ギルド職員は帳を覗く
昨日の朝刊で形を得た名前は、一晩で街のあちこちに染み出していた。
黒蝶。
灰守。
幕引き屋。
紙面の上にあったはずの言葉は、もう紙面だけのものではない。
市場へ向かう荷車の横で、職人が話す。
水場に並ぶ女たちが話す。
路地裏で遊ぶ子どもたちが、意味も分からずに真似をする。
「俺、黒蝶な!」
「じゃあ俺、灰守!」
「灰守は走らねぇんだぞ。こう、どっしり立つんだ!」
子どもの一人が、木箱を抱えて踏ん張った。
別の子どもが、ぼろ布を両手で広げる。
「幕が下りるぞー」
「それはやめろ。母ちゃんに怒られるぞ」
子どもたちは笑いながら走っていく。
その様子を、リオは冒険者ギルドの入口から見ていた。
手には、新しく書いた掲示がある。
仮面の人物を模倣した危険行為を禁ずること。
崩落現場、封鎖区域への無断立入を禁ずること。
緊急時はギルドおよび衛兵隊の指示に従うこと。
現場周辺での見物、冷やかし、悪質ないたずらを禁ずること。
硬い文面だ。
子どもが読んで楽しいものではない。
大人が読んでも、面倒だと思う者はいるだろう。
それでも、貼らないよりはましだった。
リオは掲示板の古い紙を一枚外し、新しい紙をその上に貼った。
押しピンを留め、端がめくれないよう指で押さえる。
昨日、マーレに頼まれた掲示だ。
崩落現場への無断侵入禁止。
仮面の人物の模倣禁止。
緊急対応はギルド指示に従うこと。
それだけなら、普通の注意喚起で済む。
だが、今の街には普通で済まない空気があった。
噂は、人を守ることもある。
危険な場所に近づくな。
怪しい者を見た。
崩れかけの倉庫には入るな。
そういう噂なら、誰かの足を止める。
けれど噂は、人を危険な場所へ連れていくこともある。
面白いものが見られるらしい。
黒蝶が出るらしい。
灰守もいるらしい。
幕引き屋が何かをするらしい。
そう囁かれた時、人は足を止めるのではなく、逆に動く。
それが、厄介だった。
「リオ」
背後から声がした。
振り返ると、マーレ主任が立っていた。
腕には数枚の書類を抱えている。表情はいつも通り落ち着いているが、眉間には薄く皺が寄っていた。
「貼り終わったか」
「はい。入口と受付横、あと依頼掲示板の横にも貼ります」
「頼む。衛兵詰所にも同じ文面を回してある」
「劇場の方は?」
「確認中だ。今ある劇場、寄席、演舞場には衛兵が聞き取りに向かった。今のところ、不審な改装や貸切の話はない」
「そうですか……」
良い知らせのはずなのに、安心できない。
リオは掲示板を見上げた。
討伐依頼。
採取依頼。
荷運び補助。
倉庫街の片付け。
職人街の修繕補助。
その横に、仮面の模倣禁止と現場周辺の見物禁止。
妙な並びだった。
魔物でもない。
災害でもない。
けれど放っておけば、人が怪我をする。
そういうものが、いま街に紛れ込んでいる。
「リオ」
「はい」
「このあと、新聞社のイリスさんが来る」
「イリスさんが?」
「昨日の記事に使った封筒とは別に、今朝また届いたらしい」
マーレは声を落とした。
「差出人はない。だが、イリスさんは同じ相手だと見ている」
リオの指先が、掲示板の端を掴んだまま止まった。
昨日の倉庫街。
雇われた男たち。
幕。
傾いた床。
音筒。
そして、木札。
今宵は幕間。
あなたの足運び、道具の選び方、迷い方を少しだけ拝見いたしました。
次は、もう少し大きな舞台をご用意いたします。
さらに、その前日の事故現場で見つけた小さな木片。
暗転。
あの言葉は、まだリオの懐の奥にある。
だが、それをリオがギルド職員として出すことはできなかった。
黒蝶が見つけたものを、リオがどうやって知ったのか。
そこを説明できない。
だから、リオは知っている。
けれど、リオとしては言えない。
そのもどかしさが、胸の奥で鈍く残っていた。
「イリスさんは記事にする前に、こちらへ持ち込むと言ってくれている。余計な噂を広げるつもりはないそうだ」
「それは助かりますね」
「ああ。ただ、向こうが新聞を使わないとは限らない」
