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ギルド職員は商品開発する

 夜鴉商会ルネリア支部の一件は、表向きには終わった。


 支部長セヴラン・グリスは死亡。

 ルネリア支部は閉鎖。

 押収された品々は衛兵隊の管理下に置かれ、冒険者ギルドでは支部経由の依頼や荷物預かりの確認が続いている。


 夜鴉商会本部は、調査に協力するという丁寧な文書を出した。


 街の人々は、それを読んで頷いた。


 支部長が悪かったらしい。

 本部は知らなかったらしい。

 黒蝶が絡んでいたらしい。

 子どもが助かったらしい。


 らしい、らしい、らしい。


 噂は風に乗って広がり、やがて酒場の笑い話や露店の小声に変わっていく。


 だが、リオの机の上では終わっていなかった。


「リオ、これも」


「はい」


「こっちは支部経由依頼の確認だ」


「はい」


「これは衛兵隊からの追加照会」


「……はい」


「顔が死んでるぞ」


「心は昨日死にました」


「なら蘇れ。まだ昼だ」


 受付主任マーレは、容赦なく書類を積んでいく。


 リオは、ギルド奥の作業机でひたすら記録を照合していた。


 夜鴉支部経由の依頼。

 未払い金。

 預かり荷物。

 取り消しになった護衛依頼。

 行方不明者の相談記録。

 アッシュの保護手続き。

 押収品に関する問い合わせ。


 すべてが紙になる。


 黒蝶が夜に壊したものは、昼には書類になって帰ってくる。


 この数日で、リオはそのことを嫌というほど理解した。


「……夜に動くと、昼に仕事が増える」


 思わず呟く。


 マーレが振り返った。


「何か言ったか」


「いえ。夜間の事件は処理が大変だなと」


「まったくだ」


 マーレは疲れた顔で頷いた。


「黒蝶にも伝えたいくらいだ。現場を荒らすなら、せめて報告書を添えてほしい」


「それは……難しいんじゃないでしょうか」


「分かっている。仮面の者に期待はしていない」


「ですよね」


 リオは視線を逸らした。


 報告書を添える黒蝶。


 想像しただけで嫌だった。


 その時、受付の脇から小さな声がした。


「おい」


 リオが顔を上げると、アッシュが立っていた。


 赤茶けた髪は寝癖で跳ねている。

 借り物のシャツは少し大きく、袖が手の甲まで落ちていた。

 目つきは相変わらず悪い。


「どうしたの」


「暇だ」


「暇なのはいいことだよ」


「よくねぇよ」


「怪我人で保護中なんだから、暇なくらいでちょうどいい」


「俺は怪我人じゃねぇ」


「昨日、階段でふらついてたよね」


「あれは床が悪い」


「ギルドの床は悪くないと思う」


「じゃあ靴が悪い」


「靴もギルドの支給品だね」


「うるせぇな!」


 アッシュが噛みつくように言う。


 リオは少し笑った。


 口は悪い。

 態度も悪い。

 だが、昨日よりは顔色がいい。


 食べて、眠って、少し回復したのだろう。


「何かしたいなら、簡単な手伝いならあるよ」


「手伝い?」


「紙を運ぶとか、棚の上の紐を取るとか」


「雑用じゃねぇか」


「僕の仕事の大半は雑用だよ」


「弱そうな上に雑用かよ」


「見習い職員だからね」


 アッシュは、じっとリオを見た。


「なあ」


「何?」


「昨日の仮面、知ってるか」


 リオの筆先が止まった。


 だが、顔には出さない。


「黒蝶のこと?」


「黒い方じゃねぇ。灰色の方だ」


 リオは、今度こそ少しだけ息を止めた。


 灰色の仮面。


 崩れる床を支え、火と煙の中で人を逃がした複製体。

 黒蝶とは別の役割を持たせた、土属性寄りの新しい仮面。


「噂では聞いたよ」


 リオは慎重に答えた。


「火事場に出たとか、崩れた場所で人を助けたとか」


