ギルド職員は劇場案内をする
翌朝、ルネリア城下町のあちこちに、白い紙が貼られていた。
酒場の入口。
工房通りの掲示柱。
橋のたもと。
市場へ向かう細い路地。
古い荷車道へ続く曲がり角。
貼り方は雑ではない。
人が足を止める場所。
誰かが誰かを待つ場所。
子どもが文字を拾いやすい高さ。
職人が朝の水を飲みながら目にする壁。
そういう場所を、選んで貼られていた。
本日、幕は上がる。
黒き蝶と灰の砦。
噂の仮面譚を影絵にて。
入場自由。途中入退場可。投げ銭歓迎。
場所はない。
時刻もない。
それなのに、紙の前には人が集まった。
「これ、昨日の幕引き屋ってやつか?」
「黒蝶と灰守の影絵だってよ」
「場所が書いてねぇぞ」
「だから探すんだろ」
「馬鹿、危ねぇってギルドが言ってただろ」
「でも影絵だぞ。見世物じゃねぇか」
「ただのいたずらじゃねぇの?」
読んだ者が首をかしげる。
首をかしげた者が、隣の者へ聞く。
聞かれた者が、さらに別の者へ話す。
紙は一枚でも、言葉は勝手に増えていった。
*
冒険者ギルドの入口にも、朝から人が詰めかけていた。
「ギルドさんよ、これ剥がしていいのか?」
「うちの店の壁に貼られてたんだが」
「うちの子が読んじまって、見に行きたいって騒いでる」
「旧荷車通りの方で似た紙を見たってやつがいるぞ」
「酒場じゃ橋の向こうだって話になってる」
「いや、工房通りの奥だろ」
受付前は、いつもの依頼相談とは違うざわめきに包まれている。
リオは書板を抱え、受付横で話を整理していた。
「貼られていた場所を順番に教えてください。紙は剥がしたものも捨てずにこちらへ。剥がしていない場合は、衛兵かギルド職員が確認に向かいます」
「場所は書かれてなかったぞ」
「はい。なので、貼られた場所が手がかりになる可能性があります」
「手がかりって、何の」
「人を集めようとしている相手の動きです」
リオがそう言うと、相手の職人は少し顔を引きつらせた。
「……やっぱり、ただの見世物じゃねぇんだな」
「見世物だとしても、無許可です。危険な場所に集まる可能性もあります」
「分かった。うちの若いのにも言っとく」
「お願いします」
リオは地図に印をつけていく。
酒場通り。
工房通り。
橋のたもと。
市場裏。
旧荷車通りの入口付近。
ばらばらに見える。
だが、完全にばらばらではない。
いくつかの印が、細い線のように一つの方角へ伸びている。
旧荷車通り。
いまでは荷車もほとんど通らない、古い道だ。
職人街と倉庫街の境目から奥へ入り、使われなくなった作業場や閉じた資材置き場の間を抜けていく。
リオは、その名前を地図の上で見つめた。
「リオ」
マーレが声をかけてきた。
「貼り紙の場所は?」
「今のところ、旧荷車通り方面へ流れを作っているように見えます。ただ、断定はできません」
「断定しなくていい。怪しいなら人を出す」
マーレは地図を覗き込み、眉を寄せた。
「旧荷車通りか」
「ご存じですか?」
「道はな。今はほとんど使われていない。古い資材置き場と作業場跡がいくつかあるくらいだ」
「人が集まれる場所は?」
「普通に考えれば、ない」
「普通に考えれば、ですか」
「ああ」
マーレは低く答えた。
「普通に考えない相手だ」
その言葉は、妙に重かった。
昼を過ぎても、貼り紙の報告は止まらなかった。
むしろ、増えた。
朝のうちは「紙が貼られている」という報告だったものが、昼前には「旧荷車通りの奥らしい」という話に変わっていた。
そして昼を過ぎる頃には、「もう準備が始まっているらしい」とまで言う者が出始めていた。
誰が最初に言ったのかは分からない。
けれど、言葉だけが先に走っている。
マーレは受付へ声を飛ばした。
「旧荷車通り周辺の現場確認を出す。街中緊急対応だ。人混みの整理、危険箇所の確認、封鎖補助。現場経験のある銅級以上を優先する」
「了解!」
受付職員が黒札を用意する。
その直後、低い声が上がった。
「俺が行く」
グレン・ロックウェルだった。