マーレの言葉に、リオは頷いた。
新聞に載らなくても、噂は広がる。
人の口は、紙より速いことがある。
特に、面白がる者がいれば。
*
イリス・ベルクがギルドに現れたのは、それから半刻ほど後だった。
いつものように鞄を抱えている。
だが、今日の表情に浮かんでいるのは、好奇心だけではなかった。
記者らしい鋭さ。
それから、隠しきれない警戒。
「お忙しいところすみません」
「いえ。こちらからも確認したかったところです」
マーレが応接用の小机へ案内する。
リオも同席した。
本来なら、マーレとイリスだけで話す内容かもしれない。
だが、リオは事故記録と倉庫街事件の整理を担当している。
そういうことになっている。
イリスは鞄から布に包んだ封筒を取り出した。
封筒には差出人名はない。
ただ、端に黒い細い線で、幕のような模様が描かれていた。
マーレが封筒を見下ろし、低く言う。
「……これが、二通目か」
「はい」
イリスは頷いた。
「昨日の記事に使った封筒は、倉庫街事件の自己主張でした。でも、これは違います」
「違う?」
「次の予告です」
その言葉だけで、室内の空気が少し重くなった。
イリスは封を切り、中の紙を広げる。
整いすぎた文字が並んでいた。
初回には、観客席が足りませんでした。
名付けられたものは、名にふさわしく振る舞わねばなりません。
黒き蝶は夜を舞い、灰の砦は崩れる場所に立つ。
ならば次は、名にふさわしい客席を整えましょう。
幕が上がる場所は、噂が知っております。
どうぞ、拍手の準備を。
しばらく、誰も口を開かなかった。
リオは紙面を見つめる。
言葉は丁寧だ。
綺麗ですらある。
けれど、その奥にあるものは、まったく綺麗ではない。
観客席。
客席を整える。
幕が上がる場所。
拍手。
人を集める言葉ばかりだった。
「“観客席”“幕”“拍手”」
イリスが静かに言った。
「まず疑うなら、劇場です」
「こちらもそう見ている」
マーレが頷く。
「今ある劇場や寄席には衛兵を回している。だが」
「ええ」
イリスは、そこで一度言葉を切った。
「今ある劇場で何かを仕掛けるのは、難しいと思います。人の出入りがありますし、舞台係もいます。照明、幕、滑車、床板……どれも勝手にいじれば、普通は気づかれます」
「既存の劇場なら、確認を入れれば済む」
マーレが言う。
「だが、向こうがそれを読んでいないとも思えない」
リオは声明文の一文を見た。
幕が上がる場所は、噂が知っております。
「劇場じゃなくても、“観客席”を作れる場所……ですか」
イリスがリオを見る。
「そうです。人が集まって、誰かが見上げる形を作れれば、それはこの人にとって観客席になるのかもしれません」
「広場、橋下、荷捌き場、空き倉庫、廃屋……」
リオが候補を挙げると、マーレはすぐに書き留めた。
「職人街の足場も入れておこう。吊り荷や滑車がある場所は危ない」
「あと、空き地でも危険です」
イリスが言う。
「人を集めて、逃げ道を塞ぐだけでも、十分に危険ですから」
マーレは頷き、受付側に控えていた職員を呼んだ。
「既存劇場、寄席、演舞場への確認を継続。空き倉庫、廃屋、荷捌き場、橋下、職人街の足場、封鎖区域の巡回を増やす」
「はい」
「それと、掲示を追加する。不審な貼り紙、呼び込み、夜間の集まりを確認した場合は、剥がす前に場所を記録してギルドか衛兵へ届けること。勝手に追いかけるな、と」
「すぐ作ります」
職員が慌ただしく動き出す。
リオはその様子を見ながら、胸の奥が重くなるのを感じた。
ギルドは動いている。
衛兵も動いている。
イリスも、危険を広めないようにしている。
それでも、相手はもう一歩先の場所にいる気がした。
街は広い。
人が集まれる場所も、隠れられる場所も、思った以上に多い。
劇場や空き倉庫のように名前のある場所なら、確認できる。
けれど、普段は別の用途で使われている場所や、誰も気に留めていなかった空き地まで、すぐに潰しきれるわけではない。
すべてを今夜のうちに塞ぐことはできない。
