新聞記者は砦と呼ぶ
翌朝、職人街はいつもより少し騒がしかった。
いや、職人街そのものは、いつも騒がしい。
金槌の音。
炉の唸り。
荷車の車輪。
見習いたちの怒鳴り声。
職人同士の口喧嘩。
そういうものは、普段からある。
だが、その日の騒がしさは少し違っていた。
「昨日の灰色のやつ、見たか?」
「見た見た。粉塵の中で線が白く見えたんだろ」
「梁を腕で止めたらしいぞ」
「腕で止めるか、普通」
「黒蝶じゃないのか?」
「黒蝶は黒いだろ」
「じゃあ、あれは何なんだよ」
ミラ工房の前を通る職人たちが、そんな話をしながら歩いていく。
噂は、足が速い。
特に、助かった人間がいる時の噂は速い。
恐怖だけではなく、安堵が混ざるからだ。
リオは工房の奥で、戻ってきた灰色装備を作業台に置いていた。
戻ってきた、ということになっている。
正確には、自分で持ち帰った。
だが、ミラはそこを聞かない。
ミラは外套の破れ、手甲の傷、膝当ての擦れを一つずつ確認しながら、眉を寄せた。
「思ったより壊れてないね」
「よかったです」
「よくない」
「え」
「壊れてないってことは、その分、使った方に負荷が行ってる」
ミラは前腕の補強板を指で叩いた。
「ここの硬化は悪くない。でも、衝撃を逃がす層が足りない。肩と肘の間にもう一段いる」
「そこまで見ますか」
「見るよ。あたしの仕事だ」
ミラは手袋を裏返し、粉塵を払った。
「滑り止めは効いてる。けど、濡れた時の試験はまだだね」
「昨日は粉塵でしたから」
「次も粉塵とは限らない」
「次がある前提なんですね」
「あるだろ」
ミラは当然のように言った。
「あの灰色の方が、昨日の一回で終わるとは思えない」
リオは答えなかった。
工房の外では、アッシュが小瓶を並べている。
「ひんやり膏、今日は一人三瓶までだ! 買い占めんな! 親方が暑がり? 知らねぇよ、親方を冷やす前にお前の頭冷やせ!」
相変わらず口が悪い。
だが、不思議と客は笑っている。
ミラは外へちらりと目をやり、それから声を落とした。
「昨日の事故、どう見る?」
「事故だけで片づけるには、気になる点があります」
「縄?」
「はい。セナさんも気にしていました」
「斥候が引っかかったなら、ただの偶然じゃないかもね」
「まだ断定はできません」
「真面目だね」
「断定して間違えたら、次を見落とします」
ミラは短く笑った。
「黒蝶が言いそうなことだ」
リオは一瞬だけ沈黙した。
ミラも、それ以上は言わなかった。
その時、店先のアッシュが大声を上げた。
「おい、取材って何だよ! ひんやり膏は一人三瓶までだって言ってんだろ!」
「買い占めに来たわけじゃありません!」
知らない女性の声が返ってくる。
妙に明るく、よく通る声だった。
「取材です! ルネリア日報のイリス・ベルクと申します!」
リオとミラは、同時に顔を見合わせた。
*
イリス・ベルクは、よく喋る女だった。
年は二十代半ばほど。
栗色の髪を後ろでまとめ、肩掛け鞄を斜めに掛けている。
手には小さな筆記板。
腰には予備のインク瓶と、紙束を挟んだ革ケース。
服装は軽装だが、職人でも冒険者でもない。
歩きやすさを重視した、街中を駆け回る者の服だった。
目がよく動く。
ミラ工房の看板。
店先の小瓶。
アッシュの顔。
ミラの工具。
リオの帳面。
奥の作業台にかかっている布。
見ていないようで、かなり見ている。
「まずは、涼風膏についてお伺いしたくて」
イリスはにこりと笑った。
「職人街でかなり評判になっています。炉番、厨房、染物場、窯場の方々から、暑さが和らぐ、作業後の首が楽になる、と」
「ひんやり膏だ」
アッシュが横から言った。
「商品名は涼風膏」
ミラが即座に訂正する。
「でも客はひんやり膏って呼んでるぞ」
