ギルド職員は泥を朝へ返す
広場の排水口から、黒い泥の柱が噴き上がった。
水柱ではない。
重く、粘り、腐った臭いを吐く泥の柱。
その中から、腕が伸びる。
肩が出る。
首が持ち上がる。
顔はない。
黒い泡が目のように浮かび、すぐに潰れた。
口のような裂け目が開き、声にならない泡だけを吐く。
ひとつ。
ふたつ。
三つ。
泥の人影が、朝日の中へ立ち上がろうとしていた。
「全員、下がれ!」
オルドの声が飛ぶ。
逃げる者。
子どもを抱える者。
荷物を捨てる者。
足を滑らせる者。
広場が一瞬で乱れた。
「走るな!」
リオは叫んだ。
声が自分のものではないように響いた。
「火の線の内側へ! 壁際に寄らないでください! 水桶を持っている人は置いて!」
すぐ近くで、アッシュが火を置いた。
点ではない。
線だった。
小さな火が、石畳の上に細く並ぶ。
火の線が、避難路の縁を作る。
「こっちだ!」
アッシュが叫ぶ。
「火の内側を歩け! 外へ出るな! 走るな、滑るぞ!」
昨日より大きな声。
さっきよりも、さらに強い声。
火は人を焼くためではなく、人の足元を照らすために置かれている。
リオは地図を掴んだ。
広場。
薬師街。
井戸跡。
倉庫街。
職人街。
旧地下倉庫。
赤い札が、旧水路の上で震えているように見える。
泥の人影は、ばらばらに出ているわけではない。
押された先から出ている。
追い込まれた場所から、噴き上がっている。
「マーレ主任!」
「聞いている!」
マーレはすでに走り書きをしていた。
「伝令! 全地点へ通達! 水を流すな! 押し返すな! 火の線の内側へ住民を誘導!」
「職人街は?」
「グレンさんたちが戻ります!」
「薬師街は《水鏡の門》とアッシュ!」
「井戸跡は衛兵とラウラさん!」
「倉庫街は銅級二組!」
リオは札を動かす。
逃げ道を作る。
水の逃げ道ではない。
人の逃げ道だ。
「リオ」
オルドが横に来た。
剣は抜いている。
だが、まだ斬っていない。
汚泥を斬れば飛ぶ。
踏めば広がる。
流せば逃げる。
ここまでの積み重ねを、オルドも理解していた。
「どこへ追う」
「旧地下倉庫側です」
リオは地図を指した。
「ただし、全部を一気に押すと噴きます。地上側は広場と薬師街の住民を逃がすのが優先です。汚泥は、細く、分けて、鈍らせる」
「倒すな、止めろ、か」
「はい」
「面倒だな」
「面倒です」
リオは頷いた。
「でも、倒そうとすると広がります」
オルドは低く笑った。
「なら、面倒な方をやる」
剣を構える。
斬るためではない。
柄で押す。
腹で受ける。
泥の腕を人から引き離すための構えだった。
◇
薬師街裏で、エルン・ヴァイスは水を押し流さなかった。
水属性の冒険者なら、本来は流す。
押す。
洗い飛ばす。
だが、今回は違う。
エルンは細い水膜を石畳の上に這わせ、黒い泥の外側を囲った。
水の壁ではない。
低い縁だ。
黒い泥が進もうとする先を、少しだけずらす。
深く押さえ込まない。
力を入れすぎれば、別の隙間へ逃げる。
「ラウラ、臭気は」
「井戸跡側へ逃げたがってる。けど、奥の路地も戻ってきてる。挟めるかも」
「ドルム」
「半分塞ぐ」
ドルム・ガントが封泥杭を打つ。
土が盛り上がる。
完全な壁ではない。
足首ほどの低い堰。
水は逃げる。
黒い泥は引っかかる。
「長くは持たんぞ」
「長く持たせる必要はない」
エルンは水を細く引いた。
「人が逃げるまで持てばいい」
アッシュは火の線を伸ばしていた。
