ギルド職員は磨き上げる
涼風膏は、思ったより売れた。
いや、正確に言えば、涼風膏という名ではあまり呼ばれていない。
「ひんやり膏、まだあるかい!」
「こっちも二瓶!」
「炉番の親方が、首に塗ると楽だって言ってたぞ!」
「厨房の連中にも回してくれ!」
ミラ工房の入り口に、職人街の者たちが次々と顔を出す。
鍛冶屋。
荷運び。
厨房番。
染物屋。
窯場の見習い。
火や熱の近くで働く者ほど、薄緑の小瓶に食いついた。
リオが考えたのは、作業用冷却補助膏だった。
ミラが売り出したのは、涼風膏。
街が覚えたのは、ひんやり膏。
名前というものは、作った人間の思惑通りには定着しないらしい。
「ひんやり膏、残り三瓶!」
店先でアッシュが怒鳴った。
口は悪い。
態度も悪い。
だが、声はよく通る。
「塗りすぎんなよ! 首と手首にちょっとだ! 目ぇこするな! ヒリついたら水で洗え!」
見習い職人が笑う。
「お前、売り子向いてるな」
「向いてねぇよ!」
「でも説明うまいぞ」
「うるせぇ! リオが何回も同じこと言うから覚えただけだ!」
アッシュは乱暴に言い返しながら、小瓶を布袋に詰めて客へ渡した。
リオは工房の奥で帳面をつけながら、少しだけ笑った。
アッシュはまだ保護対象だ。
ギルドに預けられ、ミラ工房で雑用をし、時々リオに文句を言う少年でしかない。
黒蝶のことも、灰色の仮面のことも、当然知らない。
リオもミラも、アッシュの前ではその話をしない。
それでいい。
今はまだ、火を怖がる少年が、火のそばで働く大人たちに「塗りすぎるな」と怒鳴れるようになった。
それだけで十分だった。
「アッシュ」
ミラが奥から顔を出した。
「あんた、次の空き瓶を薬草屋まで取りに行ってきな」
「俺が?」
「他に誰がいるの」
「リオがいるだろ」
「リオには別の用がある」
「チッ。分かったよ」
「舌打ちしたから、帰りに水抱き苔も追加」
「増やすな!」
「文句言うと涼葉草も追加」
「行きゃいいんだろ、行きゃ!」
アッシュは袋をひったくるように持ち、店先から飛び出していった。
足取りは荒い。
だが、逃げるための足ではない。
リオはその背中を見送り、帳面を閉じた。
「……いいんですか?」
「何が」
「一人で行かせて」
「薬草屋までは大通りだ。見張りもいる。あいつ、逃げる気がある時の足じゃなかった」
「分かるんですか」
「分かるよ。あたしも昔、逃げる気のある子どもだったからね」
ミラはさらりと言った。
リオは少しだけ返答に困った。
ミラはそれ以上続けず、工房の奥へ向かう。
「さて」
声が変わった。
「こっちが本題」
ミラが作業台の上に置いた布をめくる。
そこにあったのは、灰色の装備だった。
煤の跡が残った外套。
擦れた防護面。
割れかけた手甲。
歪んだ膝当て。
土と灰がこびりついた靴底。
前回、灰色の仮面が使った装備。
急場で作り、急場で使われ、急場で人を救った試作品。
動いた。
人も助けた。
だが、改めて見ると、あちこちに無理があった。
ミラは腕を組み、装備を睨む。
「まず、性能は悪くない」
「ありがとうございます」
「でも、見た目が駄目」
「見た目」
「そこ、軽く見てる顔」
「いえ、そんなことは」
「あんたはすぐそういう顔をする」
ミラは灰色の外套をつまみ上げた。
「これじゃ、煤まみれの不審者だよ」
「不審者」
「黒蝶はそれでいい」
ミラは続ける。
「あれは夜に紛れる姿でいい。悪人を止める仮面だからね。怖いくらいでちょうどいい」
その言葉に、リオは黙る。
「でも、灰色の方は違う」
ミラは外套を作業台に広げた。
「あれは、煙や粉塵の中で見つけてもらう姿じゃないと駄目だ」
リオは、思わず外套を見る。
灰色。
目立たない色。