「客が勝手に呼んでるだけだよ」
「じゃあもうひんやり膏でいいだろ」
「売る側が折れたら終わりだ」
「何と戦ってんだよ」
イリスはそのやり取りを、ものすごい速さで書き留めていた。
リオは嫌な予感がした。
「今の、記事にしますか?」
「必要なら」
「必要なんですか?」
「読者は、商品説明だけではなく人間も読みたいものです」
「人間」
「はい。どんな人が作り、どんな人が売り、どんな人が使っているか。そこに街の顔が出ます」
イリスは笑顔のまま、リオを見た。
「あなたがリオさんですね。ギルド職員の」
「はい」
「涼風膏の発案者は、あなたという話も聞いています」
「大まかな案を出しただけです。実際に形にしたのはミラさんです」
「なるほど。発案はリオさん、製作はミラ工房」
「そう書かれると、大げさです」
「大げさでない記事は、誰にも読まれません」
「それは記者としてどうなんですか」
「正確さを捨てるつもりはありません。ただ、正確で退屈な文章は、読まれる前に負けます」
ミラが少し笑った。
「あんた、面白いね」
「ありがとうございます。よく言われます」
「褒めてるとは限らないよ」
「褒められる方向へ記事で調整します」
アッシュが露骨に顔をしかめる。
「うさんくせぇ」
「それもよく言われます」
「気にしろよ」
「記者が全員に信用されていたら、取材はもっと簡単です」
イリスはにこやかだった。
リオは思った。
苦手なタイプだ。
悪い人間ではなさそうだ。
だが、見てはいけないところまで見る目をしている。
イリスは涼風膏について、材料、使い方、注意点、価格、今後の販売数などを手際よく聞いた。
ミラは答えられる範囲だけ答える。
リオは余計な技術説明を避ける。
アッシュは横から「塗りすぎんな」と繰り返す。
取材は順調に進んだ。
そして。
「それで」
イリスは筆記板を一度閉じた。
「昨日の職人街事故についても、お話を伺いたいのですが」
来た。
リオは内心で息を吐いた。
ミラは表情を変えない。
「うちは事故現場じゃないよ」
「ですが、ミラ工房の近くです。さらに、昨日の現場では、灰色の仮面を見たという証言が多数あります」
「うちとは関係ないね」
「そうですか?」
「そうだよ」
「では、別の聞き方をします」
イリスは視線を少しだけ奥の布へ向けた。
「灰色の救助者について、何かご存じありませんか?」
ミラの顔から、笑みが消えた。
「知らないね」
「本当に?」
「仮に知ってても、記者に話すほど口は軽くないよ」
イリスは目を瞬かせ、それから楽しそうに笑った。
「なるほど。では、知らないということにしておきます」
「違う。知らないんだよ」
「はい。そう書くかどうかは、記事の都合で考えます」
「書いたら出入り禁止」
「それは困ります。涼風膏の続報が書けません」
「なら書くな」
「承知しました」
ずいぶんあっさり引いた。
あっさり引く人間ほど、別の場所で掘る。
リオはそういう気がした。
イリスは今度はアッシュに目を向けた。
「あなたは、灰色の救助者を見たことがありますか?」
アッシュの手が止まった。
「あの灰色のやつか」
声が少しだけ低くなる。
「見たっつうか……まあ、見た」
「どういう印象でした?」
「知らねぇ」
「知らない?」
「助けられたからって、何でも知ってるわけじゃねぇし」
アッシュは乱暴に小瓶を拭き直した。
「黒蝶みてぇに悪人を殴るやつとは違った。それだけだ」
「怖かったですか?」
「別に」
「安心しましたか?」
「しつけぇな」
「仕事なので」
「……」
アッシュは少しだけ口をへの字に曲げた。
「煤だらけで、何も分かんなかった。けど、あいつは逃げなかった」
「逃げなかった?」
「火とか煙とか、そういうのがある場所に近づいてきた。普通は離れるだろ」