「……そいつも、黒蝶の仲間なのか」


「さあ」


「さあ、って何だよ」


「僕はただのギルド職員だからね」


「便利な逃げ方すんな」


 アッシュは不満そうに言った。


 そして、小さく続ける。


「火ん中に入れる奴って、馬鹿だよな」


 リオはアッシュを見た。


「そうかもね」


「普通、怖ぇだろ」


「怖いと思う」


「じゃあ何で入るんだよ」


「中に、出られない人がいたからじゃないかな」


 アッシュは黙った。


 火属性の魔力が、わずかに揺れる。


 怖いのだ。


 火を出せるからこそ、火が怖い。

 熱がどう広がるか、煙がどう人を殺すか、誰よりも肌で分かっている。


「火はさ」


 アッシュが低く言った。


「勝手に広がる。止まらねぇ。ちょっと火がついただけで、布も木も、人の髪も、全部持ってく」


「うん」


「なのに、あいつは入ったんだろ」


「噂では」


「馬鹿だな」


「うん」


 リオは頷いた。


「でも、必要な馬鹿だったんだと思う」


 アッシュは、何か言い返そうとして、やめた。


 リオは筆を置いた。


「火は怖いよ。だから、火を出す人だけじゃなくて、熱を逃がす方法を知っている人も必要なんだと思う」


「熱を逃がす?」


「うん。火そのものを消せなくても、体に溜まった熱を逃がすだけで倒れにくくなる」


「何だよ、それ」


「暑い場所で働く人が倒れないための考え方」


 アッシュは眉をひそめた。


「火と戦う話じゃねぇのか」


「戦わないための話だよ」


「意味分かんねぇ」


「分からなくてもいいよ。たぶん、見た方が早い」


 リオがそう言ったところで、マーレの声が飛んできた。


「リオ」


「はい」


「そろそろ上がっていいぞ」


「え?」


 リオは思わず聞き返した。


「いいんですか」


「その反応はどうなんだ」


「いえ、今日は終わらないものだと思っていたので」


「終わってはいない。だが、お前が倒れるとさらに面倒だ」


「それは確かに」


「それに、行きたいところがあるんだろう」


 マーレは書類から目を上げずに言った。


 リオは、少しだけ言葉に詰まった。


「……はい」


「ミラ工房か」


「はい」


「行ってこい。ただし、明日は来い」


「もちろんです」


「黒蝶のように消えるなよ」


「消えません」


 リオは即答した。


 マーレは、少しだけ目を細める。


「妙に早いな」


「ええと、職員なので」


「そうだな」


 それ以上、マーレは追及しなかった。


 リオは書類を片づけ、席を立った。


 すると、アッシュが横から言った。


「俺も行く」


「どこに?」


「その工房」


「どうして」


「暇だから」


「理由が弱い」


「熱を逃がすとか何とか言ってただろ」


 アッシュはそっぽを向いたまま言った。


「見てやってもいい」


 リオは少しだけ目を丸くした。


 マーレが横で咳払いをする。


「保護中の子どもを外に連れ出すなら、行き先と帰着予定は記録していけ」


「いいんですか?」


「ギルド職員同行、行き先はミラ工房。危険な場所ではない。……たぶんな」


「たぶん」


「ミラだからな」


 その評価はどうなのだろう。


 リオは小さく苦笑した。


「分かりました。記録していきます」


「俺は子どもじゃねぇぞ」


 アッシュが言う。


 マーレは淡々と返した。


「保護対象だ」


「チッ」


「舌打ちするな」


 アッシュは不満そうに顔を背けた。


 だが、ついてくる気は満々だった。


     *


 夕方のルネリアは、少しだけ色を取り戻していた。


 夜鴉支部の騒ぎはまだ街のあちこちで囁かれている。

 それでも、店は開き、荷馬車は走り、酒場からは笑い声が漏れる。


 街は、簡単には止まらない。


