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ギルド職員は端役になれない

 翌朝、ルネリア日報はよく売れた。


 いつも売れていないわけではない。

 街の噂、商会の動き、ギルド依頼の告知、王都から届く知らせ。

 そういうものを知るために、朝の新聞を買う者は多い。


 だが、その日の朝刊は、職人街で特によく売れた。


 理由は、一面の見出しだった。


 ――職人街荷揚げ場事故、死者なし。

 ――灰の中に立つ救助者、灰守バスティオンか。


「おい、出てるぞ!」


「昨日の灰色のやつか!」


「砦だってよ」


「灰色の壁じゃなくて、砦か」


「いいじゃねぇか。助かったやつがいるんだし」


 職人街のあちこちで、新聞を手にした者たちが声を上げていた。


 ミラ工房の店先でも、当然その話題になった。


 アッシュは新聞を覗き込みながら、眉をひそめる。


「また派手に書かれてんな」


「新聞ですからね」


 リオが答えると、アッシュは新聞をぱらぱら振った。


「灰色のやつも、これで有名人かよ」


「本人が望んでいるかは分かりませんけど」


「望んでなくても広まるんだろ。黒蝶の時みてぇに」


 アッシュは新聞を畳み、店先の木箱に放った。


 しかし、完全に興味がないわけではないらしい。

 少しするとまた拾い上げ、ちらりと記事を読んでいる。


「助けたら助けたで、勝手に騒がれんのか」


「そういうものかもしれません」


「面倒くせぇな」


 そう言いながら、アッシュはもう一度だけ新聞を見た。


 ミラは奥の作業台で、昨日の灰色装備を睨んでいた。


灰守バスティオンねぇ」


「まだ気にしていますか」


「気にするよ。名前がつくと、見られ方が変わる」


「見られ方」


「そう。黒蝶は夜に紛れる仮面。けど、バスティオンは見つけてもらう仮面。名前がついたなら、余計にそう見える形にしなきゃいけない」


 ミラは白銀の帯を指先で弾いた。


「昨日の線は悪くない。でも、もう少し遠くからでも方向が分かるようにしたい」


「方向?」


「助ける側がどっちを向いているか、ってこと。粉塵の中で背中だけ見えた時、あれがこっちを見てるのか、向こうを向いてるのか分からないと困る」


 リオは感心した。


 ミラは、見た目を飾りとして考えていない。

 見た目も機能の一部として考えている。


「それと、胸と背中」


「砦の印ですか」


「そう。まだ大げさにはしない。けど、白銀の線を少し組み替える。遠目に、壁とか盾に見えるようにする」


「名前に寄せるんですね」


「違うね」


 ミラは口の端を上げた。


「名前を使うんだよ」


 リオは思った。


 職人は強い。


 名前をつけられて終わりではない。

 名前すら材料にして、次の形を作る。


 その時、工房の外でアッシュが怒鳴った。


「ひんやり膏は一人三瓶までだって言ってんだろ! 新聞に載ったからって増やすな!」


「新聞効果だね」


 ミラが言う。


「ありがたいような、怖いような」


「両方だよ。売れるってのは、そういうことさ」


 ミラは新聞を一瞥した。


「名前が広がるのも同じだね」


     *


 冒険者ギルドも、朝から騒がしかった。


 新聞を手にした冒険者たちが、受付前で好き勝手に話している。


灰守バスティオンだってよ」


「黒蝶の仲間か?」


「別人じゃねぇの。黒蝶は風っぽいけど、灰色は土っぽかったって話だろ」


「じゃあ、仮面の一味か」


「一味って言うと悪そうだな」


「でも、勝手に動いてるんだろ。衛兵からしたら面倒だろ」


「助けられた職人は拝んでたぞ」


 リオは受付内で帳面を整理しながら、聞こえないふりをしていた。


 聞こえすぎている。


 マーレが横で小さく息を吐いた。


「また厄介な噂が増えたな」


「そうですね」


「黒蝶だけでも扱いに困ってるのに、今度は灰守バスティオンか」


「死者が出なかったのは、よかったことです」


「それはそうだ。そこは間違いない」


 マーレは書類を揃えながら、受付前の冒険者たちを見た。