「この人は」
イリスが、声明文を見下ろしたまま言った。
「記事を書かなくても、人が動くことを知っています」
マーレが視線を向ける。
「どういう意味です」
「誰かが読む。誰かに話す。面白がった人が、また別の誰かに話す。新聞ではなく、噂を使うつもりなんです」
イリスは唇を引き結んだ。
「紙面なら、私たちが止められます。でも噂は、止めるのが難しい」
「……厄介だな」
マーレの声が、少し低くなった。
リオは声明文の最後の一文を見た。
どうぞ、拍手の準備を。
ふざけている。
そう思った。
人を危険な場所へ集めようとしているくせに、拍手などと言っている。
客席などと言っている。
幕などと言っている。
昨日、黒蝶が言った言葉が頭をよぎった。
人は、舞台装置じゃない。
だが、演出家は違う考え方をしている。
人は動く。
噂を聞けば集まる。
怖いものを見たがる。
英雄を見たがる。
その動きまで含めて、舞台にするつもりなのだ。
マーレは声明文を丁寧に畳み直した。
「イリスさん。この声明文を、そのまま紙面に載せるつもりはありますか」
「ありません」
即答だった。
「ただ、注意喚起の記事は出せます。危険区域への立ち入りや、不審な呼び込みを避けるように、一般的な形で」
「お願いします」
「それと、何か貼り紙や呼び込みが出たら、新聞社にも情報が入ると思います。こちらにもすぐ回します」
「助かります」
イリスは鞄を抱え直した。
その目には、まだ何か引っかかっているような色があった。
「劇場ではない劇場……」
小さな呟きだった。
リオが聞き返す。
「何か、思い当たるんですか?」
「いいえ。まだ何も」
イリスは首を横に振った。
「だから、気になります。人が集まる場所には、普通、噂が残ります。でも、この声明は場所を言わない。まるで、場所そのものを噂に作らせようとしているみたいです」
場所を、噂に作らせる。
リオはその言葉を胸の中で繰り返した。
それはもう、ただの犯行予告ではなかった。
人の流れを設計している。
街そのものに、幕を張ろうとしている。
*
午後、リオはギルドの奥で何枚もの写しを作っていた。
不審な貼り紙。
呼び込み。
夜間の集まり。
危険区域への誘導。
見かけた場合は剥がさず、場所と時刻を記録すること。
勝手に追跡せず、ギルドまたは衛兵詰所へ届け出ること。
紙を書き、受付に渡し、冒険者に説明し、衛兵宛ての連絡票をまとめる。
冒険者たちの反応はさまざまだった。
「また黒蝶絡みかよ」
「灰守も出るのか?」
「幕引き屋ってやつ、新聞で見たぞ」
「カーテンコールだっけ。名前だけ洒落てんな」
「洒落てる悪党ほど面倒なんだよ」
大柄な冒険者が、面倒そうに頭をかく。
「で、俺らは何をすりゃいい」
リオは顔を上げた。
「不審な貼り紙や呼び込みを見かけたら、剥がさずに場所を記録して報告してください。勝手に追いかけるのは避けてください」
「剥がしちゃ駄目なのか?」
「貼られた場所が手がかりになる可能性があります」
「なるほどな。紙そのものじゃなくて、貼った場所か」
横から、斥候風の女性冒険者が言った。
セナだった。
彼女は掲示を見上げ、細い目を少しだけ鋭くする。
「誘導かもしれないね」
「誘導?」
「貼り紙ってのは、読むためだけに貼るんじゃないよ。どこに貼るかで、人の足を向けられる」
セナは、掲示板の端を軽く叩いた。
「門の近くに貼れば外へ。市場に貼れば人混みへ。酒場に貼れば酔っ払いが動く。子どもの目線に貼れば、子どもが最初に読む」
リオは、朝の声明を思い出した。
幕が上がる場所は、噂が知っております。
「……そうですね」
「何か出たら知らせるよ。こういうの、嫌な匂いがする」
「お願いします」
セナが離れていく。
リオはその背中を見送りながら、胸の奥で引っかかっていたものが、少し形を持つのを感じた。
貼り紙は、情報ではない。
道標にもなる。
しかも、読む者が勝手に道を作る。
噂と同じだ。
*
夕方近く、リオはミラ工房へ向かった。