 リオはアッシュと並んで歩きながら、通りの向こうを見た。


 ミラ工房のある一角は、職人街の端にある。

 鍛冶屋、革職人、木工師、薬草加工屋。

 昼は槌音と煙、夕方は煤と疲れの匂いが漂う場所だ。


 アッシュは周囲をじろじろ見ていた。


「職人街、初めて?」


「別に」


「その割には見てるね」


「警戒してんだよ」


「そう」


「笑うな」


「笑ってないよ」


「目が笑ってる」


 アッシュは文句を言いながら、リオの少し後ろを歩く。


 近すぎず、離れすぎず。


 逃げ道を残す距離だった。


 リオは、それを無理に詰めない。


 職人街に入ると、空気が変わった。


 鉄の匂い。

 焦げた木の匂い。

 煮詰めた薬草の匂い。

 そして、どこかに残る古い煙の匂い。


 ミラ工房の前で、リオは足を止めた。


 扉は直されている。


 だが、板の色が違う。

 壁の一部には補強材が打たれ、窓枠は片側だけ新しい。

 屋根の端には、まだ焦げた跡が残っていた。


 応急処置。


 直っているように見えて、直っていない。


 リオの胸が少し重くなる。


 アッシュは工房を見上げた。


「ここ、燃えたのか」


「少しね」


「少しじゃねぇだろ」


「うん」


 リオは扉を叩いた。


「ミラさん。リオです」


 中から、何かが落ちる音がした。


「ちょっと待ちな!」


 続いて、金属音。

 さらに、何かを蹴飛ばす音。


 アッシュが眉をひそめる。


「大丈夫か、ここ」


「たぶん」


「たぶん多くねぇか」


 扉が開いた。


 ミラ・グリムが顔を出す。


 髪は雑に束ねられ、頬には煤がついている。

 袖はまくり上げられ、片手には工具。

 いつも通りと言えば、いつも通り。


 ただ、目の下には疲れがあった。


「来たね」


「すみません、遅くなりました」


「別に。ギルドが地獄なのは聞いてる」


 ミラはリオを見て、次にアッシュを見た。


「で、その小さい火種は?」


「誰が小さい火種だ!」


 アッシュが即座に噛みつく。


「お、よく燃えそう」


「燃やすぞ!」


「やめて。ここ、これ以上燃えると本当に潰れる」


 リオが慌てて止める。


 ミラは面白そうに笑った。


「冗談だよ。あんたがアッシュか」


「何で知ってんだよ」


「職人街は噂が早いんだ。あと、ギルドに出入りする材料屋は口が軽い」


「信用できねぇ街だな」


「正しい認識だね」


 ミラは扉を大きく開けた。


「入りな。足元、気をつけて。床板が一枚だけ信用ならない」


「一枚だけですか」


「三枚だったけど、二枚は昨日信用できるようにした」


「表現が怖いです」


 リオとアッシュは中へ入った。


 工房の中は、外から見るよりも痛んでいた。


 作業台の一つは脚を継ぎ足している。

 棚は斜めに傾き、紐で壁に固定されている。

 炉の周りの壁は焦げ、ところどころ新しい土材で塞がれていた。

 素材箱には焼け跡が残り、いくつかの瓶は中身を失ったまま転がっている。


 だが、炉には火が入っていた。


 小さく、安定した火。


 ミラ工房は、まだ動いている。


「……すごいですね」


 リオが言う。


 ミラは肩をすくめた。


「褒めるところ?」


「動いているところが」


「まあね。半壊でも、仕事は待ってくれない」


 ミラは作業台の上に工具を置いた。


「それで? 今日は謝りに来た? それとも新しい無茶を持ってきた?」


「両方です」


「最悪だね」


「すみません」


「謝るの早い」


 ミラはリオをじっと見る。


「顔色悪い」


「よく言われます」


「目も死んでる」


「それも言われました」


「じゃあ座りな」


 ミラは椅子を指さした。


 リオは座ろうとして、アッシュが立ったままなのに気づく。


「アッシュも座る?」