指先が熱い。
息が苦しい。
それでも火を強くしすぎない。
燃やせば煙が出る。
薬師街の臭気に火が混じれば、人が倒れる。
だから、弱く。
細く。
道の縁だけ。
「こっち! 婆ちゃん、火の内側! そこ滑る!」
老婆の手を、薬師街の男が掴む。
子どもが泣きながら走ろうとして、アッシュが怒鳴った。
「走るなって言ってんだろ! 転んだら余計怖いぞ!」
子どもはびくりと止まり、近くの冒険者に抱えられた。
エルンが横目で見る。
「いい声だ」
「褒めんな!」
「今のは注意だ」
「余計うるせぇ!」
アッシュは叫びながら、もう一つ火を置いた。
光の線が、人の流れを作る。
その外側で、黒い泥がずるりと動いた。
暗い場所へ。
壁際へ。
だが、そこにはドルムの低い土の堰がある。
黒い泥は堰に引っかかり、動きが鈍る。
エルンの水膜が外へ広げさせない。
ラウラが風で臭気を逃がす。
アッシュが人を逃がす。
それぞれの仕事が、噛み合っていた。
◇
ギルド前の広場では、グレンたちが戻っていた。
ギルド内の床下は、ニナの凝固粉と受付卓で一時的に押さえた。
完全ではない。
だが、今は広場の方が危ない。
「ロッソ、左の腕!」
「分かってる!」
「切るな!」
「それも分かってる!」
ロッソは斧の刃ではなく、柄で黒い腕を払う。
黒い腕が石畳へ叩きつけられ、粘るように広がろうとする。
そこへニナが粉を撒いた。
白灰色の線。
黒い泥が鈍る。
バートが盾で住民の前へ立つ。
黒い人影の腕が盾に絡む。
バートは押し返さない。
引き剥がす。
ずらす。
転ばせないように、重心を動かす。
「こいつ、掴んでくるぞ」
「手の形を覚えたんだろうな」
グレンが黒い人影の進路を塞いだ。
大柄な体で、広場の中央に立つ。
「だったらこっちも覚えさせてやる」
黒い腕が伸びる。
グレンは避けない。
木箱を間に入れた。
腕が木箱に絡む。
「人じゃなく、箱でも掴んでろ!」
グレンが木箱ごと横へ投げる。
黒い腕は木箱に絡んだまま、凝固粉の線へ引きずられた。
ニナがそこへ塩晶欠片を撒く。
じゅ、と音がする。
黒い泥の表面が縮む。
傷んだ部分が切り離される。
切り離された小さな泥が逃げようとする。
「逃がさない」
ニナが防汚布をかぶせた。
すぐに別の冒険者が木箱へ入れる。
討伐ではない。
処置だ。
駆除ではない。
隔離だ。
この場の誰もが、それを少しずつ理解し始めていた。
「地味だな!」
ロッソが叫ぶ。
「地味でいい!」
グレンが返す。
「死ななきゃ勝ちだ!」
◇
旧地下倉庫の中で、黒蝶は息を殺していた。
黒い泥は、壁からも床からも天井からも来る。
腕の形。
糸の形。
膜の形。
さっきまでなかった形が、次の瞬間には現れる。
学習が早い。
だが、万能ではない。
同じ癖を持っている。
光を避ける。
乾いた場所で鈍る。
塩晶に触れた部分を捨てる。
凝固粉で動きが鈍る。
そして、硬いものを守ろうとする。
黒蝶は探響弾を撃った。
低い音が泥の奥へ沈む。
反響。
硬い反応。
輪の欠片。
散っている。
だが、散り方にも癖がある。
完全にばらばらではない。
細い線で繋がっているように、一定の範囲を離れない。
核ではない。
中心でもない。
だが、繋ぎ目だ。
繋ぎ目を引き抜けば、全体が暴れる。
なら、引き抜かない。
分ける。
黒蝶は弾倉を回した。
探響弾。
凝固弾。
塩晶弾。
眠り弾はない。
眠らせる敵ではない。
今の眠り銃は、探り、鈍らせ、切り分ける道具だ。
「……戻すための道具、だろ」