表向きは、工房再建に関する依頼書類の確認。
実際には、灰守装備の調整状況を見に行くためだった。
工房はまだ完全には戻っていない。
半壊した部分は応急的に補強され、使える作業台だけが整理されている。
壁際には材料が積まれ、床には金属片や革紐、灰色の布地が並んでいた。
店先では、アッシュが小瓶を並べている。
「ひんやり膏は一人三瓶までだ! 昨日も言っただろ!」
「親方が暑がりなんだよ」
「知るか、親方を水桶に突っ込んどけ!」
「お前、商売する気あるのか!」
「あるから三瓶までって言ってんだろ!」
客と口喧嘩しているように見えて、意外と売れている。
ミラはそれを聞いて、奥から声を飛ばした。
「アッシュ、薬草屋に行ってきな。空き瓶と涼葉草。あと水抱き苔も」
「また俺かよ!」
「ついでに喉も冷やしてきな。叫びすぎ」
「うるせぇ!」
「釣り銭、間違えたら次から売り子じゃなくて床掃除だからね」
「分かってるよ!」
アッシュは文句を言いながらも袋を掴み、店先から出ていった。
足音が通りへ遠ざかる。
それを確認してから、ミラは工房奥の戸を閉めた。
「さて。こっちが本題」
ミラは、灰色の外套を広げていた。
黒蝶の装備とは違う。
夜に紛れるための黒ではない。
煙や粉塵の中でも、見つけてもらうための灰。
昨日の救助で傷んだ外套は、すでに補修が始まっている。
前腕の補強板には細かな傷が残り、膝当てにも擦れがあった。
そして胸元には、白銀の糸で簡素な砦の形が縫い込まれつつあった。
肩の補強具にも、同じ線が走っている。
背中には、まだ仮留めの布片がある。
遠目でも、灰守がどちらを向いているのか分かるように。
助けられる側が、煙の中で手を伸ばせるように。
そのための印だった。
「来たわね」
ミラは顔を上げずに言った。
「ちょうどいいところよ。こっち、持って」
「はい」
リオは言われるまま、外套の片側を支えた。
ずっしりと重い。
黒蝶の軽装とはまったく違う。
「……本当に入れたんですね、砦の印」
「言ったでしょ。名前をつけられたんだ。だったら、こっちも乗っかるって」
ミラは楽しそうに針を動かした。
「ただし、まだ仮よ。飾りで梁は支えられないから、まずは補強優先。見栄えはあとで詰める」
「十分、目立ちますけど」
「灰守は目立っていいの。見つけてもらうための姿なんだから」
ミラは金具を締めながら言った。
「黒蝶は夜に紛れる姿でいい。でも、灰守は違う」
リオは外套を見下ろした。
灰守。
イリスが名付けた、バスティオン。
砦。
その名前に、ミラはもう乗り始めている。
まだ完成形ではない。けれど、装備の思想は確かに変わりつつあった。
逃げるためではない。
追うためでもない。
支えるための装備。
「今日、ギルドで追加の掲示を出しました」
リオは慎重に言った。
「不審な貼り紙や、呼び込みへの警戒です」
「……例の幕引き屋?」
「たぶん」
「また面倒なことをするね」
「人を集めるつもりみたいです。劇場ではない場所に、観客席を作るような」
ミラは手を止めた。
「嫌なやつね」
「はい」
「現場で一番困るのは、役目が重なることよ」
ミラは灰色の外套を畳み、別の補強具を手に取った。
「追う役、支える役、逃がす役。全部を一人でやろうとすると、必ずどこかが抜ける」
リオは黙って聞いていた。
「だから、この灰色の方は支えることに寄せる。追うための装備じゃない」
「追わない装備、ですか」
「そう。追わない。捕まえに行かない。目立つ。踏ん張る。呼ばれたらそこにいる。そういう道具」
ミラはリオを見た。
「何でもできる道具なんて、現場じゃ一番信用できないのよ」
リオは苦笑しそうになった。
何でもやろうとしている自覚はあった。
ギルド職員として記録を取り、警戒を出す。
黒蝶として追う。
灰守として支える。
全部を一人でやっている。
いや、一人ではない。
複製がある。
けれど今はまだ、一度に出せるのは一体だけだ。
追う役。
支える役。
逃がす役。
その全部を、状況に応じて切り替えている。