煤にも瓦礫にも紛れる色。
たしかに、火事場や崩落現場で人を助ける者の色としては、あまりにも沈みすぎていた。
「助ける相手が、見つけられない」
リオが呟く。
「そう」
ミラは頷いた。
「助ける側がいくら強くても、助けられる側が手を伸ばせなきゃ意味がない」
「……そこまで考えていませんでした」
「だからあたしが考える」
ミラは、すでに用意していた部品を並べ始めた。
灰色の厚手布。
白銀の細い帯。
琥珀色の薄いレンズ。
硬化処理した肩当て。
前腕用の補強板。
膝と脛を守る防具。
短い救助縄。
鉄と土材を混ぜた杭。
滑り止め加工を施した手袋。
「白銀の線は、煙や粉塵の中で輪郭を出すため。派手に光る必要はない。少し見えればいい」
「なるほど」
「レンズは琥珀色。真っ黒な穴みたいな目で近づかれたら、子どもが泣く」
「そこも大事なんですね」
「大事だよ」
ミラは即答した。
「怖い相手に手は伸ばせない」
リオは何も言えなかった。
黒蝶は怖くていい。
それは、悪人を止める仮面だから。
だが、灰色の方は違う。
崩れた場所で、煙の中で、怖がっている人間に手を伸ばさせる仮面でなければならない。
ミラは背部の補強板を手に取った。
「それと、背中」
「背中ですか」
「灰色の方は、人を背負うことになるだろ」
「……そうですね」
「なら、背中で重さを受ける仕組みが要る。腕だけで抱えさせるな。肩と腰に分けるんだよ」
それは、リオの前世の知識にも近い話だった。
荷重分散。
背負子。
作業用ベルト。
防災用の搬送具。
人を運ぶ時、力任せに抱えればすぐに限界が来る。
重さをどこで受けるか。
どこに逃がすか。
そこを決めなければならない。
「背部支持板……ですかね」
「名前はあとでいい」
「はい」
「手袋は滑り止め。煤、汗、水、血。全部滑る。掴んだ腕を離したら終わり」
「靴底は?」
「安定優先。瓦礫を踏んでも沈みにくく、濡れた床でも滑りにくい。跳ぶより踏ん張るための靴だね」
黒蝶の靴とは思想が違う。
黒蝶は、軽く、音を殺し、逃げるための靴。
灰色の方は、重く、滑らず、そこに留まるための靴。
同じ仮面でも、役割が違う。
同じ夜の噂でも、立つ場所が違う。
「救助縄と杭は?」
「縄は人を引き上げるため。杭は支点。あの灰色の方が土属性なら、打ち込んだ場所を少し固められるんだろ」
「……おそらく」
「なら、ただの杭じゃない。即席の命綱だ」
ミラは鉄杭をリオの前に置いた。
「武器に見えるけど、使い方は釘と柱。間違えさせるなよ」
「はい」
リオは頷いた。
灰守装備は、武器ではない。
人を救うための道具だ。
もちろん、使い方によっては戦える。
だが、目的はそこではない。
支える。
運ぶ。
見つけてもらう。
倒れない。
それが、この灰色の装備の役割だった。
ミラが最後に、厚手の灰色外套を持ち上げる。
黒蝶のように大きく翻るものではない。
短く、厚く、肩と背を覆う防護外套。
縁には白銀の線が走っている。
「どう?」
ミラが聞いた。
リオは、少しだけ息を呑んだ。
「……別物ですね」
「違う」
ミラは口の端を上げた。
「やっと本来の姿になったんだよ」
その時だった。
外から鐘の音が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
火事の鐘ではない。
職人街の事故を知らせる短い鐘。
ミラの表情が変わる。
「……今?」
外が騒がしくなる。
「荷が落ちたぞ!」
「倉庫が潰れた!」
「中に人がいる!」
怒号が走った。
リオは窓へ駆け寄る。
職人街の荷揚げ場の方角で、土埃が上がっていた。
煙ではない。
粉塵だ。
何か重いものが落ち、建物の一部が崩れた時の色。
ミラが舌打ちした。