黒蝶は小さく言った。
眠らせた者は朝に返す。
縛った者は裁きに返す。
救った者は日常に返す。
なら、この泥は。
街の底へ返すのではない。
ただ流すのでもない。
汚れとして処理できる形へ返す。
黒蝶は凝固弾を撃った。
狙いは輪の欠片ではない。
欠片と欠片の間。
黒い泥の繋がりが薄い場所。
白灰色の粉が広がり、泥の動きが鈍る。
次に塩晶弾。
黒い泥が縮む。
傷んだ部分を捨てようとする。
その瞬間に、探響弾。
低い音が走る。
縮んだ部分と残った部分の境目が見える。
「そこか」
黒蝶は風で体を滑らせた。
足元から伸びる腕をかわし、壁を蹴り、天井の梁に手をかける。
上から凝固弾を撃ち込む。
黒い泥が分断される。
輪の欠片が、ひとつだけ孤立した。
汚泥が震える。
怒り。
あるいは、防衛反応。
地下倉庫の床が膨れ上がる。
黒蝶は欠片を掴まない。
その周囲の泥を固める。
小さな黒い塊が、白灰色の膜に包まれた。
「一つ」
黒蝶は息を吐いた。
だが、反響はまだ多い。
ひとつではない。
終わりではない。
◇
灰守は、地上側で膝をつきかけていた。
封泥杭が軋む。
打ち込んだ杭のいくつかは、黒い筋に絡まれている。
囮にした杭は役目を終えた。
本命の杭も、圧力を受けている。
旧地下倉庫側へ押し戻す。
薬師街へ逃がさない。
井戸跡へ逃がさない。
ギルドの床下へ戻さない。
どれも同時にやろうとすれば、腕が足りない。
力が足りない。
土が鳴る。
水が鳴る。
黒いものが、地面の下で怒鳴っているように震える。
「……まだ」
灰守は杭を握り直した。
「まだ、通さない」
そこへ、横から水が来た。
押す水ではない。
細い膜。
エルンの水だった。
黒い泥の圧力をわずかに横へ逃がす。
その先には、ドルムの土の堰。
完全ではない。
だが、灰守の負担が少しだけ軽くなった。
ラウラの声が飛ぶ。
「灰色の仮面! 右奥、臭気が逆流してる! そこ抜ける!」
灰守は頷いた。
声は返さない。
代わりに、右奥へ封泥杭を一本打った。
ドルムがそれを見て低く言う。
「あれは、うまいな」
エルンも見る。
「塞いでいない」
「ああ。流れを殺していない」
灰守は聞こえていても、反応しなかった。
いま意識を割けば、杭が緩む。
灰守の仕事は、褒められることではない。
支えることだ。
水と土と火と人の動線が、少しずつ噛み合っていく。
◇
リオは広場で、報告を受け続けていた。
黒蝶が何をしているか、見えてはいない。
灰守がどこまで耐えているかも、分からない。
分かるのは、地上の変化だけだ。
薬師街の泥が鈍った。
井戸跡の泡が減った。
倉庫街の人型が崩れた。
ギルド床下の腕が細くなった。
広場の泥柱が、低くなった。
それらを地図に置く。
点ではなく、流れで見る。
旧地下倉庫へ向かう線が、少しずつ絞れている。
「マーレ主任」
「見えている」
マーレも地図を見ていた。
「地上の圧が下がっている。どこかで押さえ込んでいるな」
「はい」
「仮面か」
「……おそらく」
マーレはそれ以上聞かなかった。
その代わり、伝令へ向かって叫ぶ。
「各地点、今の形を崩すな! 流すな! 押し返すな! 鈍らせて、分けろ!」
リオは息を吸った。
「アッシュに伝えてください! 火の線を広場側へ延ばす! 住民を南へ!」
「分かった!」
「グレンさんたちは、広場中央の泥柱を押さえてください! 倒さず、横へ広げず!」
「聞こえたぞ!」
グレンが遠くで手を上げる。
