今度は引き寄せるために使う。
「三つ数える。左へ寄せろ」
「ああ!?」
グレンが怒鳴る。
「何をだ!」
「人を」
「分かった!」
分かっていない返事だった。
だが、それでいい。
セナが床を見る。
「右の縄は切らない! 左の支点を生かす!」
灰守は頷いた。
「三」
崩れた客席の残りが軋む。
「二」
入口の看板枠を吊る縄が切れかける。
「一」
灰守は、アンカーステークの縄を引いた。
支えていた梁を、押す。
持ち上げたのではない。
横へずらした。
ほんのわずか。
梁の落下方向を、出口から外す。
同時に、外側の支点へ通した縄を引き、避難路の脇に残っていた幕柱を斜めに倒した。
支えるための砦ではなく。
逃がすための砦へ。
「今!」
グレンが人の流れを左へ押した。
「寄れ! 壁側へ寄れ! 止まるな!」
セナが足元の板を蹴り、通れる隙間を広げる。
「走らない! 詰まるな! 左!」
看板枠が落ちる。
梁が落ちる。
客席の一部が崩れる。
音が重なる。
だが、落ちた場所に人はいない。
灰守の腕が限界を超えた。
前腕補強がひしゃげる。
肩が軋む。
膝が床に落ちる。
それでも、最後まで角度は変えなかった。
崩落は舞台奥へ逃げた。
看板枠は避難路の端を砕き、張り紙と幕布を土埃の中へ散らした。
だが、人の列には届かない。
粉塵が爆ぜる。
人々が悲鳴を上げる。
グレンが最後尾の男を抱えて転がる。
セナが咳き込む。
灰守は粉塵の中で片膝をついた。
だが、倒れてはいない。
外へ続く道が空いた。
グレンが振り返り、叫んだ。
「抜け道は生きてる! 流せ!」
その声が、旧巡業小屋の外へ抜けた。
衛兵たちが歓声を上げかける。
マーレがそれを制した。
「まだ止まるな! 小屋から離れろ! 左へ流せ!」
灰守はゆっくりと立ち上がった。
腕は重い。
背中は痛い。
足は震えている。
だが、人は出た。
客席からではない。
小屋から。
そして、舞台から。
灰守の役目は、果たした。
*
黒蝶は、カーテンコールを追い詰めていた。
場所は、旧巡業小屋の最上部。
客席からは見えない、梁と梁の間。
かつて軽業師が飛び移っただろう、細い足場の上だった。
白い仮面には亀裂が入っている。
黒いシルクハットは傾き、ステッキの先は折れていた。
それでも、カーテンコールは笑っていた。
「やはり、高い場所はよい」
声は、先ほどよりわずかに荒い。
それでも白い仮面は、楽しげに傾いた。
「拍手よりも、沈黙が近くなる」
「それを美しいと言うのか」
「言います」
「人が落ちるのを、待っているだけだろう」
「死と隣り合わせでこそ、人は本当に舞台を見る」
「違う」
黒蝶は眠り銃を構えた。
「人は、舞台装置じゃない」
カーテンコールがステッキを振る。
黒蝶は撃たない。
カーテンコールを狙わない。
前と同じ失敗はしない。
カーテンコールは撃たれる場所にいない。
けれど、落ちる先は選ぶ。
必ず、次に踏む場所がある。
黒蝶は呼吸を止めた。
風を読む。
幕の揺れではない。
仮面の位置でもない。
カーテンコールの体が、次に逃げたがっている場所。
半歩先。
細い足場板。
そこへ、岩絡み弾を撃った。
糸が足場板の裏へ絡む。
足場は、逃げなかった。
カーテンコールの足が、そこへ乗る。
いつもなら流れるはずの板が、動かない。
白い仮面が、初めて大きく崩れた。
「……そこを」
カーテンコールの声から、余裕が消えた。
「そこを撃ちますか」
「足場は、踏ませるために置くんだったな」
黒蝶は踏み込む。
掌底が、カーテンコールの胸を打った。
今度は、浅くない。
同時に、もう片方の手が白い仮面を打ち据えた。
ばきり、と乾いた音がした。
白い仮面に、深い亀裂が走る。
カーテンコールの体が、梁の上でよろめいた。
彼は、とっさに仮面を押さえた。
だが、遅い。
亀裂は仮面の中央を走り、口元に描かれていた薄い笑みを断ち割った。
白い仮面の半分が外れる。
からん、と音を立てて、梁の上に落ちた。
割れた仮面の奥から、カーテンコールの本当の口元が覗いた。
黒蝶は、梁の内側へ崩したつもりだった。