大柄な体を椅子から起こし、大槌を肩に担ぐ。
昨日の荷揚げ場事故にもいた、現場慣れした前衛冒険者だ。
「昨日の件から続いてるなら、放っとけねぇ」
続いて、軽い足音が机の横を抜けた。
「私も行くよ」
セナ・リードが道具袋を肩に掛ける。
「貼り紙で人を動かす相手なら、道の見方を間違えると面倒だからね」
マーレは二人を見て、短く頷いた。
「助かる。今回は討伐じゃない。第一は人を近づけないことだ」
「分かってる」
グレンが鼻を鳴らす。
「殴れない相手の方が面倒だな」
「瓦礫も人混みも、殴ると悪化するからね」
セナが言う。
「分かってるって言ってんだろ」
「分かってる人は二回言わないよ」
「うるせぇ」
そのやり取りに、受付前の空気が少しだけ緩んだ。
リオは書板を持ち直す。
「自分も現場記録で同行します」
マーレは一瞬、リオを見た。
「当然だ。ただし、危険箇所へは入るな。記録と連絡が仕事だ」
「はい」
「返事だけで済ませるなよ」
「努力します」
「その返事が一番信用できない」
マーレはため息をつき、衛兵詰所への連絡票を職員へ渡した。
*
旧荷車通りへ向かったのは、午後に入ってからだった。
貼り紙の回収。
報告場所の整理。
衛兵への連絡。
酒場や市場への注意喚起。
各所への人員配置。
動けば動くほど、やるべきことが増えていく。
それでも、相手の方が早かった。
旧荷車通りへ向かう途中、リオたちは何度も足を止めた。
白い紙が、あちこちに貼られている。
すでに剥がされた跡もあった。
剥がした者がギルドへ持っていったのか。
あるいは、誰かが証拠を消したのか。
分からない。
ただ、一つ分かることがある。
紙の貼られた場所は、人の流れを少しずつ旧荷車通りへ寄せていた。
それだけではない。
通りの角に立つ男が、誰かに話している。
「旧荷車通りの奥らしいぞ」
「本当に?」
「ああ。紙を配ってたやつが言ってた。奥の方が見やすいって」
別の場所では、見習い職人たちが笑いながら歩いていた。
「影絵、もう準備してるってさ」
「誰に聞いた?」
「橋のとこで。黒い服の兄ちゃんが言ってた」
「黒蝶か?」
「馬鹿、黒蝶が昼間から紙配るかよ」
リオは足を止めた。
セナが近くの若い職人へ声をかける。
「ここでやるって、誰に聞いたの?」
「誰って……酒場で」
「誰が言ってた?」
「知らねぇよ。紙を持ってた男が、旧荷車通りの奥が怪しいって」
別の男が口を挟んだ。
「俺は橋のたもとで聞いたぞ。影絵の準備が奥で見えたって」
「俺は見習いの連中が言ってたから来た」
セナは目を細めた。
「……撒いてるね」
「紙をですか?」
リオが聞くと、セナは首を横に振った。
「言葉を」
その一言で、リオの胸の奥が冷えた。
紙を貼る。
人に読ませる。
誰かが誰かに言う。
言葉が別の言葉を連れてくる。
人は、自分で歩いているつもりで、道を選ばされている。
倉庫街で雇われた男たちと同じだ。
荷を動かす。
見張る。
騒ぐ。
逃げ道を塞ぐ。
本人たちは、自分が舞台装置にされているとは思っていない。
今度は、それが街全体に広がっている。
「嫌なやり方だな」
グレンが低く言った。
「どこまでが仕込みか分からねぇ」
「全部が仕込みじゃないから厄介なんです」
リオは地図に印をつけながら答えた。
「少しだけ仕込めば、あとは勝手に広がる」
「ますます嫌だな」
グレンは大槌の柄を握り直した。
*
旧荷車通りの奥に近づくにつれ、人の声が増えていった。
最初は、ただの通行人かと思った。
だが、違う。
職人。
見習い。
酒場帰りの男。
市場の客。
子どもの手を引いた母親。
暇を持て余した若い冒険者。
人々は、細い道の奥へ向かっていた。
「おい、こっちらしいぞ」
「旧荷車通りの奥だって聞いた」
「影絵、もう準備してるらしい」
「黒蝶は来るのか?」
「灰守も出るってよ」
誰が言い出したのかは分からない。
けれど、言葉だけが先に走っている。
リオは足を止めそうになった。
すでに、人が集められている。
