ギルド職員は二枚目のチケットを切る
足元の影が、かすかに震えた。
リオは、その震えを見た。
地面ではない。
板でもない。
自分の影が、揺れている。
夕方の薄闇の中、旧巡業小屋の入口近くで、リオの影だけが別のもののように波打っていた。
黒蝶は、すでにいる。
梁の上から下へ降り、落ちかけた桟敷の軌道を変えた。
いまも小屋の中で、黒い外套が揺れている。
なのに、リオの足元にはまだ影があった。
もう一つ。
ありえないはずの影が、そこにあった。
「リオ!」
マーレの声が飛ぶ。
「下がれ! 入口から離れろ!」
リオは返事をしようとした。
だが、その瞬間、客席がさらに沈んだ。
ぎしり、と嫌な音がした。
小屋の内側に押し込まれた見習い職人が膝をつき、近くの子どもが泣き叫ぶ。
母親が手を伸ばしている。
だが、間に人の流れがある。
頭上では、吊り桟敷の支えが外れかけていた。
黒蝶は、客席の上を横切り、落下の直撃だけは避けている。
だが、支えることはできない。
あの黒い装備は、軽い。
夜に走るためのものだ。
梁を受けるための腕ではない。
床を固めるための足ではない。
必要なのは、灰だ。
灰守。
リオは振り返った。
旧荷車通りの入口近く。
衛兵が人を下げるために確保した空き地に、ギルドの臨時対応所が作られていた。
戸板。
水桶。
縄。
杭。
応急布。
負傷者を寝かせるための敷布。
そして、ミラ工房から届いていた救助用の荷箱。
表向きは、崩落対応用の試作品だ。
中身を正しく知っているのは、リオだけだった。
灰色の外套。
白銀の線。
琥珀色のレンズ。
胸元の砦の印。
アンカーステーク。
滑り止め手袋。
前腕補強。
支えるための装備。
ギルドが人混み対応と負傷者対応のために置いた救助具。
その中に、灰守の姿が眠っている。
リオは走った。
「リオ!」
マーレがまた呼ぶ。
「救助具を取ります!」
嘘ではない。
救助具だ。
ただ、それを使うのはリオではない。
リオは臨時対応所の荷箱の陰に膝をついた。
周囲の目は小屋へ向いている。
黒蝶へ向いている。
沈みかけた客席へ向いている。
リオ一人の動きに構っていられる者はいない。
短い金具を引き抜き、箱の蓋をこじ開ける。
灰色が見えた。
その瞬間、足元の影が大きく割れた。
黒ではない。
灰色の影。
煙でも、粉塵でもない。
それでも、瓦礫の中から立ち上がるような、重い影だった。
リオの喉が鳴る。
体の奥で、何かが裂けたような感覚があった。
痛みではない。
けれど、軽くもない。
黒蝶を出した時の感覚とは違う。
一本の糸を二本に裂くような。
一つの息を二つに分けるような。
自分の中から、別の役目を切り出すような。
リオは、奥歯を噛んだ。
黒蝶は追え。
灰守は支えろ。
言葉にしたわけではない。
けれど、影はそれを聞いた。
荷箱の陰で、灰色の複製体が立ち上がった。
装備へ手を伸ばす。
前腕補強を巻く。
手袋をはめる。
灰色の外套を肩へ掛ける。
琥珀色のレンズを下ろす。
アンカーステークを掴む。
その動きは早かった。
黒蝶ほど軽くはない。
だが、迷いがない。
支えるために作られた姿が、支えるために整っていく。
リオは息を吸った。
黒蝶は、まだいる。
小屋の中には、黒がいる。
そして今、目の前には灰がいる。
ありえない。
だが、いまはそれを考えている場合ではない。
「行け」
リオは小さく言った。
灰色の仮面は、何も答えなかった。
ただ、重い足音で旧巡業小屋へ向かった。
*
灰守が姿を見せた瞬間、入口前のざわめきが変わった。