アッシュは顔をしかめた。
「だからまあ……助ける側のやつなんだろ。それだけだ」
言ってから、アッシュはさらに顔をしかめる。
「今の書くなよ」
「なぜです?」
「恥ずいだろうが!」
「良い証言なのに」
「駄目だ!」
イリスは肩をすくめた。
「では、匿名の少年の証言として」
「もっと駄目だ!」
リオは思わず口を挟んだ。
「イリスさん、本人が嫌がっています」
「分かっています。今のは交渉です」
「交渉に見えませんでした」
「では失敗ですね」
イリスは悪びれない。
アッシュは「記者ってやつは」とぶつぶつ言いながら、奥へ逃げるように小瓶を運んでいった。
リオはその背中を見送り、イリスに向き直る。
「子どもに踏み込みすぎるのは、やめてください」
「すみません。今のは少し急ぎました」
イリスは素直に頭を下げた。
「彼の証言は、記事にしません」
「本当に?」
「はい。私が見たかったのは、灰色の救助者がどう見えていたかです。彼の事情ではありません」
その線引きはあるらしい。
ただし、線の近くまで来る。
リオはますます苦手だと思った。
ミラが腕を組む。
「で、灰色の仮面の記事を書きたいって?」
「はい」
「黒蝶に続いて、今度は灰色かい」
「黒蝶は悪人を眠らせる。灰色の方は人を救う。街はすでに違いを感じ始めています」
「ファントム」
リオは反応してしまった。
イリスがこちらを見る。
「もしかして、黒蝶をファントムと呼び始めたのは……」
イリスは少し得意げに笑った。
「私です」
「……あなたでしたか」
「黒蝶、だけでは見出しとして少し弱かったので。夜に現れ、悪人を眠らせ、朝には消えている。なら、ファントムでしょう?」
リオは沈黙した。
余計なことを。
そう思ったが、言える立場ではない。
黒蝶という名も、ファントムという読みも、もう街に広がっている。
名前は、つけた者の手を離れた時点で、街のものになる。
イリスは楽しそうに続けた。
「そして今回の灰色の方にも、呼び名が必要です」
「必要ですか?」
「必要です。名前のないものは、噂の中で形が崩れます。形が崩れると、嘘が混ざります。嘘が混ざる前に、できるだけ正確な輪郭を与える。それも新聞の仕事です」
「それは、記者の都合では?」
「もちろん。ですが、街の都合でもあります」
イリスは筆記板を胸に抱える。
「黒蝶は、怖い噂だけではありません。悪人を殺さず眠らせる者、という輪郭があるから、街は受け止められた。灰色の方にも、そういう輪郭が必要です」
ミラは黙って聞いていた。
リオもまた、否定しきれなかった。
*
イリスはその日の午後、職人街を歩き回った。
リオはギルド職員として、事故記録の確認のため現場へ向かうことになった。
表向きには、昨日の報告書作成に必要な追加聞き取りである。
実際、それも必要だった。
職人街の荷揚げ場には、まだ封鎖縄が張られていた。
衛兵が数名。
職人組合の者たち。
そして、昨日現場にいた冒険者たち。
グレンは腕組みをして、崩れた倉庫を睨んでいた。
「まだ残っていたんですか」
リオが声をかけると、グレンは鼻を鳴らした。
「現場が気になるんだよ。瓦礫に勝った気がしねぇ」
「勝ち負けなんですか」
「魔物なら勝った負けたが分かる。瓦礫は助けた後も、そこに残ってやがる」
「なるほど」
「それに、あの灰色のやつもな」
グレンは低い声で続けた。
「あれ、冒険者じゃねぇだろ」
「どうしてですか」
「動きが違う。強い弱いじゃなく、目的が違う」
「目的」
「冒険者は、どうしても依頼を終わらせる動きをする。魔物を倒す、素材を取る、人を運ぶ、報酬をもらう。あいつは違った」
グレンは崩れた梁を指差した。