「ただ、仮面の人物が活躍すればするほど、ギルドと衛兵隊の立場は難しくなる。公式には認められない。けど、現場では助かってる」


「はい」


「それに、若い連中が真似をしたがる」


 マーレの視線の先では、鉄級冒険者が新聞記事を読んで興奮していた。


「灰色の壁か。俺もできるかな」


「お前が梁を受けたら、梁じゃなくてお前が折れる」


「うるせぇ!」


 マーレのこめかみが少し動く。


「リオ」


「はい」


「掲示を出す。崩落現場への無断侵入禁止。仮面の人物の模倣禁止。緊急対応はギルド指示に従うこと。文面を作ってくれ」


「すぐ作ります」


「頼む。あと、お前も無理するなよ」


「はい」


「返事だけはいいな」


「努力します」


「その返事が一番信用できない」


 マーレはじっとリオを見た。


 リオは目を逸らす。


 マーレは疑っていない。

 黒蝶や灰守とリオを結びつけてはいない。


 ただ、リオが疲れていることには気づいている。


 それが少し痛かった。


 そこへ、受付の横から騒がしい声が上がった。


「だからよ、仕事なら受けるって言ってんだろ」


「ですから、ギルド登録規則を守っていただかないと依頼は斡旋できません」


「細けぇなぁ。前はもっと融通が利いたんだよ」


「前がどうだったかは存じません」


 見ると、三人ほどの男が受付で揉めていた。


 革鎧は汚れている。

 武器の手入れは雑。

 だが、まったくの素人ではない。


 腕に覚えはある。

 規則を軽んじている。

 そして、今は仕事に困っている。


 そんな顔だった。


 マーレが舌打ちを押し殺すように息を吐いた。


「またか」


「最近多いですね」


「夜鴉の支部が潰れてから、裏で危ない仕事を受けてた連中が流れてきてる」


 夜鴉。


 その名を聞くと、リオの指先に少し力が入る。


 王都の闇ではない。

 まだ街に残った余波だ。


 夜鴉の支部が壊れたことで、そこに群がっていた小悪党や食い詰めた腕利きが、行き場を失った。


 まともな仕事に戻る者もいる。

 衛兵に捕まる者もいる。

 そして、ギルドへ来る者もいる。


 だが、ギルドは無法者の受け皿ではない。


「身分証、過去依頼履歴、登録保証人。最低限それが必要です」


 受付職員が繰り返す。


「保証人なんざいるかよ」


「必要です」


「こっちは腕があるんだぞ」


「腕があっても、規則を守れない方には依頼を出せません」


 男の一人が受付台を叩いた。


 その瞬間、奥から低い声が落ちた。


「台を壊したら、弁償だ」


 オルドだった。


 ギルドマスターの声に、受付前の空気が少し沈む。


 男たちは舌打ちしたが、それ以上は暴れなかった。


「ちっ。分かったよ。また来る」


「書類を揃えてからお願いします」


「面倒くせぇ」


 三人は不満げに出ていった。


 マーレは腕を組み、扉の方を見た。


「腕はあるのに、規則はない。ああいう手合いが一番面倒だ」


「危険な仕事なら受ける、という顔でしたね」


「だろうな。で、そういう連中を欲しがる相手もいる」


 リオは受付の外へ目を向けた。


 三人は、ギルドから少し離れた路地で何か話している。


 そこへ、一人の男が近づいた。


 深い色の外套。

 丁寧な姿勢。

 少し場違いなほど落ち着いた歩き方。


 遠目で顔はよく見えない。


 外套の男は、三人に何かを言った。


 最初は警戒していた彼らも、すぐに態度を変える。


 金か。

 仕事か。

 あるいは、その両方か。


 男は軽く頭を下げ、路地の奥へ歩いていった。


 三人も、それに続く。


「リオ?」


 マーレに呼ばれ、リオははっとした。


「どうした」


「いえ。少し、知った顔かと思いまして」


「ああいう連中に知り合いがいるのか」


「いません」


「なら、あまり見るな。目が合うと面倒だ」


「はい」


 リオは頷いた。


 だが、胸の奥に引っかかりが残った。


 昨日の事故。

 縄。

 楔。

 暗転。


 そして、仕事に困った男たち。