「のんびり試用しようと思ったのに」
リオは、作業台の上の灰色装備を見た。
まだ全ての縫い合わせが完全ではない。
調整も済んでいない。
裏で試す予定だった。
瓦礫を持ち上げ、人形を背負い、縄を張り、少しずつ確認するはずだった。
だが、現場は待ってくれない。
「トラブルは、テストを待ってくれませんので」
リオが言った。
ミラは短く笑った。
「言うようになったね」
「ミラさんの影響です」
「悪いものを教えた覚えはないよ」
ミラは装備一式を布で包み、リオに押しつけた。
「届けるなら裏口。表から持ち出したら目立つ」
「……いいんですか」
「灰色の方に必要なんだろ」
ミラは、それ以上聞かなかった。
「誰にどう渡すかまでは、あたしの仕事じゃない。ただ、戻ってきた装備は全部見る。分かったね」
「はい」
「壊れてたら怒るよ」
「壊れなければ、人が壊れます」
「そういう返し、誰に似たんだかね」
リオは灰色装備を抱え、工房の裏口へ向かった。
*
冒険者ギルドにも、事故の報せはすぐ届いた。
「職人街荷揚げ場で吊り荷落下! 倉庫一部崩落! 負傷者あり、閉じ込めの可能性!」
駆け込んできた職人が叫ぶ。
受付前が一気にざわめいた。
緑札の採取依頼を眺めていた鉄級冒険者たちが顔を上げる。
報酬精算を待っていた銅級の前衛が、椅子から腰を浮かせる。
地図を広げていた斥候が、指先で机を叩くのをやめた。
マーレが即座に声を飛ばす。
「黒札だ。街中緊急対応。銅級以上、現場経験ありを優先」
壁に黒い札が打ち付けられる。
リオはその場にいた。
いや、正確には本体のリオが、ギルドに戻ったところだった。
ミラ工房から出た後、表向きには事故対応のため、ギルドへ駆け戻った形になる。
その一方で、灰色の装備は、別の場所で別の自分が身に着けている。
胸の奥が、二重に鳴っていた。
「リオ」
マーレが言う。
「現場記録。衛兵隊との連絡。職人組合の代表確認。冒険者の配置も控えろ」
「はい」
「顔色が悪いぞ」
「少し、走ったので」
「倒れるなよ」
「努力します」
マーレはそれ以上追及せず、冒険者たちへ向き直った。
「グレンのパーティーはいるか!」
「いるぞ!」
立ち上がったのは、大柄な男だった。
背が高く、肩幅が広い。
腕は丸太のようで、腰には大槌。
銅級上位から銀級下位。
力仕事と現場対応に慣れた前衛冒険者、グレン・ロックウェル。
その周囲で、彼の仲間たちも椅子を蹴るように立つ。
名乗りはしない。
だが、こういう時にどう動くかを知っている顔だった。
「瓦礫撤去と避難誘導。勝手に奥へ突っ込むな」
「分かってる。瓦礫は魔物より面倒だ。殴ると崩れるからな」
グレンは肩越しに仲間たちを見た。
「聞いたな。外を固めろ。逃げ道を空ける。怪我人が出たら、担げる奴が担ぐ。いつものやつだ」
仲間たちは短く頷いた。
大仰な返事はない。
慌てた顔もない。
ただ、それぞれが自分の荷物を掴み、必要な道具を選び、動き出す。
こういう現場に慣れている者たちの動きだった。
「セナ!」
「はいはい」
軽い声とともに、机の端に座っていた女性が立つ。
細身で、短い外套をまとい、腰には短剣と道具袋。
銅級上位の斥候、セナ・リード。
「現場確認。足跡、縄、崩落の危険箇所を見ろ」
「人命優先?」
「当然だ」
「了解。じゃ、怪しいものは二番目に見る」
「最初に見ろとは言っていない」
「言われなくても」
セナは軽く笑った。
マーレがリオへ視線を向ける。
「リオ、つけ。記録と連絡。危険判断は冒険者に従え」
「はい」
リオは書板と筆記具、簡易地図を手に取った。
ギルド職員としての仕事。
現場記録。
人員把握。
衛兵との連携。
そしてもう一つ。
灰色の仮面として、誰よりも先に奥へ入る仕事。