「あいつは、崩れるものの前で止まった。普通は避ける。支えるにしても、仲間を呼ぶ。だが、あいつは最初から自分が壁になるつもりで入った」
リオは黙って聞いた。
「無茶ですか」
「無茶だな」
「では、駄目な動きですか」
「いや」
グレンは首を振った。
「俺らじゃ間に合わなかった。だから、駄目とは言えねぇ。言えねぇのが腹立つ」
その言い方に、少し笑いそうになった。
そこへイリスが現れる。
「今のお話、記事にしても?」
「駄目だ」
グレンが即答した。
「なぜです?」
「今のは愚痴だ。記事にするなら、もう少し格好よく書け」
「では、灰色の救助者について一言」
「俺らでも支えきれない梁を、あいつは腕で受けた」
イリスが素早く書き留める。
「それ、かなり格好いいです」
「だろ」
「でも、少し悔しそうですね」
「書くな」
「書きません。たぶん」
「おい」
少し離れたところでは、セナが縄の切れ端を見ていた。
イリスがそちらへ向かう。
リオも続いた。
「セナさん。昨日、粉塵の中で白い縁が見えたと聞きました」
「見えたよ」
「どうでした?」
「助かると思った」
セナはあっさり答えた。
「強そう、ではなく?」
「強そうな奴は冒険者にもいる。怖い奴もね。でも、あの灰色は違った。粉塵の中で白い縁だけ見えた時、ああ、あっちへ行けばいいんだって思えた」
イリスの筆が止まった。
リオも、その言葉を聞いていた。
見つけてもらう姿。
ミラの言葉が、現場の証言になって返ってきた。
「助かると思った、ですか」
イリスが繰り返す。
「うん。救助者としては、それが大事なんじゃない?」
「とても大事です」
イリスは真剣に頷いた。
「黒蝶とは違いますね」
「全然違う。黒蝶は、悪人が見たら怖い方がいい。でも、灰色は怖いだけじゃ駄目」
「なぜ?」
「助けを待つ人が、手を伸ばせないから」
リオは、思わずミラ工房の奥を思い出した。
同じことを、ミラも言っていた。
イリスは書き留めながら、目を細める。
「灰色の壁、という証言もあります」
「壁ね。分かる」
セナは崩れた倉庫を見る。
「でも、ただの壁じゃないよ。壁は人を閉じ込めることもある。あれは……」
「守る壁」
リオが呟いた。
イリスが振り向く。
「今の、いただいても?」
「ただの感想です」
「良い感想は、記事の種です」
リオは少し後悔した。
イリスは筆記板に何かを書いた。
そして、一度消す。
また書く。
「灰色の壁。灰の守り手。守護者。砦……」
小さく呟く。
やがて、彼女の筆が止まった。
「バスティオン」
リオは顔を上げた。
「何ですか?」
「古い言葉で、砦、稜堡、防衛の要。街を守る突き出た壁」
イリスは、崩れた倉庫を見た。
「灰の中で人を守る砦。灰色の壁では弱い。救助者としての意志が足りない」
彼女は紙に、大きめの字で書いた。
「灰守」
リオの胸が、小さく鳴った。
灰守。
それはリオの中での仮の呼び名だった。
だが、バスティオン。
街が呼ぶ名。
助けられた者が、手を伸ばすための名。
黒蝶が、夜に悪人を眠らせる幻影なら。
灰守は、崩れた場所で人を守る砦。
リオは、すぐには何も言えなかった。
イリスは満足げに頷く。
「これでいきます」
「勝手に名前をつけるんですか」
「名前は、つけた者のものではありません。広まった時点で、街のものです」
「本人の許可は?」
「取れるなら取りたいです」
イリスは笑った。
「ですが、仮面の方々はたいてい取材に応じてくれませんので」
それは、まあ、そうだった。
*
夕方。
ミラ工房へ戻ると、イリスは追加でいくつか質問をした。
涼風膏の今後の販売予定。
職人街での反応。
昨日の事故による周辺工房への影響。
そして最後に、また灰色の救助者について聞いた。
「ミラさんは、灰守という呼び名をどう思います?」
「記事屋がつける名前にしちゃ、悪くないんじゃないかい」