 まだ線にはならない。

 だが、点が増えている。


     *


 その夜。


 職人街の外れにある古い資材倉庫に、男たちが集められていた。


 人数は六人。


 全員が、どこかで荒事を請け負ってきた顔をしている。

 だが、組織だった動きはない。

 粗い。

 雑。

 夜鴉の支部が潰れてから、危ない仕事にあぶれた連中だった。


 倉庫の中央に、深い色の外套をまとった男が立っていた。


 顔は帽子の影に沈んでいる。

 声だけが、やけに柔らかい。


「皆様、お集まりいただきありがとうございます」


「で、仕事ってのは何だ」


 男の一人が言う。


「荷運びか? 脅しか? 見張りか?」


「どれも少しずつ」


 外套の男は穏やかに答えた。


「皆様には、ほんの少し舞台袖を支えていただければ結構です」


「舞台袖?」


「こちらの話です」


 外套の男は細い杖で床を軽く叩いた。


「やっていただくことは簡単です。荷を指定の場所へ動かす。入口と裏口を見張る。合図があれば騒ぐ。あとは、逃げ道を一つか二つ塞ぐ」


「逃げ道?」


「盗人が逃げる道です」


 外套の男は穏やかに言った。


「今夜、この倉庫に盗品を持ち込む者がいます。皆様には、その者を少し足止めしていただきたい」


「衛兵に突き出すのか?」


「必要があれば」


「なら、なんで衛兵に頼まねぇ」


「頼めば逃げられるからです。相手は臆病で、耳が良い」


 外套の男は小袋を置いた。


「皆様のように、少し荒っぽく、融通の利く方々の方が向いている」


「相手は一人か?」


「ええ」


「腕は?」


「多少は」


「多少って顔じゃねぇな」


「慎重な相手です。煙や粉の類を使う可能性があります。口元を覆う布くらいは用意しておくとよいでしょう」


 別の男が眉をひそめた。


「粉? 黒蝶みてぇだな」


 外套の男は柔らかく笑った。


「夜に動く方は、似た道具を好むものです」


「毒か?」


「眠くなるだけです。死にはしません」


「余計に嫌だな」


「だからこその前金です」


 雇われた男たちは小袋を見る。


 誰も、それ以上は深く聞かなかった。


 外套の男は、楽しそうに杖を回した。


「皆様のアドリブにも期待しております」


「アドリブ?」


「段取り通りに動くだけでは、舞台は退屈です。ただし、殺しと火付けだけは不要です。幕が下りる前に舞台が壊れてしまいますので」


「……本当に変な依頼人だな」


「よく言われます」


 それから、外套の男は杖で床に簡単な図を描いた。


 倉庫。

 路地。

 逃走経路。

 衛兵の巡回位置。

 ギルドからの距離。

 床板の傾き。

 吊り縄の位置。


 ただし、倉庫の奥だけは描かなかった。


 そこに何を置いてあるかを、彼らが知る必要はない。

 舞台係は、舞台裏の全てを知らなくていい。


「奥へは近づかないでいただきたい」


 外套の男は、穏やかに言った。


「荷崩れしやすいものを置いてあります。皆様が怪我をしては困りますので」


「ずいぶん親切だな」


「ええ。私は、無駄な怪我が嫌いです」


「無駄じゃなきゃいいのかよ」


 外套の男は、答えなかった。


 ただ、静かに笑った。


「今宵の目的は、殺しではありません」


「盗人を捕まえるんだろ」


「ええ。少し、派手に」


「派手に?」


「大切なのは、誰が来るかです」


「誰を待つんだ」


 外套の男は笑みを深めた。


「幕が上がれば、分かります」


     *


 黒蝶ファントムは、夜の倉庫街を走っていた。


 今夜の動きは、いつもの巡回ではない。


 昼間、ギルドの外で見た男たち。

 夕方、職人街の裏通りで聞いた噂。

 夜鴉崩れの連中が、外れの資材倉庫へ集まっているという話。


 それだけなら、ただの小悪党の相談で済む。


 だが、気になった。


 タイミングがよすぎる。

 そして、昨夜の「暗転」という符丁が、頭から離れなかった。


 黒蝶は屋根の上に膝をつき、下を見た。


 資材倉庫の周囲に、人影がある。


 一人は入口横。