「灰守だ!」
「バスティオン!」
「本当に来た!」
その声は歓声に近かった。
だが、今度はそこに縋るような響きが混じっていた。
黒蝶を見上げた時の熱とは違う。
灰色の仮面を見た人々は、見世物を見つけたのではない。
助かるかもしれないものを見つけた。
灰守は歓声に応えない。
手も振らない。
名乗りもしない。
まっすぐ、沈みかけた客席へ向かう。
梁の上から、白い仮面がそれを見下ろしていた。
「お越しくださいましたか、灰の砦」
カーテンコールの声が、旧巡業小屋の中に柔らかく響いた。
「もちろん、お待ちしておりました。崩れかけた客席に、砦が立たぬはずがない」
黒蝶が顔を上げる。
カーテンコールは、黒蝶へ向けて軽くシルクハットのつばを持ち上げた。
「黒き蝶は悪を追い、灰の砦は人を支える。ええ、ええ。実に分かりやすい配役です」
「配役じゃない」
黒蝶が低く言う。
「人を助けに来ただけだ」
「舞台では、それを配役と呼びます」
カーテンコールは楽しそうだった。
「灰色!」
グレンが叫んだ。
「左の支柱だ! あそこを押さえろ!」
「右の縄は触らないで!」
セナの声が飛ぶ。
「それを切ったら上が落ちる! 床は持ち上げない! 沈むのを止めるだけ!」
灰守は短く頷いた。
アンカーステークを床へ打ち込む。
がん、と鈍い音が響いた。
古い板が割れ、杭がその下の土と石片に食い込む。
灰守はそこへ魔力を流した。
土が締まる。
石片が噛み合う。
崩れかけた基礎が、ほんの少しだけ固まる。
客席の沈みが止まった。
一瞬、人々の顔に安堵が浮かんだ。
だが同時に、頭上の縄が鳴った。
きん、と張り詰めた音。
セナの顔色が変わる。
「待って」
彼女が、客席の支柱から上へ伸びる縄を見た。
「違う。そこ、ただの支点じゃない」
灰守が支えたことで、客席は止まった。
だが、上の空中舞台もまた安定した。
梁の上で、カーテンコールの足場が落ち着く。
揺れていた細板が、ぴたりと止まる。
吊り縄の振れが収まり、滑車が静かに噛み合う。
カーテンコールが、ゆっくりと拍手した。
ぱちり。
ぱちり。
「素晴らしい」
白い仮面が、梁の上で笑っていた。
「砦とは、そこに在ってこそ意味がある。貴方が支えれば、客席は沈まない。そして、舞台はより美しく安定する」
灰守の腕に、さらに重さが乗った。
客席の重さ。
逃げようとする人々の重さ。
上の空中舞台から伝わる揺れ。
そして、カーテンコールが動きやすくなった分だけ増した負荷。
前腕補強が軋む。
肩当てが鳴る。
背部支持板が重さを受け、腰へ逃がす。
膝当てが瓦礫に食い込む。
滑り止めの靴底が、沈みかけた床を噛む。
灰守は動けない。
動けば、客席が落ちる。
だが、支え続ければ、上の舞台も支えてしまう。
黒蝶の頭上で、足場が安定した。
カーテンコールの動きが、さらに軽くなる。
「灰守が支えたことで、あの人の舞台まで支えられてる……?」
セナが呟く。
その言葉を聞いて、イリスが紙束を抱えたまま一歩下がった。
「……違う。あの人は、灰守まで記事にするつもりなんじゃない」
「どういう意味ですか」
リオが聞くと、イリスは青ざめた顔で小屋を見上げた。
「記事じゃない。演目にするつもりなんです。黒蝶が追い、灰守が支える。その構図ごと、見世物にしている」
リオの胸が冷えた。
そうだ。
カーテンコールは灰守が来ることを想定していた。
黒蝶を空中へ誘い、灰守を客席へ立たせる。
追う者と支える者。
その二つを同じ舞台に並べるために。