「立ってる」


「疲れてない?」


「疲れてねぇ」


「ならいいけど」


 アッシュは工房の中を見回していた。


 火。

 炉。

 焦げた壁。

 焼けた棚。


 その目は、少しだけ硬い。


 ミラもそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。


 代わりに、リオへ向き直る。


「で、リオ。あんたの顔は、ただ謝りに来た顔じゃない」


「分かりますか」


「分かる。責任感じてます、でも何か考えてます、あとお金が足りません、って顔」


「最後は僕の顔ですか?」


「だいたい全員そういう顔になる」


 ミラは棚から紙束を取り出した。


「正式に直すなら、このくらい」


 リオは差し出された紙を受け取った。


 数字が並んでいる。


 作業台の交換。

 炉周辺の壁面補修。

 保管棚の作り直し。

 焼失・汚損した素材の補填。

 工具の修理。

 試作品の損耗分。

 換気口補強。

 屋根の一部張り替え。


 最後の合計額を見て、リオは固まった。


「……高いですね」


「笑えるだろ」


「笑えません」


「笑うしかないんだよ」


 ミラはあっさり言った。


 リオはもう一度数字を見る。


 見間違いではない。


 十分に、見たくない数字だった。


「全部、僕が」


「やめな」


 ミラの声が少し低くなった。


 リオは顔を上げる。


「あんたが全部背負う顔をするな」


「でも」


「でも、じゃない」


 ミラは作業台に腰を預け、腕を組んだ。


「あたしは自分で請けた。変わり種の装備を作るって決めた。危ない橋だって分かってた。半端素材を集めて、普通の職人が嫌がるような道具を形にする。まともな商売ばっかりしてる工房じゃない」


「……」


「だから、これはあたしの責任でもある」


 ミラは、焦げた壁をちらりと見た。


「ただし」


 リオは嫌な予感がした。


「金は要る」


「ですよね」


「作業台は根性じゃ直らない。炉の壁も気合いじゃ塞がらない。素材も気持ちじゃ戻らない」


「はい」


「あと、あんたの頼んでる特殊装備の修理と補強。あれも必要」


「特殊装備」


「そう。特殊装備」


 ミラはアッシュの方をちらりと見て、それ以上は言わなかった。


 そしてすぐに、話を切り替えた。


「それで?」


 ミラが続ける。


「何を考えてきた」


 リオは、工房の炉を見た。


 火。

 熱。

 汗をぬぐうミラ。

 火を怖がるアッシュ。

 そして、前世の記憶。


 夏場の工場。

 屋外作業。

 熱中症対策用品。

 首筋に塗る冷感ジェル。

 冷却シート。

 水分が蒸発するときに熱を奪う仕組み。


 氷がなくても、魔法がなくても、人は熱から身を守ろうとしていた。


「冷やす膏を作れませんか」


 ミラが目を瞬かせた。


「膏?」


「はい。首筋や手首に薄く塗って、熱を逃がすものです」


 アッシュが眉をひそめた。


「塗るだけで冷えるわけねぇだろ」


「氷みたいに冷やすわけじゃないよ」


「じゃあ詐欺じゃねぇか」


「違う」


 リオは首を横に振った。


「冷たく感じる薬草と、水が乾く時に熱を奪う仕組みを使う。実際の温度を大きく下げるというより、体に溜まる熱を少し逃がすためのもの」


 ミラの目が変わった。


 職人の目だ。


「水が乾く時に、熱を奪う?」


「はい。濡れた布を風に当てると冷たくなるのと同じです」


「魔法じゃなくて?」


「魔法じゃなくても起きます」


 アッシュが不満そうに言う。


「そんなの、ただの濡れ布じゃねぇか」


「ただの濡れ布でも役に立つよ。でも布は邪魔になることがある。作業中に首へ巻けない職人もいるし、すぐ乾くと効果が切れる。だから、薄く伸びて、少しずつ水分を逃がす膏にできれば、使いやすい」