 一人は裏手の路地。

 二人は積まれた木箱の陰。


 見張りというより、通路を塞ぐ配置だった。


 昼間なら、ただ荷を動かしただけに見えるだろう。

 だが、夜の倉庫では違う。


 木箱の列が、通れる道を細くしている。

 空樽が、足音を響かせる位置に置かれている。

 吊り荷の下だけが、不自然に空いている。


 荷を動かす。

 見張る。

 騒ぐ。

 逃げ道を塞ぐ。


 雇われた男たちは、自分たちが何を作らされているのか分かっていない。


 だが、彼らの配置そのものが、すでに罠だった。


 黒蝶は眠り銃を構えた。


 普通なら、罠の可能性が高いなら引く。

 衛兵やギルドへ知らせる。


 だが、倉庫の奥から、人の呻き声が聞こえた。


 縛られた誰かがいる。


 黒蝶は目を細める。


 餌だ。


 それでも、放置はできない。


 黒蝶は風を薄く流した。


 粉塵はない。

 だが、倉庫の隙間を通る風が、中の構造を教えてくれる。


 木箱。

 吊り縄。

 梁。

 古い滑車。

 人影が六。


 いや、七。


 六つは動いている。

 一つは、倉庫の奥で動けずにいる。


 見張りたちも、それに気づいていない。


 そして、風の流れを邪魔する布。


 幕。


 倉庫に幕など必要ない。


 黒蝶は屋根から降りた。


 同時に、眠り銃を撃つ。


 細い筒が飛び、見張りの足元で割れた。


 眠霧弾。


 白い重い霧が、地面近くを這う。


「来たぞ!」


 入口の男が叫んだ。


 その声を合図に、裏手の男が木箱を蹴った。


 空箱が倒れ、狭い通路を塞ぐ。

 別の男が空樽を叩き、倉庫の中に乾いた音を響かせた。


 騒ぐための音。

 逃げ道を塞ぐための荷。


 本人たちは、盗人を慌てさせるためだと思っているのだろう。


 だが、黒蝶には分かった。


 これは、黒蝶の足音を消し、風の流れを乱し、進む道を一本に絞るための配置だ。


 そして、男たちはその時ようやく気づいた。


「……おい、黒いぞ」


「待て。あれ、黒蝶じゃねぇか!?」


「聞いてねぇぞ!」


「口元を覆え! 粉を使うって言ってただろ!」


「粉って、そういう意味かよ!」


 雇われ者たちが慌てて布を口元へ当てる。


 黒蝶は目を細めた。


 黒蝶本人が来るとは知らされていない。

 だが、粉や煙への対策だけは与えられている。


 誰かが、黒蝶の手札を読ませている。


 だが、眠霧弾は吸わせるだけの弾ではない。


 重い白霧が床を這い、足元へ絡む。


 はずだった。


 白霧が、不自然に右へ流れた。


 黒蝶は一瞬遅れて気づく。


 床が傾いている。


 いや、傾けられている。


 倉庫の床板の一部が薄く持ち上げられ、霧の流れが変えられていた。


 眠霧は男たちの足元ではなく、倉庫の隅へ流れていく。


「は、外れたぞ!」


「今だ!」


 連中が叫ぶ。


 黒蝶は後退せず、前へ出た。


 眠霧が効かないなら、半拍を作る方法を変えるだけだ。


 黒蝶は風を流し、倉庫内の位置を読む。


 いつもなら、それで十分だった。


 だが、今夜は風が汚い。


 倉庫の天井から垂れた幕が、風を裂き、曲げ、嘘の流れを作っている。


 人影が二つに増える。

 空の木箱が、人の気配のように揺れる。

 風が教える輪郭が、信用できない。


「……舞台装置か」


 黒蝶は低く呟いた。


 一人目が剣を振る。


 黒蝶は半歩下がり、黒膜弾を足元へ撃ち込んだ。


 黒い膜のような煙が広がる。


「見えねぇ!」


「どこだ!」


 だが、煙もまた幕に裂かれた。


 流れが乱れる。

 煙が思った場所に溜まらない。


 倉庫そのものが、黒蝶の道具をずらしている。


 黒蝶は煙の薄い場所を抜け、二人目の膝裏を蹴った。


 三人目が剣を抜こうとする。


 黒蝶は岩絡み弾を撃った。


 弾から伸びた糸が、剣の刃に絡む。


「何だ、切れねぇ!」


 男が力任せに引く。


 その動きで、糸はさらに刃へ絡みついた。


 切ろうとした刃に、先に絡む。


 黒蝶は一歩踏み込み、男の腹へ掌底を入れた。