灰守は支える。
支えるから動けない。
動けないから、舞台装置になる。
カーテンコールは、灰守の善意まで罠にした。
「どうぞ、そのまま」
梁の上から、白い仮面の声が降る。
「砦は動かぬもの。幕が下りるまで、そこに立っていてください」
灰守は答えない。
答えられない。
腕が軋む。
膝が沈む。
土属性の魔力が床下へ吸われていく。
このままでは支え切れない。
支え切れたとしても、上の舞台まで支えてしまう。
カーテンコールの思うままだ。
「灰色!」
グレンが叫ぶ。
「十数える! その間だけ支えろ! 人を抜く!」
「十じゃ足りない」
灰守が低く返す。
「じゃあ十五だ!」
「二十」
「欲張るな、砦!」
グレンはそう怒鳴りながら、客席へ半身を入れた。
見習い職人の襟を掴み、外へ引きずる。
「お前は客じゃねぇ! 荷物でもねぇ! 足を動かせ!」
「は、はい!」
セナが別の子どもへ手を伸ばす。
「こっち! 右へ行かない! 左の柱の影を抜けて!」
灰守は支え続ける。
苦しい。
支えれば支えるほど、舞台が安定する。
カーテンコールの足場が軽くなる。
黒蝶が不利になる。
だが、手を離せば人が潰れる。
灰守は歯を食いしばった。
いや、仮面の下にある歯を、リオの意識がそう感じた。
支える。
だが、どこを支える。
誰が決めた。
カーテンコールが用意した支点。
カーテンコールが選ばせた柱。
カーテンコールが灰守を置きたい場所。
違う。
灰守は、床下へ意識を沈めた。
土。
石片。
古い基礎。
腐った杭。
割れた板。
客席の下に残る、昔の小屋の骨。
重さはどこから来ている。
どこへ逃げている。
どこを通れば、客席を支えて、上の舞台を支えずに済む。
灰守は、支柱を押さえたまま、もう一本のアンカーステークを取り出した。
セナが叫ぶ。
「そこじゃない! その支柱を補強すると、また上に伝わる!」
灰守は短く答えた。
「だから、そこは支えない」
灰守は、支柱の根元ではなく、客席の外側へ杭を打った。
がん。
床板を外れ、古い土の地面へ。
もう一本。
がん。
崩れた基礎の外へ。
さらに、救助縄を杭へ通す。
支柱から直接受けていた重さを、縄で外側へ逃がす。
客席を持ち上げるのではない。
舞台へ繋がる支点を切るのでもない。
重さの流れる道を、変える。
カーテンコールが作った支点を使わない。
自分で、新しい支点を作る。
灰守の足元で土が締まった。
縄が鳴る。
客席の沈みが止まる。
だが、頭上の空中舞台だけが、わずかに揺れた。
カーテンコールの拍手が止まる。
「……ほう」
白い仮面が、初めてわずかに傾いた。
灰守は低く言った。
「砦は、置かれるものじゃない」
その一言は、大きな声ではなかった。
けれど、近くにいたリオには聞こえた。
イリスにも、セナにも、グレンにも届いた。
グレンがにやりと笑う。
「言うじゃねぇか、砦!」
セナが叫ぶ。
「今ので上の支えが抜けた! 黒蝶、上が揺れる!」
*
梁の上で、黒蝶はその揺れを感じた。
ほんの少し。
だが、確かに足場が変わった。
さっきまでカーテンコールに従っていた舞台が、初めて気まぐれに揺れた。
灰守が、下で何かを変えた。
黒蝶には、その理由までは分からない。
だが、結果は分かる。
カーテンコールの足場が、完全ではなくなった。
黒蝶は踏み込んだ。
カーテンコールのステッキが鳴る。
かん、と乾いた音。
足場が横へ逃げる。
だが、黒蝶はもうその動きを見ていた。
逃げる足場へ乗ろうとはしない。
その下の梁へ落ちる。