紙だけではない。
人の口が、人を運んでいる。
その流れの先に、建物があった。
昨日までなら、ただの閉鎖された資材置き場に見えただろう。
だが、今は違った。
正面入口を塞いでいた板の一部は外され、古い布が幕のように吊られている。
傾いた柱には白い紙が何枚も貼られ、入口脇には投げ銭用らしい古い木箱が置かれていた。
崩れた屋根の隙間から、薄い光が漏れている。
廃屋が、見世物小屋の顔をしていた。
そう見えるように、整えられていた。
「……これが、見世物小屋?」
リオが呟く。
それは、石造りの劇場ではなかった。
どちらかといえば、倉庫を無理に見世物小屋へ作り替えたような建物だった。
間口は広い。
だが壁は古く、板を打ち増した跡が何重にも走っている。
屋根だけが不自然に高く、奥へ向かって持ち上がっていた。
軽業や綱渡りにも使えそうな高さ。
リオは、そこに嫌な意味を見た。
正面には色褪せた布幕。
脇には吊り灯り。
入口付近には、古い木箱を並べた即席の受付のような場所。
それらが全部、今日になって整えられたものに見える。
新しくはない。
しかし、古いものを集めて、見世物小屋らしく見えるように置いてある。
それが気味悪かった。
小屋の周囲には、すでに人が集まっていた。
ただし、中に入り込んでいる者はまだ少ない。
入口の前で足を止め、布幕の隙間から漏れる光を覗き込み、互いに「始まるのか」と囁き合っている段階だった。
だが、道は狭い。
人の輪はすぐに膨らむ。
誰かが一歩前へ出れば、後ろの者もつられて押し出される。
このままでは、外にいる者たちまで小屋の中へ流れ込む。
グレンが低く唸る。
「劇場ってより、潰れかけの倉庫だな」
「だから人が入りやすいんでしょうね」
セナが答えた。
「正式な劇場なら警戒される。でも、こういう半端な場所なら、ちょっと覗くだけって気分になる」
その通りだった。
衛兵が前に出て声を張った。
「ここから先は確認中だ! 中へ入るな!」
「何だよ、まだ何も始まってねぇだろ」
「影絵見るだけだって」
「投げ銭って書いてあったぞ」
「無許可の見世物だ! 近づくな!」
押し問答が始まる。
厄介なのは、相手が悪党ではないことだった。
ただ見に来ただけの者。
子どもにせがまれて来た者。
黒蝶や灰守を一目見たくて来た者。
危険だと聞いて、逆に気になった者。
それぞれが少しずつ勝手な理由を持っている。
だから、簡単には動かない。
グレンが大槌を肩に担いだまま、前へ出た。
「下がれ。ここは危ない」
「何が危ないんだよ」
「俺が危ないって言ってる」
「理由になってねぇぞ」
「昨日、瓦礫の中から三人出した俺が言ってる」
その声には、妙な説得力があった。
職人たちが顔を見合わせる。
だが、完全には退かない。
退いても、少し離れたところで立ち止まる。
立ち止まった者が、また別の者へ話す。
客席は、外にも広がり始めていた。
セナが小さく息を吐いた。
「もう始まってる」
「何がですか」
「客席作り」
リオは答えられなかった。
*
その時、背後から声がした。
「リオさん!」
振り返ると、イリスが息を切らして走ってきていた。
鞄を抱え、片手には古い紙束を握っている。
髪は少し乱れ、靴には土がついていた。
「イリスさん。来ないでくださいと言ったはずでは」
「一人では来ていません!」
見ると、少し遅れてギルド職員が一人追いついてきた。
かなり疲れた顔をしている。
「一緒に来た、というより、置いていかれかけました……」
「すみません」
イリスは短く謝り、それからすぐに建物を指した。
「分かりました。そこ、ただの資材置き場じゃありません」
マーレも衛兵と話していたところから戻ってくる。
「何だったんです」
「昔、旅の一座が使っていた巡業小屋です」
周囲のざわめきが、一瞬だけ遠のいた気がした。
「旧巡業小屋……」
マーレが低く呟く。
「名前を聞いたことがある。だが、場所までは知らなかった」