「《水鏡の門》へ! 薬師街と井戸跡の間、維持! 水は低く!」
「伝えます!」
「衛兵へ! 倉庫街の床下は踏み抜かない! 床板ごと剥がさない!」
リオの声は枯れていた。
だが、止まらなかった。
本体の自分は、黒蝶でも灰守でもない。
剣を振るわない。
杭も打たない。
火も置かない。
けれど、つなぐことはできる。
現場と現場。
人と人。
情報と判断。
仮面の二人と、ギルドの仕事。
リオは地図の上に手を置いた。
ここで、止める。
◇
黒蝶は三つ目の欠片を孤立させた。
息が上がる。
腕が重い。
だが、まだ終わらない。
探響弾の残りは少ない。
凝固弾も残りわずか。
塩晶弾は、あと一発。
黒い泥は、それを分かっているかのように動く。
距離を取る。
散る。
そして、地上側へ圧を逃がそうとする。
黒蝶は奥を見た。
旧地下倉庫の床。
そこに、ひときわ濃い黒い泥がある。
核ではない。
だが、欠片が集まりやすい場所。
腕輪の残骸が最初に沈んだ場所。
そこを断てば、全体の繋がりが緩む。
ただし、近づけば飲まれる。
黒蝶は弾倉を見た。
最後の塩晶弾。
これで傷ませる。
傷んだ部分を汚泥は捨てる。
捨てたところを、凝固弾で囲む。
探響弾で位置を確かめる。
足りるか。
足りない。
なら、足りない分は身体で稼ぐしかない。
「本当に、泥臭い」
黒蝶は笑った。
黒い仮面の下で、少しだけ。
それから、走った。
黒い腕が伸びる。
風で逸らす。
粘る膜が足元を覆う。
床を蹴る。
天井から黒い筋が垂れる。
眠り銃の柄で払う。
最後の塩晶弾を撃つ。
黒い泥の中心部が縮む。
汚泥が、傷んだ部分を捨てようとする。
そこへ黒蝶は踏み込んだ。
捨てられる前に、凝固弾を撃つ。
白灰色の粉が、縮んだ泥と欠片を包む。
探響弾を撃つ。
低い音が、地下倉庫の奥へ走った。
反響。
硬い反応。
震えが、途切れた。
完全ではない。
だが、網の一本が切れた。
黒い泥が、全体で揺れた。
怒りではない。
混乱。
繋がりを失った群れが、一瞬だけ動きを見失う。
「今だ」
黒蝶は呟いた。
◇
地上で、灰守はその一瞬を感じた。
圧力が抜ける。
黒い泥が、押す方向を失う。
ほんの短い時間。
だが、十分だった。
「打て!」
灰守が叫んだ。
その声に、ドルムが反応する。
「杭!」
土属性の冒険者たちが、一斉に封泥杭を打ち込む。
グレンが泥の人影を木箱ごと押し込む。
バートが盾で進路をずらす。
ニナが凝固粉を撒く。
ロッソが斧の柄で黒い腕を払い、凝固粉の線へ転がす。
エルンが水膜を低く広げ、泥を外へ出さない。
ラウラが臭気の逆流を読み、逃げ道を叫ぶ。
アッシュが火の線を広げる。
「こっち! 今のうちに抜けろ!」
住民が走る。
いや、走りそうになる。
アッシュが怒鳴る。
「走るなって言ってんだろ!」
住民が足を止め、火の線の内側を進む。
泥の人影が崩れる。
腕が落ちる。
肩が溶ける。
顔になりかけた泡が潰れる。
黒い塊は、いくつかの小さな泥へ分かれた。
分かれた泥を、ニナたちが隔離する。
防汚布。
木箱。
凝固粉。
塩晶。
派手な光はない。
大きな爆発もない。
ただ、街のあちこちで、人々が同じ手順を繰り返した。
広げない。
流さない。
踏まない。
鈍らせる。
分ける。
包む。
それが、効いた。
◇
最後に残ったのは、旧地下倉庫の奥だった。
黒蝶は膝をついていた。
防毒面の内側で、息が熱い。
外套は泥に濡れ、手袋には黒い筋がまとわりついている。
だが、目の前には白灰色に固まった塊が三つ。