風を流し、着地の角度を殺す。
眠り銃を抜く。
眠霧弾はまだ使わない。
下には人がいる。
だが、通常弾なら射線を選べる。
黒蝶は撃った。
カーテンコールはステッキで銃口を逸らそうとする。
だが、黒蝶はその動きを読んでいた。
銃口を逸らされる前提で、半歩左へ撃つ。
弾はカーテンコールの脇を掠め、背後の吊り縄を撃ち抜いた。
縄が切れる。
小さな吊り足場が落ちかける。
だが、黒蝶はすでに次の岩絡み弾を撃っていた。
糸が落ちる足場に絡み、梁へ縛りつける。
落下ではない。
固定。
舞台装置を、舞台装置として使わせない。
カーテンコールが、わずかに動きを止めた。
「ほう」
「もう踊らせない」
黒蝶は言った。
「お前の舞台を壊す」
「壊す?」
カーテンコールの声が、少しだけ低くなる。
「舞台を壊して何が残ると?」
「人が残る」
黒蝶は梁を蹴った。
カーテンコールは後退する。
ステッキの先が、黒蝶の外套を狙う。
黒蝶は身を低くする。
ステッキの鉤が空を掻いた。
そのまま黒蝶は踏み込み、眠り銃を逆手に持ってステッキを弾く。
金属が鳴った。
カーテンコールは笑う。
「近いですね」
「近づいている」
「では、もう少し高いところへ」
カーテンコールは梁の端を蹴った。
落ちる。
いや、落ちたように見せている。
彼の体は吊り縄を掴み、風を受けて斜めに流れた。
白い仮面が、黒い幕の向こうへ消える。
黒蝶は追う。
幕が落ちる。
視界が切れる。
だが、今度は黒蝶も迷わなかった。
黒膜弾を撃つ。
ただし、下へ落とさない。
幕の根元へ。
黒い膜のような煙が布へ絡み、幕の揺れを重くする。
風の流れが一つ、落ち着いた。
黒蝶はその隙間を抜けた。
奥に、狭い足場が続いている。
旧巡業小屋の舞台袖。
梁の裏。
客席からは見えにくい場所。
カーテンコールが、本来なら黒蝶を見せたかった空中舞台から、少しずつ奥へ押し込まれている。
黒蝶はそれを狙っていた。
人の前で戦わない。
見世物にしない。
幕裏で終わらせる。
「なるほど」
カーテンコールの声が、暗がりから響く。
「客席から外すおつもりですか」
「お前が用意した客席だ」
「ええ。よく見えるように整えました」
「だから見せない」
黒蝶は梁を渡る。
足場はさらに細くなっていた。
ここから先は、観客からは見えにくい。
だが、危険度は上がる。
カーテンコールの領域だ。
古い吊り縄。
半分腐った足場。
幕の裏に隠された滑車。
影絵用の板。
空洞の音筒。
黒蝶は慎重に風を流した。
だが、風が乱れる。
幕が多い。
筒が多い。
穴が多い。
正しい気配と、偽の気配が混じる。
白い仮面が三つ見えた。
一つは吊られた板。
一つは反射。
一つが本物。
黒蝶は一瞬で選ぶ。
眠り銃を撃った。
弾は一つ目の仮面を砕いた。
外れ。
背後から風。
黒蝶は低く沈む。
ステッキが肩を掠めた。
布が裂ける。
「惜しい」
カーテンコールが囁く。
黒蝶は振り向きざまに岩絡み弾を撃った。
糸がステッキに絡む。
カーテンコールの腕が止まる。
だが、彼は慌てない。
ステッキを手放した。
いや、手放したように見せて、手元の細い紐で引いた。
ステッキが宙を回り、別の縄を叩く。
その音を合図に、足場が沈む。
黒蝶の足元ではない。
少し離れた場所。
客席側ではない。
舞台袖の裏。
黒蝶の退路が落ちた。
「そちらへは戻れません」
カーテンコールは静かに言った。
「進むしかありませんよ、黒蝶殿」
「最初からそのつもりだ」
黒蝶は糸を引いた。