足場へ倒し、眠り銃を向け、終わらせる。
そのための一撃だった。
だが。
カーテンコールの足が、梁の外側へ逃げた。
押されたのではない。
選んだ。
下には、暗い空間がある。
古い舞台下。
落下防止の網はない。
残っているのは、腐った幕と、壊れた足場と、闇だけ。
「掴め!」
黒蝶は手を伸ばした。
届く。
届くはずだった。
その瞬間。
割れた仮面の奥で、見えていた口元が歪んだ。
痛みにではない。
恐怖にでもない。
「ああ……」
カーテンコールは、笑った。
「これです……!」
伸ばされた黒蝶の手を、カーテンコールの手が払った。
強い力ではなかった。
けれど、はっきりとした拒絶だった。
助けを求める手ではない。
救いを拒む手だった。
黒蝶の指先は、空を掴んだ。
カーテンコールの体は、暗い舞台下へ消えた。
一瞬。
旧巡業小屋が、静まり返った。
拍手はない。
歓声もない。
誰も声を上げない。
ただ、落ちた。
その沈黙だけが残った。
黒蝶は梁の縁に膝をつき、下を見た。
何も見えない。
落ちた。
だが、死んだのか。
それは、わからない。
足元には、割れた白い仮面の半分が落ちていた。
口元にだけ薄く描かれていた笑みは、割れ目で途切れている。
だが。
黒蝶は、見てしまっていた。
仮面の奥にあった、本当の笑みを。
あの男は、最後の瞬間まで楽しんでいた。
死と隣り合わせの沈黙を。
自分自身が落ちる瞬間さえ、演目にしていた。
*
黒蝶は舞台下へ降りた。
そこに、カーテンコールの姿はなかった。
あったのは、割れた白い仮面のもう半分。
そのそばに、折れたステッキの先端。
そして、腐った床板が割れてできた暗い裂け目。
下から、冷たい風だけが上がってくる。
底は見えない。
落ちたのか。
逃げたのか。
それとも、最初から落ちる場所まで選んでいたのか。
分からない。
ただ、舞台は壊れた。
人は出た。
仮面は割れた。
カーテンコールの演目は、終わった。
*
小屋の外で、リオは書板を握りしめていた。
膝が震える。
頭の奥が熱い。
胸の奥で、二つの影が遠くから軋んでいるような感覚があった。
黒蝶がまだ動いている。
灰守もまだ立っている。
どちらも自分のはずなのに、どちらの痛みもまだ完全には届いていない。
その遅れが、かえって気持ち悪かった。
マーレがリオの肩を掴んだ。
「リオ、大丈夫か」
「大丈夫、です」
「大丈夫な顔じゃない」
「少し、力が抜けただけです」
「だから、それが大丈夫じゃないと言っている」
リオは曖昧に笑った。
笑えたかどうかは、自分でも分からなかった。
周囲では、救助された人々が泣いていた。
母親が子どもを抱きしめている。
見習い職人が腰を抜かしている。
グレンが粉塵まみれで座り込み、セナが咳をしながら縄の切れ端を握っている。
イリスは、紙束を抱えたまま立っていた。
書いていない。
珍しく、何も書いていない。
ただ、壊れた旧巡業小屋を見ている。
その前で、衛兵が声を上げた。
「死者なし!」
その声が、通りに広がった。
死者なし。
その言葉を聞いた瞬間、人々の間から、ようやく息が漏れた。
拍手はなかった。
歓声も、すぐには起きなかった。
ただ、誰かが泣いた。
誰かが座り込んだ。
誰かが、助かった者の肩を掴んだ。
イリスが、小さく呟く。
「……一面の最初は、死者なしです」
リオは顔を上げた。
イリスは、まだ紙に書かない。
ただ、壊れた旧巡業小屋を見ていた。
*
その夜遅く。
リオはギルドの自室で、扉を閉めた。
黒い装備袋が、床に置かれている。
灰色の装備も、布に包まれて戻っていた。
部屋の隅には、黒蝶が立っていた。
窓際には、灰守が立っていた。
どちらも、リオだった。
分かっている。
分かっているのに、二つの仮面が同じ部屋にいる光景は、少しだけ奇妙だった。
黒蝶の外套は裂れている。
灰守の前腕補強は歪んでいる。
どちらも、何も言わない。
部屋の中に、黒と灰が立っている。
その足元から、二本の影がリオへ伸びていた。
いつもなら、複製体へ伸びた魔力は一本の糸だった。
手繰れば戻る。
戻れば、疲労と記憶が本体へ沈む。