 ミラは作業台の上にあった小瓶を手に取った。


「水を抱える素材がいるね」


「ありますか」


「水抱き苔ならある。安い。水を含むけど、そのままだと腐りやすい」


「腐りにくく加工できれば」


「ぷる樹脂と混ぜれば、膏っぽくなるかも。あと、涼葉草を少し入れる」


「涼葉草?」


「噛むと舌が冷たく感じる薬草。薬師は気つけや匂い消しに使う。入れすぎると肌がひりつく」


「量の調整が必要ですね」


「そこは試す」


 ミラはすでに棚へ向かっていた。


 アッシュが少し引く。


「おい、もう作る気かよ」


「話を聞いて、作れそうなら作る。職人だからね」


 ミラは水抱き苔の入った小瓶、涼葉草の乾燥葉、淡い透明の樹脂を取り出した。


 リオは慌てて補足する。


「薬として売るのは危ないです」


 ミラが振り返る。


「薬じゃないの?」


「はい。火傷薬でも、熱病の薬でもありません。まずは炉作業や夏場の荷運びで、首筋や手首に少量塗る作業用の冷却補助材として売るべきです」


「冷却補助材」


「はい」


 ミラの顔が渋くなった。


「名前がもう可愛くない」


「名前?」


「今、売れなそうな名前が聞こえた」


 リオは少し困った顔をした。


「では、冷却膏で」


「却下」


「早いですね」


「かわいくない」


「機能は分かります」


「機能しか分からないんだよ」


「では、水冷膏」


「硬い」


「熱逃がし膏」


「説明札」


「作業用冷却補助膏」


「売る気ある?」


 横で聞いていたアッシュが、ぼそっと言った。


「だせぇ」


 リオは少しだけ黙った。


「……分かりやすさは大事だと思うんだけど」


「分かりやすいのと、買いたくなるのは別」


 ミラは試作用の小皿に水抱き苔を潰しながら言った。


「正式には、涼風膏」


「涼風膏」


「売る時は、ひんやり膏」


「ひんやり膏」


「炉前で働く職人にも、夏場の荷運びにも、火属性の訓練後にも使える。難しい名前より、触った感じが伝わる名前の方がいい」


 アッシュが腕を組む。


「ひんやりは、まあ、分かる」


「ほら、火種にも通じた」


「誰が火種だ!」


 ミラは笑った。


「決まり。涼風膏、通称ひんやり膏」


「……僕の案は」


「注意書きに使いな」


「注意書き」


「裏面にね。表に書いたら客が逃げる」


 リオは少しだけ肩を落とした。


 ミラは手早く素材を混ぜていく。


 水抱き苔を潰し、ぷる樹脂を加え、涼葉草をほんの少量砕いて混ぜる。

 小皿の中で、淡い薄緑の膏ができていく。


 見た目は、悪くない。


 少し透明感があり、涼しげに見える。


「試す?」


 ミラがリオを見る。


「まず僕が」


「いや、あんた顔色悪いから反応が分かりづらい」


「そんな理由で?」


 ミラはアッシュを見る。


「火種」


「だから誰が」


「腕出しな」


「何で俺が!」


「火属性なんだろ。熱には敏感そうじゃないか」


「勝手に決めんな!」


 アッシュは文句を言いながらも、腕を引っ込めなかった。


 ミラは、ほんの少量をアッシュの手首に塗った。


 アッシュは眉をひそめる。


「……ん?」


「どう?」


「冷てぇ」


 言ってから、アッシュは悔しそうな顔をした。


「いや、冷てぇっていうか、変な感じだ」


「ひりつく?」


「少し。けど、嫌じゃねぇ」


 リオはすぐに口を挟む。


「涼葉草は少し減らした方がいいかもしれません。肌が弱い人には刺激が強いかも」


「分かった。あと、べたつきは?」


 アッシュは腕を振った。


「ちょっとぬるぬるする」


「ぷる樹脂が多いね」


 ミラが頷く。


「水抱き苔を増やすと腐りやすい。樹脂を減らして、風通し石粉を少し混ぜるか」


「服につくと嫌がられます」


「そこまで考える?」


「売るなら」


 ミラはにやりと笑った。


「いいね。あんた、名前はださいけど細かい」


「褒めてますか」


「半分」


「半分」


 アッシュは手首を見ていた。


 火属性の魔力が、さっきより少しだけ落ち着いているように見える。


「これ、火属性にも効くのか」


「火属性そのものを抑えるわけじゃないよ」


 リオは言った。


「でも、熱がこもって苦しい時に、少し楽にはなると思う」