絡んだステッキごと、カーテンコールの腕を引く。
初めて、白い仮面の体勢が崩れた。
ほんの少し。
だが、確かに崩れた。
黒蝶は踏み込む。
届く。
今度こそ。
*
下では、灰守が支え続けていた。
客席の沈みは止まりかけている。
だが、完全ではない。
人が動けば鳴る。
誰かが焦れば揺れる。
灰守は動けない。
動けないまま、全身で重さを受けている。
だが、もうカーテンコールの支柱ではない。
自分で作った支点で、人を支えている。
「あと何人だ!」
グレンが叫ぶ。
「入口付近は半分抜けた!」
ギルド職員が返す。
「子ども二人、見習い三人、奥に大人が一人!」
「奥の大人は俺が行く!」
「駄目!」
セナが叫んだ。
「右の床板、踏んだら落ちる! 灰色、左側をもう少し持たせられる!?」
灰守は答えない。
答える余裕がない。
ただ、左足を半歩ずらした。
床が鳴る。
灰守はアンカーステークをもう一本取り出し、膝で押さえたまま床へ打ち込む。
腕は梁から離せない。
だから、膝と体重で杭を沈める。
土属性の魔力を流す。
床下の土が締まる。
左側の床が、ほんの少しだけ持ち直した。
「今!」
セナが叫ぶ。
「左から抜いて!」
グレンが奥の大人へ手を伸ばす。
「寝るなら外で寝ろ!」
「す、すまん……!」
「謝る暇があったら動け!」
灰守の視界の端で、人が一人、また一人と外へ抜けていく。
歓声はない。
拍手もない。
あるのは、泣き声と怒鳴り声と、木が軋む音だけだ。
だが、それでいい。
助かる場面に、拍手はいらない。
灰守は、ただ支えた。
*
リオ本体は、小屋の外にいた。
黒蝶がどこまで追っているかは、もう見えない。
灰守が何を見ているかも、分からない。
戻るまで、分からない。
黒蝶も、灰守も、自分だ。
だが、今この瞬間、リオ本体は二人の中身を知らない。
送り出しただけだ。
追え。
支えろ。
その役目を託しただけだ。
それが、こんなにも怖いことだとは思わなかった。
黒蝶が失敗しても、今は分からない。
灰守が潰れても、今は分からない。
戻った時に、痛みと記憶がまとめて来る。
それまで、本体のリオはただ待つしかない。
いや、待つだけではない。
リオは書板を握り直した。
「マーレ主任!」
「何だ!」
「外周をもう一段下げてください! まだ人が流れ込んでいます!」
「分かってる!」
「右の路地は使えません! 荷車で詰まります! 左の広い道へ!」
マーレが一瞬リオを見る。
だが、すぐに頷いた。
「衛兵! 右は閉じろ! 左へ流せ!」
リオはギルド職員だ。
黒蝶でも、灰守でもない。
けれど、ここにも役目はある。
逃がす役。
リオは、人の流れを見た。
右へ行こうとする者。
立ち止まる者。
小屋を見上げる者。
子どもを探す者。
声を出す。
「左へ! 左の通りへ進んでください! 立ち止まらないでください!」
喉が痛い。
でも叫ぶ。
ギルド職員として。
ここにいる自分ができることを、やる。
*
舞台袖の奥で、黒蝶はカーテンコールへ迫っていた。
白い仮面まで、あと一歩。
岩絡み弾の糸が、ステッキに絡んでいる。
カーテンコールは腕を引かれ、体勢を崩している。
黒蝶は眠り銃を構えた。
今度は下に客席がない。
射線の先は、古い幕と壁だけだ。
撃てる。
黒蝶が引き金に指をかけた瞬間、カーテンコールのシルクハットが落ちた。
いや、落とした。
帽子の中から薄い反射板が開く。
魔石灯の光が反射し、白い仮面が二つに増えた。
黒蝶の銃口が、ほんの一瞬迷う。
その一瞬で、カーテンコールは糸を切った。