切り替えるということは、その瞬間、どれかを捨てるということでもある。
「リオ?」
ミラに呼ばれ、リオは顔を上げた。
「疲れてる?」
「少しだけ」
「少しだけって顔じゃないわよ」
「本当は、昨日の傷みを全部見てから出したいんですけど」
「でしょうね。でも、現場は直した順に来てくれない」
ミラは補強具の留め金を締めながら、短く息を吐いた。
「だからこそ、壊れにくくする。装備も、使う人間も」
「使う人間も、ですか」
「当然でしょ。装備だけ頑丈でも、中身が倒れたら意味ないもの」
「気をつけます」
「その返事も、もう少し頑丈にしてほしいわね」
ミラが少しだけ笑った。
その笑みに、リオも小さく息を吐く。
だが、胸の奥に残る重さは消えなかった。
*
夜。
ギルドの自室に戻ったリオは、窓の外を見た。
街は眠り始めている。
けれど、完全には眠っていない。
酒場の明かり。
巡回する衛兵のランタン。
遠くの通りで、誰かが笑う声。
そのすべての上に、薄い夜の帳が降りている。
リオは机の上に、今日作った写しの余りを置いた。
仮面の模倣禁止。
危険区域への立ち入り禁止。
不審な貼り紙への警戒。
昼のリオができることは、やった。
だが、夜の帳の向こう側までは、掲示だけでは覗けない。
「……出るか」
リオは小さく息を吸った。
あらかじめ部屋に用意していた黒蝶の装備へ視線を向ける。
足元に、影が落ちた。
魔力が静かに流れ、影が形を持ち始める。
その瞬間。
足元の影が、ほんの一瞬だけ二つに割れた。
黒い影。
そして、その横に、薄い灰色の影。
リオは息を呑む。
灰色の影は、まるで立ち上がろうとするように揺れた。
だが、次の瞬間には泡のように潰れ、床の影に溶けて消えた。
残ったのは、一人分の複製体だけだった。
「……寝不足かな」
リオは自分に言い聞かせるように呟いた。
複製体は、慣れた手つきで装備を身につけていく。
ほどなく、部屋の隅には黒蝶が立っていた。
黒蝶は何も言わない。
ただ、静かに窓へ向かう。
リオ本体は椅子に腰を下ろした。
複製体が外へ出れば、その間のことを本体が細かく知ることはできない。
戻ってきて、統合して、初めて分かる。
だから、送り出すしかない。
「無理はするなよ」
自分に言っているのか、黒蝶に言っているのか分からなかった。
黒蝶は窓を開け、夜の中へ消えた。
*
夜のルネリアは、昼とは別の街だった。
屋根の上を渡る風は冷たい。
煙突の匂い、酒場の匂い、湿った石畳の匂いが混じっている。
黒蝶は影から影へ移りながら、候補地を回った。
既存の劇場。
裏手の搬入口に不審な跡はない。
舞台係が夜番をしており、衛兵とも話をしていた。
橋下。
人を集められなくはないが、足場が悪すぎる。
仕掛けを作るには目立つ。
荷捌き場。
吊り具と滑車はある。
だが、夜間でも見回りが多い。
空き倉庫。
いくつかは既に衛兵が封鎖の札を増やしていた。
昨日の件があったため、警戒は強い。
廃屋。
怪しいものは多い。
だが、どれも決定打には欠けた。
カーテンコールが好みそうな場所はある。
けれど、本命は見えない。
それが、かえって不気味だった。
場所が分からないのではない。
場所を、まだ決めさせてもらえていない。
そんな感覚があった。
黒蝶は、職人街の外れにある使われていない作業小屋へ降り立った。
古い木戸。
片側だけ外れた看板。
中には、壊れた作業台と古い布束。
ぱっと見れば、ただの空き小屋だった。
だが、戸口に残った靴跡が新しい。
黒蝶は眠り銃に手を添え、戸を押した。
軋む音。
中は暗い。
だが、奥の壁に何かが映っていた。
黒い蝶。
灰色の砦。
幕を引く、細い男の影。
影絵だった。
誰もいないのに、壁の上で影だけが揺れている。
黒蝶は目を細めた。
光源は小さな魔石灯。
布と薄い板、糸で作られた簡単な仕掛け。
風に揺れるように見せかけて、実際には床下の細い紐で動く。
舞台ではない。
これは、見本だ。
あるいは、挑発。
黒蝶は壁際へ進んだ。
そこに、一枚の紙が留められていた。