リオは深く息を吸った。
「行きます」
*
職人街の荷揚げ場は、騒然としていた。
高所へ石材や木材を吊り上げるための簡易足場。
滑車。
縄。
支柱。
木組みの仮倉庫。
その一部が潰れていた。
巨大な石材が吊り荷から落ち、倉庫の屋根の端を砕き、梁を押し込んでいる。
壁は斜めに歪み、粉塵が白く舞っていた。
職人たちが叫ぶ。
「中に見習いがいる!」
「親方もまだ出てねぇ!」
「下がれ! また崩れるぞ!」
衛兵が外周を押さえようとしているが、野次馬と職人で混乱している。
グレンが大声を張り上げた。
「下がれ! 邪魔な奴からどかすぞ!」
その声はよく通った。
大柄な冒険者が大槌を肩に担いで立つだけで、周囲の人間が半歩下がる。
グレンの仲間たちも動いた。
一人は衛兵と一緒に野次馬を押し下げる。
一人は通りに転がった木箱を蹴り寄せ、即席の通路を作る。
もう一人は近くの店から戸板を借りる交渉をしていた。
借りる、というより、もう手に持っていた。
「後で謝る!」
グレンの仲間が叫ぶ。
店主が怒鳴った。
「割ったら弁償しろよ!」
「生きてたらな!」
「縁起でもねぇこと言うな!」
短い怒鳴り合い。
だが、その顔に本気の怒りはない。
冒険者は、魔物と戦うだけではない。
危険な場所で、危険な仕事をする。
それもまた、ギルドの仕事だった。
「ギルド緊急対応です!」
リオも声を上げる。
「負傷者、閉じ込め人数、分かる方は代表者を一人! 全員で話さないでください!」
職人たちが口々に叫ぼうとする。
セナがすっと間に入った。
「はい、親方代理。あんたね。名前、人数、最後に見た場所。順番に」
「お、おう。俺はダリオ。中にいるのは見習いのニコと、荷番のロッツ。親方のベルンも奥に――」
リオは書板に素早く記録する。
閉じ込め三名。
倉庫奥一名。
荷揚げ口付近一名。
親方不明。
グレンが崩れた壁を見上げた。
「正面は駄目だな。押したら上が落ちる」
「横は?」
リオが聞く。
「細い。人一人なら入れるが、俺は無理だ」
「小柄な冒険者は?」
「入っても支えがねぇ。中で崩れたら終わりだ」
その時、粉塵の奥で、何かが動いた。
灰色。
最初に気づいたのは、セナだった。
「……誰?」
粉塵の中に、白銀の線が浮かんだ。
灰色の外套。
琥珀色のレンズ。
厚い前腕。
短い防護外套。
灰色の仮面者が、崩れた倉庫の横へ立っていた。
誰かが息を呑む。
「黒蝶……?」
「違う。黒くない」
その声を背に、灰守は動いた。
滑り止めの靴底が、砕けた石の上で沈む。
前腕の補強板が、落ちかけた梁へ添えられる。
魔力が、足元へ薄く広がった。
床の揺れを読む。
梁の重さを読む。
崩れる方向を読む。
まだ完全ではない。
初めての新装備。
初めての実戦。
だが、やるしかない。
灰守はアンカーステークを床へ打ち込んだ。
鉄杭が砕けた床板を抜け、下の土へ食い込む。
そこへ、土属性の魔力を流した。
杭の周囲で、土と石片が噛み合うように締まる。
ただ打っただけの杭ではない。
崩れた床に、即席の支点を作る。
灰守はそこへ救助縄を通した。
「おい、あいつ何してる!」
グレンが目を見開く。
リオは、表情を変えないよう必死だった。
「支点を作っています」
「分かるのか?」
「たぶん」
「たぶんで済む動きじゃねぇぞ」
グレンは一瞬だけリオを見たが、すぐに現場へ意識を戻した。
「よし! あの灰色が支えてる間に、外側の瓦礫をどかす! 押すな、引け! 上を見ろ!」
冒険者たちが動き出す。
グレンは大槌を使わない。
瓦礫を砕くのではなく、崩れない順番で外す。
「魔物相手なら殴れば済むんだがな!」
汗を散らしながら、グレンが叫ぶ。
「瓦礫は殴ると怒るんだよ!」