ステッキの先に仕込まれた細い刃。
岩絡みの糸が完全に切れたわけではない。
だが、絡みが緩んだ。
カーテンコールは体をひねり、足場の下へ落ちる。
黒蝶が追う。
下は床ではない。
狭い幕裏の通路。
古い楽屋跡へ続く空間。
カーテンコールは落ちる途中で吊り縄を掴み、体を振った。
白い仮面が暗がりへ滑る。
黒蝶は着地する。
床が軋む。
その先に、細い出口がある。
裏口。
そこから外へ出られる。
黒蝶は走った。
だが、背後で音がした。
かちり。
何かの留め具が外れる音。
黒蝶は振り返る。
舞台袖の上部に吊られていた小さな照明台が落ちかけている。
客席ではない。
だが、下にはまだ避難途中の人間がいる場所へ繋がる通路がある。
カーテンコールの声が暗がりから響いた。
「追いますか?」
穏やかな声。
「それとも、また降りますか?」
黒蝶は歯を食いしばった。
もう一度か。
もう一度、選ばせる気か。
だが、今は一人ではない。
下には灰守がいる。
外にはリオ本体がいる。
それでも、この照明台は黒蝶が処理できる。
黒蝶は岩絡み弾を撃った。
照明台へ糸を絡め、梁へ縛る。
落下を止める。
その数秒の間に、カーテンコールの気配は薄くなった。
逃げ道へ。
黒蝶は再び走る。
今度は迷わない。
追う役として。
*
灰守の腕に、限界が近づいていた。
最後の一人が抜けるまで、あと少し。
だが、支柱が割れ始めている。
セナが叫ぶ。
「灰色! もう少しだけ!」
灰守は答えない。
答えの代わりに、足元へさらに魔力を沈める。
土が締まる。
杭が鳴る。
腕が軋む。
重さが増える。
その時、最後の見習いが外へ抜けた。
「抜けた!」
グレンが叫ぶ。
「全員出た!」
セナが即座に返す。
「じゃあ離れて! そこはもう持たない!」
灰守は、支えていた梁を見た。
離せば落ちる。
だが、人はいない。
なら、落としていい場所へ落とす。
灰守はアンカーステークの縄を引き、支点をずらした。
支えていた梁の角度が変わる。
落下方向が、客席ではなく、空になった舞台奥へ向く。
灰守は腕を離した。
梁が落ちる。
轟音。
粉塵。
人々の悲鳴。
だが、誰も潰していない。
灰守は粉塵の中で膝をついた。
前腕が痺れている。
背中が痛い。
だが、立っている。
いや、まだ立たなければならない。
上では、黒蝶が追っている。
奥では、カーテンコールが逃げている。
灰守は、粉塵の向こうで揺れる黒い影を見上げた。
自分は追わない。
追うための姿ではない。
支えるための姿だ。
だから、ここに残る。
*
旧巡業小屋の奥で、白い仮面が闇に溶けていく。
黒蝶がその後を追う。
灰守は客席に残る。
リオ本体は外で人を流す。
三つの場所に、三つの役目があった。
追う役。
支える役。
逃がす役。
それが初めて、同時に動いていた。
リオは、息を吸った。
胸の奥が熱い。
頭が割れそうに痛い。
けれど、まだ倒れない。
倒れるのは、戻ってからでいい。
今は、まだ幕の途中だ。
小屋の奥から、カーテンコールの声がかすかに響いた。
「素晴らしい」
それは遠く、暗い声だった。
「ようやく、舞台が面白くなってまいりました」
黒蝶の足音が、その声を追って消える。
灰守の足元で、砕けた床が最後に一度だけ鳴った。
リオは、二つの影の行方を知らない。
だが、もう迷わなかった。
「黒蝶は追え」
誰にも聞こえない声で、リオは言った。
「灰守は支えろ」
そしてリオは、外へ向かって叫んだ。
「左へ進んでください! 立ち止まらないで!」