その中に、黒い輪の欠片が沈んでいる。
全部ではない。
だが、大きな繋ぎ目は断った。
黒い泥は、もう一つの意思のようには動いていない。
ばらばらに震え、ばらばらに逃げようとする。
そこへ、灰守が降りてきた。
封泥杭を肩に担ぎ、重い足取りで。
黒蝶と灰守は、少しだけ視線を交わした。
同じ顔。
違う仮面。
違う疲労。
黒蝶は言った。
「遅い」
灰守は返した。
「悪い」
それだけだった。
二人はそれ以上話さない。
話せば、余計なものが混ざる。
黒蝶が指し示した塊の周囲へ、灰守が封泥杭を打つ。
土が低く盛り上がり、固まった汚泥の周囲を囲う。
水を逃がす隙間だけを残す。
黒い泥は、もう大きく動けなかった。
黒蝶は最後の探響弾を撃った。
低い音。
反響。
硬い反応は、白灰色の塊の中で鈍く震えている。
繋がっていない。
少なくとも、今は。
「……終わりじゃないな」
黒蝶が言う。
灰守が頷く。
「処理は、これから」
その通りだった。
戦いは終わった。
だが、後始末が始まる。
◇
昼前。
旧水路沿いの騒ぎは、ようやく形だけは収まっていた。
封鎖縄はまだ残っている。
防汚布も、木箱も、白灰色に固まった汚泥の塊も、あちこちに置かれている。
怪我人は出た。
臭気で倒れた者もいた。
黒い泥に触れ、薬師に手当てを受けている者もいる。
だが、広場には人の声が戻り始めていた。
泣く声。
怒る声。
片づけを指示する声。
水を持ってくるなと叱る声。
どれも、昨日までなら当たり前だった音だ。
リオはその音を聞きながら、記録帳を閉じた。
手が震えている。
黒蝶と灰守を戻してから、まだ体の奥が重い。
黒蝶が吸った臭気。
灰守が受け止めた圧力。
肩に絡んだ泥の感触。
杭を握り続けた腕の痛み。
それらが、まだ体の中に残っている。
「リオ」
マーレが声をかけた。
「はい」
「今日は、全部まとめるな」
「ですが」
「全部まとめるな」
同じ言葉を、少し強く言われた。
リオは黙る。
マーレは記録帳の束を抱え直した。
「現場報告は各担当から上げさせる。グレンたち、ニナ、《水鏡の門》、衛兵、薬師街、ミラ工房。全部、お前一人で拾う必要はない」
「……はい」
「お前は、旧地下倉庫と黒い欠片の記録を優先しろ。そこだけは、お前が一番分かっている」
リオは一瞬、返事に詰まった。
マーレはそれ以上聞かなかった。
ただ、少しだけ目を細める。
「顔色が悪い」
「現場が悪かったので」
「それで誤魔化せる顔色ではない」
「……すみません」
「謝るより、水を飲め」
差し出された水を、リオは受け取った。
手がまだ震えていた。
◇
夕方。
ミラ工房へ運ばれたのは、旧地下倉庫で固めた汚泥だけではなかった。
ギルド床下から隔離した黒い泥。
薬師街で回収した泡混じりの汚泥。
広場の排水口付近で固めた汚泥。
それぞれを別々に包み、石の箱へ入れてある。
「全部同じ黒い泥に見えるけど、混ぜちゃ駄目よ」
ミラは言った。
「どこで何を喰ったか、少しずつ違うはずだから」
リオは椅子に座っていた。
座っていないと、ミラに怒られたからだ。
ミラ工房の奥で、白灰色に固まった汚泥の塊が石皿の上に置かれていた。
塊は防汚布で包まれ、さらに石の箱に入れられている。
その中心に、黒い金具の欠片が沈んでいた。
ミラは細い棒で、それをつついた。
「黒い腕輪の欠片、でいいと思うわ」
「夜鴉のものですか」
「近い。少なくとも、夜鴉が使っていた黒い装具と同じ系統の処理はある」
ミラは眉を寄せる。