リオは記録を取りながら、灰守の視界も見ていた。
粉塵。
暗い倉庫の奥。
歪んだ梁。
倒れた棚。
琥珀色のレンズ越しに、床近くでうずくまる見習いが見える。
灰守は身を低くした。
外套が短い。
邪魔にならない。
白銀の線が、粉塵の中でも自分の腕の位置を教えてくれる。
ミラの改良が、全部効いていた。
「聞こえるか」
灰守は声を落とす。
黒蝶より低く、短く。
リオの口調にならないよう、余計な言葉を削る。
「動けるなら、こちらへ」
「だ、誰……」
「外へ出す」
見習いの少年は震えていた。
黒い仮面なら、怯えて動けなかったかもしれない。
だが、灰色の仮面は白銀の縁を持ち、琥珀色の目をしていた。
少年が、手を伸ばした。
灰守はその手を掴む。
滑り止め手袋が、粉まみれの腕を離さない。
上で梁が軋む。
灰守は前腕を上げた。
改修したガーゴイル・スキンが、鈍く硬化する。
同時に、灰守の足元で魔力が沈んだ。
砕けた瓦礫が逃げるのを、固めた足場が押し留める。
重い。
肩が軋む。
膝に圧が落ちる。
背中の支持板が負荷を分ける。
腕だけで受けるな。
肩へ。
背中へ。
膝へ。
足元へ。
重さを逃がせ。
落ちきる前に、少年を引き寄せた。
「縄に掴まれ」
アンカーステークにつないだ救助縄を渡す。
外からグレンが叫ぶ。
「引くぞ!」
冒険者たちが縄を引き、少年を外へ引きずり出す。
歓声が上がった。
「一人出た!」
「ニコだ!」
「生きてる!」
だが、まだ終わりではない。
灰守はさらに奥へ進む。
奥には荷番の男が倒れていた。
足を挟まれている。
その上に、小さな梁が斜めに乗っていた。
力任せにどかせば、奥の壁が崩れる。
灰守は片膝をついた。
膝当てが瓦礫を受ける。
靴底が滑らない。
前腕を梁へかけ、足元へ魔力を沈める。
外でセナが声を上げた。
「右の支柱、触らないで! そこ抜いたら上が落ちる!」
グレンが反応する。
「聞いたか! 右は触るな!」
リオはセナを見る。
セナは荷揚げ場の縄を見ていた。
目が細い。
「変だね」
「何がですか」
「あとで」
セナは短く言い、すぐに崩落箇所へ走った。
今は人命が先。
違和感は後。
だが、リオの胸にその言葉が引っかかった。
変。
やはり。
灰守は荷番の男へ簡易防煙フードをかぶせ、背部支持板に男の体重を乗せた。
重い。
大人一人の重さ。
だが、背中で受ける。
肩だけで抱えない。
腰へ逃がす。
前世で見た搬送具。
ミラが形にした支持板。
魔力で締めた足場。
全部を使って、灰守は立ち上がった。
外の粉塵の向こうに、白銀の線が揺れる。
職人の一人が呟いた。
「……壁みてぇだ」
その声は小さかったが、周囲に広がるには十分だった。
灰守は荷番を外へ運び出す。
歓声が再び上がる。
「二人目!」
「ロッツだ!」
残るは親方ベルン。
だが、その時、倉庫の奥で大きな音がした。
梁が、さらに沈む。
グレンが叫ぶ。
「全員下がれ!」
灰守は動かなかった。
奥に、まだ人影がある。
年配の男。
肩を押さえ、立てない。
灰守は最後の救助縄を投げた。
「掴めるか」
男が呻く。
「腕が……」
灰守は一歩踏み込む。
足元が沈む。
アンカーステークをもう一本。
打ち込む。
魔力を流し、杭の周囲を固める。
さらに、沈みかけた梁の根元へ、薄く土を絡ませた。
止めたのではない。
崩れるのを、ほんの少し遅らせただけだ。
それでいい。
人ひとりを引きずり出す時間があればいい。
梁が落ちる。
灰守は両腕を上げた。
前腕補強が軋む。
肩当てが鳴る。
膝が震える。
重い。
だが、落とさない。
「今!」
外からグレンが飛び込んだ。
ぎりぎり入れる位置まで体をねじ込み、親方の腕を掴む。
「おっさん、寝るには早いぞ!」
セナが縄を取る。
「引く!」