本日、幕は上がる。
黒き蝶と灰の砦。
噂の仮面譚を影絵にて。
入場自由。途中入退場可。投げ銭歓迎。
日付はない。
場所も書かれていない。
時刻も書かれていない。
ただ、「本日」とだけ書かれている。
明日の朝、街に貼るための文面だ。
黒蝶は紙を見つめた。
本日。
幕。
影絵。
入場自由。
途中入退場可。
投げ銭歓迎。
軽い。
あまりにも軽い。
だからこそ、人は近づく。
危険な事件ではなく、面白い見世物のように見える。
黒蝶は紙に触れた。
その瞬間。
小屋の外で、車輪の音がした。
黒蝶は振り向く。
一台ではない。
二台、三台。
小屋の隙間から外を見た。
白い紙束を積んだ荷車が、それぞれ別の路地へ散っていくところだった。
黒蝶は戸を蹴るように開け、屋根へ跳んだ。
荷車は別々の方角へ進んでいる。
一台は酒場通りへ。
一台は工房通りへ。
もう一台は橋の方へ。
さらに遠く、別の車輪の音も聞こえた。
もっとある。
追うには遅い。
止めるには多い。
そして、どれが本当の幕へ続く道なのかも分からない。
「客席は、明日には整います」
背後から、声がした。
黒蝶は振り向いた。
暗い小屋の奥。
先ほどまで誰もいなかったはずの場所に、白い仮面が浮かんでいた。
目も鼻もない、のっぺらぼうのような仮面。
ただ、口元にだけ、薄く笑うような線が描かれている。
表情はない。
だが、笑っていた。
「お待ちしておりました。いえ、この場合は、お待ちしております、でしょうか」
声は穏やかだった。
礼儀正しくすらある。
それが、余計に腹立たしい。
「幕引き屋……カーテンコール」
黒蝶が低く言う。
白い仮面が、わずかに傾いた。
「おや。その名で呼ばれますか。新聞とは、実に勝手に幕の名を下ろすものですね」
「気に入らないのか」
「いいえ。呼び名は観客が決めるものです。私は、それを演目に取り込むだけです」
その言い方に、黒蝶は眠り銃の柄を握った。
「私は、ただの演出家です」
「人を集める気か」
「人は集まるものです」
白い仮面が、さらに少し傾いた。
「噂があれば。灯りがあれば。幕があれば。誰かが『面白そうだ』と言えば」
「危険な場所へ誘っている」
「誘っているだけです。足を運ぶのは、皆様ご自身ですよ」
黒蝶の指が、眠り銃の柄を握りしめた。
「人は、客席に並べる道具じゃない」
「ええ」
演出家は、嬉しそうに頷いた。
「だからこそ、動くのです」
黒蝶は一歩踏み出した。
だが、白い仮面の周囲で、影絵の蝶が揺れた。
黒い蝶。
灰色の砦。
幕を引く男。
三つの影が、壁の上で重なり、離れ、また重なる。
「黒き蝶」
演出家が言った。
「灰の砦」
声が、小屋の中に薄く反響する。
「そして、まだ名もなき観客の皆様」
黒蝶は眠り銃を抜いた。
「お前の舞台に、人を上げさせる気はない」
「それは困りました」
白い仮面の口元の線が、笑みに見えた。
「舞台は、役者だけでは完成しませんので」
次の瞬間、魔石灯の光が揺れた。
影が伸びる。
黒蝶は即座に弾を撃った。
眠り弾ではない。
黒膜弾。
黒い胞子が弾け、視界を覆う。
だが、白い仮面はその奥へ沈むように消えた。
床下で何かが切れる音。
壁の影絵が崩れる。
幕を引く男の影が、最後に深く一礼した。
「明日、幕は上がります」
声だけが残る。
「どうぞ、帳の向こうを覗きにいらしてください」
「待て!」
黒蝶が踏み込んだ瞬間、すべての灯りが落ちた。
暗転。
完全な闇。
次に小さな光が戻ったとき、小屋の奥には誰もいなかった。
残っていたのは、壁に留められた白い紙だけ。
夜風が隙間から入り、紙の端をかすかに揺らしている。
黒蝶は、その紙を睨んだ。
本日、幕は上がる。
場所はない。
時刻もない。
それなのに、もう幕は街のどこかに張られている。
黒蝶は紙を剥がし、握りしめた。
外では、荷車の音が遠ざかっていく。
夜の帳の向こうへ。
噂を積んだまま。
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