 男が崩れる。


 奥で、動けずにいた人影が呻いた。


 職人だ。

 若い。

 おそらく、倉庫番か運搬係。


 黒蝶はそちらへ向かう。


 その瞬間、足元の板が沈んだ。


 踏み抜いたのではない。


 沈むように作られていた。


 頭上で滑車が鳴る。


 黒蝶は即座に横へ跳んだ。


 落ちてきた木箱が床を砕く。


 中身は空。


 人を殺すためではない。

 黒蝶を、人質から遠ざけるための箱だった。


 黒蝶が避けた先で、別の男が斧を振り上げていた。


「もらった!」


 黒蝶は鳴響弾を床へ撃ち込んだ。


 短い音と振動。


 斧の踏み込みが半拍ずれる。


 だが、その半拍の向こうで、また別の縄が鳴った。


 次は、幕。


 黒い布が落ち、視界を奪う。


 黒蝶は舌打ちを飲み込んだ。


 敵は雇われ者ではない。


 この倉庫そのものだ。


 黒蝶は布の揺れを読もうとする。


 だが、風はまた曲げられる。

 視界は黒い幕に塞がれる。

 足元は傾いた床板に奪われる。


 黒蝶は腰を落とした。


 焦るな。


 幕があるなら、幕を利用する。


 黒蝶は黒膜弾をもう一つ撃った。

 今度は敵の足元ではなく、垂れた幕の根元へ。


 黒い煙が布に絡む。


 布の揺れが重くなる。


 風の流れが一つ、落ち着いた。


 黒蝶はその隙間へ身を滑らせた。


 斧の男の足首を払う。

 倒れた男の背を踏み越え、短く眠り銃を撃つ。


 眠霧弾ではない。


 通常の眠り弾。


 首筋に当たった男が、数歩よろめいて膝をついた。


 残る二人が、明らかに怯んだ。


「やっぱり黒蝶だろ、これ!」


「聞いてねぇって言ってんだろ!」


「前金返すから帰らせろ!」


「もう遅ぇよ!」


 黒蝶は返事をしない。


 岩絡み弾で一人の剣を封じ、鳴響弾で最後の一人の踏み込みをずらす。


 男たちは倒れた。


 だが、勝った気がしない。


 彼らは、敵ではなかった。


 壁。

 目隠し。

 足止め。


 舞台の一部に過ぎない。


 黒蝶はすぐに職人の縄を切った。


 その瞬間、頭上で最後の滑車が鳴った。


 今度は木箱ではない。


 天井から、細い縄が何本も落ちてきた。


 黒蝶は身を引こうとする。


 だが、縄は職人の足元にも落ちる。


 避ければ、職人が絡まる。


 黒蝶は前へ出た。


 腕で縄を受け、絡む前に短刀で切る。


 一本。

 二本。

 三本。


 最後の一本が黒蝶の肩に絡んだ。


 引かれる。


 倉庫の奥へ。


 黒蝶は足元に風を流し、体を低く沈めた。


 肩に食い込む縄を切る。


 間に合った。


 だが、外套の端が裂けた。


 黒蝶は息を吐く。


 殺す罠ではない。

 だが、逃がさない罠だ。


 趣味が悪い。


「立てるか」


「あ、ああ……」


「外へ」


「お、お前は……」


「走れ」


 職人はよろめきながら外へ向かった。


 その時、倉庫の奥で拍手が鳴った。


 一度。

 二度。

 三度。


 ゆっくりと。


 黒蝶は眠り銃を構えた。


 幕の向こうから、声がした。


「お見事です」


 柔らかい声。


 丁寧で、場違いなほど穏やか。


「眠り粉を警戒させ、足元から霧を這わせる。刃で切ろうとした相手に、絡む糸を用意する。視界を奪い、音で半拍ずらす」


 幕の向こうに、人影がある。


「そして、仕掛けに気づけば、仕掛けそのものを使う。噂以上に、工夫がお好きな方だ」


「出てこい」


 黒蝶が言う。


「いずれ」


「今ではないと?」


「今宵は、幕間ですので」


 幕が揺れる。


 黒蝶は撃った。


 眠り銃から放たれた弾が幕を貫く。


 だが、そこに人はいない。


 幕の裏には、声を反響させるための空洞と、細い音筒が吊られていた。


 声だけが、別の場所から届いていた。


「黒蝶殿」


 声が続く。


「本日の幕間は、ここまでといたしましょう」


 黒蝶は、倉庫の奥へ走る。


 だが、そこにはもう誰もいない。