だが、今は違う。
二本の糸がある。
黒蝶へ伸びた細い糸。
灰守へ伸びた重い糸。
その二つが、リオの胸の奥で別々に震えていた。
増えただけではない。
自分の中の何かが、内側から押し広げられている。
痛みではない。
けれど、気持ちが悪い。
リオは胸を押さえた。
怖い、とは少し違う。
けれど、正常ではない。
先に動いたのは、黒蝶だった。
懐から、割れた白い仮面の半分を取り出し、机の上に置く。
灰守は、それを見た。
「……終わったのか」
低い声だった。
灰守の声であり、リオの声だった。
黒蝶は短く答える。
「落ちた」
「死んだのか」
「……わからない」
「人は」
「無事だ」
黒蝶が言うと、灰守はわずかに頷いた。
「なら、いい」
その言葉は、リオ自身の言葉でもあった。
リオは息を吐いた。
「戻るぞ」
二つの仮面が、同時にこちらを見た。
足元の影が、黒と灰に分かれている。
それが、ゆっくりとこちらへ戻ってくる。
まず黒が沈む。
次に灰が沈む。
その瞬間、リオの中で、二本の魔力の糸が一気に引き戻された。
胸の奥が、鳴った。
音ではない。
けれど、確かに鳴った。
黒蝶の記憶が落ちる。
梁の高さ。
幕の匂い。
ステッキの痛み。
白い仮面の亀裂。
落下。
割れた仮面。
暗い裂け目から上がる冷たい風。
続いて、灰守の記憶が戻る。
梁の重さ。
膝の震え。
前腕の痛み。
粉塵。
グレンの声。
セナの指示。
外へ続く道が空いた瞬間の安堵。
二つ分の痛みが、一気に本体へ落ちた。
「っ……!」
リオは寝台の端を掴み、崩れるように膝をついた。
黒蝶の肩が痛い。
灰守の腕が痛い。
喉も痛い。
だが、それだけではなかった。
記憶の中の黒蝶は、あの細い梁の上で動いていた。
カーテンコールの足場を読み、幕の揺れを殺し、落ちる先を見ていた。
前なら、追えただろうか。
記憶の中の灰守は、崩れかけた客席を支えていた。
ただ耐えるだけではなく、支点を作り替え、重さの逃げ道を変えていた。
前なら、支えられただろうか。
リオは胸を押さえた。
二体になった。
それは分かる。
けれど、それだけではない。
黒蝶も、灰守も、前より深く動いていた。
数が増えたのではない。
役目が、深くなった。
自分の知らないところで、複製体そのものが一段、先へ進んだような感覚があった。
複製体は、ただ本体を写しただけのものではない。
経験を持ち帰る。
痛みを持ち帰る。
判断を持ち帰る。
なら。
積み重ねたものは、どこに残る。
本体だけか。
それとも、複製体の側にも残るのか。
リオは、答えを出せなかった。
ただ、胸の奥で黒と灰の魔力が、まだ別々に震えていた。
*
翌朝。
ルネリア日報は、いつもより早く売り切れた。
見出しは大きかった。
――旧巡業小屋事件、死者なし。
――黒き蝶は幕裏へ、灰の砦は客席へ。
――幕引き屋カーテンコール、行方不明。
職人街では、新聞を手にした者たちが口々に話していた。
「黒蝶は幕裏まで追ったんだろ?」
「灰守は客席を支えたってよ」
「黒と灰で役割が違うんだな」
「仮面の二人組か?」
「二人組っていうか、何なんだろうな」
「でも、死者なしだろ」
「なら十分だ」
ギルドの受付前でも、同じ話題で持ちきりだった。
マーレは新聞を畳み、リオを見た。
「昨日は倒れかけていたな」
「倒れてはいません」
「顔が真っ青だった」
「少し、人混みに酔いました」
「人混みで済む顔じゃなかったぞ」
「努力します」
「何に対してだ」
リオは曖昧に笑った。
全身が痛い。
肩も、腕も、喉も痛い。
だが、帳面は開ける。
ギルド職員として、記録を書かなければならない。
被害状況。
救助人数。
負傷者。
現場対応。
冒険者協力。
衛兵連携。
不審な舞台装置。
暗い裂け目から続く地下空間の確認予定。
そして最後に、短く書いた。
死者なし。
その四文字を見て、リオはようやく息を吐いた。
幕は下りた。
だが、カーテンコールはまだ終わっていない。
それでも昨日の夜、確かに一つだけ守れたものがある。
人は、舞台装置ではない。
その一線だけは、譲らなかった。