「正式な劇場ではありません。巡業の一座が、滞在中だけ使う半常設の見世物小屋だったようです。街の古い記事では、そう呼ばれていました」
イリスは古い記事の写しを広げた。
紙は古く、端が欠けている。
それでも、いくつかの文字は読めた。
旅一座。
軽業演目。
綱渡り。
落下事故。
死者一名。
以後、当該一座の出入りを禁ず。
リオは息を止めた。
死者。
その一語が、紙面の中で重く沈んでいた。
「この小屋は、ただ使われなくなったわけではありません」
イリスが言う。
「軽業の演目中に、舞台装置の事故で一人が落下死しています。その後、一座はこの街への出入りを禁じられ、小屋も閉鎖されたようです」
「事故か」
マーレが言う。
「記録上は、です」
イリスは首を横に振った。
「ただ、当時の記事に妙な記述がありました」
「妙な?」
「“観客席は、誰一人として声を上げなかった”と」
リオは、白い仮面の声を思い出した。
観客席。
拍手。
沈黙。
あの男は、人が危険にさらされた瞬間すら、舞台の一部として見ている。
「もう一つ」
イリスは、古い記事の端を指で押さえた。
「事故の後、関係者の一人がこう言ったという記録があります」
彼女は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「拍手よりも、沈黙の方が美しかった、と」
誰も、すぐには何も言わなかった。
周囲には、見物に来た人々のざわめきがある。
そのざわめきが、急に遠く聞こえた。
マーレの声が低くなる。
「……そいつの名前は?」
「記事では伏せられています。若い舞台係、とだけ」
「舞台係」
リオは呟いた。
演出家。
舞台係。
幕引き屋。
線がつながりそうで、まだつながらない。
だが、気配は濃くなっている。
「中はどうなっている」
グレンが建物を見上げた。
「古い記事では、中央舞台と客席、それから軽業用の梁や吊り縄があると」
「梁か」
グレンが嫌そうに顔をしかめる。
「上から落ちるものがある現場は嫌いだ」
「私も」
セナが短く言った。
「でも、もっと嫌なのは、人が上を見るように作られてる現場」
リオは建物を見た。
たしかに、布幕の隙間から漏れる光は、人の目を上へ誘う。
崩れた屋根の奥に、何かが吊られている影が見えた。
見上げさせるための場所。
見上げている人間の頭上に、危険がある場所。
それが、この旧巡業小屋だった。
*
マーレはすぐに指示を出した。
「衛兵は正面と裏手を封鎖。ギルドは人の整理。グレン、客を下げる補助を頼む。セナ、入口周辺と外側から分かる範囲で仕掛けを見ろ。中にはまだ入るな」
「了解」
「分かった」
グレンは大声で人々を押し戻し始める。
「下がれ! 見物で怪我したら笑い話にもならねぇぞ!」
「押すな! 転ぶ! 転んだやつを踏んだら、俺が怒る!」
かなり乱暴な言い方だが、効果はある。
セナは入口の横へしゃがみ、足元や柱、縄の端を見ていた。
リオは書板を握り、周囲の人数と配置を書き込む。
観客候補、すでに五十人以上。
外周にさらに増加中。
子どもあり。
職人見習いあり。
冒険者あり。
酒場帰りの男たちあり。
小屋の中へ入り込んでいる者は、まだ少ない。
だが、入口前に人が寄っている。
後ろから押されれば、前の者は中へ入らざるを得ない。
避難経路は狭い。
正面通りは一本。
左右の路地は細く、荷車一台で詰まる。
最悪の条件だった。
そのまま、時間だけが少しずつ削れていった。
衛兵は人を下げようとする。
ギルド職員は注意を呼びかける。
グレンたちは道を空けようとする。
セナは外から分かる仕掛けを探す。
だが、人は完全には減らなかった。
帰った者もいる。
けれど、離れた場所で様子を見る者が増えた。
小屋の正面から少し距離を取っただけで、彼らはまだそこにいた。
誰もが「自分は客ではない」と思っている。
ただ、何が起きるか見ているだけだと思っている。
そして、いつの間にか日が傾き始めていた。
旧荷車通りの奥は、建物の影が濃くなるのが早い。