「……ふうん」


「使いすぎると冷えすぎたり、肌が荒れたりするかもしれない。だから、少量」


「うるせぇな。分かってるよ」


「分かっていても、注意書きには書く」


「細けぇ」


 ミラが小瓶を取り出した。


「瓶は小さい方がいいね。持ち運びやすく、試し買いしやすい。最初は職人街向け。炉前仕事、荷運び、厨房、夏場の屋台。あとは冒険者も買うかも」


「冒険者向けには、傷薬ではないことを明記した方がいいです」


「はいはい。裏面ね」


「あと、目や傷口に塗らない。大量に塗らない。子どもには薄く。火傷直後のひどい患部には使わない。発疹が出たら洗い流す」


 ミラは手を止めた。


「長い」


「安全に使うには必要です」


「瓶より注意書きの方が大きくなる」


「では別紙を」


「客が逃げる」


 アッシュがぼそっと言う。


「リオって、めんどくせぇな」


「安全は大事だよ」


「めんどくせぇ安全だな」


 リオは少しだけ傷ついた。


 ミラは笑いながら、紙に大きく文字を書く。


 涼風膏。

 その横に、小さく。


 ひんやり膏。


「表はこれ」


 ミラは続けて、下に短い文を書いた。


 炉前仕事に、ひと塗りの涼しさ。

 暑い工房に、涼風ひとさじ。


 リオは思わず感心した。


「……売れそうですね」


「売るんだよ」


 ミラは当然のように言った。


「いい道具を作るだけじゃ足りない。客が手に取る形にする。使い方が分かる名前にする。使った後に、また買いたくなる量で売る」


「なるほど」


「あんたの変な理屈も、売れる形にしなきゃただの変な思いつきだよ」


 リオは、少しだけ目を伏せた。


 変な理屈。


 ミラは、リオの発想を深く聞かない。

 ただ、使えるものとして扱う。


 それがありがたかった。


「ひんやり膏が売れれば、工房の修繕費に回せますか」


「全部は無理」


「ですよね」


「でも、種にはなる」


 ミラは小瓶を持ち上げた。


「半壊した工房から、新しい定番商品が出る。そういう話は客が好きだ」


「逞しいですね」


「職人だからね」


 アッシュが手首をこすりながら言った。


「で、俺は何すりゃいいんだよ」


 リオとミラが同時にアッシュを見る。


 アッシュは少し身構えた。


「何だよ」


「試験係」


 ミラが言った。


「火属性持ちで、文句が多くて、すぐ顔に出る。試作品の感想係にちょうどいい」


「誰が文句多いだ!」


「今」


「うるせぇ!」


 リオは笑った。


 アッシュはリオを睨む。


「笑うな」


「ごめん」


「謝んな。調子狂う」


 ミラは次の試作品を混ぜ始めた。


「じゃあ二号。涼葉草を減らして、石粉を少し」


「風通し石粉ですか」


「そう。さらっとさせる」


「石粉を入れすぎると肌が擦れませんか」


「だから試す」


「僕も試します」


「じゃあ、あんたは三号」


「僕だけ番号が後なんですね」


「顔色悪いから」


「まだ言いますか」


 工房に、久しぶりに作業の音が戻った。


 壊れた作業台の上で、小皿が並ぶ。

 淡い薄緑の膏が、少しずつ配合を変えながら作られていく。


 火を消す道具ではない。

 武器でもない。

 黒蝶の装備でもない。


 それでも、リオには必要なものに思えた。


 夜に悪を止めるだけでは足りない。

 昼に、人が倒れないための道具を作る。


 それは、黒蝶の仕事ではない。


 ギルド職員リオ・アルヴェルの、もう一つの仕事だった。


 アッシュが手首をもう一度見た。


「……これ、嫌いじゃねぇ」


 小さな声だった。


 リオは聞こえないふりをした。


 ミラは聞こえた顔で、にやにやしていた。


「じゃあ、火種公認だね」


「誰が公認した!」


「今」


「してねぇ!」


 工房の外では、夕暮れの職人街に槌音が響いている。


 半壊した工房の中で、三人は小さな瓶を囲んでいた。


 壊れたものは、まだ直っていない。


 夜鴉の影も、まだ消えていない。


 けれど、そこには確かに、新しいものが生まれようとしていた。

本日の更新は以上となります。

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