 残されていたのは、一枚の薄い木札だった。


 黒蝶はそれを拾う。


 木札には、丁寧な文字が刻まれていた。


 ――黒蝶殿へ。

 灰色の役者は、予定外の登場でした。

 ですが、舞台には予定外があるからこそ美しい。

 今宵は幕間。

 あなたの足運び、道具の選び方、迷い方を少しだけ拝見いたしました。

 次は、もう少し大きな舞台をご用意いたします。


 最後に、署名がある。


 ――演出家。


 黒蝶は木札を握る手に力を入れた。


 人を危険に置いて、反応を見る。

 職人を餌にして、黒蝶を呼ぶ。

 雇われ者を舞台係として使い捨てる。


 演出家。


 ふざけた名だ。


 黒蝶は床に転がる男たちを見た。


 彼らは黒幕の名前も、目的も知らないだろう。

 人質がいたことさえ、最後まで分かっていなかった者もいる。


 ただ金で雇われ、配置され、動かされただけ。


 舞台のために。


 黒蝶は木札を懐へ入れた。


「人は、舞台装置じゃない」


 低く、誰にも聞こえない声で言った。


     *


 翌朝。


 ルネリア日報の編集室に、一通の封筒が届いていた。


 差出人の名はない。


 ただ、封筒の端には、黒い細い線で幕のような模様が描かれていた。


 イリス・ベルクは、それをしばらく見つめてから、慎重に封を切った。


 中には、一枚の紙が入っていた。


 ――昨夜、倉庫街にて小さな試演を行いました。

 ――黒蝶殿は、想像以上に良い足運びをなさる。

 ――灰色の役者についても、いずれ改めて拝見したいものです。


 最後に、丁寧な字で署名がある。


 ――演出家。


 封筒だけなら、悪質ないたずらで済ませるところだった。


 だが、夜明け前から倉庫街では噂が流れていた。


 騒ぎがあった。

 男たちが捕まった。

 縛られていた職人が助けられた。

 黒い仮面を見た者がいる。


 そして、封筒の文面は、その噂と妙に噛み合っていた。


 イリスは紙面の端を指で押さえながら、机の上に聞き書きのメモを並べた。


 夜明け前に倉庫街を通った荷運び。

 現場封鎖を見た近隣の職人。

 救出された職人の親方筋。

 騒ぎを聞きつけた商店の小僧。


 断片はばらばらだった。


 だが、並べれば見出しにはなる。


 問題は、どう書くかだった。


「“演出家”、黒蝶へ接触か」


 助手の若い記者がそう案を出した。


 イリスは即座に首を振った。


「駄目」


「なぜです?」


「それで演出家って見出しにしたら、演出家に失礼でしょ」


「自称してるんですよね?」


「自称は自称。見出しで持ち上げる必要はありません」


 イリスは筆を回した。


「本物の演出家は、役者と観客を生かすために危険を制御する。あれは危険を置いて、人がどう転ぶか見ているだけです」


「では、何と?」


 イリスは少し考えた。


 試演。

 舞台。

 役者。

 演出家。


 差出人は、終始、舞台の言葉で語っている。


 ならば、こちらも言葉を選ばなければならない。


 犯人の望む名ではなく。

 街が警戒するための名を。


 イリスは紙に書いた。


 ――黒蝶へ接触する劇場型犯罪者。

 ――倉庫街事件に届いた“演出家”の声明。

 ――街では早くも、幕引き屋<カーテンコール>の噂。


 若い記者が首を傾げる。


幕引き屋(カーテンコール)?」


「本人は幕を上げたつもりかもしれないけど、こっちから見れば、人の人生に幕を引きかけているだけです」


「皮肉ですか」


「新聞に必要な栄養です」


「栄養なんですか」


「摂りすぎると毒です」


 イリスはそう言って、筆を置いた。


 窓の外では、朝のルネリアが動き始めている。


 黒蝶ファントム

 灰守バスティオン

 そして、自称“演出家”。


 名前が増えていく。


 名前が増える時、街では何かが起きている。


 イリスは小さく息を吐いた。


「さて」


 彼女は新しい紙を取る。


「噂より少し遅く、嘘より少し早く、ね」

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