「ただし、今回の汚泥を作るための専用道具じゃないわね」
「専用ではない?」
「ええ。壊れた魔道具の残骸。そこに残っていた魔力や命令の残り香が、下水の魔素だまりと混ざった。普通のスライムや汚泥がそれを喰った」
ミラは棒を置いた。
「夜鴉が意図して作った怪物、というより……夜鴉が捨てたものを、街の底の汚れが拾った。最悪の拾い方で」
リオは黙った。
夜鴉は潰した。
少なくとも、あの支部は壊した。
帳簿も押さえた。
人も捕まえた。
だが、残ったものがあった。
街の底へ落ちたもの。
誰も見なかったもの。
それが、今回の汚泥になった。
「悪人を倒して終わり、ではないですね」
「そういうこと」
ミラは小皿の横に、別の破片を置いた。
黒い金具の内側に、かすれた刻みがある。
「それと、少し嫌なものがある」
「嫌なもの?」
「この腕輪、夜鴉の意匠だけじゃない。もっと古い術式を上から塗り潰してる」
リオは身を乗り出しかけ、ミラに睨まれて椅子へ戻った。
「古い術式?」
「断定はしないわよ。しないけど、教会の古い封印具や、昔の呪具に似た配置が少しある」
「教会……」
「似てるだけ。ここで決めつけない」
ミラは強めに言った。
「でも、夜鴉が一から作ったものじゃない可能性はある。どこかから古い術式を拾って、汚く作り直した」
リオは黒い欠片を見た。
小さな欠片。
それだけで、街の底が揺れた。
「属性は?」
「読みにくい」
ミラは顔をしかめた。
「土っぽく重い。水っぽく粘る。風を当てると鳴る。火を近づけると表面だけ嫌がる。でも、どれでもない」
「前に言っていた、属性になる前の泥、ですか」
「たとえ話だって言ったでしょ」
ミラはそう言った。
だが、否定しきる声ではなかった。
「分かれる前の魔力。あるいは、分け損なった魔力。そういう嫌な濁りがある」
分かれる前。
分け損なったもの。
分かれて、戻るもの。
リオはその言葉に、少しだけ胸がざわついた。
自分の影。
黒蝶。
灰守。
そして、いつか別の何かが生まれるかもしれない予感。
だが、今は考えない。
考えれば、立てなくなる。
「リオ」
ミラが言った。
「今日はもう帰って寝なさい」
「まだ記録が」
「記録は逃げない」
「汚泥は逃げました」
「それは今日捕まえたでしょ」
「全部ではありません」
「だから寝るの。全部を追う人間が倒れたら、次は誰が追うの」
リオは返事に詰まった。
ミラはため息をつき、布に包んだ小瓶を渡した。
「中和香。気休めだけど、臭いは少し抜ける」
「ありがとうございます」
「あと、アッシュが外で待ってる」
「アッシュが?」
「工房の前で座ってる。あの子も疲れてるのに、帰ろうとしない」
リオは立ち上がりかけた。
ミラの視線を受けて、ゆっくり立ち上がった。
◇
工房の前に、アッシュは座っていた。
膝を抱え、ぼんやりと石畳を見ている。
いつもの尖った顔ではない。
疲れ切った、年相応の顔だった。
「アッシュ」
リオが呼ぶと、アッシュは顔を上げた。
「あ」
「帰らなかったの?」
「……帰る場所、今は工房だし」
「そうだった」
リオが隣に座る。
少し離れて。
アッシュはしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「火、使った」
「聞いたよ」
「燃やさなかった」
「うん」
「燃やさなくても、役に立った」
「うん」
アッシュは唇を噛んだ。
「俺、火って、燃えるもんだと思ってた」
「火は燃えるよ」