冒険者たちが一斉に縄を引いた。
親方が外へ引きずり出される。
灰守は最後まで梁を支え、全員が出たのを確認してから、横へ跳んだ。
直後、倉庫の一部が崩れた。
粉塵が爆ぜる。
誰もが息を止めた。
灰色の姿が見えない。
「おい!」
グレンが叫ぶ。
粉塵の奥から、白銀の線が浮かんだ。
灰守が歩いて出てくる。
外套は破れ、前腕には傷。
だが、立っている。
職人たちが歓声を上げる。
衛兵が戸惑う。
冒険者たちが息を呑む。
リオは書板を握りしめたまま、内側から戻ってくる痛みを必死に押さえた。
重かった。
だが、助けた。
灰守は何も言わず、粉塵の中へ身を引いた。
衛兵が追おうとするが、現場の混乱に阻まれる。
黒蝶のように夜へ消えたのではない。
灰色の仮面は、粉塵の中に溶けるように消えた。
*
救助が終わった後も、現場は忙しかった。
負傷者は手当てを受け、衛兵が現場を封鎖し、ギルドは記録を取る。
リオは職員として、名前、負傷の程度、救助位置、冒険者の対応を記録した。
グレンは腕を回しながら言う。
「あの灰色、何者だ」
「分かりません」
リオは答えた。
「分からない顔で言うなよ」
「本当に分かりません」
「なら、分かってそうな顔をするな」
返答に困った。
セナが荷揚げ場の支柱付近にしゃがんでいた。
「セナさん?」
「これ」
彼女は縄の切れ端を指でつまんだ。
「切れたんじゃないね」
「違うんですか」
「ほどけた。というか、ほどけるようにしてある」
リオの背筋が冷えた。
セナは続ける。
「普通の荷役の結びじゃない。罠場で見る嫌な結び方に似てる。でも、罠師のやり方とも少し違う」
「どう違いますか」
「罠師は踏ませるために作る」
セナは崩れた倉庫を見る。
「これは、崩れ方まで見せるために作ってる」
粉塵がまだ、夕方の光の中に漂っていた。
リオは、吊り荷が落ちた位置を見る。
石材が当たった梁。
崩れた屋根。
閉じ込められた人の位置。
偶然にしては、綺麗すぎる。
壊れたのではない。
壊れるように、整えられていた。
「……記録しておきます」
リオは言った。
セナは肩をすくめる。
「衛兵にも言っとく。でも、証拠としては弱いよ。事故だって言われたら、それまで」
「分かっています」
「分かってる顔だね」
「今日はよく言われます」
セナは少し笑った。
その時、救助された見習いの少年が、母親らしき女性に抱きしめられながら泣いていた。
「灰色の人がいた」
少年は震える声で言う。
「黒蝶じゃない。黒くなかった。目が、琥珀みたいで……粉の中でも、白い線が見えて……」
周囲の者が耳を傾ける。
「壁みたいに、落ちてくるのを止めてくれた」
その言葉が、職人街の中へ静かに広がっていく。
灰色の人。
白い線。
壁みたいな仮面。
まだ名前はない。
けれど、噂はもう歩き始めていた。
*
その日の夜。
人気のない屋根の上から、職人街の荷揚げ場を見下ろす影があった。
黒い外套ではない。
灰色の外套でもない。
深い色の衣装。
細い手袋。
舞台に立つ者のような、静かな姿勢。
男は、崩れた倉庫を眺めていた。
「蝶は飛ばず、灰が立つ」
柔らかな声だった。
「なるほど。舞台には、まだ私の知らない役者がいたようですね」
男は指先で帽子の縁に触れ、優雅に一礼した。
誰に向けたものでもない。
崩れた倉庫へ。
救われた者たちへ。
そして、まだ名も知らぬ灰色の仮面へ。
「初回としては、上々」
男は静かに背を向ける。
「ですが、次はもう少し……観客席を整えましょう」
風が吹いた。
屋根の上には、もう誰もいなかった。
本日も連続更新となります。
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