「それは褒めていますか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「記者ってのは、何にでも名前をつけたがるんだね、って意味さ」
「名前がないと、記事にしづらいんです」
「名前をつけると、今度は噂が走りやすくなる」
「だからこそ、妙な呼び名が広がる前に、できるだけ形を整えたいんです」
イリスは、珍しく少しだけ真面目な顔をした。
「私は、犯人や怪しい噂に名前をつけたいわけではありません。救助者の輪郭を、なるべく歪めずに伝えたいだけです」
「そういう言い方も、記事屋の技術かい」
「はい」
「正直だね」
「嘘をつくと、次の取材で困りますから」
ミラは呆れたように笑った。
工房の奥へは、踏み込まない。
布の下に何があるか、気づいているのかもしれない。
気づいていないのかもしれない。
だが、ミラの目を見て、それ以上は聞かなかった。
そこは、記者としての勘なのか。
人としての線引きなのか。
リオには、まだ判断できなかった。
取材を終えて、イリスは鞄を肩にかける。
「では、明日の朝刊に載せます」
「早いですね」
「噂より少し遅く、嘘より少し早く、です」
「それ、気に入っているんですか」
「はい」
イリスは胸を張った。
「私の仕事の標語です」
ミラが呆れたように笑う。
「はいはい。帰るなら気をつけな」
「ご心配なく。怪しい影に追われたら、記事にします」
「追われる前に逃げな」
「逃げながら書きます」
「器用だね」
「記者なので」
イリスは一礼し、工房を出ていった。
アッシュは外に積んだ空き箱を片づけながら、その背中を見送る。
「変な女」
「否定はしません」
リオが言うと、アッシュは鼻を鳴らした。
「でも、悪いやつじゃなさそうだな」
「どうしてそう思うんですか」
「本当に嫌なやつは、ああいう目で人を見ねぇ」
リオは少し驚いた。
アッシュは照れ隠しのように、空き箱を乱暴に積み直す。
「何だよ」
「いえ。よく見ているなと思って」
「うるせぇ」
アッシュはぷいと顔を背けた。
リオはそれ以上、追及しなかった。
*
イリスが帰った後、工房の奥に戻ると、ミラは作業台の布をめくった。
灰色装備がそこにある。
白銀の線。
琥珀色のレンズ。
傷ついた前腕。
煤のついた外套。
ミラは腕を組んで、それを見下ろした。
「バスティオン、ね」
「……広まりそうですね」
「広まるだろうね。あの記者、そういう名前のつけ方を知ってる」
「困りますか」
「困るよ」
ミラは即答した。
「でも、悪くはない」
リオはミラを見る。
ミラはにやりと笑った。
「砦って呼ばれたなら、砦に見えるようにしてやろうじゃない」
「ミラさん」
「何」
「ほどほどに」
「それは無理」
「やっぱり」
「見つけてもらう姿にするって言っただろ。なら、名前に負けちゃ駄目だ」
ミラは手甲を持ち上げた。
「次は胸元と肩の線を変える。遠目でも、前を向いてるって分かるようにする。背中にも何かいるね。助けられる側が後ろから見ても分かる印」
「印」
「砦の印」
「本当にやるんですね」
「名前をつけられたんだ。だったら、こっちも乗っかる」
ミラは楽しそうだった。
リオは少しだけ、笑った。
灰守。
名前がついた。
それは少し怖くもあり、少し誇らしくもあった。
*
その夜。
リオはギルドの自室にいた。
表向きには。
机の上には、事故報告書。
職人街荷揚げ場事故。
吊り荷落下。
倉庫一部崩落。
負傷者三名。
死者なし。
救助者不明。
リオは筆を止めた。
セナの言葉が頭から離れない。
切れたのではない。
ほどけた。
ほどけるようにしてある。
罠師のやり方とは違う。
崩れ方まで見せるために作っている。
そして、もう一つ。