細い路地の奥にあるせいで、西日が屋根の向こうへ沈むと、あたりは急に薄暗くなる。
その薄暗さの中で、小屋の布幕だけが妙に白く見えた。
夕方の鐘が遠くで鳴る。
その時、小屋の中から音がした。
かたり。
木が動く音。
ぎい、と古い滑車が回る音。
誰かが息を呑む。
正面の布幕の隙間から、光が強くなった。
小屋の内側で、何かが動いている。
影絵の明かりだ。
壁に、黒い蝶の影が映った。
群衆がざわめく。
「黒蝶だ」
「本当に始まるのか?」
「見ろ、灰色のも出たぞ」
次に、灰色の砦を思わせる影。
四角く、重く、壁のように立つ影。
そして最後に、幕を引く細い男の影。
影の男は、深く一礼した。
その瞬間、外にいた人々の多くが黙った。
引き込まれている。
見てしまっている。
リオはそれを見て、ぞっとした。
まだ始まっていない。
まだ中へ入っている者は少ない。
それなのに、もう全員が客席にされかけている。
小屋の奥から、穏やかな声が響いた。
「お客様が揃いました」
礼儀正しく、柔らかく、楽しそうな声。
カーテンコール。
いや、本人が名乗るなら、演出家。
その声を聞いた瞬間、周囲の空気が変わった。
衛兵が剣に手をかける。
グレンが大槌を握る。
セナが上を見た。
マーレがリオを後ろへ下がらせようとする。
だが、リオの足は動かなかった。
小屋の中で、さらに音が鳴る。
梁が軋む音。
縄が張る音。
滑車が回る音。
古い板が、重さを受けて鳴る音。
正面の布幕が、ゆっくりと開いた。
中が見えた。
リオは、その構造を一瞬で理解しようとして、息を呑んだ。
小屋の中は、思ったより広い。
床に椅子を並べただけの場所ではなかった。
舞台を正面にして、左右からゆるく囲むように、低い段差のついた半円形の客席が組まれている。
粗末な板席だが、見世物を見るには十分だ。
その正面に、影絵用の白い幕がある。
だが、本当に目を引くのは床ではない。
舞台の上。
宙だった。
太い梁が何本も頭上を渡り、そこから縄、滑車、吊り輪、細い足場板が幾重にも垂れている。
まるで舞台の上に、もう一つ空中の舞台が組まれているようだった。
軽業師なら梁から梁へ飛び移れる。
綱渡り師なら細い板の上を走れる。
風を扱える者なら、あの空間を舞台にできる。
そして、観客は下からそれを見上げる。
見世物として見れば、たしかに派手だ。
だが、嫌な気配も濃い。
縄の数が多すぎる。
板の渡し方が不自然だ。
客席の頭上にも、細い桟橋めいた足場が渡されている。
もし何かが落ちれば、下の客はひとたまりもない。
それだけではない。
客席の支柱から伸びた縄が、上の吊り足場へ繋がっている。
床下へ潜る縄もある。
左右の桟敷を支える柱には、新しい楔が打ち込まれている。
リオには、まだ全容は分からない。
だが、分かることが一つあった。
客席と空中舞台が、別々ではない。
つながっている。
セナが息を呑む。
「……客席が、支点にされてる」
「何だと」
グレンが聞き返す。
「上の足場。あれ、客席側の柱と縄で繋がってる。観客が動けば、重さが偏る。偏れば上が揺れる。上が揺れれば、また下が鳴る」
セナは青ざめた顔で続けた。
「これ、客席じゃない。舞台の一部だ」
リオの背筋が冷えた。
観客席は、観客を座らせるためだけの場所ではない。
空中舞台を成立させる重り。
人々の重さと動きまで、仕掛けに組み込まれている。
カーテンコールは、人を観客にしたのではない。
舞台装置にしていた。
小屋の中に入りかけていた数人が、驚いて後ろへ下がろうとする。
だが、入口前には人がいる。
後ろが詰まり、前の者が押される。
ざわめきが悲鳴に変わりかけた。
そのとき、客席の床が小さく傾いた。
人々の悲鳴が上がる。
小屋の奥で、白い仮面が浮かび上がった。
高い梁の上。
黒い幕の隙間。
のっぺらぼうのような白い仮面。
口元にだけ、薄く笑う線。
カーテンコールは、深々と一礼した。
「それでは、そろそろ」
壁の影が、ゆっくりと幕を引く。
「本番と参りましょう」