「でも、それだけじゃなかった」
「そうだね」
「……道になった」
リオは頷いた。
「今日の火は、道だった」
アッシュは黙った。
何かをこらえるように、拳を握る。
「また、できるかな」
「できると思う」
「適当に言ってないか」
「適当じゃないよ。今日できたことは、次に練習できる」
アッシュは少しだけ顔をしかめた。
「練習かよ」
「必要だよ。人を助ける火は、加減が難しい」
「……だよな」
アッシュは石畳を見た。
小さく焦げてもいない、ただ乾いただけの石畳。
そこに、今日、人が歩いた。
逃げられた。
「じゃあ、練習する」
リオは微笑んだ。
「ミラに怒られない範囲で」
「それが一番難しい」
「分かる」
二人は少しだけ笑った。
◇
夜。
ギルドの一角で、リオは記録帳を開いた。
マーレに止められたので、全体の報告書は書かない。
かわりに、短い覚え書きだけを残す。
――旧水路汚泥。黒い腕輪片を含む。
――夜鴉系装具の残骸と推定。
――ただし、古い術式の上書き痕あり。
――属性反応、四属性に分類困難。
――旧水路、魔素だまり、廃液、スライム核、装具残滓の複合汚染。
そこまで書いて、リオは手を止めた。
ふと思い出した。
最初にギルドで保管した、小瓶入りの黒い汚泥。
あれは、別にしておくはずだった。
旧地下倉庫で回収した塊とも、薬師街で固めた汚泥とも違う。
初期の汚泥。
まだ、何を覚える前だったのかを比べられる、大事な検体だった。
リオは立ち上がり、保管棚へ向かった。
棚には、防汚布に包まれた木箱が並んでいる。
ギルド床下。
薬師街裏。
広場排水口。
倉庫街。
それぞれの札が貼られている。
だが、小瓶はなかった。
「……ない」
棚をもう一度見る。
木箱の裏。
防汚布の下。
保管記録の束。
小瓶は、どこにもない。
代わりに、薄い移送票が一枚だけ残っていた。
――旧水路異常汚泥・小瓶一本。
――検査保管品として移送済。
日付は今日。
担当印も押されている。
だが、リオはその印を知らなかった。
ルネリアのギルドの印ではない。
衛兵隊の印でもない。
ミラ工房の受領印でもない。
紙の端に、黒い羽根のような染みがひとつだけ残っていた。
リオは、しばらくそれを見つめた。
夜鴉は、もういない。
少なくとも、この街には。
そう思っていた。
だが、街の底から拾い上げたものを、誰かがまた持ち去った。
汚泥は、処理された。
けれど。
その一部は、どこかへ運ばれていた。
リオは移送票を記録帳に挟んだ。
そして、最後にもう一行だけ加える。
――小瓶入り初期汚泥、所在不明。移送票あり。印章不明。
書いた瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
教会。
古い封印具。
属性になる前の泥。
分け損なった魔力。
黒い羽根の染み。
それらが、まだ形にならないまま、頭の中で沈んでいく。
窓の外では、夜の街が静かに息をしていた。
昨日まで黒い泥が這い上がろうとしていた石畳を、今は人が歩いている。
終わった。
だが、終わりではない。
リオは記録帳を閉じた。
明日から、また後始末が始まる。
そしてきっと、後始末の底には、次の闇が沈んでいる。
本作は設定・構成を見直し、リファイン版として新規連載を開始しました。
新タイトルは
『ギルド職員は夜、黒蝶になる〜外れスキル【複製】で始める異世界ヒーロー活動〜』
です。
今後はリファイン版を中心に更新予定です。