昨日の現場は、ただ壊れた場所には見えなかった。
縄。
楔。
吊り荷の落下位置。
閉じ込められた者たちの位置。
どれも、偶然にしては整いすぎている。
誰かが事故を起こしただけではない。
誰かが、事故のあとに何が起きるかまで見ようとしていた。
黒蝶を待っていたのか。
灰守が現れたのは偶然だったのか。
それは、まだ分からない。
だからこそ、夜に見る必要があった。
リオはそっと息を吐いた。
部屋の奥で、黒い装備が静かに待っている。
*
黒蝶は、夜の職人街を渡った。
黒い外套が屋根の影を滑る。
足音はほとんどない。
風がわずかに瓦の上を撫で、着地の音を散らす。
昼の職人街は騒がしい。
夜の職人街は、別の顔を持つ。
炉の残り火。
閉じた作業場。
積まれた木材。
吊り荷の影。
そして、昨日の事故現場。
衛兵の見張りは残っていた。
だが、黒蝶は真正面から入らない。
屋根から裏へ回り、崩れた倉庫の影へ降りる。
黒蝶は、昨日セナが見ていた縄の位置へ向かった。
昼の記録では分からないものが、夜には見える。
人の気配が消え、音が減り、風の流れが残る。
黒蝶は手袋越しに縄の切れ端を取った。
繊維のほつれ。
結び目の滑り。
荷重がかかった時に、ほどける方向。
切断ではない。
自然劣化でもない。
一定の重さがかかった時、結び目が逃げるように作られている。
黒蝶は次に支柱を見る。
楔が抜けやすい角度に削られていた。
ただし、削りすぎてはいない。
見ただけでは、劣化や打ち込みの甘さに見える程度。
さらに、石材が落ちた位置。
倉庫の梁へ当たり、屋根の端を砕き、中に人を閉じ込める。
だが、倉庫全体が一気に潰れるほどではない。
死者を出すためなら弱い。
事故として騒ぎを起こすなら十分。
黒蝶は膝をつき、床の粉塵を指先で払った。
吊り荷の落下角度。
逃げた職人たちの足跡。
救助に入った灰守の足跡。
そして、それより前についた、小さな靴跡。
軽い。
深く踏み込んでいない。
足場を知っている者の歩き方。
黒蝶は立ち上がった。
これは壊れたのではない。
壊れるように、整えられていた。
誰かが、事故を設計した。
黒蝶は風を薄く流した。
粉塵がわずかに動く。
床下に落ちていた小さな木片が見えた。
それは、支柱の一部ではない。
薄く削られた楔の欠片。
表面に、奇妙な擦れ跡があった。
工具の跡。
だが、職人が急いで削った粗さではない。
整いすぎている。
黒蝶はそれを小さな布に包んだ。
その時。
背後で、何かが揺れた。
黒蝶は即座に眠り銃を構える。
だが、そこには誰もいない。
ただ、崩れた梁から垂れた細い紐が、夜風に揺れているだけだった。
黒蝶は目を細める。
紐の先には、結び目があった。
舞台の幕を留めるような、妙に形の整った結び目。
実用だけではない。
見せるための形。
黒蝶はそれを見つめた。
悪意が、器用すぎる。
ただ壊したのではない。
ただ人を閉じ込めたのでもない。
壊れ方まで、見せるために整えている。
黒蝶は、紐の結び目へ指を伸ばした。
ほどくつもりだった。
だが、結び目の奥に、小さく挟まれた薄い木片があることに気づく。
黒蝶はそれを抜き取った。
木片には、刃物でごく浅く文字が刻まれていた。
文字というより、符丁に近い。
――暗転。
黒蝶は目を細める。
舞台で明かりが落ちる時の言葉。
場面が変わる合図。
観客の目から、次の仕掛けを隠すための闇。
ただの事故現場に残るには、あまりに場違いな言葉だった。
黒蝶は木片を布に包み、懐へ入れた。
その時、屋根の上で風が鳴った。
誰かがいたのか。
ただの風か。
黒蝶が振り向いた時、そこにはもう、夜しかなかった。
だが、分かったことが一つある。
これは終わった事故ではない。
始まった舞台だ。




